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 三重県史編纂室(1)

 名張民俗研究会をつくった前後、私は三重県史編纂室に入ることになった。手もとにこんな辞令書が残っている。

  中 貞夫
   三重県史編さん事務を委嘱する(非常勤)行政職3等級に決定する
   月手当金一四、〇〇〇円を給する
   県民室勤務を命ずる
     昭和三十六年十二月一日
    三重県知事 田中覚

 現在明治村に移築されている県庁舎を改築することに決まった時、田中知事は記念事業として三重県史を編纂することを企画した。そして、つぎのような執筆者を内定した。
 三重大学助教授・服部貞蔵、文学博士・大西源一、三重大学助教授・中田四朗、三重大学教授・家令俊雄、三重県立博物館長・松島博、三重県文化会館長・中山春男
 そして執筆補助者として三重県文化財専門委員・森田利吉氏といった顔ぶれである。いずれも、三重県における第一級の歴史研究者である。私なんか、もともとこんなところへ仲間入りする筋合ではなかった。というのは、県下には各地とも郷土史研究者の数は多いが、県史の執筆はそうした“地方的”な研究者を入れず、もっぱら“中央的”な学者によることになっていた。だからこそ、上記のような錚々たる顔ぶれをそろえたのである。私のような片いなかの一研究者など物のかずではなかった。
 ところが、その私が森田氏とならんで“執筆補助”という肩書で異例の執筆陣入りをしたのだ。
 これには、こんないきさつがある。
 昭和二十五年ごろ、いま夏見で錦鯉店を経営している島藤正男君と亡くなった吉崎という人が名張で「三奈時事新報」という週刊新聞を始めた。三十年ごろであったか、この新聞の記者として喜田孜という青年がどこからかやってきた。出身は南牟婁の新鹿だが、名張へやって来たいきさつについては何も知らない。連れてきた細君と別れて、市役所に勤めていたC女とねんごろになり、結婚した。
 いつ頃だったかはっきりしないが、「三奈」が廃刊になったので、私は喜田青年を伊和新聞に入れた。記者としての才能はゆたかであったが、からだは丈夫なほうではなかった。ときどき頭が痛いといっては休んだ。この喜田君が、どんなつてだったか知らないが伊勢新聞に入った。住まいも名張から津の方へ移った。県史の話はここから始まる。
 この喜田君が私に「伊勢新聞の編集局長にならないか」という話を持込んできた。
 伊勢新聞社の内情については何も知らないが、ゴタゴタ続きで、編集局長も欠員のようだった。
 私はかねがね伊勢新聞について一つの意見を持っていた。もともと三重県の地方紙であるべきこの新聞が全くローカル性を欠き、共同通信社あたりから買った原稿ばかりで、まるで全国市の亜流に堕していた。これでは存在の意味がない。もっと三重県内の記事で紙面を充実しなければならない、というのが私の意見であった。喜田君もこの意見には大いに共鳴であった。私が編集局長になって、この意見を実現できるとすれば大いに働きがいがあると思い、私は喜田君の奨めにのった。
 しかし、返事はなかなか来なかった。社内における喜田君の発言力はどの程度のものか、それなりに工作していてくれたのだろうが、複雑な社内事情はそう単純にはいかなかったようだ。
 そこで、私は伊勢新聞に密接な関係にある田中知事をわずらわそうと思い、その斡旋をたのむため県庁に岩本明農政課長を訪ねた。岩本課長は、終戦直後県農協連の結成準備室にいた当時からの知人である。県農協連ができるとその職員になり、田中知事が初めて知事選挙に出た時は、中軸部にあって選挙運動を推進した。田中氏が当選すると同時に秘書課長に抜擢された。そして、いまは農政課長にうつっていた。

 三重県史編纂室(2)

