菊山当年男翁

 上野市在住の郷土史研究家で、私が学恩をこうむった人は随分多い。村治円次郎、菊山当年男、岡田栄吉、沖森直三郎、早瀬保太郎、久保文雄、森川桜男氏ら、その一端である。
 菊山当年男翁が居を丸之内から茅町駅の南のところに移し、ここに陶房を開き、登り窯をきずいて、伊賀焼の制作に専念されるようになったのは昭和三十年のころであったか。
 訪問のたびに、天釉についての話をよく聞かされた。『天釉』と題する翁の歌集もある。天釉とは天然の釉のことで、釉薬を使わないで、伊賀焼独特のあの青さびた、なんともいえぬ渋味のある色を出すことだそうである。翁が県の人間文化財に指定されたのも、この天釉の故ではなかったろうか。
 だが、陶芸に素人の私には、天釉の話より、そのむかし翁が名張町長に万葉歌碑の建碑を進言した時、けんもほろろに追われた話の方がおもしろかった。
 いま、名張駅前の小公園に、「わがせこはいづく行くらむ沖つもの名張の山を今日か越ゆらむ」の万葉秀歌の碑が、佐佐木信綱博士の揮毫で建っている。これは昭和三十二年に市文化財委員が中心になって建てたものである。
 翁が建碑を勧めに名張町役場を訪れたのは、上野芳松町長の当時というから、むろん戦時中のことである。町長に会い、まず万葉集から説きおこして、名張の地が万葉集を通じてわが国の古代史に登場していることの意義を強調し、建碑をすすめたそうである。
 だが、馬の耳に念仏、上野町長には万葉集ということばさえ生まれてはじめて耳にする言葉であったらしく、いわんや翁の説明など理解できるよしもなかった。「余計なこと言いに来るな」といった調子で追返されてしまった、という話だ。
 今はそうでないが、かつて名張は“文化不毛の地”と評されたことがある。町長がこれでは、なるほどとうなずかれる。
 話はかわるが、青山町の伊勢路、阿保橋、中山橋の三か所に菅笠日記碑が建っている。本居宣長の吉野紀行『菅笠日記』の文中から土地に該当する部分を碑面に彫ったものである。種生国見にある吉田兼好碑とともに、青山町としては数少い文学碑である。これは、長年町議会議長山本隆夫氏が菊山翁に謀って発起したもので、費用全額は山本氏が寄付し、翁は揮毫にあたった。
 ちょうど、この揮毫の筆をふるっている当時で、建碑の話を聞かされた。前述の名張町長の話を聞いたのもこの時である。おはずかしい次第だが、菅笠日記は私にも初耳で、翁の手もとにあった宣長全集の『菅笠日記』の載っている一冊を借りて帰った。
 今はリコピーの便利な機械が出来ているが、当時はなんでもかでも手写しである。初瀬街道の青山、名張、榛原の部分を写しとった。つぎに、これを頼りに宣長のたどった道を歩いてみようと思って青山町の羽根を起点に、七見峠をこえ、上庄田を通り、新田から名張の町を抜けて三本松までの道程であった。
 新田で美波多神社神職の豊浜護氏のお宅に寄った。『日記』に、
 「新田というところあり。この里の末に、かりそめなるいおりの前なる庭に、池なんどありて糸桜いとおもしろく咲きたる所あり。
 糸桜くるしき旅もわすれけり立ちよりて見る花の木蔭に」
 という一節がある。これは私の家のことだと豊浜氏は教えてくれた。糸桜の木はなかったが、前庭にある古い小さいたんぼ(池のこと)が当時のものだという。
 「この碑を建てようと思っている」
 豊浜氏は抱負をかたった。だが、その後二十余年たつが、残念ながらこの抱負はまだ実現していない。豊浜氏の独力にまかせず、市の文化事業の一つとして、ぜひとも建碑をみたいものだ。
 西原から里への道も、そぞろ昔をしのばせる古道である。宣長は、
 「これ(新田)よりなだらかなる松山の道にてけしきよし」
 と書いているが、途中にカイタテ坂の急坂があった。
 津藩上野支城の日々のことを記録した日誌『永保記事略』、『庁事類篇』は、このほど上野市が活字本として公刊した。藤堂藩史ないし伊賀近世史の研究に大きい光を投げかけている。
 これの原本は菊山翁が所蔵していた。
 この貴重な文書が、明治維新のドサクサをどうくぐり抜け、どういう経路で翁の手中に帰したのか、それはわからない。とにかく翁の秘蔵本で、ちょっとやそっとでお目にかかることは許してもらえなかった。
 翁の死後、起志未亡人が市の要請にこたえて市立図書館に寄贈された。ここに公刊への道がひらかれ、おかげで今では誰でもが容易に目にすることが出来る。
 翁の秘蔵中さいわいなことがあった。というのは、翁が名張の老人会から郷土史にかんする講演を頼まれた時、その資料にと、原本から名張関係の記事だけを丹念に抜き書きしたのがあった。四百字詰めの原稿用紙に書いて表紙に「上野司城日記」とあった。
 借覧を乞うと、快く承知してくださった。喜びいさんで持ち帰り、夜も寝ないで一気に写しとった。原稿用紙で百五、六十枚の分量であった。
 『永保記事略』や『庁事類篇』の公刊が夢想だにできなかった二十数年まえ、たとえ名張の分だけにせよ、これを目にすることのできたのは、私じしんへの大きい勇気づけとなった。
 宝永年間の名張大火の記録もあった。町のほとんどが焦土と化したこの大火は、豊永徳之助氏の『名張』によれば「宝永七年四月四日(一説に十三日)」となっているが、この記録では「宝永八年卯四月十四日」となっている。
 それで、私もこれに拠って『市史』では宝永八年にしておいた。しかし、あとでいろいろ聞いた結果、宝永八年は「日誌」のまちがいで、本当はやはり宝永七年であったようだ。
 しかし、日については四月の四日、十三日、十四日の三説があって確かでない。はっきりさせる資料が見つかればよいと思っている。
 翁からは、ほかにもいろいろ資料をみせていただいた。私には学恩の深い一人である。
 泥んこの着物でロクロをまわしていた姿は、今でも鮮やかに私の印象にのこっている。
 夫人の起志さんは関本梁村の妹さんで、菊山享女さんと実の姉妹にあたる。享女さんは俳句、起志さんは短歌にたくみであった。兄妹・夫妻揃って文芸の一族であった。梁村碑を建てるとき、不自由な足でたびたび名張へ来られた。翁の死後、“かま”を守っていると聞いたが、今はどうか。

