2
私の手もとに一枚の辞令書がのこっている。
中 貞夫
名張市史編纂事務を委嘱する
月手当五千円を給す
昭和31年5月15日
名張市長
辻本助役は北田市長をどう説得したのか知らないが、とにかくこんな辞令をもらった。そして、市史の業務は市長公室の所管となり、同室の桐本一男氏が窓口になって私との連絡に当たることになった。
ところで、北田市長としては、辞令は出したものの、果たして出来るのかと、不安と疑惑の念にかられていたにちがいない。桐本氏にせよ、あるいは張本人の辻本助役にしたところで、半信半疑だったことだろう。なにしろ、当の私自身自信がなかったのだから。
とにかく、私の「市史」への発足は、こんな頼りないものであった。
さて、いよいよ「市史」に着手することになって、私は途方にくれた。何から手をつけていいのか、かいもく見当がつかない。亡羊の嘆というものだろうか。私は杉田玄白の『蘭学事始』の一節を思い出した。
玄白、前野良沢ら、オランダ語のオの字も知らない仲間がオランダ語の人体解剖書『ターヘルアナトミア』の邦訳にかかった時の気持を玄白は、舵のない舟で大海に出たようで、まったくとりつく島がなかった、と述懐している。しかし、苦心さんたんの上、みごとに『解体新書』はでき上がった。
自分をこの偉大な先学者たちにくらべるのは僭上のかぎりだが、とりつくしまのない切なさは、この人たち以上であったかも知れない。
身のまわりには一冊の参考書もない。また、名張の歴史をしらべるにはどんな文献や資料があるのかもまったく不案内である。徒手空拳といおうか、丸はだかの、ゼロからの出発であった。
当時の私にひきかえ、こんにち名張の郷土史を調べようとする人は、たいへん恵まれている。市立図書館へ足を運べばよい。そこには郷土資料室というのがあって、一応の資料は揃っている。
市立図書館は昭和四十四年七月に開設された。この開設の事情については後で詳しく書くが、図書館当局では開館以来「郷土資料の収集・充実」ということを重点目標の一つとして、十年間努力を重ねてきた。また重ねつつある。郷土史関係の蔵書二千数百冊に及ぶ立派な『郷土資料目録』も刊行されている。
だが、これは今日のことだ。話は二十数年前である。図書館など影さえなかった。むろん、市内にはたくさん郷土史研究家がおり、関係文献も所持されているだろうが、どこへ何を借りに行っていいのかもわからなかった。
この時、私の頭に依那古の実家にあるはずの一冊の書物がひらめいた。著者の名も書名もはっきり覚えていないが、たしかに伊賀のことを書いてある書物ということだけは記憶にあった。
さしあたり、これでも読んでみよう。
女房を依那古へ走らせた。
持ってきたのは石母田正という人の『中世的世界の形成』という一冊であった。
紙のない終戦直後、ほとんどの出版物は仙花紙という赤茶けた片面ザラの紙を使った。この書物もまた仙花紙で、そのうえ仮綴じの三百ページに満たないお粗末なものであった。
この一冊こそ、戦後の荘園史研究に一エポックを画した名著といわれるようになるのだが、(今は立派な改訂版も出ている)知らぬが仏、この書物の価値など見出せようはずがなかった。私にとっては、伊賀のことが書いてあるらしい一冊の本に過ぎなかった。
ところで、私の読書圏から遠くはなれたこの書物がなぜ私の手もとにあったのか。じつは、大阪市立大学の上林貞一先生から頂戴したのである。平生つきあいのない上林先生がわざわざこの本を私に送って下さったについては、こんないわく因縁がある。
終戦後まもなく、奥井亮三郎という人が、伊賀地方事務所長に就任してきた。伊勢市の人、三重高農を出て、県農会技師を振出しに県庁へ入ったという経歴の持主。若いとき社会主義の書物に打込んだというだけあって、考えが進歩的であった。