 「伊勢新聞に入るのもよいが、入る以上はひとつ箔をつけてはいってはどうか」
 これが“知恵者”岩本君の意見であった。
 「箔をつけるとは?」
 私には意味がピンとこなかったので、尋ねた。
 「名張ではね、君も少しは知られた人間か知らんがね、津へくれば知名度ゼロだ。そこで一つ県庁へきて県の仕事を一、二年やる。そしたら、県でこんな仕事をやったということになって、箔がつくわけだ」
 「それも、そうだな。伊勢新聞はそんな話があったから乗っただけで、絶対のものでもなければ、そういそいだことでもない」
 私には伊和新聞の編集という現職はあるし、伊勢新聞はいそいだことではなかった。
 「ところで、そんな仕事があるかね」
 「うん、君さえその気があるのなら、知事に話してみるがね」
 ここで、岩本課長の口から県史の話が出た。
 「県庁舎の新築記念として三重県史を刊行することになっている。もう編纂委員もきまっているんだが、君も名張市史を完成したことであるし、何らかの形でここへもぐり込んだらどうか」
 私には願ってもない話だったが、
 「うまく入れるだろうか」
 「知事に話してみるよ」
 田中知事とは初選挙いらいの関係であるし、「名張市史」に序文をいただいた関係もあって、私のことはよく知っていてくれる。そこへ、“重臣”岩本課長の進言だから話はうまくいったのだろう。
 暫くして、十二月一日に知事室まで出てこいとの公文書が届いた。
 その日、ご老体の大西源一博士だけは不在だったが、ほかの先生方はみな顔をそろえ、いちばん初めに書いたような辞令書を知事から受取った。
 思えば、伊勢新聞に来ないかという喜田君の一言が、ヒョウタンから駒が出たような結末を私に運んだ。
 辞令書には「非常勤」とあったが、これは自宅で執筆する先生方のことで、私には毎日出てきてほしいとのことであった。
 編纂室は県庁から二、三百メートルほど離れた県立博物館の館長室に置かれた。
 なにしろ、いま明治村にいっている県庁舎は明治十二年の建物で、職員さえはみ出しそうな窮屈さである。編纂室を置くような寸分のすきまもなかった。
 館長室もそれほど広くなかったが、館長の松島博先生が県史の編纂委員長なので、ほかに適当な場所がないし、何かにつけて便宜だろうというので、ここに決めたという話である。
 館長の机の前に五つの机が並べられた。編集事務の中心に立つ県民室の伊東久一氏(現姓真弓)、女の臨時職員、それに“執筆補助”という名の森田利吉さんと私。この五人が常勤のメンバーであった。
 これだけで部屋はいっぱい、石炭をくべるダルマストーブがすぐ私の横にあって、熱くてたまらなかったが、ストーブを動かす余地がなかった。館長室といっても博物館の本館なのでない。横に建った簡易な建物で、学芸員のいる部屋と館長室と用務員室のある粗末な一棟であった。
 弁当箱をもって、毎朝七時何分かの電車に乗った。通勤ラッシュで津までだいたいは立ちどおしであった。
 考えてみると、毎朝、きまった時間に家を出て、きまった時間に職場に入り、一日中机に座って、時間がくれば退出する。こういう生活は私には生まれて初めての経験であった。若い時から三つ四つの“勤め先”を持ったが、帰りの時間がわからないかわりに、朝はわりあい自由というところばかりだった。
 朝早く起きるのはつらいというのではない。私は早起きのほうだから、七時何分かの電車に乗るのは何も苦にならなかったが、型にはまったような毎日は何となく肌に合わなかった。
 伊和新聞の仕事は津から通っている浅野尹世君が主にやっていてくれるので、私は毎日津通いができたわけである。

 三重県史編纂室(3)