 小野三左衛門

 天保十年九月頃の名張藤堂家の「御家中分限並役所帳」をみると、家老は六百石の鎌田将監と三百石の小野三左衛門の二人である。
 安本亀八の彫った三左衛門の木像は南町の西方寺に保管されている。昭和三十年ごろである。亀八の系統をひく写実派の人形作家で人間国宝になっている平田郷陽氏が亀八の遺作を探訪のため名張にこられた。この案内にあたったのは亀八の研究家の冨森盛一氏、私はあとにくっついて行った。三左衛門の像を目にしたのは、この時が初めてである。先代の稲垣住職は子孫は東京に住んでいるように話していた。
 五、六年前のことである。図書館で仕事をしている私のところへ、とつぜん小野という名刺をもった青年が訪ねてきた。
 この人が東京に住んでいるという三左衛門の子孫であった。小野家の家伝を編纂するため調査に来たとのことであった。時々は菩提寺の西方寺へ墓参もしているとのことだった。
 この人は、三左衛門の木像の作者が亀八であることは知っていたが、亀八というのはどんな人であるかは知らなかった。さいわい手元に『市史』の上巻があり、亀八のことをややくわしく紹介してあるので、これを見せて、亀八は人形史上きわめて有名な彫刻家であることを説明した。
 一、二年して『小野九代記』という書物がとどけられた。

