【い】

伊賀国風土記

地誌 和銅6年(713)以降成立 逸文

 唐琴

 カラコトゝ云所ハ、伊賀国ニアリ。彼国ノ風土記云、大和・伊賀ノ堺ニ河アリ。中嶋ノ辺ニ神女常ニ来テ琴ヲ皷ス。人恠テ見之、神女琴ヲ捨テウセヌ。此琴ヲ神トイハヘリ。故ニ其所ヲ号シテカラコトゝ云也。 (毘沙門堂本古今集註)

 略解

 風土記は和銅六年(713)、元明天皇の命で諸国が編纂した地誌。多くのそれと同様、伊賀国風土記も現存せず、「逸文」の形で諸書に引用が見えるのみである。
 底本は、伊賀国風土記逸文として「唐琴」「伊賀国号(一)」「伊賀国号(二)」を収めるが、いずれも官撰風土記の逸文とは「認め難いもの」であるといい、「参考」として掲げたとしている。
 底本頭注は、冒頭に「前田本(前田家蔵古今集註:引用者注)、この前に「いまは、ことひきの里と云は」とある。三重県名張市名張川沿いの地の如くであるが所在不明。伊賀国をカラクニと呼ぶのと関係あるか」と説く。また、「河」を「名張川」、「皷ス」を「前田本「ことをひく」」、「神トイハヘリ」を「神として祭った」、「カラコト」を「ヤマトゴト(和琴)に対する韓国または唐国の琴の意」とする。

 伊賀国号(一)

 伊賀の国の風土記。伊賀の国は、往昔、伊勢の国に属きき。大日本根子彦太瓊の天皇の御宇、癸酉のとし、分ちて伊賀の国と為しき。本、此の号は、伊賀津姫の領る所の郡なりければ、仍りて郡の名と為し、亦、国の名と為せり。 (日本総国風土記)

 略解

 底本頭注は、「本条は旧事記の記事に近い。次条と共に古代の風土記とは別種の記事と認められる」と説く。また、「大日本根子彦太瓊〔おほやまとねこひこふとに〕の天皇」を「孝霊天皇。癸酉は天皇の御世の六十三年にあたる」、「伊賀津姫いがつひめ」を「次条にアガツヒメとあるが、旧事記に伊我臣の祖大伊賀彦の女、大伊賀姫とある」、「領る」を「領有した」とする。

 伊賀国号(二)

 伊賀の国の風土記。伊賀の郡。猿田彦の神、始め此の国を伊勢の加佐波夜の国に属けき。時に二十余万歳此の国を知れり。猿田彦の神の女、吾娥津媛命、日神之御神の天上より投げ降し給ひし三種の宝器の内、金の鈴を知りて守り給ひき。其の知り守り給ひし御斎の処を加志の和都賀野と謂ひき。今時、手柏野と云ふは、此れ其の言の謬れるなり。又、此の神の知り守れる国なるに依りて、吾娥の郡と謂ひき。其の後、清見原の天皇の御宇、吾娥の郡を以ちて、分ちて国の名と為しき。其の国の名の定まらぬこと十余歳なりき。之を加羅具似と謂ふは虚国の義なり。後、伊賀と改む。吾娥の音の転れるなり。 (風土記残篇)

 略解

 底本頭注は、「本条は倭姫命世記の記載に近い」と説く。また、「猿田彦さるだひこ」を「天孫降臨の先導をし、後伊勢に鎮座した国神」、「加佐波夜かざはやの国」を「伊勢国のこと。倭姫命世記に見える称呼。「神風の伊勢」に類した神風の速い意の名」、「知れり」を「領有する。猿田彦神の領有して来た年数の長さをいう」、「日神之御神ひのみかみ」を「天照大神」、「三種みくさの宝器たから」を「天の逆大刀・逆鉾・金鈴。倭姫命世記に見える」、「知りて守り給ひき」を「領有して奉祭してきた」、「御斎いつきの処」を「祭祀する神聖な場所」、「加志かしの和都賀野わつかの」と「手柏野たかしはの」をともに「遺称とすべきものなく所在地不明」、「知り守れる」を「領有統治している」、「清見原きよみはらの天皇」を「天武天皇。倭姫命世記に天武天皇の庚辰(八)年七月、伊勢国の四郡を割いて伊賀国を立てたとある」、「加羅具似からくにと謂ふは虚国むなしくにの義こころなり」を「伊勢国から分立した当初に国名なく、カラクニと称したとし、国名のむなしい(無)国の意と説明した」とする。


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)