 県史の執筆は時代別に次のように分担された。
 原始・古代編 三重大助教授・服部貞蔵
 中世編 文学博士・大西源一、三重大助教授・中田四朗
 近世編 三重大助教授・中田四朗、三重大教授・家令俊雄
 近代編 県立博物館長・松島博
 現代編の執筆者は未定であった。
 昭和三十六年十二月一日の午前、知事室で田中知事から県史編纂委員の辞令を受けとって、一同は県立博物館へ行き、編纂室になった館長室で第一回の編集会議をひらいた。
 大西博士といい、三重大学の家令、服部、中田先生といい、三重県史学会の最高峰である。親しくお目にかかるのは初めてだったが、「名張市史」を書くのに、著書を通じ、あるいは論考を通じて、学恩をこうむっている先生方である。こういう先生方と机をならべて県史の編纂事業に参加するのは、私にはひじょうな感激であった。反面、私の浅学がよくこの事業についていけるのだろうかという不安も大きかった。
 編集会議は毎月一回、定期に開かれた。編集会議といっても、県史上のある問題について、討論して統一見解を出すといった、そういう実質的な内容のある会議ではなく、いうなれば顔合わせで、執筆の進行状況を語り合うという程度のものであった。
 森田利吉氏と私は弁当持ちで常勤であったが、この二人には具体的な仕事が与えられなかった。すぐ目の前の館長席にすわっている松島編纂委員長に「何をしましょうか」と聞いても具体的な返事はなかった。事務局長の伊東久一氏に聞いても委員長の指示待ちという態度であった。
 手持ち無沙汰をまぎらわすのに、さいわい、この編纂室に「三重県史稿」が持ち込まれていたので、これでも読むことにした。
 「三重県史稿」は明治九年に三重県が発足してまもなく県庁内で編纂されたもので、学事とか警察とか行政部門別に編纂してあり、和紙に毛筆書きで、一冊の厚みは七センチぐらいであった。これが全部で何十冊かあった。(十年あまり前、この全部が東京の巌松堂書店からマイクロフィルムにして発行された)
 読むといっても、この大部のものを丹念に読むというのでなく、名張に関した記事はないかと、それに視線を合わせてページを追った。読むというより「名張」の字を探すといった具合だった。
 全体を通じ、名張地方に関する記事が少いようだったが、道路の部で、明治の初年、初瀬街道の小波田越えをめぐって新田村と阿保村の間におこった紛争がかなりくわしく書かれていた。
 実はこの紛争に関する断片を、新田の中内節氏が所持されており、「名張市史」の執筆にあたって、それを借用して次のように書いておいた。
 「新田村の儀は元来荒蕪の地を開拓仕り半農半商の者共に御座候。今更断然行旅を絶ち候てはこの上の糊口に苦慮仕り候も余儀なき事に御座候。
 十月晦日
 三ノ小区
 阿保・古山戸長役場
 というのがある。年次は不明だが「小区」の廃された明治十一年以前のものである。初瀬街道から外れては新田村の死活問題だというので陳情に及んだのだろう」
 これが「名張市史」下巻に書いた全文である。これでは何のことかわからない。実はこの事件は新田経由の初瀬街道を、阿保側が平担でしかも距離の短い小波田越えに変更してほしいと県に陳情したのに対し、新田側では死活の問題であるとして反対した、こういうことに関する紛争で、さいわいこの「三重県史稿」のおかげで市史改訂版ではこの事件の全貌を紹介することが出来た。
 こんなわけで、毎日の勤務時間は「県史稿」から名張を“発掘する”ことに終始したが、中には明治初年の県下における士族の授産事業など、名張には関係ないが、ひじょうに興味をもって読んだ部分もあった。
 松島館長は碁は四段か五段の腕前であった。館長室の隣りは宿直室で、碁盤を置いてあった。弁当がすむと館長に誘われて一局に及んだ。四目おいても押されがちであった。県庁に勤めている弟さんはもっと強いそうで、県下でも名うてのアマの打ち手だという話であった。

 三重県史編纂室(4)