 自転車・自動車

 今は私もカブという便利な乗物に乗っているが、二十年あまり前には、もっぱら自転車だった。
 名張の町は今日のようにモータリーゼーションが進んでいなかった。町をあるいても、自家用車や単車に出あうことはまれで、まだまだ自転車の時代であった。
 ペダルをふんで名張中をかけずりまわった。寺院、神社、学校、史跡、私の自転車の行かないところがなかった。
 ある時は、“北の杣”の現地を見るため阿山郡の玉滝村(現阿山町)まで自転車をとばしたこともある。伊賀の南西隅から東北隅までの対角線を一走りするのだが、少しもつらいとは思わなかった。自転車があたりまえだと思い込んでいたからである。
 いま自転車で玉滝へ行けといわれたら逃げだすだろう。体力的には出来ないこともないが、自動車の味がからだにしみついて、自転車なんて阿呆らしうて乗る気にならないというところである。
 むかしの人は、どこへ行くにも徒歩だった。さぞかし大変だったろうと思うが、歩くのはあたりまえと思いこんでいる時代だから、案外平気であったろう。“慣れ”というものほど恐ろしいものはない。
 学校はどことも沿革誌というのを備えているので、わりあい容易に学校の歴史を知ることはできたが、寺院や神社になると、由来を語るような資料は何ひとつ残っていなかった。
 たまたま“寺伝”というものがあっても、弘法大師伝説の焼き直しのたぐいで、史実を汲みとるに足るようなものには、お目にかかれなかった。
 たとえば、赤目滝の延寿院だが、『三国地誌』、『伊水温故』の昔から旧来の郷土史は例外なく役行者を開基としている。話としては面白いが、正史からはかけ離れている。
 伝説と史実ははっきり区別して対処せねばならない。
 延寿院、その前身の青黄竜寺の創始については、村治円次郎先生から『春華秋月抄草』の存在を教えられ、その中の「黄滝山建立次第」の一文によって、この古刹の最初建立は平安時代の保安三年(一一二二年)であることがわかった。
 住職のことをわるく言うつもりはないが、住職というのは、自分の寺の歴史については何も知らないということをまざまざとみせつけられた。ということは、反面からみれば、資料が無いということの裏返しである。住職が無知なのではなく、資料が欠如しているのだ。
 神社についても同じような思いを経験した。さいわい重要な神社については三重県神職会が大正年間に編纂した『三重県神社誌』があるので、これにだいぶんたすけられた。名張の寺院誌・神社誌については廃寺・廃社もふくめて、体系的にまとめる必要がある。真言宗の寺院が圧倒的に多いこと、春日系の神社が広く分布していることなど、これらの歴史的背景を探究することも興味あるテーマである。
 自動車の話のついでに自動車の思い出を一つ。
 私が自動車の運転免許をとったのは昭和十四年である。当時、私がつとめていた日本読書新聞が社長用として自家用車を買った。そのころ大流行のダットサンのセコハンで代価は四百円。私は仕事の上で車に用はないのだが、手もとにあるものなら乗ってやれという面白半分から免許をとる気をおこした。
 いま車の免許をとろうと思えば、十万、二十万の金を積み、二か月も三か月もかかるという大変なものらしい。
 四十年前には、いとも簡単であった。
 赤坂の溜池に自動車教習所というのがあった。練習場にボロ自動車五、六台があって、バラック建ての事務所にいくと、一円ずつ受領印を押すコマがあるカードをくれた。一時間一円で、二十時間で免許がとれるという寸法だ。一日に二時間でも三時間でもいい。とにかく二十時間さえ練習すればよかった。
 実技試験では8字コースとバック直角車庫入れはちょっと失敗したが、それでも合格であった。
 学科試験は警視庁でうけた。とくに勉強したという記憶はない。「酒気を帯び喫煙しながら運転すべからず」という条文を暗記したことだけをおぼえている。

