血を吐く!

 『名張市史』を書き、『青山町史』を書いているうちに、振りかえれば二十五年の歳月が流れている。書きはじめた頃に生まれたセガレは、もういい年になっているし、むすめは嫁にいってしまった。
 二十五年という歳月の周辺には“雑文”も相当たまっている。
 四、五年まえ、『名張市史・改訂版』を出した時、倉田博義・辻敬治・赤井虎雄・山村文彦・高野香洋といった諸友たちが発起して出版記念会を開いて下さった。会場は産業会館の大ホールで、百人をこす参会者があり、私には望外の光栄であった。
 その時、私に記念講演せよと発起人からのことばであったが、記念講演なんて大それたことのできる柄でない。私が名張の歴史と取組むようになったいきさつを少し話してお茶をにごした。
 今でもよくたずねられる。
 「あんた、どんなきっかけで、名張の歴史を勉強することになったのや?」
 名張に生まれ、名張で育ち、名張に住んでいる人が、名張の歴史を研究したからといって、こんな質問が出ないのだろうが、ひょう然とよそからやってきた風来坊が、こんなことをしたものだから、詮索好きな人にはちょっとした興味がわくのだろう。
 「結核ですよ」
 私は、こう答える。
 人をおちょくるようなこの答えに、たいていの人は、きょとんとする。
 しかし、私の“名張の歴史”へのアプローチは、正真正銘これなのだ。
 健康そのもののように自他ともにゆるしていた私が、ある日とつぜん、血を吐いた。結核患者になったのだ。
 もしこの発病がなかったら、“名張の歴史”は私には無縁のものとして生涯を通りすぎたことだろう。
 昭和二十九年――私が伊和新聞に入って名張に住むようになって、三年目か四年目である。
 この年の三月、町村合併で名張が誕生した。ことしは市制二十五周年だったから、ちょうど二十五年前である。
 たしか六月のある日。夕方、市役所(町役場をうけついだ古い木造)の玄関先で、稲森登・長山全道の両氏とばったり出会った。稲森氏は滝川村(赤目町)の村長、合併後は「市参与」という肩書になっていた。長山氏は滝川村の助役か収入役で、合併に伴って市役所にはいり、何かの課長に就任していた。
 「清風亭へでもいこうか」
 話は早い。足はもうそっちの方を向いて歩きはじめていた。
 飲んで、歌って、おどった。稲森氏は途中で帰ったようだったが、残った二人はとめどもなく飲みつづけた。二階の座敷で、ふすまの根かたに銚子を三十本か四十本、一列にずらりと並べてよろこんでいた。今でもときどき当夜のことを語りあう。
 翌朝。
 二日酔いのぼんやりした頭で、井戸端へ顔を洗いにいくと、セキが出た拍子に、のどから丸い玉が一つコロンと飛びだした。ちょうど仁丹を大きくしたような形で、赤黒い色もそっくりである。
 「これ、なんや」
 気にもとめず、下駄の歯で伸ばすと、中味はまさしく血、鮮血といった感じのきれいな血であった。
 「ゆうべは飲みすぎたので、のどか胃袋に傷でもできたのやろ」
 女房が見つけて、
 「おとうさん、それ、何」
 「血やて。二、三日酒やめたら治るやろ」
 血の玉は一つだけで止まって、あとは血そのものになった。

