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 郷土資料室

 昭和四十四年七月四日、この日は小波田の福田神社に建てられた観阿弥記念碑の除幕式の日であった。残念ながら、これには出席できなかった。というのは、高野香洋、岡村成二両君といっしょに東京へ行っていたからである。
 図書館は、この月の末に開館されることになっている。開館しても書物がなければ話にならぬ。
 当時手もとにある書物としては中央公民館図書室にあったものと、市民の贈書運動によって提供されたものだけである。
 そこで、開館を前に書物を買いに行こうということになったのである。
 館長は荒木教育長の兼務、実務の方は高野君が担当することになっている。岡村君は商売柄東京の書店界にくわしい。そんなわけで三人が“本買い”ということになったのである。
 東京書籍か日本出版か名前は忘れたが、早稲田大学の近くにある大きい取次店の倉庫に籠って書棚をしらみつぶしに漁って、三百万円か四百万円かの書物を仕入れた。予算をオーバーして、高野君があとで処理に困ったということを聞いた。あくる日は神田の小宮山書店へ行って、『平安遺文』など歴史にかんするものを手あたりしだいに買入れた。とにかく、ゼロに近い状態から書物を漁るのだから、何を買ってもダブる心配はなかった。
 なぜ特に歴史の書物に目をつけたかというと、名張の図書館に何か一つメダマをつくろうということで、そのメダマとして郷土資料を取り上げたのである。
 とくに、名張は黒田庄という日本史の上での重要な史的事象をもっている。黒田庄のことは名張の図書館へ行けばわかる、ここまで発展させると、日本中の図書館で名張の図書館だけがもっている素晴しいメダマになる。
 こういう発想から郷土資料の充実ということを市立図書館の指標の一つとしてとらえた。
 電話局時代には何に使っていた部屋か知らないが、一階の隅の小さい部屋に「郷土資料室」という札を掲げ、書架も置いた。そして、私は郷土資料室の嘱託として、この方面の仕事をすることになった。
 しかし、書架がからっぽでは恰好がつかない。私は、乏しい蔵書ではあったが、郷土資料に関するものは一切合切ここへ寄贈することにした。
 私としては、いちおう『名張市史』を刊行したことではあるし、手もとに置いておく必要もあまりなかろう。図書館へ出しておけば、少しは人の役に立つであろうし、自分も使おうと思えばいつでも使える。こういう考えであった。
 これが郷土資料室の発足であった。
 それから十年あまりたつ。
 郷土資料室の現在の充実ぶりは、まったく驚くというよりほかない。今後ますます充実していけば、初めの発想どおり立派なメダマになることは疑いない。
 高野館長がひじょうに力を入れていることも、充実のかげの支えである。
 郷土資料は「名張」「伊賀」「三重県」「荘園」「その他」に分類しているが、とくに荘園にかんする書物については、「短時間によくもこれほど」とよそから来る研究者が感心するほどである。県下の公立図書館の中でも名張市立図書館といえば、注目の話題になっているそうだ。
 今のところ、まだまだ不充分そのものだが、ほかの図書館には、とくに蒐集に力をいれているところはないから、名張がクローズアップされるのだろう。
 ことに、この郷土資料室で注目されるのは、奈良県関係のものに重点の一つを置いていることである。名張の歴史は、今は同じ三重県でも伊勢との関連においてよりも、大和との関連において発展してきた。だから、名張の歴史を調べる場合、どうしても奈良県との関係が必要になってくる。
 奈良県立図書館の郷土資料室主事広吉先生が、「奈良県下の公立図書館よりも奈良県に関する書物をたくさん持っているのではないか」とお世辞をいわれたこともある。
 書物になっている資料だけでなく、どこかの家に眠っているナマの資料の蒐集もこれからの仕事の一つである。