 困るのこと

 市から月々“市史編纂料”五千円をもらうようになってから三年が経過した。四年めは昭和三十四年度である。
 市長公室の市史担当である桐本一男氏は、三十四年度の予算編成にあたって、さらに“委託料”を継続することを躊躇したらしい。というのは、三年間も委託料を出したのに、成果は少しも上がってこない。果たして私が市史の仕事をやっているのかと疑いすら感じたらしい。
 これには私もほとほと困った。
 五千円の委託料が打切られることに困ったのではない。これは初めからどうでもよいことであった。私が困ったのは、せっかくこつこつと勉強しているのに、その成果を具体的に見せることができなかったことである。
 学校を建てる、橋をかけるという事業なら、毎日毎日の成果が目の前ではっきりする。ところが市史編纂という事業は、いろいろの書物を読み、いろいろの資料を調べてそれを頭のなかに蓄積するのが成果だ。この蓄積がどこまでたまったかが事業の進捗度である。蓄積事業がいちおう終わったところで執筆にかかる。
 執筆にかかる段階になれば、仕事はもう八合目まで来たも同然で、あとは筆さえ動かしておれば作業は一人ではこんでいく。
 編纂というのは、こういう性質の作業だから、頭のなかに蓄積しつつある途中で成果をみせよといわれても、頭蓋骨をたたき砕いて脳味噌でもさらさないかぎり見せようがない。
 桐本氏もどうやらこのことを理解してくれたらしい。
 同じようなことをつい最近も経験した。
 青山町史についてはいずれあらためて書くつもりだが、青山町が誕生二十周年記念事業の一つとして『青山町史』の編纂を企画した。
 同町教育委員会(町史編纂委員会)から私が編纂をたのまれたのは四十九年の秋である。それから昨年の四月刊行をみるまで、五年の月日がかかっている。
 さいわい議員のなかに町文化財委員で町史編纂委員でもある秋永孝太郎さんという人物がいて、いろいろとりなしてくれた。
 編纂刊行という仕事は書物が出来あがった時が勝負で、それまでははたから見れば海のものか山のものかわからない。しかし、金を出している側からすれば、気が気でないのも当然だろう。

 執筆から脱稿へ

 昭和三十一年に名張史の勉強に取組んでから、資料不足と悪戦苦闘しながらも、三年か四年の月日が経過した。頭のなかにいちおうまとまったものが出来たように思えたので、いよいよ執筆にかかろうかと決心した。
 いざ執筆という段になって、いちばん苦労したのは、編・章の組立てをどうするかであった。
 時代を大別する「編」は、原始・古代・中世・近世・近現代と日本史の通例どおりにすればよいのだが、「章」は名張という地域の歴史事象によって組立てなければならない。
 歴史事象を年代的に羅列するだけでは歴史にならない。日本全体の歴史の動きの中でおこった名張地方の動きを、内的脈絡のある発展としてとらえねばならない。この時、青年時代に勉強した唯物史観がたいへん役に立ったように思う。
 マルクスが「唯物史観は暗暗夜夜の提灯である」と書いていたのを思い出す。これは歴史の方法論であり、暗夜に道をまちがえないように案内する提灯の役目をするという意味である。つまり、正しい見方・考え方の道しるべである。余談だが、マルクス主義者になる、ならないは別として、正しい“ものの見方・考え方”を会得する基本として唯物弁証法や唯物史観の勉強を今でも私は若い者に奨めている。
 とにかく、編・章を組立てるだけで一か月か二か月、考えあぐねたように記憶する。そのあげくやっとこれが出来あがったので、いよいよ執筆である。
 私はこれという取得のある人間ではないが、原稿紙に文字を書くことだけが、普通の人よりは少し早いと自負している。大正末期から昭和初年にかけて三上於菟吉という大衆作家がいて、速筆をもって文壇に知られていた。一日に五十枚(四百字詰)は書いたそうである。むろん、これには及びもつかぬが、この半分ぐらいはらくであった。市が作ってくれた特別の原稿紙に、しゃにむに書きつづけた。
 書きながら、これを伊和新聞に連載することにした。これには二つの意味があった。活字にすれば、まちがっているところ、不十分なところ、言いまわしのまずいところなどがよくわかる。つまり、推敲がらくになる。もう一つは、発表することによって、読者からまちがいや不十分な点を教示される機会にめぐまれる。
 「名張の歴史」というカットをつくって、連載をはじめたのはいつだったか。当時の伊和新聞がないので、はっきりしたことはわからないが、三十三年末か三十四年の初めではなかろうか。
 新聞の組んだ版は(活版印刷の場合)、印刷がすめば解版といって崩してしまうのだが、「名張の歴史」の部分だけは、解版しないで残しておくことにした。というのは、こんど書物にする時には文選(原稿によって活字を拾うこと)の手間がはぶけるからである。『名張市史』のページが八ポ活字でぎっしり詰まっているのは、このためである。
 いま、『市史』の上巻を取出して、いったい何枚ぐらい原稿を書いたのだろうと計算してみた。一ページに千四百四十字入っている。四百字原稿紙にすれば約三枚半である。これが四百五十八ページだから、四五八×三・五で約千五百枚だ。
 よくぞ書いたと思う。いつごろ書き終えたのかもはっきり覚えていないが、『上巻』の発行は三十五年三月五日と奥付にしるされているから、ここから逆算して、脱稿は三十四年の秋か冬のかかりであったのだろう。
 新聞の連載はこれを機に止めてしまった。
 書物の自費出版というのは金のかかるものである。出来上がってからそれを売って資金の一部を回収することはできるが、初めにまとまった金を印刷屋に渡さなければならない。
 この点、私はたいへん恵まれていた。というのは、伊和新聞社が発行元となって、印刷・製本費用の一切を負担してくれたので、この方面の心配は全然にかった。
 病気のことは暫く触れなかったが、全治証明のないまま勝手に桝田病院を飛び出して、ふつうに動いていたように思う。