戦後の混乱期に県行政と住民との間におこる摩擦を緩和するパイプ役として、伊賀地方行政協議会というのを発想した。
伊賀各市町村の各界各層からたしか五、六十名の委員を委嘱し、協議会をつくった。当時、政治運動にたずさわっていた私も委員の一人を仰せつかった。
名張からは県農業会名賀郡支部長吉田茂平氏、瀬古口の農業川北清一郎氏らの名が記憶にある。
委員全員を政治・経済・文化の三部に編成し、私は文化部長に推され、あわせて事務局長をやれということになった。
伊賀地方事務所は上野市駅の踏切わきの、いま上野電電公社が建っているところにあった、阿山郡役所の庁舎をうけついだ古い木造の建物であった。この中の一室に阿山郡町村会の事務所の事務局があり、事務長の葛原格氏と女子職員一人が陣取っていた。行政協議会はここを事務所に借り、机を一つ置いた。私は依那古の家から毎日電車でここへ通った。
伊賀線の電車は戦時中の荒廃からまだ立上がれず、ラッシュ時の混乱は大変なものであった。通勤者クラブというのをつくって、会社側にいろいろの交渉も行なった。現在相楽の区長をやっている奥中繁夫氏、上野勤労監督署というところへ通っていた。県医師会長の川原田圭一氏、岡波病院内科部長として阿保から通っていた。なつかしい委員のメンバーである。
文化部の事業として伊山夏期大学を開催することになった。何から何まで一切の段取りは私の肩に負わされた。
まず、費用である。協議会には金がない。協議会の会長をしていたのは県農業会阿山支部長の荒木甚吉氏、ここから千円出してもらった。そして荒木氏の口ききで上野市長杉森万之輔氏から千円出してもらった。杉森市長の口が初め重かったところからみて、当時千円という金額が市財政の上で大きな比重をしめていたことと思われる。
しかし、これでは覚束ないので、中外製薬の田山八十吉社長を訪れ千円の寄付を頼んだ。快くこれに応じてくれた。
こうして三千円が集まった。これで何とかやっていかねばならない。つぎは講師陣である。
私は京都や大阪には全く不案内である。しかし、ずっと東京でブックレビューを扱う新聞の仕事をしていたので、関西在住の学者や評論家の名はいちおうわきまえていた。それを頼りにいろいろと目安を立て、訪問に出かけた。その結果、講師陣に次のような堂々たる顔を揃えることができた。
民主主義学者として令名ある憲法学者の恒藤恭先生、原子物理学の大阪大学浅田常三郎先生、毎日新聞論説委員で元モスクワ特派員の前芝雄三先生、大阪市立大学の上林貞一先生、京都大学の梅原末治先生などである。このうち梅原先生だけは親交ある村治円次郎氏にたのんでいただいた。
会場は阿山高等女学校の講堂、いまの崇広中学のところにあった。
会期は四日か五日にわたって設営した。
戦後はじめての夏期大学であり、新しい知識に飢えているところであるし、この催しは大反響をよんで、四、五百名入る講堂は文字どおり立錐の余地がないという盛況であった。
聴講者は小学校の先生が多かった。新制中学校はまだ発足していなかった。この時いちばん若かった先生も、もう退職の年齢であるが、この夏期大学のことを記憶の隅に残しておられる方は少なくないと思う。
石母田正氏の『中世的世界の形成』という私に無縁な書物が私の手もとにあったというのは、そもそもこの夏期大学が機縁なのだ。上林貞一先生を講師に招いたことに始まるのである。
上林先生の住所をどうして調べたのか覚えていない。大阪市の南の方であった。あっちこっち歩いて、ようやく探しあてた。
先生は、庭からみえる部屋で、のんびり横になっていた。大阪市立大学の“赤い教授”として、戦時中は名和統一教授らと共に拘禁されていた人である。