 肺結核宣告

 小雨のそぼふる日であった。自転車で新聞社へ行けるかなあと、空模様を見に表の通り(豊後町)へ出た。
 八時頃だったろうか。
 人通りのない小雨の通りを桝田医師が自転車でやって来る。車はそれほど普及していなかった。医者の往診はたいてい自転車だった。
 「先生」
 桝田医師を呼びとめて、
 「こんなものが、出るのや」
 こういってセキをすると、血がぱっと道路の土を染めた。
 「ゆうべは少し過ぎたのでな、胃袋に傷ができたのとちがうか」
 桝田医師とは飲み友達の間柄でもある。「過ぎた」といえば、どの程度のものか、よくわかる。
 「なんぼ過ぎたというても」
 じっと地面の血をみつめていた桝田医師は、ことばをつづけた。
 「この血の色はおかしいぜ。胃から出る血でない。これは、ひょっとしたら、ひょっとするぜ。とにかく、往診をすますとすぐ帰るから、うちへ行って看護婦に血沈だけ検査してもらっておいてくれ」
 いまの桝田病院は、伊勢湾台風でやられたあと改築したもので、当時は買取った横山邸をだいたいそのまま医療室にあてていた。幕末の文久ごろ、この横山邸の裏長屋(ここで明治二十七年、江戸川乱歩も生まれている)に安本亀八が白壁に「松と竜」を描いた土蔵がまだ残っていて、旧家のたたずまいをガラス戸越しに眺めながら桝田医師の帰りを待った。
 この血が、結核という“悪魔の使者”であるとも知らず、のんびりした気持であった。そのうちに桝田医師が帰ってきて、背中や胸に聴診器をあてながら、小首をかしげた。
 「ふーむ。おかしな音が聞こえる。ふつうの風邪ならいいのやがなあ。それですまんかも知れんぜ。まあ、レントゲンをとってみなけりゃ何ともいえぬ」
 こんなことを言われても、私の心には動揺はなかった。ハシカと歯痛のほか医者にかかったことのない私は、からだに絶対の自信をもっていた。
 「レントゲンの結果がわかれば知らせるからな、まあ、きょうは静かに寝ていることや」
 新聞社は休んで寝ることにした。
 喀血という大げさなものでないが、セキするたびに血がほとばしった。
 夜の八時か九時ごろだったろうか。ふとんの中でうつらうつらしていると、枕もとに桝田医師が立っていた。
 「たいへんや」
 まず、この声が私の耳にはいった。
 「君の右の肺はむちゃくちゃや。症状もだいぶ進んでいる。僕になおせるかどうか、自信が持てぬ」
 一瞬、私は全身に電気で打たれたような衝撃を感じた。からだ中の血がひいて奈落の底へすうと落ちていくような気持でもあった。いま振り返っても、これが私の生涯における最大のショックであったように思える。
 「とにかく、入院や。部屋をまわりしておくから、明日から来るようにしてくれ」
 なにしろ“抗生物質”以前の時代である。結核は死病というのは世間一般の常識であった。日本人の死亡原因の統計でも、結核はつねに第一位であった。
 栄養と安静、このほかに療法はないとされた。資力のあるものは栄養のために倉を一つ二つつぶし、そのあげく死んでいった。資力のないものは野たれ死にのような末路をたどらねばならなかった。
 その病気に、私はとりつかれたのだ。