 伊勢湾台風

 話はすこしあとさきするが、上巻の脱稿を目の前にした昭和三十四年九月。このころ私は新町の辻安茂さんの家にかよって、同家の先祖が書きのこした「台所帳」というのを写させてもらっていた。正式には「甲寅嘉永七年改、家例旧式台所帳」と「嘉例式の覚」との表題をつけた二つの文書である。当主辻安茂氏のたしか祖父にあたる吉次郎安常という人が書きのこしたものである。
 ついでだが、辻家にはこのほかたくさん貴重な文書が残っている。なにしろ、江戸時代には掛屋・町年寄・本陣・伝馬所・酒造業など、行政的にも重要な役についていた商家で、町内きっての家柄であった。それだけに所蔵文書には名張の近世史を解明する上で、きわめて貴重なものが多い。
 「台所帳」もこの中の一つで、これは日常生活にかんする心がまえと、一年中の“もの日”における行事のやり方や特別の献立を書いたもので、江戸時代後期における名張町の年中行事や町家における食生活や神仏のまつり方などがうかがえて、民俗資料としてきわめて価値の高いものである。
 私はぜひともこの全文を上巻に収めたいと思って、筆写をすすめていたのである。
 九月二十六日。
 朝から雨であった。私の家から辻さんの家まで、三百メートルそこそこ。それでも傘をときどき横にせねばならぬほどの風がまじった。
 この日はちょうど写し終わる日であった。予定どおり、正午前に写しおわって、家に帰る時はそうとう強い雨風になっていた。
 桝田敏明医師が医学博士の学位をとって、その祝賀会がこの日の午後一時から喜多藤で開かれることになっていた。
 吹き降りは一段とひどくなっている。ふつうでは会場に着くまでにビショ濡れになるので、風呂敷に服とワイシャツと靴を包み、それを肩にかついで、下着のシャツとステテコに下駄ばきという異様ないでたちで喜多藤にむかった。
 悪天であったが、百人からの参加者が二階の大広間をうずめる盛会であった。
 祝宴がすすんだ。外はますますひどい降りである。杯をかわしながら、ふと外をみると、対岸の瀬古口の堤防をこえて濁流は波を立てて奔流していた。
 一人立ち、二人立ち、会場から人数が減っていった。私は、亡くなった市橋武助君と腰をおちつけて、さしつさされつしていた。しかし、ついにはじっとしていられなくなり、ふたたび服をぬいで風呂敷に包んだ。
 喜多藤の玄関を出るとき、水は腰までついていた。喜多藤では家財を二階に運ぶのにやっさもっさであった。
 水かさは秒をきざんで増加した。福喜多眼科と垣本家に挟まれた路地の入口まできた時、水はもう胸まできていた。しかも、すごい勢いで流れている。
 この路地は幅一メートル足らず、両手を両側の軒にあてて押し流されるのを防ぎながら進んだ。風呂敷包みは首にくくりつけてあった。
 福喜多眼科の家を過ぎたところで、片方は家がなくなり、片方はノッペラボウの軒である。手を支えるものはない。押し流されるように二、三十メートル進んだところに福島さんの家があった。さいわい、入口があいていたので、助かったと思って飛びこんだ。
 母親と小学校へ入ったか入らないかの男の子との二人暮らしである。
 「中さん、助けて」という母親の声が私の耳をついた。この家には二階がない。水はすでに床上いいかげんなところまで来ている。ズシに逃れるため押入の天井を抜こうとしているのだが、なかなか破れない。そこへ私が飛びこんだのである。
 五、六十センチの鉄棒で、曲がった先が釘抜きになっている道具がある。名称は知らないが、これを使って、酔っているからだからありったけの力をふるって、押入の天井を破った。
 そして、ここからまず男の子をズシにあげ、間に合うだけの着物を二人がかりでズシに上げ、さいごに二人が上がって、とにかく落ちつくことにした。
 十一時か十二時、やっと水が引いたようなので家に帰った。帰ってみれば、わが家はまた大変だった。
 小学校一年か二年の長男は、誰かに負われて平尾の親戚上村家まで、濁流をついて避難したそうだし、家内は四、五歳になった女の子を抱えて孤軍奮闘したそうである。二階の、雑然と荷物が放りだされた僅かのすきに蒲団をしいて寝ていた。むろん、眠ってはいなかった。
 伊勢湾台風の日の思い出である。