来意を告げる、快く承諾してくださった。私はホッとした。
さて、講義の内容をどうしようかという段になって、
「先生におまかせいたします」
というより他なかった。漠然と経済史の専攻とは知っていたが、経済史のどの分野かは知らないので、あれこれ口を出す筋合ではなかった。
「それでは、近代における日本経済の発達ということにでもしましょうか」
「結構です」
先生の家を辞する私の足もとは軽かった。
講義の日――。
先生の熱のこもった講義は二時間にわたって満場を粛とさせた。聴講者たちは講義の一語一語に食い入るように耳をかたむけた。内容は、今次の戦争を必然ならしめた日本資本主義発達史というところであった。
半封建的高率現物小作料、家計補助的低賃金というような、日本資本主義の基底を説明するこうしたことばは、おそらく大方の聴講者の耳には新しいものであったろう。
先生は、講義の最後を次のような言葉で結んだのはとくに印象的であった。
「私のお話したことがある政党の言うところと同じであるといたしましても、それは正しい学問的追求の結果到達した結論が偶然一致したということであります」
講義がすんで大阪への帰路、依那古駅で途中下車して私の家でいっぷくしてもらった。
「お話はたいへん結構でした」
私はあらためてお礼を言った。
その時、先生は私の書棚に『日本化学工業史』という書物があるのを見つけ、「貸していただけないか」と言われた。
私にはそれほど必要な書物でないので差し上げることにした。
それから暫くたってからのことである。
先生から一つの小包が届いた。開いてみると一冊の書物であった。手紙がそえられていた。
「著者からこの書物を贈られたが、私には用がない。そちら(伊賀)のことが書いてあるから贈呈する」
という趣旨であった。
私はパラパラッとページをたぐった。なるほど伊賀とか名張とかいう文字が出ている。しかし、私にも用がなさそうなので、そのままおっぽり出しておいた。
これが、石母田正氏の名著『中世的世界の形成』だったのだ。
名張市史をやることになって、取り寄せたのはこれである。
読んでみた。なるほど名張の黒田庄を対象にしていることはわかるが、内容的には何も頭に入らなかった。チンプンカンプンというのはこのことだろう。
つづけて二度読んだ。黒田庄というものの輪郭がぼんやり頭のなかに入ってきた。
つづけて三度目を読んだ。理解があまり進んだようにも思えなかった。中国に「読書百遍、意おのずから通ず」ということばがある。
二遍や三遍でわからないのも無理はないと思った。
この書物は荘園の研究者にとって今でも難解とされている。
昨年の夏休みに東京女子大学の「中世的世界の形成を読む会」というグループのお嬢さんたち七、八人が名張へ来て、私は一日現地を案内したことがある。「読む会」までできているのかと私も驚いた次第である。
さて、『中世的世界の形成』は、わからぬながらも三遍読んだので、これはいちおうこのままとし、ほかの書物から黒田庄の理解に近づこうとした。
だが、ほかにどんな書物があるのか。
今なら市立図書館へ行けば、数十種に及ぶ荘園研究書が揃っている。だが、周辺ゼロの当時、私は上野市立図書館に足をはこんだ。
手元には一冊の『中世的世界の形成』のほかに何もない私にとって、上野市立図書館は頼みの綱であった。
老舗をほこる同館のことだから、さぞ郷土関係資料もたくさん揃っていることだろうと、期待に胸ふくらませて赤門をくぐった。
館長は岡田栄吉氏であった。伊賀郷土史界の大先輩である。明治の末か大正のはじめ、上野中学の一年生の時から佐々木弥四郎先生のあとについて、史跡の調査にあたってきたというから、半世紀に近い研究歴である。