 入院第一日

 私一人なら、まあ、死んでもあきらめよう。
 同年代の友人のなかには、戦場で、あるいは牢獄で、短い生涯を終えたものも随分いる。長生きできない時代に生まれ合わせたのだと思えば、それであきらめのつくことなのだ。
 しかし、私の横に生まれて一年三か月の子どもが眠っている。おはずかしい話だが、天命を知る年齢に近くなって、三人めの妻ではじめてもうけた子どもなのだ。
 十年間添った最初の妻は妊娠せず、つぎの十年間を添った二度目の妻も妊娠しなかった。嫁して三年、子無きは去るの封建的倫理は、私の頭のなかには毛頭なかった。私の側に原因の多くがある離婚であった。
 名張でいっしょになった三度目の妻は、とたんに妊娠した。その子である。男坊主だ。
 もし私がいま死んだらこの子と、そしてその母親はどうなるのか。万事わりあい呑気に過ごしてきた私だが、肺結核を宣告されて、このとき生れてはじめて、人間的な責任感というものに全身が打ちひしがれるのを感じた。
 なんとしてでも生きねばならない。
 今でこそ結核なんて風邪ひきぐらいにしか思われないが、二十数年前はこの“死にやまい”との闘いに立ちむかうためには不退転の決意が必要であった。
 翌日、桝田医院に入院した。桝田病院は、その時はまだ医院で、本宅の裏に入院用の病棟を建てたばかりの頃であった。
 玄関を入って右側に四つの病室が並んでいる。いちばん奥の部屋に入った。順番に呼べば四号室だが、四の字を忌んで松の間と呼ばれていた。
 生れてはじめて病院のベッドというものの上にからだを置いた。だが自覚的には何の変調もない。きのうまで普通どおりブンヤとして走りまわり、飲みまわってきたのだ。でも、入院したからには安静にせねばならぬと観念して、仰向けになって、じっと天井とにらめっこを始めた。
 一時間、二時間、神妙な時間が経過した。だがそのうちに、じっとしていられない、いらだたしい衝動が体内に湧き上がってきた。煙草である。煙草の禁断症状があらわれてきたのだ。
 私の喫煙癖は中学生時代にはじまる。入門はゴールデンバット、ついでエアシップ、入院当時は「光」党であった。昔でいうなら口付、いまでいうフィルター付が大きらいで、両切でなければノドが承知しない。現在は「しんせい」専門で、この煙草が製造中止になるという噂にひやひやしている。
 話をもどすが、実はきのう入院にさいし、煙草は結核に大害があるというので禁煙の悲壮な決意をし、買い置きしてあった「光」を全部焼きすてたばかりなのだ。
 早くも禁断症状! 酒はやめられるが、煙草はやめられないとよくいわれる。
 まさにその通りで矢も楯もたまらず、一瞬の我慢も出来なかった。
 女房が病室へ来るのを待ちかねて、さっそく買いに走ってもらった。最初の一ぷく、ほっとした安堵感で、のどの奥まで深々と吸いこんだ。
 不退転の決意ではじめたはずの闘病生活であったが、半日もたたないうちに挫折、われながら前途が不安になった。不安ながらも吸いつづけた。それでも、初めは桝田医師に少し遠慮があったのか、灰皿とマッチは枕元の戸棚にかくしておくという殊勝さがあったが、だんだんこれも面倒臭くなった。
 そのころ、桝田病院ではまだ給食していなかった。入院患者の食事は三度三度家人がはこんでいた。私の家から病室までは三百メートル程しかなかったので、食事はこびに便利なのはせめてもであった。

 隣室の患者

 入院を必要とするほどの容態でも、ふしぎなことに、これという自覚症状はなかった。結核病には夕方の微熱が付きものというが、その微熱さえなかった。のどからの血はもう止まっている。しいて言えば、セキとタンが少し多いめというのが自覚症状のすべてであった。顔色はふつう、からだはだるくない、飯はうまい、煙草もうまい。人がみれば、どこが病気かと思えるほどであった。
 だが、カルテを覗くと「右肩胛骨下に鶏卵大の空洞」と書かれてあり、大阪微生物研究所の喀痰検査によれば「ガフキー8」だった。こんなことには何の知識もないが、ガフキーというのは痰の中にふくまれる結核菌の濃度のことだそうで、8といえば相当高度とのことであった。
 入院して何日目からか人工気胸がはじまった。結核療法としてはすでに前時代物だが、当時としては、これが唯一の内科的療法ではなかったろうか。
 自転車の空気入れと同じ形である。ゴム管の先に太い針がついていて、それをプスリと肋骨の間に挿し込む。医学的原理は知らないが、なんでも胸壁と肺との間にある胸膜腔に空気を送りこんで肺を収縮させ、病巣から菌が拡散するのを防ぐという寸法らしかった。
 人工気胸は何日目ごとにおこなわれたのか忘れたが、あまり気持のいいものではなかった。
 うどん屋の縦長の出前箱のようなものを看護婦が提げてやって来て中から機械を取り出す。桝田医師がプスリ、そして片手で運転をはじめる。この時は痛くも掻ゆくもないのだが、プスリの時はいやな痛さだった。
 九月か十月であったと思う。つまり、人工気胸を三か月か四か月つづけた頃である。
 「いい薬がはいってきたので、人工気胸は中止にする」
 桝田医師のことばである。私はほっとした。「いい薬」に安心したのでない。人工気胸の注射針から解放される嬉しさであった。
 たしかストレプトマイシンという注射薬とチビオンという散薬の併用であった。ストレプトマイシンという薬の名前はすでに三、四年前から耳にしていた。結核にひじょうによくきく薬で、進駐軍のアメリカ兵が流しており、なんでも注射薬一本(あるいは一箱か)が六千円というような噂であった。その頃の六千円といえば、びっくりするほどの高価である。
 この薬が日本でも製造されるようになり、大量に医者の間に出回ってきたのだ。この出回りは私の命の恩人になったと今でも思っている。これがもう一年遅かったとすれば、私の容態はどんな方向をたどっていたかも知れない。
 隣の三号室に吉村隆という結核の患者が入ってきた。奥さんが病室で寝ての付添いだった。朝から晩まで話し声一つ、コトリという音一つ聞こえなかった。じっと仰臥したままの安静生活のようであった。この人は、松崎町で読書クラブ(貸本屋)を開いているということで私も名前だけは聞いていた。とにかく、よほどの重症患者らしく思えた。
 それに引きかえ私の部屋はたいへん賑やかであった。見舞か遊びか知らないが、入れかわり立ちかわり来訪者があり、そのたび私は大きな声でしゃべった。なにしろ自覚症状がないのだから、いくらしゃべっても影響はなかった。
 吉村君とは後日おたがいに退院してから懇意になった。彼は上野中学のすこし後輩であった。
 「君は助からんと思っていたよ」
 私がいうと、
 「いやー、あんたこそもう長くはなかろうと女房と話していたのやで」
 私は、彼があまり静かなので死ぬと思い、彼は私があまりにぎやかなので死ぬと思っていた。おたがいに相手が死ぬと思い合っていたのだ。大笑いになった。
 この吉村君が何の病気だか知らないが、市議を二期ほどやったところで急に亡くなった。もう十年になろうか。