 『改訂名張市史』

 『名張市史』の上巻を刊行したのは三十五年三月、下巻の刊行は一年あとの三十六年五月であった。この間に一か年のズレのあったことは、たいへん不都合な結果を来たした。
 上巻を買ってくれたところへは、かならず下巻が届くはずである。買うほうも上下巻を合わせてのつもりだったから、当然下巻の入手を期待してくれたことに違いない。ところが、事務的にもぬかりがあって一年間というズレは、上巻購読者の追跡を十分やれない始末に追いこんでしまった。
 上巻は一年間のうちにほとんど品切れになってしまった。同じ数をつくったのだから忽ち無くなってしまうはずだが、たくさんの残品ができた。
 せっかく下巻を待っていて下さった方にはたいへん悪いことをしたと思っている。しかし、予約金はもらっていなかったので、その面でのご迷惑はかけなかった。この点では気苦労が少なかった。
 図書館ができて、郷土資料室が生まれたのを機に、ひとつ書きなおしてみようかという気がおこった。第一には、一冊のものをつくりたかったのである。上下分冊にはこりている。次に旧著をふりかえって、記述の不充分なところもあるし、また一方にゼイ肉的な部分もある。これのバランスもはかりたかった。
 時たまたま京都のある復刻出版社から旧著を復刻させてくれないかとの依頼があった。これには私も痛みいった。あんなものが復刻に価するのかと、われながらびっくりした次第である。
 しかしまあ、そういうこともちょっとした心の励ましになって、執筆にかかった。一千ページの書物をつくるとして、四百字詰原稿紙で二千枚以上の原稿を書かねばならない。それでも八ポイント活字でぎっしり詰めた旧著にくらべると、量的には少ないようだ。
 何年かかるかわからないが、先はいそがなかった。出来る時できたらいいとのんびりした気持であった。
 こんなわけだから、いつ脱稿したのかもはっきり覚えていない。朝日新聞の春海記者が出来上がった原稿を机の上に積み上げた写真をとって大きくのせてくれた。
 原稿は出来ても、自費出版というのはこれからが大変である。印刷費をつくるという仕事がつきまとう。
 ちょっとしたきっかけで大阪のDという印刷社に頼むことになったが、見積りをとってみると一千部で五百万円である。仕事に着手するにあたって半額の二百五十万円ほしいとのことであった。あとは納品の時というのが条件であった。
 八千円で売ることにして予約金三千円をもらって予約を募集するという方法をとった。北田市長の協力もあって、とにかく二百五十万円がまとまった。
 組版の仕事は順調に進み、いよいよ印刷という時になって、大変なことが持ち上がった。例のオイルショックで紙がなくなり、大阪中探しても紙は見つからないというのである。印刷社では東京へ探しにいって間にあうものを使うことになった。
 納品を受けたのは四十九年の三月であった。
 予約者に配本し、後金をもらって、印刷社への支払は何とかすませた。
 その後もぼつぼつ希望者があって、いま手もとに残っているのは三十か四十である。これが無くなると、いくら希望者があっても応じることはできない。
 これくらいは手もとに置いておいて、将来、ほんとうに欲しいという熱心な研究者のために備えるべきではないかとも考えている。
 私の願いは、拙いながら名張市で初めて試みたこの通史を踏み台として市史の研究が、より深められ、より高められて、第二、第三のすばらしい市史が一日も早く生まれてくれることである。