上野市では当時市議会が市史編纂事業を可決し相当な予算を計上して、この事業に乗りだしていた。岡田氏が編纂主任となり、図書館の一室を編纂室として作業を進めていた。
編纂室に入ると、男の人一人と女の人一人がいて、古い文書類を原稿用紙に写しとっていた。市史のために雇ったバイトさんであった。
羨ましいと思った。さぞ立派な市史ができることだろう。
「中君、これ一冊あげるよ」
岡田館長はこういって二、三枚とじの謄写版ずりを渡してくれた。「上野市史資料目録」であった。
こんなに調べなければならないのか――私は目がくらむ思いで、前途茫洋の感に打たれた。
「中君、君も名張市史をつくるなら、だいぶここへ通わねばならんのう」
「その手はじめに今日はお邪魔したのです。どうぞよろしくお願いします」
こう挨拶して館長室を出て、事務室へ行った。山本茂貴、操本利保の両君がいた。二人ともまだ若い職員だった。前々からよく知っていたので、いろいろ便宜をはかってくれるよう気がるに頼むことができた。
この若い職員は今どうなっているか。
山本君は将来の伊賀郷土史界を背負って立つほどの大家になり、昨年定年でやめて、いま市立信楽伊賀古陶館の館長におさまっている。操本君はいま図書館長になっているが、この春退職する年齢になっているとのことだ。月日のたつのは早いものだと、今昔の感にたえない。
この日、山本君の案内で郷土資料室を見せてもらった。いろいろの書物がならんでいた。しかし、これが伊賀の郷土資料としてどの程度のものか、見当をつけることは出来なかった。
これほど素人の私が名張市史をつくるといってしゃしゃり出たのだから岡田館長も、若い二人の職員も、内心唖然としていたのではなかろうか。
この日、さしあたり五冊か六冊の書物を貸してもらった。その中に中村直勝博士の『荘園の研究』と佐々木弥四郎先生の『伊賀史の研究三十年』のあったことははっきりおぼえている。
忘れられないのは、このとき山本君が「二冊あるから差し上げよう」といって、『伊賀史談会々誌』を十冊ほど綴じたのを渡してくれたことである。帰りの電車のなかでページをくると、佐々木先生の黒田庄にかんする連載ものもあった。
私は三十数年ぶりに佐々木先生の記憶をなつかしくよみがえらせた。
私が上野中学に入ったとき、佐々木先生はただ一人の歴史の先生であった。一年生のときは日本史、二年生で東洋史、三年生で西洋史、こういう順序でおそわった。
あだ名は“ビンさん”であった。禿げ上がった前頭部に薄い毛が三角洲のように残っていた。温容な風ぼうであった。
“ビンさん”の語源を上級生は「いまはあんなに禿げているが、若いときはふさふさした髪で、ビンツケでなでつけていた」と説明していた。ビンツケというのは、今の人にはなじみがないだろうが、日本髪のおくれ毛を止めるために用いる固練りの油である。男性用のポマードのようなものである。
神戸の丸山城址に記念碑が建った時、比自岐神社が県社に昇格した時、地元の人たちに頼まれて佐々木先生が説明に来るというので、私も家が近いのでかけつけたことがある。いずれも大正年間のことなのだ。
学校で生徒に歴史を教えるかたわらで、伊賀史の研究に骨身をけずっていた佐々木先生の顔は巨像のように私の目にうつった。
上野図書館長の岡田栄吉氏の名前が出たので、ついでに思い出の一つ二つを書いておこう。
私が三、四年前まで出していた『新名張』という週刊新聞は名賀印刷社で印刷していた。今は伊和印刷社に合併してなくなっているが、社屋は名張駅の車庫線路沿いの現在丸栄建設が名張苑住宅を建てているところにあった。
岡田氏には上野でも時々お目にかかる機会があったが、名賀印刷でも三回か四回顔を合わせたことがある。