 『結核は働きながらなおす』という本

 自覚的には何の症候もないからだを一日中病床に横たえているのは、そうとう退屈であった。看護婦が来ないのを見すまして、枕元の戸棚から灰皿と煙草を取り出し、一ぷくつけるのが何よりの退屈しのぎであった。
 ある日、新聞に『結核は働きながらなおす』という本の広告が出ているのを目にした。著者はたしか東京鉄道病院の院長であった。さっそく岡村書店にたのんで取りよせてもらった。
 抗生物質が発見されてから結核の治療は一大革命をとげるわけだが、これはそれ以前に書かれた本であった。つまり、結核の療法は“安静と栄養”のほかにないとされていた時代の療養指南書である。
 著者はいう。
 「結核は三年、五年と長期を要する病気である。財産家ならともかく、一般大衆は経済的に参ってしまう」
 今日のように社会保障制度は発達していなかった。療養はほとんど自弁であった。
 「だから」と著者はつづける。
 「結核は働きながらなおさねばならない。収入を得ながらなおすのが、一般大衆の結核療養の道である」
 鉄道病院で国鉄労働者の結核患者を扱っている立場が、この著者をこうした発想にみちびいたのだろう。
 こういう前提に立ってこの書物は、病状の軽重に応じて労働にしたがう心得を教えていた。
 私がもっとも驚いたのは、結核患者に最大の禁忌とされている酒、たばこ、夫婦の営み、こういったものが「かまわない」と大胆に表明されていることだった。
 たとえば酒である。
 酒そのものは結核に害はない。しかし、酔えば楽しくなって歌ったり踊ったりして、からだを動かす。からだを動かすのがいけないのだ。だからからだを動かさずに静かに適量を飲むことはあえて差支えない、というのである。
 たばこも大した害はない。セキを誘発して肺臓に衝撃を与えるのがいけない。だから、セキの出ないよう気をつけて吸えというのである。
 ところで、酒、たばこはまあ目をつぶるとして、結核患者に夫婦の営みまで容認する医者は今日でもあまりいないのではなかろうか。ところが、この著者によればこうなのだ。
 一回の夫婦の営みによって消耗される体内の蛋白質は卵の黄身二個分である。だから、卵(にわとり)二個すすっておけばよい。だが、夫婦の営みにはからだの激動が付きものだ。これがいけない。だから、からだを動かさないで目的を達する方法を工夫せよ、とこの著者は教えるのである。
 この本を読んで、前途がパッと明るくなるのを感じた。酒よし、煙草よし、営みよし、結核何するものぞ、結核をのんでかかる気強さが体内に湧いてくるのを感じた。
 そこへもってきて、今や抗生物質がある。
 空洞があいたまま、菌はとび出すという状態だが、内心には意気けんこうたるものがあった。
 これ以後私は患者に酒や煙草を禁じる医者をヤブ医者と思うようになった。酒の好きなものには飲ませばよい、煙草の好きなものには吸わせばよい。しかし、同時に飲み方、吸い方を教えなければならない。これが出来ないから千篇一律に「酒がいけない」、「煙草がいけない」ということになるのだ。毒を与える場合には同時に解毒剤も与える、これが天下の名医というものだろう。
 だからといって、酒を飲み、夫婦の営みをやったわけでない。入院の身にはそういう機会が恵まれない。ただ煙草だけはライセンスをもらったような気になって、安心して堂々と吸いつづけた。
 昭和二十九年というのは名張市制発足(三月)の年で、八月に最初の市議選挙が行われた。この時当選した三十名の議員のうち十七名はすでに他界している。だが、かくしゃくとして今なお第一線で活躍をつづけている人も少くはない。
 県議稲森登、市長永岡茂之、市議西山武夫、上村文弌、辻本稔、商議所会頭上村進一郎氏らの面々である。