 編纂室にかよい始めて二か月ほどした時、松島編纂室長から私が分担する仕事についての指示をうけた。それは本書に収録する「付図・付表・年表」の作成という仕事であった。
 命令だから、やらないわけにはいかないが、内心、これは困ったと思った。えらいことになったぞ、まるで雲をつかむような仕事で、何を、どこから、どう手をつけていいのか、まるで見当がつかなかった。
 付図とか付表とかは、本文を書いていくにしたがって、必要となったものを作っていくのが本来である。ところが、全然本文とは関係なしに(本文は先生方が執筆中で、内容は全然わからない)作成するというのだから、見当がつかないのも無理はなかろう。
 年表にしたところでそうである。
 私も『名張市史』を書いた時、年表を作って巻末につけた。この経験はあるのだが、こんどはいささか様子がちがっていた。
 『市史』の場合は、本文ができ上がって、その本文の中から項目を拾って素稿をつくり、これを基礎に、他の項目から必要項目を拾い集めて付け加えていくという方法であった。ところが、ここでは本文にまったく関係なしに、独自に三重県の年表を作るというのだから、私の能力をはるかに超える難事業であった。
 仕事に順序を立てるわけにはいかない。頭のなかがカラッポだから、順序も何もあったものでない。
 よしっ、手当りしだいにやってみよう、そのうちに道は開けてくるだろう。
 こう腹をくくった。
 ここから先は、ほんとうに手あたりしだいであった。付図について、こんな地図も必要だとの考えがわくと、その地図を書く。付表について、こういう表が必要だろうと頭にうかぶと、その関係の資料をあさって地図にする。謄写版ずりで、郡別の線を入れた三重県の白地図を作って、ここに書きこむことにした。年表については、目につきしだいの書物を読んで、日付の入っている項目をカードに記入した。
 何をやるかは、まったくその日の心まかせであった。いま地図をつくっているかと思えば、そのつぎには年表の資料をあさっていた。
 いま『三重県史』を取り出して、どんな付表や地図を作ったのかと振りかえってみると、なかなか色々なものを作ってある。中には、どうしてこんなことが調査できたのだろうと、われながら感心するものもある。
 たとえば、「郷名表」や「神宮・式内社」一覧という表がある。前者は『和名抄』、後者は『神宮要覧』をみればすぐわかることで、苦労はなかったことだろうが、「元和五年ごろの大名配置表」とか「藩時代藩主交替表」とかいうのも作ってある。これなんか、どんな資料によったのかも思い出せない。今これをつくれといわれると、とてもじゃないが出来ないだろう。県立図書館で『南紀徳川記』(書名は、はっきり覚えていない)という大部のものを一冊ずつ目を通したことも、いま思い出される。これなんか、牟婁地方における藩主の交替を調べるものだったのだろう。むろん、これは本を”読む”というていのものではなかった。目を皿のようにして、必要項目をさがしていく。まさに“ページを繰る”という仕事であった。だから、書かれている内容は全然頭に入らなかった。またそれでよかった。
 世の中には三重県の郷土史を研究する人が多い。学者も多い。しかし、三重県に関する書物に一番多く目を通したことでは私も人後に落ちないと思っている。しかしそれは、手にし、ページを繰ったというだけの意味で、さきほどいったように、読んだという意味ではない。
 県議会の事務局から明治以後の議事録を借り出して、初めからしまいまで目を通した。ひじょうに味気ない仕事であったが、これなんかも年表に必要な項目を拾い出すためだったのだろう。いまから思えば、ぞっとするような話である。

