【し】

柴田錬三郎

大正6年3月26日−昭和53年6月30日(1917−1978)

 眠狂四郎無情控
  忍者の里

 「ほう! この眺めは、同じ伊賀でも、上野より、こちらの方が、忍者の里らしいの」
 公儀お目付下条主膳が、配下五名をひきつれて、台地に立って、見下ろす盆地は、名張の町であった。
 三方から、なだらかな山裾がひろがった、一瞥
いちべついかにものどかな伊賀山中の盆地であった。
 中央に、長い土塀
どべいをめぐらした殿館が、どっしりと居すわって、高低大小の棟をならべ、正門の構えもひときわ大きく、名張藤堂家の住居であった。その周囲に、武家屋敷が整然とならんでいた。町家は、ややはなれて、彼処此処に聚落しゆうらくをつくって居り、かなり広い田園をへだてて、農家が山麓さんろくにちらばり、初夏の眩まぶしい陽光の中で、二百年の平和を保っている小藩のたたずまいには、殷賑いんしんからほど遠いだけに、かえって美しさがあった。
 そしてまた、その静寂ぶりから、領民が土に根を深くおろしたたしかさが、感じられた。
 名張藤堂氏は、津の城主藤堂高虎の養子高吉
たかよしに、はじまる。

白洲正子

明治43年1月7日−平成10年12月26日(1910−1998)

 両性具有の美
  鬼夜叉という名前

 伊賀というところは四方を山でかこまれた籠国こもりくで、隣国の近江、大和、伊勢などとはまるで感じが違う。観阿弥がはじめて座を建てたという小波多(現在は小波田)にしても、伊賀上野から名張へ向う途中の少し開けた山中の盆地で、昔私が訪れた頃は、たしか「御能本おのもと」とか「田楽でんがく田」と称する田圃と、忍者屋敷が残っている程度の寒村であった。現在は「観世発祥の地」とかで観光に力を入れているらしいが、はたしてどれ程開発されているかどうか。せいぜい大阪へのベッドタウンとして細々と生命を保っているのではあるまいか。
 今は忍者もブームになっているが、当時はそれ程一般に知られてはいず、「へえ、これが忍者屋敷?」と私が珍しがると、案内をして下さった方が、あまり大きな声で「忍者」とはいわんといて下さいと、たしなめられたのを奇異に感じたことを思い出す。忍者の故郷では、今でも彼らは常民とはちがう人種と考えられているらしい。


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)