 知事選挙

 昭和三十年五月、県畜産課長をしていた辻本郁郎君が、北田市長の懇請に応じ、名張市の助役に就任してきた。このことが私を“市史”へとかりたてるきっかけとなったのだが、辻本君の来任を語るには、この前に行われた知事選挙にふれねばならない。
 この年四月に統一地方選挙があった。名張市は市議選は前年すませてあったので、知事選と県議選だけであった。
 知事選は三選めざす青木現職に三選反対をスローガンに挑戦する田中覚氏の一騎打ち。県議選は前回落選の雪辱をめざす小西光蔵氏(社会党)、初陣稲森登(自民党)、無所属の奥田健太郎氏、この三人のシノギをけずる三つ巴戦。投票は四月二十五日同時におこなわれた。
 正月が明けて間もない頃であった。病室で神妙に寝ている私のもとへ、井手から県農協中央会へかよっている井上忠夫君から、何日の夜レストランあさひへ来てくれとの連絡があった。レストランあさひというのは、上本町、森岡履物店の隣で、井上君の友人で黒田の同姓井上君が経営していた食堂である。
 何ごとか知らないが、とにかく行ってみると、二階の居間を借りて井上君が待っていた。そこへ桝田医師もやってきた。主治医と入院患者と、バツのわるいご対面であった。
 井上君の話は知事選のことであった。
 「四月の選挙に田中覚というのが出る。県農林部長をしていたので農業関係では名が売れているが、一般には知られていない。農協が前面に立って支援しているのだが、社会党、共産党も正式に推薦を決めている。県下各地では農協が正面に立って運動を進めているのだが、名張市の農協組合長会は前名賀郡農協組合長会長で青木支持の正多様という人にカンヌキをはめられて身動きができなくなっている。それで、農協の線以外で運動を進めなければならない。ひとつやってくれないか」
 ということであった。
 選挙といえば嫌いな方でないし、そこへ、ポン友井上君の頼みときている。桝田医師と井上君は錦生小学校の同級生である。二つ返事で引受けてもいいところだが、目の前に主治医がいる。
 「先生、どうやろ、からだの方は」
 いちおう伺いを立てねばならない。
 「うーん、そーやな、まあぼつぼつならよかろう」
 こんなことで、知事選に足を突っ込むことになった。
 病院へ自転車を置いておいて、あくる日からさっそく東奔西走をはじめた。これはと思う人のところへ走って、同調者を求めてまわった。国津の羽根の自宅で結核の予後を養っている岩井博君のところへも走った。坂道を自転車を押しながら、「おれは、これでも結核の入院患者かな」と考えるとおかしくなった。
 社会党と共産党は推薦しているのだから、まあいいとして、問題は自由党と民主党である(自民党統合以前)。この両党とも知事選は自由投票という方針をとっていた。当時の現職代議士は木村俊夫、川崎秀二、田中久雄、山手満男四氏で、それぞれ名張の代表者を訪問して同調を求めた。川崎派と木村派にはことわられ、田中派は同調してくれた。山手派には名張での代表者はいなかった。
 ほかに松本一郎派というのがあった。前回の総選挙に落選して浪人中だが、こんどの知事選では最高首脳の一人として運動の中枢に立っていた。
 ひととおり訪問を終わったところで、保革連合の選対委員会というのをつくった。顔ぶれは次のようであったと思う。
 社会党は夏秋忠雄、吉田静男市議、共産党は寺島清太郎市議、田中派は北橋留蔵市議、松本派は辻本稔市議、岩井博といった諸氏である。ほかにもあったのかわからないが思いだせない。
 農業会館の二階で“出初式”をおこない、私はいちおう委員長ということになった。
 恐る恐る月一回のレントゲン検査を受けたが、病状はさして悪化していなかった。そのかわり良くもなっていなかった。

