【せ】

瀬田勝哉

昭和17年− (1942− )

 木の語る中世
  2 春日山の木が枯れる
   5 柿と栗と殖栗連えぐりのむらじ
    薦生の栗林

 鹿島の神が二番目に足を止め数か月滞在した伊賀国薦生こもお山(薦生中山)は、時風・秀行が「殖栗連」の名をもらい、神に仕える子孫の永続性を約束された場であった。薦生は名張盆地で合流した川が名張川となって蛇行しながら流れ下り、次の峡谷部に入っていく前辺りに位置している。平安時代には薦生牧こもおのまきといわれて馬の放牧がされていたようである。
 なぜこの地が第二の滞在地に選ばれたのかよくわからないが、気になるのは、神につき従った二人の中臣氏がここで「殖栗連」の名をもらった、いわば命名の故地という点だ。連
むらじとは古代の姓かばねの一つで、その上につけた職業名をもって奉仕していた。「殖栗連」という姓は、奈良時代や平安初期の史料にいくつか見られるが、例えば「殖栗占連咋麻呂」という人物は、「占」の字をとり去ってほしいと朝廷に願い出て許され、「殖栗連」と名乗ったとも記されている(『続日本紀』天平宝字八年〈七六四〉七月十二日条)。このことから、栗で占うことを職掌にする氏族があったことが推測できる。


掲載 2001年1月10日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)