 市議選挙

 ひょんなことから市会議員の選挙に立候補することになった。
 三十七年七月二十三日の晩のことである。花火の前日だったから、よく覚えている。
 社会党代議士の中井徳次郎氏が中町のヲワリヤに来ていた。ここの女主人、今は故人となった福田美千代さんは、いうなれば名張における中井代議士の婦人親衛隊長といったところで、この晩も五、六人の婦人が二階の座敷で中井代議士をかこんで懇談していた。ビールを飲みながらだから、堅い話ではなく、新しい“婦人親衛隊員”の顔つなぎででもあったのだろう。
 そこへ、私はとんとんと上がりこんだ。中井代議士にも、女主人にも、なんの遠慮もいらない仲であった。私はいそがしくビールのコップを傾けた。
 この年はちょうど名張市の市議の改選にあたっていた。八月の中頃には告示があるはずである。名張の社会党では、それまで三期ほど出ていた吉田静男氏(故人)が引退して、あと誰も出ないというふうであった。
 「なあ、徳さん」
 中井代議士とは上野中学からの知り合いなので、こう心やすく呼ぶことにしていた。
 「名張の社会党もあかんのう。市会議員ひとり、よう立てんことでは」
 私は新聞記者の視点でこう批判した。徳さんはどう返事したか覚えていないが、その次に私のもらした一言は、とんでもない結果を引きおこした。
 「おれひとついってみようか。社会党公認でな」
 どこまで本心だったかわからない。たぶんビールのせいも手つだっていたのだろう。
 これに対し徳さんの返事は直截明瞭だった。
 「よしっ。いけ。五万円カンパしよう」
 こうなっては、後へひかれない。わずか三十秒ぐらいの対話で、立候補がきまってしまった。
 「これから夏秋さんのところへ行って、了解を得て来るわ」
 こういって、私は座敷を飛びだした。
 新町の医師夏秋忠雄氏は社会党の名張支部長をしていた。これまた懇意に願っている仲なので、かけつけざま事のしさいを話した。
 この突然な、あまりにも突然な話に、夏秋支部長もしばし呆然のようすだった。
 「いちおう支部会議にはかろう」
 ということになった。
 当たりまえのことである。当時、私は社会党の党員でもなんでもなかった。まず、入党手続きからしてふまねばならなかった。さいわい、すべての手続きはスムーズにはこんだ。
 さて、立候補となると県史編纂室にかようことは出来ない。少くとも一か月は休暇をとらねばならない。それだけ仕事はおくれる。
 松島編纂委員長と伊東久一事務局長に、おそるおそる事のしだいを話して、八月いっぱい休暇を願い出た。それこそ、おそるおそるであった。案のじょう、二人は渋い顔つきであった。私もいちおうは非常勤の県庁職員となっているので、休暇は手続きの上でもちょっと面倒くさいことがあるようだった。
 それでも、結局はこの無理を聞いてくれることになった。七月三十一日まで勤めて、八月一日から一か月間休むという許しが下りた。
 八月一日、いよいよ戦闘開始である。告示まで二週間あまりだ。
 私は一代の古びた自転車をたよりに、市内を走りまわった。自動車はない。単車もその頃は乗っていなかった。自転車は唯一の機動力だった。
 夏のさかりで暑い日がつづいた。炎天の下を汗だくで、少しでもひっかかりのある家は、市内くまなく訪問した。
 組織の力としては、社会党公認だから支部の応援と、名張民俗研究会のメンバーたちの献身的な協力があった。
 告示になってからは、社会党県本部から借り出した宣伝車で、走りまわった。
 こうして、とにかく投票の日を迎えた。開票してみると、当時は市議の定員二十四名で、私は十九位で当選していた。

 大西博士逝去

 市議選がすんで、九月一日からまた県史編纂室に通いはじめた。
 私が休んでいる一か月の間に、悲しい出来事がおこっていた。
 三重県郷土史界の最長老であり、編纂委員の一人であった大西源一博士は、私が休んでいるうちに亡くなっていたのである。むろん新聞に出たことだろうが、選挙中はろくに新聞を見なかったので、事務局長の伊東さんから、このことを知らされたのが初耳であった。相可(おうか)の自宅で盛大な葬儀が営まれ、編纂委員を代表して伊東さんが参列して下さったとのことである。
 三重県郷土史の開拓者としての大西博士の貢献については、私ごとき末輩が今更ちょうちょうするのは僣越のいたりであるが、私じしんこの先覚者から受けた学恩には測り知れないものがある。
 初めてお目にかかったのは、編纂委員会の顔合わせの時であり、それから二、三回、月例委員会で同席したのが最後になってしまったが、昭和二十九年、本稿の最初の部分でも述べたとおり、私がヤミクモで名張市史に踏みこんだ時、最初の手がかりを投げてくれたのは石母田正氏の『中世的世界の形成』であったが、次にはこの大西博士の一論考であった。
 上野市立図書館から借り出した『伊賀史談会々誌』の綴じ込みの中から見出した「神宮と伊賀国との関係」という論考である。昭和九年十二月発行である。
 『中世的世界の形成』では、名張と東大寺とがひじょうに重大な関係にあることを知り、また、この論考では伊勢神宮との間にも極めて密接な関係のあることを教えられた。
 しかし、たいへん生意気なことを言うようだが、この論考は私には大きい導きの灯りであったとはいえ、中に一、二の疑問点があった。
 それは、名張川の「アユ取る淵、簗さす瀬」である。『倭姫命世記』には伊賀国造が「細鱗魚(アユ)取る淵、梁さす瀬」を皇大神宮に供したとある。また、『皇大神宮儀式帳』に「朝夕の御饌に供え奉る年魚(アユ)取る淵、梁さす瀬一処、伊賀郡にあり」との一節がある。この二つの文章を比較して、大西博士の論考は「ここにいう伊賀郡とは実は名張郡の誤記である」と解釈している。
 むろん、伊賀郡の長田川上流でもアユがとれるが、伊賀において最もアユが多くとれるところは名張川であるから、名張郡が本当だろう――と論証されている。
 これ以上の証拠のないことだから、この解釈が正しいかどうかは決めようのないことながら、しかし、この「アユ取る淵、梁さす瀬」が伊賀郡にあっても少しも差支えはないと、その時も思い、いまも思っている。
 博士も言っておられるように、長田川の上流、いまの青山町阿保のあたりは今でもアユの好漁地で(むろん名張川ほどではないが)、毎年稚アユを放流している。しかも阿保には古代からの神田があり、これまた神宮と密接な関係のある土地である。また、阿保に頓宮が設けられていて、都から神宮への要路にあたり、こういう意味で、神宮との密接度は名張以上に深いともいえる。ただ、アユがたくさん取れるというだけの理由で(しかも古代における漁量はどちらも不明)、「名張郡の誤記」としていいものかどうか。
 編纂委員会の合い間にでも、もう一度意見を聞いてみたいと心中ひそかに念じていたのであるが、そのよすがもなくなってしまった。
 余談だが、二、三年前、私が執筆した『青山町史』では、「アユ取る淵、簗さす瀬」は伊賀郡であり、しかも阿保付近の清流であると断じておいた。
 さて、大西博士がなくなって、博士の分担されていたのは「中世」であったが、筆の早い博士はもうちゃんと脱稿されていたということである。
 今もしょっちゅう『三重県史』をひっぱり出して参考にしているが、そのたびに博士の執筆された「中世第一章・武士の世」のページに目をやっては、いまは亡き博士の学徳を偲んでいる。