 知事選挙(続)

 つぎは事務局の編成である。松本一郎氏は県農業共済組合連合会長をしていたので、共済組合の職員は公然と選挙運動に没入できた。選挙運動をやらされたといった方が適切である。農共連の名賀支所長は箕曲中村の中村貞利君、職員は松本氏の秘書でもあった阿保の坂本金弥君、そこへ県農協へ名張からかよっていた東充君、そこへ私の四人で事務局の形をととのえた。
 事務所は平尾、坂上辰郎家の離れを借りた。殺風景な部屋のまん中に机を置き、机の上に電話機を置き、まわりに四、五枚の座布団を置くと、事務所の舞台装置は出来上がった。
 告示はたしか三月三十日だったが、この何日か前から事務所へ詰めた。私は事務所へすわり、他の三君は工作隊として一日中そとをかけ廻った。
 告示の日は雨だった。午前十一時ごろ田中候補がやってきて第一声を放った。
 何日か後に県議選の告示があり、街は騒然とわき立った。だが、私たちの事務所は閑散そのものであった。一人の訪客もなかった。およそ選挙に関係するほどの人は県議選にへばりついて、知事選にはかまっていられないという風であった。
 来る日、来る日、私は事務所、他の三君は工作隊の繰返しであった。
 このごろ私の一日は、まず病院のベッドで眼がさめる。顔を洗う。洗面室から帰りに玄関で新聞をとってくる。新聞を読む。そこへ女房が朝飯を持ってくる。
 当時、桝田病院では入院患者への給食はなかった。各自、家人が運んできた。私の家は病室から二、三百メートルの所だから、運搬には便利だった。
 朝飯を終えると、自転車で事務所へ出勤。ひるになると、また女房が弁当を運んできた。豊後町から平尾まで、生まれて満二年になる坊主を背負って、てくてくやって来た。実をいうと、名張への選挙費用の割当は十万円ぽっきり、いくら物の安い時代でも、間代を払い臨時電話を引くと食事代までは余裕がなかった。
 他の三君は外食するし、私は弁当を運ばせた。中途で二万円ほど追加割当があったので、
 「せめて弁当ぐらいは食べよう」
 というので、近くの食堂からドンブリをとるようになった。
 夕方、三君の帰るのを待って報告を聞き、打合わせをした。それから病院へ帰る。夕飯の弁当がとどいていた。
 事務所で閑古鳥が啼く変な選挙であった。しかし、戦況がきわめて好調に進展していることは、三君の報告からも、私は方々へかける電話からも、はっきり感じとれた。ほかの地区のことはわからないが、名張に関する限りまず四分六はかたいとのソロバンが立った。六分はむろん田中である。
 二十四日は選挙運動の最終日、十一時ごろまで事務所にいた。帰る道、平尾のガードまでくると一団の人が焚火をかこんでわいわいしゃべっていた。小西陣営の張番であった。
 二十五日、投票日の開票発表の時間になると、続々と事務所に人が詰めかけてきた。忽ち満員で縁側にまではみ出した。
 こんな人まで応援してくれていたのか、そういう顔が多かった。
 今日のようにテレビはない。刻々に本部へ電話をかけて速報を聞いた。予想以上の大量得票で名張市では田中一万台、青木五千台であった。
 県議選では小西氏が雪辱を果たした。
 現職が落選して県庁内は大動揺を来たした。職員組合はむろん田中支持であったが、課長級以上の管理職は義理がからんで青木支持にまわった。そこへ落選ときたものだから、今までの椅子におちついていづらくなった。
 辻本郁郎君もその立場にあった。そこへ、北田市長からの要請である。しかし、辻本君は渡りに舟とばかり飛びつきはしなかった。当時、名張市は合併後の赤字問題でてんやわんやであった。市議会では異例の財政特別調査会を設けて赤字の実態を調べたり、もしかすれば北田市長の首もあぶないという状況であった。そんなところへ乗込むことはまるで火中に栗を拾いに行くようなものである。しかし、結局は引受けることになった。