名賀印刷の社長は松井定吉氏で、岡田氏とは上野中学の同窓生とのことだった。そういう縁故でか、岡田氏が会長をしていた伊賀地区文化財委員連絡協議会が『伊賀の文化財』という小冊子をつくることになり、その印刷を名賀印刷でやっていた。最初に会ったのは、この用件でやって来られた時である。
それから次には、自分の本を刊行するというので、松井社長にその相談に来ている時であった。
この人が半世紀以上の生涯をかけて蒐集した膨大な資料を持っていることはかねて聞いていた。そして、これを整理して書物にしたい希望をもっていることも耳にしていた。しかし、手が不自由で自分で筆をとることはできないので、そのままにしていることも、岡田家に出入りしている岡森明彦君から聞いていた。
「中さん、ひとつ整理してやってはどうか」
岡森君が私にこんなことを言ったこともある。
「上野にえらい人がたくさんいるのに、名張から出かけることもなかろう」
私は冗談に受けながしたが、それにしても惜しいものだと思った。これがこのまま埋もれてしまっては、伊賀郷土史界の大損失である。なんとかして活字になることを念願する一人であった。
同じ思いをいま私は一昨年亡くなった冨森盛一氏が調査・蒐集した資料についても持っている。同志を謀って刊行を思いたったが、いまだにご遺族の同調がえられない。
とにかく、岡田氏の資料がこんな情ない状態にあると聞いていたのに、それが印刷にかかると聞いて、私は意外の感に打たれた。
「岡田さん、よう原稿の整理ができましたなあ」
とたずねた。
「人を雇ってやってもらった。四百字の原稿用紙でだいぶの分量になったよ」
私はホッとした。これで私の念願もかなえられるわけだ。いや、伊賀郷土史界の念願がかなえられるわけである。
「いくらぐらいかかるか」
印刷費のことである。これが松井社長に相談の核心であったらしい。
「田一枚売ったら出来るやろ。あんまり残ってないがのう」
こういって笑った。持前の悠揚せまらない態度であった。野間(旧三田村の大字)の地主の旦那として一生すごしてきただけあって、鷹揚そのものの人柄であった。
これが、私がこの人に会った最後であった。
何か月かすぎて、ある朝、私は新聞の伊賀版に悲痛な記事を見出した。岡田氏の家が火災をおこし、からだの不自由なご本人は焼死したという報道である。
この人にふさわしからぬ、あまりにも痛ましい最期であった。
このあと、岡森君が名張へ来たとき、私は何よりもまず、
「原稿はどうなった」
とたずねた。
「あれは裏の部屋に置いてあったので助かった」
とのことであった。
しかし、もう手おくれである。せめて原稿が名賀印刷へ渡っておれば、何とか生かせる道もあったのである。
残念しごくだ。
生前のはなし――。
伊賀郷土史研究会は毎年一月総会を開いている。ここ二、三年は上野市立図書館の有恒寮を使っているが、参会者が十五、六人のときは、でんがくの「わかや」が常例であった。
この席で私はいつも岡田氏の横に座らされた。おたがい“いける”口だからである。この方では私もこの大先輩にヒケはとらなかった。
しかし、耳が遠くなっておられたので、話よりももっぱら酒のつぎ手であった。
資料集めについて、一人の援軍が現れた。神戸村の永浜秀夫君である。
ある日、瓢然と私の病室へ姿をみせた。斎藤昇氏の何度めかの参院選挙の時だった。
「斎藤はおれの義理のいとこにあたるのでのう。ちょっと名張の事務所へあいさつに来たのや」
永浜君が斎藤氏といとこの関係にあることは私も知っていた。
永浜家は神戸村の大地主で、祖父にあたる団治氏は長らく名賀郡会議長をつとめた。子だからに恵まれなかったので上野町の立入家、元代議士の奇一氏の三男出(いずる)を養嗣子とした。県会議員、神戸村長を何期もつとめた人物である。秀夫君はこの人の長男として生まれた。