 『宇陀川二千年史』

 昭和四十年の室生ダム分水反対運動に始まり、四十八年の宇陀川用水事業完工までの足かけ九年間、この画期的な事業を一貫して指導したのは冨山信夫君であった。はじめの半分は分水反対期成同盟の委員長として、あとの半分は宇陀川用水土地改良区の理事長として苦闘精励を尽した。不幸にして天寿を全うすることは出来なかったが、まれに見る人材だった。
 この冨山君が、四十七年の末ごろであった。用水事業はすでに完成して四十八年五月十二日に竣工式を行うという段取りまできまった時である。
 「竣工式に関係者に配る記念誌のようなものを書いてくれないか。君に頼むよりほかに、手がないのだ」
 ということである。
 よしきた、とばかり二つ返事で引きうけた。私としては、仕事の内容をひじょうに簡単に考えていたのだ。分水反対運動と用水事業のことなら、私も直接目にしてきたし事務所には資料も充分そなわっていることだろうから、それを整理して文章にすればいいのだろうぐらいにしか考えなかった。
 ところが、思いもよらない大変な仕事であることが後でわかった。
 分水問題は室生ダムに始まったことではない。じつは、大正年間に奈良市に本社を置く関西水力電気株式会社が宇陀川の水を榛原から初瀬に引き発電所をつくる計画を立て、すでに県知事の許可をとり、中央官庁で審議中というところまでいっていた。
 これを阻止するため錦生村民は分水反対運動に立ち上がった。その先頭に立ったのは冨山君の祖父茂輔であった。
 法律も行政も、何も知らないいなか者が、中央官庁を舞台に阻止運動を展開するには言語に絶する苦労があった。まさに血みどろといっていい苦闘が五年間つづき、ついに発電計画を断念させることができた。(祖父と孫、二代が分水反対にたたかったのも、なにか因縁らしいものを感じさせる)
 この前史を書かなければ分水反対の記録は生きてこない。
 ところが、である。さらにこれには前史があるのだ。
 明治二十年に、奈良県側が分水工事発起人というのをつくり、農業用水のため宇陀川の水を初瀬川へ引く計画を立て、安部田・黒田・結馬・井手・矢川五か村との間に協定をとりつけ、補償金四千円で分水する約定がちゃんとできていた。
 いまから考えると、命についで大切な水利権をいとも簡単に分与した心理はわからないが、この折衝には夏見の県会議員深山始三郎が介入していた。
 トンネル工事は始まった。榛原側と初瀬側とから掘り出したが、中央で大きい岩盤に出あい、当時の技術ではこれを取り除くことはできなかった。そのうちに資金が切れ、工事は挫折した。
 岩盤のおかげで宇陀川の水は安泰を取り戻した。ほんとうに危ないところだった。
 ところが、さらにこれには前史がある。宇陀川の分水計画はすでに江戸時代に始まっているのである。
 幕末のころ、山辺郡の中村直三という老農が宇陀川からの引水を計画し、同志を集め、いざ実行というところまでいっていた。だが、この計画は維新の動乱で立ち消えになってしまった。
 このように、室生ダム分水については、幕末からこのかた百年にわたる前史が秘められているのである。
 私には、意外や意外というところだ。しかし、この前史を解明しないでは、室生ダム分水の歴史的背景は明らかにされない。これを調べる資料は果たしてあるだろうか。
 そして、更にである。
 奈良県側がなぜこうも宇陀川の水に執念を燃やしてきたのか。これを知らなければ、分水を渇望した歴史的意味はわからない。それには、奈良県の農業用水の水利環境を知らなければならない。
 考えれば考えるほど、執筆範囲が前へ前へとさかのぼって行く。

 『宇陀川二千年史』(続)

 どうせ遡るのなら、いっそのこと、宇陀川流域に農業の始まった弥生時代までさかのぼろうと、とんでもない野望をたて、書名『宇陀川二千年史』と自分できめた。これは依頼者冨山君にとっても、意想外であったにちがいない。
 さっそく執筆にかかった。弥生時代から古代を経て黒田庄はなやかであった時代のことは、分水関係の資料がなくても書ける部分であった。
 分水関係の資料を手にしたのは、四十八年のエビス祭の日である。錦生連絡所内にあった土地改良区事務所で、主任の山口長四郎君がまとめておいてくれたものを受けとった。
 この中には冨山家に保存されていた大正年間の分水反対運動のくわしい資料が埋まっていた。
 この資料を明るみに出すことができたのは、ひじょうに貴重なことであった。後のことであるが、奈良県庁が吉野川分水事業の完成を記念して、その記録を一冊の書物にまとめた時、ついでに宇陀川分水のことも書いておこうということになり、その参考資料として『宇陀川二千年史』はひじょうに役立った。大正年間の分水事件のことは奈良県側にはまったく残っていなかったからである。このことは後になって、吉野川分水記録の執筆にあたった奈良県立図書館の広吉さんから聞いた話である。
 さて、話は前後したようだが、『宇陀川二千年史』は、今から思いだしてもゾッとするほどの荒作業であった。
 なにしろ、具体的な資料を手にしたのは二月八日、竣工式は五月十二日と決められている。それまでに書物にせねばならない。それには原稿はいくら遅くても三月末には書き上げねばならない。
 昼夜兼行ということばはあるが、そんなわけにはいかない。夜になればやはり晩酌の一本も飲みたくなる。飲めば眠くなる。
 一方で新聞の仕事もほっておくわけにはいかない。どういう時間のやりくりをしたのか忘れたが、とにかく書いた。しゃにむに書いた。そして、とにもかくにも、四百字詰原稿紙で三百五十枚ほどの原稿を三月いっぱいで書き上げた。むろん、中には公文書などナマのものをそのまま載せる部分も相当あった。
 われながら“よくもできた”とあきれるほどであったが、この裏には山口長四郎君のなみなみならぬ助力があった。彼は精力的に資料を集め、それを整理して私の手もとへとどけてくれた。
 印刷は大阪の南大阪印刷センターというところへ頼むことにした。五月十二日というタイムリミットをきびしくいって、何がなんでもそれに間に合わせるよう確約の上で頼んだのである。
 ぼつぼつ校正が出はじめた。冨山君、山口君、そして事務所に勤務していた大甚印刷の娘さんらと印刷所へ通った。
 こんなわけで、どうやら竣工式に間に合わせることができた。竣工式は錦生小学校の講堂でおこなわれた。
 それからもう八年になる。冨山君今は亡く、大甚の娘さんは上野に嫁し、山口君は建設部長におさまっている。