 辻本助役との会合

 二十九年三月に市制発足、初代市長に就任した北田氏は、一年あまり“女房”なしでやってきたところへ辻本君が助役としてやってきた。津の垂水の自宅から電車通勤であった。
 辻本君とは上野中学の同級である。丸柱の窯元の息子だった。同級生として名張にはまだ赤井四郎、松山倫夫、横山省一、大中道勇、山村栄一、垣本元信、前田喜三男ら、モト悪童達が生き残っている。
 同級生が発起人になって、辻本君のために歓迎激励会を寺新で開いた。先輩、後輩の上野中学の卒業生もたくさん顔を出した。ついでながら、この会合が機縁になって、上野高校同窓会名張支部が結成された。この場で支部長に辻安茂氏、副支部長に赤井四郎、大森静枝両氏を推した。いまは松崎英一市議が支部長になっている。
 選挙がすみ、歓迎会がすんで、ふたたび神妙な病院生活にもどった。マイシンの注射、粉薬のチビオン、これだけやっていれば、あとは静かに寝ているだけの単純な療養生活であった。
 この頃、県下のあちこちの市が市史編纂の業を始めたという記事が新聞によくのった。県下だけではない。全国的にこうした郷土史ブームが盛り上がっているような気配であった。上野市でも市史編纂委員会ができて、図書館長の岡田栄吉氏が委員長になったとの新聞報道も目にした。
 名張市も市になった以上、市史の編纂が必要である。私は思った。天井をみつめて、あれこれ考えをめぐらすほかに時間の費しようがない毎日であった。
 名張のことは私にはまだよくわからなかったが、豊永徳之助氏と冨森盛一氏とか、すぐれた郷土史研究家がいることは聞いていた。これらの人が中心になって編纂委員会をつくり、市が金を出せばさして難事ではないように思われた。
 ある日、辻本君が病室へ見舞に来てくれた。
 私は市史編纂の話をした。さすがは辻本君である。事の重要性をすぐ理解した。
 「折をみて市長に話してみよう」
 そういって帰って行った。
 念のため言っておくが、このとき私の頭には私じしんこの事業に関与しようというつもりは毛頭なかった。私じしん名張の歴史にはまったく無縁の門外漢であった。
 辻本君が市長にどんな形で話を持ち出したのか知らないが、やがてもたらされた返答はきわめて悲観的であった。
 「赤字で四苦八苦している。市史なんか悠長な事業に出す金は一文もない。うっかり議会へ持ち出そうものなら怒鳴り散らされるような形勢だ」
 とのことであった。
 無理もない。合併に伴う赤字約四百万円、北田市長が「これで全部」と議会に報告したあと、「もう九十万円出てきた」といった調子で、当時、市民の関心も大きく惹いていたいわゆる赤字問題で、市政は混乱の極にあった。金のあるなしにかかわらず、市史のことなど考えてみる余裕など寸分もなかっただろう。
 「お前がやったらどうか」
 辻本君のことばであった。私は自分の耳を疑った。
 「市史の仕事をオレにやれというのか」
 「そうだよ」
 「イクよ、冗談も休み休みいってくれ」
 人の前では助役とか辻本君とか呼ぶが、差しになれば昔に帰って名前(郁郎)の呼び捨てである。
 「名張のナの字も知らないオレに出来るはずがないじゃないか」
 「お前も昔は唯物史観を勉強した男じゃないか。やってやれないことはなかろう」
 「そうやけど、名張の歴史についてはゼロだよ」
 「やってみて、出来なければ止めてもいいじゃないか。止めてもともとじゃないか」
 二人のあいだにこんな会話が交された。
 別に結論を出さねばならぬ問題でなし、
 「まあ、考えるさ」
 こう言いのこして病室を去っていった。
 半袖シャツだったから季節は夏になっていたのだろう。