 「下巻」刊行

 「上巻」の発行年月は昭和三十五年三月五日となっている。前年九月の伊勢湾台風被災からの復興に、市民挙げて奮闘している最中であった。
 製本した部数はたしか七百であった。一千部作ろうかとも思ったが、売れ行きについては、かいもく見当がつかないので、大事をとって七百部に止めた。
 出してみると案外の好評で、なんということなしに売れてしまったように思う。これに力を得て「下巻」の原稿を書きつづけた。「下巻」は近・現代編で、明治以降の分である。わずか百年ほどの間のことだから、資料には事欠かないと思えるが、実はそうではなかった。いちばん残念だったのは、町村合併にさいし、旧村役場は戸籍簿や土地台帳のような基本的なものは別として、ほとんどの記録類を廃棄してしまったことである。行政的には保存義務のない書類かも知れないが、そういうものの中にこそ貴重な資料がひそんでいるものなのだ。
 とくに、昭和十五年に合併した蔵持村、薦原村、箕曲村については、村役場から引きつがれた書類は皆無であった。明治以降の村の重要事項の日誌である「沿革史」など、法律上作成を義務づけられた書類だから、当然なければならぬはずだが、これすらも引きつがれていなかった。資料不足のもどかしさは「上巻」の時と同じであった。
 原稿は出来るずつ工場へ渡した。「上巻」との間にあんまり時間の隔たりがあってはならぬと思ったからである。それでも、「下巻」が出来上がるまでに一年以上かかった。奥付によると、発行は三十六年五月二十五日になっている。
 失敗だったと思うことが一つある。「上巻」と「下巻」を別々に、一年も間をおいて出したことだ。「上巻」を買った人は当然「下巻」も買ってくれるはずだが、これの追跡がうまくいかなかった。「上巻」を買ってくれた一部の人には、まことに申し訳ないことだが、「下巻」をとどけることは出来なかった。「上巻」と同様なくなってしまうはずの七百部のうち、若干は端本として今でも伊和新聞社に残っている。
 『名張市史』上・下二巻は、今からみればおはずかしいような拙著だが、これが伊賀におけるまとまった市町村史として最初のものであった。これと前後して『上野市史』が出版されたが、名は市史でも、体系的な歴史になっていない。しかし、その後は各市町村でも郷土史の編纂ブームがおこり、伊賀七市町村のうち独自の市町村史を持っていないのは上野市と島ヶ原村である。
 伊賀町、青山町は昨年刊行をすませ、大山田村、阿山町では目下編纂作業が進められている。