 『木津川史』

 『宇陀川二千年史』の刊行はちょっとした連鎖反応を呼びおこした。
 建設省木津川上流工事事務所の吉本貞一さんが見えて、
 「村田所長の発案で木津川上流史という本をつくることになった。伊賀の東部を流れる木津川のことは上野高校の福永正三さんに頼んできた。あなたはひとつ名張川水系を受けもって頂きたい」
 「まあ所長さんにお目にかかって、くわしいことをお聞きしましょう」
 ということにした。
 吉本さんも所長も私には初めての人であった。
 村田所長といえば、いまの堤所長の前の前の所長である。木屋町の工事事務所を訪れて、この人に初めて会った時、意外な話を聞かされた。
 『宇陀川二千年史』を開いて、一枚の写真を指し、これが僕ですよ、と言われた。
 一〇九ページである。挿絵に二枚の写真がのっている。室生ダム分水反対同盟の一団がネジ鉢巻で大阪地方建設局へ談判に行った時の光景である。
 一枚はネジ鉢巻の一団が部屋を埋めている光景、一枚は南部河川部長が声明か答弁している写真である。その部長の横にすわって、一生けんめいに記録をとっている人を指して「これが僕ですよ」と言ったのである。たぶん課長か係長の時だったのだろう。
 この村田所長が、木津川上流史を発想された動機というのはこうである。
 「宇陀川二千年史を拝読しましてね、宇陀川に百年来の分水と反対の歴史のあることを知ってびっくりしましたよ。反対同盟といろいろ折衝のとき、この歴史を知っていたのならもっと別の対応のしかたもあったでしょうね。行政には、やはりその土地の歴史を知ることが大切ですね」
 そこで、この事務所が管轄する木津川上流の歴史をいちおう把握するというのが、村田所長の胸のうちであることがわかった。
 仕事としてはなかなか面白いと思って、引受けることにした。
 原稿の量は四百字詰で五百枚、締切は五十年九月末という約束である。
 事務所では車はいつでも出すということなので、先ず水系の現地を見てまわることが第一だと思って、私がひまのあるたび車を出してもらった。
 一口に名張川水系というが、まわってみるとなかなか広いものである。
 下流からいうと、まず大和高原がある。高山ダム―月ケ瀬―広瀬の左岸に広がる高原である。ここには遅瀬川、笠間川、予野川というような支流が流れている。
 名張市内のことはわかっているとはいうものの、名張川の本流をさかのぼっていくと美杉村(太郎生)があり、御杖村がある。
 青蓮寺川をさかのぼると曽爾村がある。
 この時はじめて知ったことだが、名張川の本流というのは御杖村に発して太郎生、比奈知を流れる川筋が本流だそうである。
 片や西を向けば宇陀川がある。これをさかのぼれば、いわゆる口宇陀盆地がひろがっている。宇陀川本流というのは榛原から大宇陀町に流れているのがそれで、莵田野から流れてくるのは芳野川という支流であることもはじめて知った。
 これだけの広域を一括して説明することはとうてい無理なので、これを地形によって四つに分け、大和高原、名張盆地、口宇陀盆地、奥宇陀盆地のテーマで調査を進めることにした。
 私が車でまわる時には吉本さんと、まことに失礼ながら何とかいう若い技師がいつも同道してくれた。

 『木津川史』(続)