 県庁舎竣工

 原始・古代編の服部貞蔵先生といい、中世・近世編の中田四朗先生といい、近世編の家令俊雄先生といい、おのおの専門分野なので、執筆は順調に進んでいるらしかった。
 私の年表作成も、どうやらコツをおぼえて、わりかしスムーズに進んでいた。県庁書庫、県立図書館、三重大学図書館をはじめ県下の公立図書館も一とおり回った。
 一つの思い出ばなしがある。毒ブドウ酒事件の奥西勝に関してなのだ。
 松阪市に永井源という弁護士の長老がいた。長いあいだ県会議員をしていた人である。この人の実家が波瀬(たしかにこう覚えている)にある。ここに古い伊勢新聞が保存されているというので見せてもらいに行くことになった。
 ちょうど奥さん同伴で帰郷するというついでの日に連れていってもらう手はずがととのった。
 その日、まずお宅へ寄って、そこから自動車に乗せてもらった。波瀬というのは、もう少し行けば国見峠というところで、一時間以上かかったように思う。
 当時、毒ブドウ酒事件は第一審公判の過程で、永井弁護士は奥西勝の弁護人として無実を主張している最中であった。私は名張だというので、車の中で奥西がシロであることをいろいろの角度から話してくれた。その中で今でもはっきり覚えているのは次のことばだった。
 「奥西はね、君、事件の四、五日まえ松崎町の薬屋でコンドームを買っている。あれほどの事件を計画した男ならね、いまさらコンドームも必要ないじゃないか」
 こういう事実も無実の立証資料になったのかどうか知らないが、とにかく一審は無罪になった。
 控訴審のときは、たしか永井弁護士は亡くなっていた。もし生存していたら、控訴審はどんな展開をみせていたことだろう。
 さて伊勢新聞の方は、私は明治時代のものを期待していったのだが、保存されているのは大正以降のもので、ご厚意はありがたかったが、期待には十分こたえてもらえなかった。
 話をもどして、県史のほうだが、先にも言ったように、執筆は近代編まできめてあったが、現代編(戦後)はきめてなかった。これをだれにするかという段になって、中田先生から私にという声があったが、固くお断りした。私にはそれだけの知識がないし、分担の年表さえ期限に出来るかどうかあやぶまれている始末である。けっきょく、これは県文化会館長・中山春男氏ということにして、執筆は各部課の職員が当たるということになった。
 編纂委員室は三十八年三月末で解散するというのは当初からの計画であった。とにかく、三十九年の県庁舎落成式までに書物にするというタイムリミットがついているので、遷延は許されなかった。
 その三月末がやって来た。だが、私の原稿はまだ完成していなかった。じつは、編纂室は閉鎖しても、原稿の締切りには数か月のゆとりが見られていた。四月からは自宅で仕事をつづけることにした。
 伊東事務局長に原稿を渡したのは、たぶん三十八年の九月ごろだったと思う。やれやれと、ほっと一息ついた。印刷は東京の大日本印刷だったが、校正などはいっさい関係なかった。
 県庁舎の落成式は三十九年の、たしか六月何日かであった。私にも案内はあったが、差しつかえがあって出席できなかった。
 知事の感謝状は、県会議員の稲森登さんがことずかってくれた。稲森さんは、その前年の四月に初めて県議選に当選してほやほやの一年生議員であった。それから連続当選で、いま五期目に在任中というから、ずい分年月がたったものである。