出氏の実弟、つまり立入家の四男四郎氏は菅野家の養子となって、上野町で医者を開業していた。この人の長女が美知子さんである。
斎藤氏はこの美知子さんを妻にむかえたのだから、永浜君とはまさしく義理のいとこである。
永浜君と私は上野中学校いらいの旧友である。私より一級下であったが、同じ方面から汽車通学していたので、とくに親しかった。
私の東京在住中は疎遠であったが、帰郷してなつかしく中学時代の旧交を復した。
農地改革などがあって、さすがの名門も昔日のおもかげがなく、大廈(たいか)のまさに倒れようとするところに有為転変のあわれを感じる、そういう状況にあった。
私が市史の話をし、入院の身では資料漁りも不自由なことをかこつと、
「よし、おれが探してきてやろう」
と、うれしい返事だった。
どこでどう手に入れるのか知らないが、五冊、六冊と買いこんでは持ってきてくれた。とにかく、私の手もとには何もないのだから永浜君にも選択の苦労はなかった。目についたものは何でもという調子だった。
今でならごく平凡で初歩的な資料だが、『名賀郡史』『伊水温故』『新編伊賀地誌』『倭姫命世記』『伊陽安民記』など、永浜君の労によるものだった。
だが、『三国地誌』だけは、永浜君の奔走の労にもかかわらず、どうにも入手できなかった。これは、後日、名張高校の先生K氏の斡旋で手に入れることができた。
研究には順序も何もなかった。市史の研究を体系的に組立てるには知識はあまりにも貧弱であった。ここしばらくは乱読とばかり、手に入るだけの資料を手あたりしだい読みあさった。
中でも興味をもったのは中林楓水氏の『名賀郡史』である。この書物についてはちょっとした思い出がある。中学校の一年か二年の時である。歴史の佐々木先生から夏休みの宿題として「土地の伝説をしらべてこい」というのが出された。『名賀郡史』がちょうど刊行された当時だったので、これを借りて伝説らしいものを丸写しした。佐々木先生には何を写したかは容易にお見通しだったろう。先生はこの書物の校閲にあたっておられたからである。
ここ三、四年来、夏休みがはじまると、市立図書館の郷土資料室で私は小中学生のために郷土史教室というのを開いている。
『夏休みの友』という学習帳にはきまって、「この地につたわる民話や伝説をしらべなさい」という課題が出されている。
出題者の意図としては、子供に足をはこばせて、物ごとを実際にしらべる訓練をするのが狙いだろうが、子供たちはなかなかそうはいかない。足をはこぶのは図書館である。
どんな民話や伝説があるかと尋ねられた時、すぐそれに答えてやっていいのか自分で調べてこいと突きはなすのがよいのか、教育のしろうとである私は当惑してしまう。
しかたなく私は「伊賀や名張の伝説を書いたこれこれの本が図書館にあるからそれを読んだ上で、その土地へいってそこの誰かに話を聞きなさい」といって追い返す。これ以上に手がない。
それにしても、何十年か前、おなじような宿題に対し『名賀郡史』を丸写ししたことを思いだすと、おもわず苦笑がこみ上げてくる。
さて、私の市史研究に一役買ってくれた永浜秀夫君のことだが、数年前にこの世を去ったそうである。
戦後の煙草の不自由なとき、永浜君から乾燥したタバコの葉を五、六枚もらい(たぶん誰かの密造植物だったろう)、きせるに詰めてむさぼるように吸った思い出もある。
昭和二十九年三月三十一日、名張町・滝川村・箕曲村・国津村が合併して名張市誕生。四月二十五日に市長選挙がおこなわれ、前名張町長北田藤太郎氏が無投票で初代市長に当選した。
市議員は町村合併促進法の特例を利用して、五か月間任期を延長、一町三か村の議員が一斉に市会議員になったものだから、その数およそ七十名、木造旧庁舎(名張町役場)二階の議場はまるですし詰め教室の観があった。
