人外境主人敬白2001年10月18日

 「折々の記」は、名張市で発行されていた週刊の地方紙「名張新聞」に、亡父が昭和54年(1979)12月2日号から56年4月26日号まで連載した随筆である。母が入院したときの看病記めいた文章など、ドメスティックに過ぎる部分は割愛した。名張の戦後史にささやかな傍証を添え得るかもしれぬと考え、ホームページに掲載する次第である。明らかな誤記や誤植は訂したが、用字の不統一などはそのままとした。記された人名や年月などの正誤も確認しておくのが本来だが、頼るべき資料が見当たらぬこともあって果たせていない。ご叱正をお願いする。

 亡父の略歴を記すべきところだが、詳細は不明である。「折々の記」には名張に住みついて以来の後半生が回想されているが、それ以前のことには亡父もあまり触れたくなかったのではないかと推測される。ちょうど今年3月、岡山県津山市の津山洋学資料館から亡父の著作『学問の家 宇田川家の人たち』が復刊され、同資料館の下山純正館長から依頼されて奥付に著者紹介を書いたので、その全文を引いておく。

明治40(1907)年8月、三重県名賀郡依那古村(現・三重県上野市)生まれ。県立上野中学(現・県立上野高校)から早稲田大学法学部に進み、中退。出版社アルス勤務を経て、「日本読書新聞」編集長。退職して伝記作家となり、『ガリレイ』『世界の細菌学者たち』『偉人北里博士』『ローベルト・コッホ先生』『杉田玄白の生涯』『洋学者坪井信道』『宇田川家の人たち』『高野長英』『阪本天山』『野口英世』などを刊行。戦後は三重県名張市に住み、郷土史家として『名張市史』『名張の歴史』『名張の民俗』『宇陀川二千年史』『木津川史』『青山町史』などを執筆した。昭和57(1982)年2月没。

 『学問の家 宇田川家の人たち』は昭和18年(1943)、柴山教育出版社から刊行された子供向けの書物で、津山藩の医師を勤め、洋学者として活躍した宇田川家三代の伝記である。津山市の小学校と中学校で、郷土学習の補助教材として利用されているという。刊行から六十年近く、死去してから二十年近くが経過してから、亡父の著作が思いがけず陽の目を見たことになる。

 日本読書新聞に勤めていたことは本人の口から聞いた記憶があるが、アルス勤務については父の死後、佐野眞一さんが月刊誌「BOX」(ダイヤモンド社)の昭和60年(1985)8月号から翌年7月号にかけて連載した「スラップスティックジャーナル・さる業界の人びと」を読んで初めて知った。この連載は昭和62年4月、中央公論社から『業界紙諸君!』として刊行され、昨年1月には同題でちくま文庫に入っている。

 同書によれば、日本読書新聞の創刊は昭和12年(1937)3月。スタッフは業界紙や出版社、書店の出身者からなり、翌13年には書評紙から業界紙へ路線を変更して知識人の離反を招いた。内務省の統制が強まって経営的な打撃を受け、休刊寸前にまで追い込まれたが、昭和16年8月、日本出版文化協会の機関誌として再発足することで命脈を保った。この時点で創刊以来のスタッフは一掃されたというが、その一人が亡父だった。

 亡父の名が出てくる箇所を、加筆訂正の見られる文庫版の『業界紙諸君!』から引用しておく。

 総轄責任者には「新聞之新聞」出身の金田享こと金享粲という韓国人が据えられた。営業部門の責任者には、同じく「新聞之新聞」出身で隻腕ながら営業の辣腕ぶりで業界にこの人ありと鳴り響いていた木下嘉文を置き、編集責任者には、アルス出身で机の引き出しにウイスキーのポケット瓶をしのばせるほど酒好きの中貞夫が就いた。そして最も重要なブックレビュー欄は、東大の出身で牛乳ビンの底のような分厚いメガネをかけた鵜飼某なる人物が担当した。

 同紙が創刊されて間もなく「何の気なしに」入社した大橋鎮子(暮しの手帖社社長)によれば、編集長の中をはじめとする編集スタッフは、昼間から酒を飲んでは卑猥な話に際限なく興じていた。大橋は入社一日目にして「エラいところへ入ってしまった」と、急に目の前が暗くなったという。旬刊タブロイド判四ページの「日本読書新聞」は、こうしたいわばあぶれ者の集団によってつくられ、包装紙がわりの新聞としてスタートを切ったのである。

 これ以外に、「折々の記」以前の亡父の来歴はほとんどわからない。名張に住むことになった経緯もつまびらかではない。東京の戦火を逃れて郷里の上野市に帰り、戦後はふたたび東京へ出る機会に恵まれぬまま、これといった理由もなしに名張に居住したのではなかったかと思われる。

 父が死んだのは昭和57年(1982)2月11日だから、「折々の記」の連載はその十か月ほど前までつづけられたことになる。結びに書かれてある「黒田庄への挑戦」は実現されることがなかったし、角川日本地名大辞典の『三重県』も、担当項目の一部を書いたところで病勢が進行し、父は病床を離れられなくなった。執筆が不可能になったため、残された項目は私がなんとか書きあげて責めを果たした。だから死去の翌年、昭和58年6月に刊行されたこの辞書では、巻末の執筆者一覧に亡父と私の名前が並んで記載されている。

 父が死去した年の秋、私は自宅にワードプロセッサを入れ、切り抜きを見ながら「折々の記」を少しずつタイピングして文章入力を練習した。全文をフロッピーディスクに保存して、いつか私家版で出版してやろうとも考えていたのだが、そのまま時機を逸してしまった。いまさら出版しても意味はないが、ホームページに掲載しておけば、冒頭に記したような何らかの意義が見出せるかもしれない。

 亡父の著作目録を掲げておくべきだといま気がついたが、機会を改めることにしたい。


掲載 2001年10月18日