 図書館建設運動

 昭和四十一年の九月か十月のことであった。ある日、とつぜん富永貞一氏から電話がかかって、こんや中京相互銀行の二階の会議室まで出てきてくれとのことであった。用向きは何のことか、富永さんは言わなかったし、私も聞かなかった。こんなことは、毎度のことだったからである。
 富永さんは、いまは故人となっておられるが、名張新聞社の社長富永英輔氏のお父さんである。その頃、名張小学校を最後に学校をやめて、名張駅前の自宅で自転車預かり業をはじめていた。いまの富永ビルのところである。
 中京相互の二階には会議室があって、市民に開放というほどのことではないが、頼めば気持よく貸してくれることになっていた。
 言われた時間に出て行くと、富永さんはもうお茶のまわりなどをしていた。
 集まった顔ぶれは、上島英義、岡村成二、山村文彦らの四、五人だったと覚えている。
 富永さんの持ち出した話は、市立図書館をつくる運動をはじめようということであった。さいわい電々公社のあとがあいている。あそこを図書館にしてもらおうではないかということであった。
 とやかく論議の余地はなかった。こんな話には待っていましたと飛びつく連中ばかりである。
 いま上八町にある電報電話局は、もとは今の図書館のところにあった。電話のダイヤル化に伴って現在のところへ移ったもので、跡地は市が譲渡を受けてあった。建物もそのままで、空屋になっていた。
 市としては、手に入れたものの、さしあたってここをどうするという計画もなかった。当時、百五銀行支店が、本町の店舗は駐車場がないし、ここへ移りたいというので市に買いにきているとの話もあった。
 しかし、市としては電々公社から極安で譲ってもらったものを、土地ブローカーのように、右から左へ売却ということは許されない事情もあった。
 とにかく、ここを図書館にしてもらおうというのであった。
 運動をおこすには、運動にあたる母体をつくらなければならない。母体をつくるとして、その会の名称をどうするかということになった。
 図書館建設ということをむきだしにせず、初めは何々読書会というようなことで発足し、だんだん発展させていったら、という意見は大方のようであったが、私はズバリ目標を明示しようという意見で、けっきょくは「名張市立図書館建設促進の会」という長たらしい名称にきまった。
 これが、こんにちの名張市立図書館が生まれるにいたった、そもそもの発端であった。
 富永さんの提唱によるこの“中京の一夜”がなければ、市立図書館が今日はたしてできていたかどうかも疑問である。
 この時から発起人づくりが始まった。これはと思う人に呼びかけた。
 当時の新聞をひっぱり出すと、促進の会が正式に発足したのは十一月で、発起人として次のような顔ぶれが並んでいる。
 池田良造、井上裕雄、北橋美智子、杉森武、高野香洋、辻森虎雄、寺島新一、中内節、辻敬治、富永貞一、上島英義、中貞夫、山村文彦、岡村成二
 会長は上島英義氏で私は副会長、富永、高野、井上の三氏が事務局を担当している。高野氏はいまの図書館長、当時は中央公民館にいた。井上氏は京都府総合資料館(府立図書館もこの中に含まれる)の収書課長で図書館の大ベテラン、会の顧問格であった。
 運動の推進にあたって、三つの目標を掲げた。
 一、市立図書館を建設しましょう。
 一、電報電話局跡を図書館にしましょう。
 一、図書館に本を贈りましょう。
 このスローガンを書いた大看板を五、六枚つくり、市内の要所に建てた。とくに駅前の富永さんの“番小屋”前に建てたものは、人目を引いた。“番小屋”というのは、富永さんは店の前に一メートルぐらいの木の小屋を建て、ここで自転車預かりの仕事をしていた。自ら称して“番小屋のあるじ”であった。