 『木津川上流史』を執筆している最中に、とんでもない仕事が飛びこんできた。
 昭和五十年の、たしか六月か七月のことであった。私が市教育委員会の事務局へ行くと、ちょうど北森教育長が電話にかかっていた。私の顔を見るなり、
 「ちょうど、本人が来た。かわるよ」
 といって、受話器を私に渡してくれた、相手は誰かと聞くと、青山町の滝悟教育長とのことであった。何用かと思って、あいさつすると、
 「青山町史のことについて、近いうちおうかがいする」
 という用向きであった。
 青山町史については、津市在住で私の旧知の三重県郷土資料刊行会の倉田正邦君が依嘱をうけて編纂に着手し、十人ほどの執筆分担で、私もその一人に充てられていた。これほども進んでいるのに、あらためて教育長から私に話があるというのは、ちょっと解しかねたが、とにかく来てくださいと返事した。
 数日後、図書館で滝教育長の来訪をうけた。びっくりしたことに、四、五人の一行であった。はじめての顔ばかりであったが、あとで聞くと町教委の蓮池正美課長、西出弘係長、若山町教委、岩島町文化財委員という面々であった(一、二、記憶ちがいがあるかも知れないが)。
 来意の焦点は、私に一人で青山町史を執筆してくれないか、ということであった。倉田君のこともあったので、その点どうかと聞くと、あの話はすっかりご破産にして、一から出直しとのことである。
 青山町史の刊行は青山町発足二十周年記念事業として企画されたものだが、その二十周年というのは昭和五十年のことで、もう来てしまっている。
 ふつうなら、二十周年の年に書物が出来上がってはじめて記念事業といえるのだが、青山町の記念事業(の一部)は、二十周年目に発足するという形であった。
 一千万円以上の予算を確保するのに町議会の決心も長びいたという事情もあったらしいが、そんなことはともかくとして、出来るか出来ないかの決定が私の目の前につきつけられたことになる。
 「私には出来そうもありませんな」
 と、ひとまずは断った。儀礼的に謙遜して断ったのでなく、実際に私には出来そうもなかった。
 青山町のことは未知の世界だから、イロハから勉強を始めなければならない。少くとも十年はかかる仕事である。“今から十年!” 年齢から考えても、とうていこんな気の長い仕事には耐えられそうにない。
 「あんたのほかには頼む人がいない」
 と持ちかけられても、尻込みの方が先に立った。
 「とにかく、いま私は建設省の依頼で木津川上流史というのを執筆している。これが脱稿するまで、返事を待っていただけないか」
 と猶予を乞うた。
 せっかく来ていただいたのに、こんな返事で申し訳がなかった。
 ところで、建設省の原稿は約束どおり九月末に脱稿することができた。福永氏の原稿も少しおくれて出来上がった。しかし、この時には村田所長は琵琶湖の事務所に転勤で、逸見所長が後任として着任していた。この人は、どういうわけか刊行ということにはソッポを向いていた。そのうちにまた所長がかわって、現在の堤所長が来任してみえた。
 三年あまり所長室の戸棚のなかで眠っていた原稿を刊行に踏み切ったのはこの人である。村田所長の転勤がもう一年おそければ、とっくに書物になっていたであろうに、役所というものはいろいろの事情があるものらしい。
 とにかく、原稿を印刷にまわして、ゲラ刷りが上がってきた。これをみて私も福永氏もアッと驚いた。すでに転勤してしまったN調査課長の手で、原稿が至るところで大量に消されていたのだ。執筆者の了解なしに、原稿を勝手に抹消することはありえないことだが、いまさら組直すわけにもいかず、これが役所の仕事かと、福永氏と二人で不平満々ながらも我慢することにした。
 『木津川史』という書名で刊行をみたのは昨年の三月である。