 『市史』への決意

 辻本助役から、「君、市史をやれ」と言われて、「冗談じゃない」と、反射的に拒否反応をおこしたものの、二日たち、三日たつうちに、
 「待てよ」
 と考えるようになった。
 なにしろ、ベッドの上で退屈をもてあましているのだから、天井をぼんやり見つめていると、いろいろの考えが次から次へと、湧いては消えていった。
 「名張市史、ひとつ、やってみようか」
 不逞にも似た意欲が、心の隅にちょろちょろと頭をもたげてきた。
 未知の仕事に対する不安も大きかったが、「いつ棒折れしてもいい」という無責任な気楽さが、私の“身のほど知らぬ”意欲をいっそうかき立てているように思えた。
 だが、いくら無責任が寛容されるといっても、やるからには、やりとげるに越したことはない。
 私は、この仕事にたいする私の可能性というのをいろいろ考えてみた。可能性ゼロならば、むろん初めから手を出すべきでない。手を出すからには、多少なりとも自分の可能性を見とどけておかねばならない。
 私は無理をして、たとえていえば自分の能力を拡大鏡にかけるようにして、可能性をさがしまわった。その結果、どうやら三つほどの可能性を見つけだして自分をなっとくさせることができた。
 まず第一は、ヒマがあるということである。健康で伊和新聞の仕事をやっていると、ゆっくり一冊の本を読むヒマさえむずかしい。だが、幸か不幸か、療養生活というのはヒマそのものである。しかも、自覚的にはからだに感じる苦痛はなにもない。書物さえ手に入れれば、いくらでも勉強できる。
 桝田医師の話ではいくら新薬による療法でも、空洞の広がり具合からみて、一年や二年では“無罪放免”にならないとのことである。だとすれば、このヒマはあと二年か三年つづくことになる。「市史」にとりかかるには絶好の前提条件である。
 第二は、歴史の方法にかんする私の若干の知識である。
 私の読書遍歴をふりかえるに、二十過ぎからの三、四年はマルクス主義に没入していた。唯物史観という歴史研究の方法論も、浅薄ながら一応は身につけているはずである。だから、名張の歴史に対しても、少しは科学的に立ち向かうことができるのではなかろうか。可能性というより希望的観測であった。
 つぎに、名張の歴史については全く“無知文盲”だが、日本歴史については若干の理解をもっているとの自負である。
 私は、江戸後期の洋学者(蘭学者)たちの生涯に格別の興味を抱いた一時期がある。かれらの多くは、医学を禁じる幕府の弾圧に屈せず、真理の追求に殉じた。維新以後に開花する近代的精神・合理主義の土壌を用意したのは彼らである。彼らの生涯には、治安維持法の下で新しい学問に身を挺している人たちの運命をほうふつさせるものがあった。
 いま思うと冷汗ものだが、杉田玄白、宇田川榕庵、坪井信道、高野長英ら数人の洋学者について子供向きの伝記を物したこともある。以上の三つが精一杯探し出した私の「市史」に対する可能性のすべてであった。果してこれだけで名張の歴史に取り組んでいけるのだろうか。むろん、自信はない。しかし、意欲は充分である。
 私は辻本助役に、
 「やってみる」
 と、意のあるところを伝えた。しかし、
 「いつ止めるかわからんゾ」
 と付け加えることも忘れなかった。
 これが、私が名張の歴史に手をつけたそもそものきっかけである。
 本町、岡村書店の故岡村繁次郎さんの驥尾(きび)について江戸川乱歩生誕地記念碑の建設に飛びまわっていたのも、この前後のことである。
 碑は、私が入院している桝田医院の庭内に建てられた。伊勢湾台風のあと、本宅を普請するにさいし、裏病室の現在地に移された。
 乱歩は明治二十七年十月、ここにあった長屋の一間で、郡役所書記を父として生まれた。


初出 「名張新聞」1979年12月2日−1981年4月26日(名張新聞社発行)
掲載 2001年10月18日