 出版記念会

 『名張市史』の出版記念会は「下巻」刊行直後の六月か七月に開かれた。会場は伊和新聞社の印刷工場階上の和室大広間、百二十人ほどが参会して下さるという盛会であった。上野市からも村治円次郎先生はじめ三十名ほどの先輩・知人が駆けつけてくれた。
 発起人は北田市長、永岡茂之市議、上野中学同窓会辻安茂支部長、市文化財調査委員長豊永徳之助、伊和新聞岡山実社長、こういった人達が名前をつらねて下さった。
 これ以前にも名張には著書を刊行した人がたくさんおり、その度ごとに内々の祝いがなされたことだろうが、これほど大がかりな出版記念会はこれが最初だろうと、いっそう感慨を深くした。
 この盛大な記念会を発起してくださったのは、さきに書いた五、六名の人であるが、これを発想したそもそもの発起人は現市長の永岡市議であった。
 『名張市史』は原則としてどこへも寄贈しなかったが、伊賀出身の川崎秀二、中井徳次郎の両代議士だけは贈った。このことが、はからずもこの出版記念会の機縁となったのである。というのは永岡氏は川崎代議士の支持者で、名張後援会の会長の立場にあった。この永岡氏が陳情か何かに上京して、川崎事務所を訪れた。
 この時のことである。
 国会議員会館の川崎秀二氏の事務所の机の上に『名張市史』上下巻が置かれていた。これを指さしながら、川崎氏は永岡市議に、
 「これの出版記念会をしてやったか」
 と尋ねた。
 永岡氏が「いいえ」と答えると、
 「これほどの大事業を地元は黙っているのか。大いに顕彰してやらねばならん」
 と、声を大きくして言った。
 永岡氏が東京から帰って、さっそく私にこの話をしてくれた。これがきっかけとなって、盛大な出版記念会が開かれるにいたったのである。
 私の事業に対し、これ程の理解を示してくださった川崎代議士であったが、政治的立場の違いから、選挙にさいしては全くお役に立つことはできなかった。しかし、同氏もこのことをよくのみ込んでいて、後年江戸川乱歩記念館のことでいろいろお世話になるようになった時、私にむかって、
 「君とは党派はちがうが、この事業だけは超党派でいこう」
 と、よく言われた。
 自家用車はそれほど普及しておらず、“飲んだら乗るな、乗るなら飲むな”など交通安全標語なんか全く縁のない時代であった。ビールと酒で会場ははずんだ。
 この会場を裏方として手伝ってもらったのは久保次郎、福井信也の両君である。
 久保君は今は市議会事務局長であるが、当時は事務局の若い職員であった。
 福井君はいま蔵持小学校の先生である。当時は名張小学校にいた。
 この人は、名張高校を卒業して伊和新聞の記者に入り、昭和二十六年六月、私が同社に入っていらいの知友である。二十九年の初夏、私が血を吐いて桝田病院に入院する姿をみて、まもなく三重大学(旧三重師範)の教員養成所にいき、修了後南牟婁郡の三木里小学校に赴任した。紀勢本線が開通する前で、舟で行かねばならぬへんぴなところと聞いた。
 ここまでは知っていたが、それからの消息は知らなかった。
 この福井君が三十七年の春、名張小学校へ転任してきた。八、九年ぶりで再会したわけだが、
 「中さんが、もうとっくに死んでいると思っていた」
 このごあいさつには痛みいった。しかし、これも無理のない感慨であったろう。彼が最後に私をみたのは、私は蒼白い顔色をして喀血している最中の姿である。抗生物質による薬物療法は普及せず、結核は死病というふうに一般に信じられていた時代である。よもや私が治っているとは思われなかったのだろう。
 さて、祝宴がすんで一同が引き上げていった後、この両君に手伝ってもらって会場の跡始末だ。銚子や瓶の底に残っている酒やビールを大きいバケツの中へ、ジャージャーとあけた。
 「もったいないのう」
 両君とも、むろん私をいれて、この道では相当なものである。料理屋などで飲む時は、一滴でも残すのは勿体ないとばかり、銚子の底をしぼるのに、バケツで捨てるのはなんとももったいない限りであった。
 ようやく会場を片づけ終わった時は、外はもう暗かった。三人で平尾の「ふくべ」に走った。「ふくべ」は今は西脇君の経営だが、その頃は家の持主保田氏じしんの経営で奥さんが店に出ていた。
 あくる日、気がつくとポケットの中に奥さんからのお祝いの袋が入っていた。ご夫妻、四日市でご健在と聞く。
 こうして、出版記念会をトリに『名張市史』の仕事はいちおう完結をみた。七年前、桝田病院の病床で、「できなければいつでも止める」という軽い気持でかかった仕事が、だんだん“小水がかかって”ここまで来てしまったという感である。
 この間に、いつのまにか結核もなおっていた。ほんとうに「いつのまにか」である。桝田医師の治療証明もないのに、勝手に病院を出てしまった。その年月もはっきり覚えていない。とにかく、入院→退院→再入院→退院という過程が五年ほど続いた。
 こんなわけだから、上野保健所の結核予防法適用者の名簿にはいつまでも私の名が残っていた。
 十年ほどは毎年一回保健所の人が検査をうけるよう勧告に来た。「もうなおっている」といっても保健所の人は「医者からまだ全治証明が出ていない」と言っていた。
 もしかすると、今でもなお保健所の名簿では“結核患者”であることかも知れない。