 福永正三氏

 木津川上流工事事務所の依頼で福永正三氏と二人で『木津川史』を執筆したことは、つい前号書いたばかりだが、その福永氏の葬儀に参列しなければならないとは、あまりにも意外であった。
 福永氏が寝ていると聞いたのは、ことしの正月が明けてからであった。病名もはっきりしなかった。とにかく、金石文研究会としてお見舞しなければと、高野香洋、福地龍夫両君と三人で桔梗が丘の氏のお宅を訪ねたのは、一月の末であった。
 病気はジンゾウとのことであった。
 昨年の暮れ、上野市民病院に入院した。その後の経過を元気な声でこう語った。
 「こちらが承諾していないのに、病院では手術しようときめていたのではなかろうか。検査、検査の連続で、まるで検査のために命がなくなるのではないかと思うほど苦しかった。それで、勝手に退院してしまった」
 こんないきさつがあったようである。帰ってからは調子がよい。
 「病院にいれば苦しい。家へ帰ればよい。こんなことがあっていいのか」
 病院への不信を投げつけていた。
 「足のむくみもだいぶん減った」
 と、わざわざ蒲団から足を出してみせてくれた。
 どう見ても、危険を感じさせるような容態ではなかった。
 つぎの金石文研究会の例会には顔を出してくれるだろうと、気安に思っていたところへ、亡くなったとの知らせである。高野君と二人でかけつけた。
 奥さんの話によれば、三日ほど前から食欲が減退して、意識もおかしくなったそうである。下からの出血もだいぶんあったようだ。
 最後に、娘さんがかけつけて、「誰かわかる」と聞いた時、じっと見つめて、かすかにうなずいた、ということである。
 「これからは本当に自分の仕事をしようと、計画をたくさん持っていたのに」
 と、奥さんのことばである。
 『秘蔵の国』の好著はあるが、私たちとしても次の著述に期待するところが大きかった。
 上野中学を出て、師範の二部に行き、小学校の先生になって出征、復員してから立命館大学に学び、高校の先生はほとんど母校上野高校に終始した。その教職から解放され、いよいよこれからが“自分の時間”となった時、天命はそれをゆるさなかった。
 金石文研究会としてもじつに有能な会員を失った。道標の研究者で、伊賀中を歩いて、土の中に埋もれた道標を一本一本探しだし、くわしいデータを作っていた。これが私たちが企画する『名張金石文集成』の重要な内容となるところであったが、氏じしんの手でなく氏の遺産としてこれをいかさなければならなくなった。
 福永氏はまた市文化財調査委員でもあった。
 葬式の帰り、社会教育課文化係長の奥田正昭君が、しょんぼりともらした。
 「僕は昭和五十二年に文化係へ入ってから、文化財委員の葬式はこれで五人目ですわ」
 指をくると冨森盛一さん、中川喜二郎さん、吉田静男さんなど、なるほど五人目である。
 「六人目はオレか」
 と言おうとしたが、やめた。

 『青山町史』

 『青山町史』の話は、福永正三氏の訃報のため一回中断したが、ためらっていた私が、とうとうこの仕事を引受けるようになったのは、滝教育長のことばからであった。
 「資料の蒐集はぜんぶこちらでやる。それを整理して、文章にしてくれるだけでいい」
 というのである。
 歴史の書物をつくる場合、資料の蒐集は九〇%で、執筆は一〇%ぐらいの労力の配分である。
 その九〇%の仕事をあちらでやってくれて、私が一〇%だけを受持つというのだから、たってと頼まれるのをことわることはできなかった。
 こんないきさつで、五十年九月二十三日、第一回の編纂委員会を開くはこびになった。これまでに町当局では一年あまりかかって、町民に町史をつくる趣旨などを説明して理解をもとめる工作をすすめていた。
 さて、編纂委員会の構成だが、五名の文化財委員がぜんぶ編纂委員になった。文化財委員長の稲岡忠夫氏を編纂委員会の会長に推し、その他の顔ぶれは吉村一雄、丸井隆二郎、秋永孝太郎、岩島清の四氏、ここへ私が特別委員として加わった。
 事務局は教育委員会の職員で、西忠弘君を係長に、内田秀弘、沢芳子両君を係員とした。沢さんは皇学館大学を出たばかりのお嬢さんで、町史のために特に来てもらった臨時であった。とにかくこの三名が町史専門にあたる職員として、苦労を共にすることになったのである。のち内田君が他課へ変わったので、西、沢の両人だけが最後までがんばった。
 第一回の委員会で、私が作成した目次の大綱をしめし、これが承認されて、これを軸に資料の蒐集にかかることになったのである。
 編纂委員の中では、とくに岩島氏の努力がたいへんだったらしい。西君とまるで二人三脚のような状態で蒐集に奔走されたらしい。
 はじめ滝教育長から「五年ぐらいで出来るだろうか」と相談があったとき、私は確たる成算もなしに、「五年では長すぎる。三年間でやってしまわねば」といったことで、三年後の五十三年九月に執筆を完了し、五十四年の三月に印刷製本を完成するという工程が立てられた。
 事務局からは次から次からいろいろな資料が運び込まれた。
 しかし、資料表に作成できない資料については私が出向かなければならなかった。たとえば、明治二十二年以来の阿保、上津、種生、矢持の議会議事録、これは合併後青山町役場に集めて保存しているのだが、これなんかは役場にとじこもって一冊一冊見て行くよりほかはなかった。
 名張でも経験したことだが、文書の保存はまるでなっていない。議会の議事録なんか正確に保存しておくべきはずのものだが、これにも見落しが多かった。種生村はわりあい成績がよく、上津村はほとんど無にひとしかった。
 歴史探究の資料というのは近現代に最も多く、近世、中世、古代とさかのぼるにしたがって、だんだん薄くなるものだが、案のじょう青山町の歴史も、中世にいたって資料は皆無に等しくなっている。
 この点、名張とはだいぶん趣きが変わっている。
 名張の場合、古代後半から鎌倉時代にかけては黒田庄文書が残っているので、荘園の面から名張地方の模様を推しはかることが出来るのだが、青山方面では、たぶん荘園に分割されていたはずだが、領主として文書に現れているのは伊勢神宮と石清水八幡宮だけにすぎない。
 奈良時代、飛鳥時代までさかのぼると、資料不足は一段と目立つ。
 困難に直面した一つは、大和の都から伊勢神宮への道路の考定である。阿保に頓宮が設けられ、ここから一志郡の川口(現白山町)へ越えたのは確実であるが、阿保から川口へどの道を通ったのかがはっきりしない。また高尾か霧生を通過したことはわかるが、これが青山越えに変わったのはいつのことか。大西源一博士も平安初期といわれているだけで、つかみようのない問題であった。