 図書館建設運動(続)

 促進の会が提唱した市立図書館建設運動は、市民のあいだに大反響をよびおこした。
 名張青年会議所が行ったCD計画の市民の意識調査でも、市民の要望は市民病院についで、二位が図書館であった。
 婦人会では一人一冊運動をおこして、会員一人が書物一冊を提供するという運動を全市的にまきおこした。
 こんなエピソードがあった。会長の上島氏が開いている医院の前に、ある朝、かなり大きいダンボール箱が置かれていた。開いてみると、匿名の図書寄贈であった。団体といわず、個人といわず、図書館建設熱がこれほども燃え上がっていたのだ。
 当時の日刊新聞の記者諸君も誠意をもってこの運動に協力し、ちょっとしたことでも大々的に報道してくれた。私が主宰していた新聞『新名張』も、まるで促進の会の機関紙のような恰好でプロパガンダに努めた。
 ところが、市民のこの熱意とはうらはらに、北田市長は、この運動にきわめて冷淡であった。
 市会議員の中で図書館建設について熱心な発言をつづけたのは、ただ一人小山勝美議員であった。ときどき市長から「促進の会の回し者か」と冷笑されていた。
 議員のなかには堂々と図書館不要論を主張するものもいた。「そんなものをつくるより電々公社の跡は売却して金にせよ」と極論を吐くものもいた。
 しかし、一年二年とますます盛り上がる市民運動は、とうとう北田市長を「これは何とかせねばならない」と思わせるところまで追い上げた。
 そして、ついに「三年間の暫定措置として電々公社跡に図書館をつくる」という決意をさせるまでになった。
 議会の了承を得るのに北田市長もだいぶ苦労をしたようだが、とうとうそれにも成功し、図書館設立の件が正式に議会で決められた。
 こうして“中京の一夜”から足かけ四年目の四十四年七月、現在の図書館が開館したのである。
 一年がたった時点で入館者の数が県下の公立図書館の中でも上位にあることがわかった。
 北田市長はしみじみと私に述懐した。
 「図書館建設をいよいよ議会に提案する時はビクビクものだったよ。いちおうの了解はとりつけてあったのだが、どこから、どんな反対が飛び出すか、わかったものでない。しかし幸いにして満場一致で賛成を得ることができた。しかしだね、開館してからが、またビクビクものだったよ。もし利用者が少なかったら、議会から“それ見たことか”といわれる。まあ、よかったよ」
 北田市政二十年、いろいろ実績の多い中で、文化面での実績としては、少しひどい言いかたのようだが、図書館開設だけが唯一のものでないかと思っている。しかし、この唯一のものが、北田市政が生みだした住宅地開発政策の結果、こんにち“新住民”がどんどん増える道程で、文化都市の名をささえられる有力な柱になっていることを思えば、北田市長の英断には今でも頭が下がる思いである。
 とにかく、市民運動によって図書館ができたという例は全国でもめずらしいケースらしかった。
 その後、津市においても、県立図書館はあるが市立図書館がない。県立と市立ではおのずから機能もちがう、市立図書館を建てようという運動が市民のあいだで起こっているとの話は聞いたが、その後の進展についてはまったく耳にしない。
 北田市長は初めに電々公社は三年間の暫定と言明していたが、十年からたった今でも“暫定”はつづいている。
 市の計画によれば、五十六・七年度で名張地区公民館を建て、図書館は五十八年度に改築ということである。
 それにしても、促進の会の起爆者であった富永貞一先生が今や故人となっているのが惜しまれる。


初出 「名張新聞」1979年12月2日−1981年4月26日(名張新聞社発行)
掲載 2001年10月18日