八月二十九日、横すべり議員の任期がきれて第一回の市議選挙。定員三十名の新議員が成立した。
この年の暮れ十二月二十四日、庁舎が火災をおこした。原因はダルマストーブの煙突の過熱といわれる。名張小学校講堂を臨時庁舎とし、さっそく現在の庁舎の新築にかかった。
古山村・神戸村の合併をめぐって上野市との間に激しい泥沼合戦を展開したのもこの頃である。
いわゆる赤字問題が頭をもたげてきたのもこの頃であった。
赤字は合併にさいし、三か村から持ちこまれたツケであった。いくらあるのか底が知れなかった。
北田市長は「これでおしまい」といって発表した総額はたしか四百万円か四百五十万円であったが、すぐそのあとで「まだ、これだけあった」と、何十万円かをさらけ出すというふうであった。
市議会では財政調査委員会という異例の特別委員会をつくって、赤字を洗いざらい解明するという手段に出た。
栄町の集議所になっている建物は市の所有で、空屋になっていたのでここに調査本部を置き、当時市議会の事務局長富山信夫君(故)が調査の事務にあたった。
北田市政に対する批判グループとして市政研究会ができたのは、この赤字問題のゴタゴタが契機となってであった。
メンバーは伊和新聞社長・岡山実(故)、元名張町長・川北清一郎(故)、榊町・池田仁七郎、南町・今川清太郎、新町・金井寅次郎、医師・夏秋忠雄という顔ぶれが記憶にある。
私は入院中であるが、伊和新聞の社員だったので“作文係”を担当した。会合があるたびに、病院をぬけて参席し、研究会が市民に発表する報告・声明・市政批判の類はみな私の作文であった。
元町の、いま丸福牛肉店になっているところが鴬座という映画館(元芝居小屋)で、ここを借りて市民大会も開催した。大入り満員で、研究会の北田市政批判は相当市民の関心と共感をひいたようだった。
そのうちにも、北田市長の第一期の任期はせまりつつあった。
昭和三十三年である。
市長選挙の告示は四月六日、投票日十六日ときまった。
研究会では北田市長の再立候補にたいして独自の対決候補を押し出すため、前々からいろいろ画策した。
まず、白羽の矢を立てたのは当時市議会議長をしていた上村進一郎氏(現商工会議所会頭)であった。
上村氏も北田市政批判派の一人で、一時は出馬を決意したようである。
しかしどうしたわけか、駄目ということになった。
第二の白羽の矢は池田仁七郎であった。
研究会の外部に出馬者がない以上、会のなかから立てなければならない。
「あれだけ厳しく北田市政を批判しながら、北田氏の独走をゆるすとは、市政研究会もダラシがないじゃないか」
市民からこういうハッパもかかった。
池田氏は犠牲的勇断をもって立候補を決意した。
告示を数日後にひかえた時点であった。池田氏出馬のニュースは新聞にも報ぜられた。
ところが、これまたどうしたことか、三日程して出馬を辞退した。家庭的に何かの事情があったらしい。
研究会では善後の一策、川北清一郎の決意を懇請した。川北氏としては、昭和二十四年、箕曲分村の責任を感じて名張町長を辞任して以後、首長という職には全然意欲をもっていなかった。
そこを何とかと強引に頼みこんで、とうとう出馬を決意してもらった。川北氏にも迷惑しごくであったろうが、研究会にはこのほかに手がなかった。
もし、ここで独自の候補を立てることが出来ず、北田市長の独走をゆるすようでは、市民の前に赤恥をさらすことになる。
告示の日を目前に、あやうくセーフという瀬戸ぎわ作戦であった。
市政研究会が市長選挙の候補者探しに躍起になっている最中、依那古(現上野市)の家で一人暮らしをしている私の親父が病気で寝込んでしまったとの知らせがあった。
三十三年二月の中頃であったか。