 『青山町史』(続)

 青山町には有名な伝説が三つある。
 阿保の息速別命(いこはやわけのみこと)陵、種生国見の吉田兼好塚、高尾の藤原千方窟、この三つである。
 地元の人は深くこれを史実と信じこんでいる。長いあいだ、これが史実として語りつがれてきたのである。地元の人の心の中には、これが史実として、また“お国自慢”の一つとして、生き生きと息をしている。
 息速別命陵は皇子陵として宮内庁の管下にあるし、兼好塚は地元では保勝会をつくって保存と顕彰につとめている。また千方窟は千方大将軍という神にまつっている。
 これほども深く地元民の心に焼きついた“史実”を、これは伝説ですといって、あっさり片づけていいものかどうか。歴史的に割切ろうとすれば何でもないことだが、地元民の感情とのかかわりあいにおいて、扱いに苦労した。
 史実であるような、伝説であるような、しかしやはり史実ではない。というまわりくどい表現をとらざるを得なかった。
 さて、五十二年の春がやってきた。いよいよ、ことしの九月末までに全部を脱稿する約束のタイムリミットである。それまでにも、原稿は出来たずつ渡し検討してもらっていたのだが、千数百枚におよぶ原稿のほとんどはこれからの執筆にかかっていた。
 これを実行するため、私は経営していた新聞『新名張』を廃刊することにした。時間の余裕をつくるためだけではなかった。一年あまり前に相棒の政本肇さんが亡くなって、続刊が経済的にも肉体的にもむずかしくなっていたという事情もあった。四月の最終号で「文債を完済するために」という理由で廃刊のあいさつをした。
 この時、まったく偶然と言おうか、『伊和新聞』の記者をしていた倉田博義さんが退社して、編集陣にアナがあいた。岡山社長の話で、私がこのアナを埋めることになった。
 『新名張』をやめて『伊和新聞』へ、ということになれば意味のないことのようだが、中味ではたいへんな違いがあったのである。『新名張』では編集のほか営業いっさいをやらねばならないので身をくだく忙しさであったが、『伊和新聞』では記事を書くだけという仕事なので、時間のゆとりには天と地とほどの差があった。
 上本町の新田屋は私の行きつけである。ここで正味一合入りのガラスビン一本か二本をかたむけるのが常習のようになっていた。さいきん市教育委員になった野村拓君も常連の一人である。
 「あんなに飲んでいて青山町史はできるのだろうか」
 と心配していてくれたそうだが、新田屋で飲むのは実は栄養薬みたいなもので、いくら飲んでも、あくる朝は三時、四時に起きて書いた。書いて、書いて、書きまくったという勢いであった。
 約束どおり、九月末までに全部の原稿を書き終えることが出来た。
 印刷は京都市の日本写真印刷株式会社という大きい印刷屋にたのむことにした。あとは校正刷りを待ち、印刷製本を待つだけである。
 この印刷会社は何とかいう紡績工場を買収したもので、赤煉瓦づくりの昔の建物が一部に残っている。事務所のある本館もその一つで、玄関を入る右側に、窓の下に角石を一つ置いてあった。ここへ上れば、ちょうど窓口に手がとどくようになる。
 この台石は、女工たちが給料をもらう時や事務所と何かの用件をすます時、これに上ったそうである。事務所の中へ足を入れることさえ許されなかった。細井和喜蔵の「女工哀史」や最近の「野麦峠」の世界である。
 この台石一つに“監獄部屋”といわれた日本労働者の歴史の足あとをしみじみと感じた。