 名張民俗研究会

 『名張市史』の出版記念会も盛大にやってもらったし、「出来なければいつでもやめる」という頼りない気持で始めたこの仕事も、どうやら恰好がついた。
 「市史」の仕事をしている途中から、私の心のなかに、「これがすんだら民俗の研究をやってみよう」という、隴を得て蜀を望む意欲がわいてきた。
 民俗も郷土史の重要な一環であり、これをやらないでは、郷土史の一角に大きい空洞ができるように思えた。名張市の民俗については、方言にかんする断片的な研究や祭礼の特殊神事などが若干紹介されているだけで、これというまとまったものはない。これの調査を本格的にやろうとすれば大がかりな組織が必要である。そんなことは今の名張市ではとうてい望みうべくもない。
 せめて民俗行事だけでもと思ったが、それでも最少のカメラマンの協力が必要である。
 榊町に東田というカメラ屋があった。ある日、この前を自転車で通りかかると赤井虎雄君が店に来ていた。店主東田君、赤井君とも日写連の会員であることを知っていたので、この人たちに協力を求めては、と自転車をおりた。
 日写連というのは朝日新聞系統の写真愛好者の団体で、名張支部があり、木屋町の医師釜本正憲氏(故人)が支部長をしていた。
 いずれは、このメンバーにも頼まなければならないが、まず赤井、東田両君をくどきおとさねばと、店先で話を始めた。民俗研究会というのをつくって、名張の民俗を調べたい、というのが私の趣旨であったが、両君には“民俗”ということばからして耳に新しく、腑に落ちなかったらしい。私じしん民俗にかんする未熟な知識をしぼって説明にあたり、これの研究が地方文化を推し進めるためにも非常に重要であるゆえんを説いた。
 やっと両君にわかってもらって、「やってみよう」という返事にこぎつけた。両君から日写連のメンバーに話してもらって、たちまち数人の会員ができた。釜本支部長はじめ山本孝教、小川和郎、市橋和男、菊住清次らの諸君であった。
 昭和三十七年一月四日の夜、メンバーが喜多藤に集まり、名張民俗研究会のささやかな発会式を挙げ、釜本氏を会長に推した。
 まず、手始めの仕事は一月六日の夜の宇流冨志禰神社の宵鍵と翌七日早朝の檀の鍵引きだった。手分けしてカメラ班が取材にいく段取りだが、檀の鍵引きは午前二時ごろに来いと地元の桐本一男氏から連絡があったので、前の晩にタクシーを予約しておいて、とくに起きてもらった。
 五日の夜は伊和新聞社の恒例の新年宴会だ。二階の大広間を会場に、社員のほか社長岡山家の親戚も招待することになっている。私のちょうど横にすわり合わせたのが滝之原の吉岡さんである。鍛冶町の中島家をつうじて岡山家の親戚にあたる。
 盃をかわすうちに、吉岡さんがこんな話をしてくれた。
 「一月九日に、滝之原におもしろいことがあるのや。いちど見にこないか」
 「おもしろいって、どんなことや?」
 「弓を引く祭や」
 民俗研究会という立場で、この簡単なことばが私の頭にピンときた。
 これは行かねばならないと、会員に連絡し、全員が同行することになった。区長の田中さんにあらかじめ連絡してあったので、わざわざ滝永製菓店の二階の座敷を控所に借りての接待で、これには恐縮した。
 取材は午前中の的づくりや弓のつる張りなどの準備から夕食の“祝座”までまる一日がかりであった。
 これがいわゆる“若子祭”である。今では市の文化財(民俗資料)に指定され、当日は新聞記者やテレビまでかけつけるというほど有名になっているが、その当時はほとんど世間に知られず、滝之原だけがひっそりと伝えている伝統的な行事であった。
 仕事の手始めに、この“発見”は会員の士気をふるい立て、活発な活動への引金となった。


初出 「名張新聞」1979年12月2日−1981年4月26日(名張新聞社発行)
掲載 2001年10月18日