すぐ隣りに私の妹が住んでいるのだが、寝込んだとあっては、まかしてもおけない。何はさておき、妻を帰らせた。
妻は五歳になる長男と三歳になる妹をつれて、名張を後にした。
妻がいなくなっても、私の日常生活には、さしたる不自由はなかった。三食付きの入院生活だったからである。桝田病院では、入院患者の食事は、当初は自弁であったが、この頃では近所の田中屋に委嘱して給食制になっていた。
結核は半治りでも、この頃では養生に努めようという殊勝な気持はさらさらなく、気随気ままに外出してまるで気楽な下宿生活のようなものだった。
「あれで、よくなるんやろか」
ほかの入院患者が心配していてくれたようである。
さて、依那古の家では、妻は一か月ほど看病にあたったが、親父は三月十二日に死んだ。享年七十八歳。
二、三日前から危篤だというので、私も泊りこんでいた。親の死に目に合わないのは、わが国では不孝者とされているが、生涯不孝のしつづけであった私も、死に目に合うということでただ一つの孝行をすることができた。
十四日に葬式をすませ、翌日は寺参りという風習である。これをすませると、二、三日して後の片付けを妻にまかせ、私は名張に戻った。
この頃、名張では川北清一郎氏が出馬することに決まり、松崎町の大岡家を借りて、選挙戦準備にてんやわんやであった。
告示の四月六日は、もう目前に迫っている。
川北氏はすでに前哨戦を開始していた。夜昼をとわず、各地の懇談会に東奔西走していた。
私は事務長ということで事務所にすわることになった。参謀長は岩井博氏があたった。
十日間の選挙期間は熾烈そのものであった。名張の首長選としては久しぶりにみる選挙戦らしいといわれた。というのは、昭和二十四年に北田氏が無投票で町長選に当選してからは改選ごとに無投票、最初の市長選も無投票、「運のよい人」といわれるほど連続無投票の北田氏にとって、これは初めての選挙であり、名張市にとっても初めての市長選であった。
市議の定員三十名、ほとんどは北田陣営に走り、川北陣営に馳せ参じた北田市政批判派が七名、当時評判の映画の題名にちなんで“七人の侍”と呼ばれた。
現市長の永岡茂之氏、商工会議所会頭の上村進一郎氏らも侍のメンバーだった。
白熱の激戦にもかかわらず、結果は北田氏一万百五十四票、川北氏六千五百六十六票という数字で川北氏は一敗地に塗れた。
当選した北田氏はこの後三回の改選は無投票か共産党相手の“運のよい”選挙をつづけ、四十九年の改選にあたって、二十年にわたる市長の座を降りた。
川北氏が晩年に書いた自伝『八十年の旅路』で、この市長選挙のことを次のように回顧している。
「昭和三十三年四月、市長選挙があった。二十九年に名張市制が実施されて二度めの市長選挙である。現職の北田市長に対し池田仁七郎君が出馬しようと決心していた。着々と準備を進めていたがどたん場になって健康上の理由で取りやめた。同志としては行きがかり上誰かを立てねばならない。告示の日は迫っている。ほかに適当な人物はいない。身替わり候補の白羽の矢はついに私に立てられた。周囲の状況から当選はきわめてむずかしい選挙であった。私も若い時から「川北のすることはソツがない」といわれてきた。一生に一度ぐらい“ソツ”があってもいいではないか、ひとつ阿呆を売ってみるのも人間らしくてよいと、出馬する気になった。相手候補の北田君の大衆的性格には勝てず、予想どおりの結果におわった」
この川北氏も一年前に八十何歳かで他界し、北田氏は病気療養中の身である。そして“七人の侍”の一人であった永岡氏は、いま市長として市政の第一線に立っている。
選挙がすんで、私はやっと病院での平静な生活をとり戻した。
●初出 「名張新聞」1979年12月2日−1981年4月26日(名張新聞社発行)
●掲載 2001年10月18日