 黒田庄への挑戦

 一昨年の十二月から書きはじめたこの駄文も、延々十七か月、富永英輔社長のご厚意でつづいたが、もういい加減で筆をおかねばなるまい。
 昭和三十年からかぞえて二十五、六年になる。ちょうど、名張市が発足したのと同じ年ごろになる。この間に、私は駑馬にムチ打って『名張市史』を書き、『三重県史』の編纂に参加し、『青山町史』を書きおえた。そして、そのすきまを縫うようにして『名張の民俗』(共著)、『宇陀川二千年史』、『木津川史』(共著)をなんとか格好づけた。
 もうこれぐらいで、と思われるのだが、頼まれた仕事が一、二のこっている。角川書店の『日本地名大辞典・三重県編』である。これの地名編で名張市と青山町を引きうけ苦労している。百三、四十の地名について、近世以降の歴史を要約しなければならない。
 も一つ、国書刊行会の「ふるさとの思い出シリーズ」の『名張』というのがある。古い写真百五十枚ほど使って、名張の“思い出”を一冊にまとめなければならない。市役所の広報広聴係長(つい先月までの)今西成和君の助力で写真の採集中である。原稿の期限がとうに過ぎているのだが、出版社には平あやまりの状態である。
 二十五、六年をふりかえって、郷土史というものについて大きく流れが変わったのにおどろいている。二十五、六年前といえば、特別の熱心な人たちだけが、こつこつと勉強しているだけであった。
 その人たちの功績は、名張史の研究を高める上できわめて大きく評価されねばならない。
 しかし、その研究と市民との間に隔絶のあったことは否めない事実のようだ。だが、今では郷土史が市民のあいだに“座”をもちはじめている。
 これには新興住宅地の造成、それに伴う新住民の増大という事実が大きい要因となっていると思うが、郷土史が市民性を身につけつつあるというのが私のいう大きい流れの変化である。
 私が担当している中央公民館の歴史教室が毎年つづいているのも、史談会や史友会に市民の大きい関心が集まっているのも、私はこの現象を“郷土史の市民化”ということばで表現したい。
 こういう流れのなかで、私は生涯をかけた仕事を思い立っている。おおげさな表現をとれば“黒田庄への挑戦”である。
 日本荘園史のなかで主峰的な(あるいは花形的な)位置にある黒田庄については、じつに多くの学者が論究している。だが、石母田正氏の『中世的世界の形成』をのぞいては、局部的な問題について深く掘り下げるという研究であって、学問的に高い価値があっても、しろうとが読んでわかるものではない。
 石母田氏の『中世的』も、戦後の荘園史研究に一時代を画したといわれるほどの名著であるが、しろうとの理解にはほど遠い。
 私が考えているのは、がらにもない学問という領域を離れ、地元の名張市民が読んで、「なるほど、黒田庄というのはこういうものであったのか」という理解を与える程度のものを書きたいという念願である。
 黒田庄の発生から衰滅まで、これは奈良時代から中世末(天正の乱)まで千二百余年にわたる長大な歴史絵巻であるが、これを“市民にわかる”という形で一冊の書物にまとめたい。
 私の“いのち”がこの仕事に追いつかないかも知れない。何時という期限のきれる仕事でもないし、とにかく、やるだけである。
 気の早い私はこの書物に『黒田庄概説』という書名をつけている。
 これをやりとげるまでは、私は死ぬにも死ねない、これが今の私の正直な気持である。


初出 「名張新聞」1979年12月2日−1981年4月26日(名張新聞社発行)
掲載 2001年10月18日