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明治8年7月31日−昭和37年8月8日(1875−1962)
柳田国男南方熊楠往復書簡 2 柳の蔭を頼む──神社合祀に反対して── 柳田国男から南方熊楠へ 明治四十四年八月一日 二十六日帰京仕り候。三週間の旅行に美濃越前境上の山村を経廻し、さらに西京の北山大原、伊賀の名張などに遊び申し候。主たる目的は山民の生活を知るにありしも、別に「カワタ」「サンカ」などの特殊部落について若干の知識を加え得申し候。三重県の感化院長竹柴寅一郎氏はえた救済を終生の事業とする人にて、この問題につき縦横に観察を下しおり、その言もっとも聴くべく覚え申し候。えたの女が生殖器の構造異なれりなど申し候。彼らが陰毛はきわめて長く後方よりこれを見得るを常とすと申し候など、七難のソソ毛を連想せざる能わず候いき。昔の巫女は皆この徒より出でたりということを立証し得ば、かの難問題も解きうる望み有之候。 |
- 初出 飯倉照平編『柳田国男南方熊楠往復書簡集』昭和51年(1976)3月、平凡社
- 底本 南方熊楠選集別巻『柳田国男南方熊楠往復書簡』昭和60年(1985)3月、平凡社/p.59
- 採録 1999年10月21日
大正14年5月4日− (1925− )
斎宮志 二、大来(伯)皇女 2 初代斎宮卜定 大来皇女の住んだ伊勢の斎宮──斎王の住居は、多気川のほとり、現在の斎宮址周辺に設けられたと私は思う。 |
- 初出 『斎宮志』昭和55年(1980)10月、大和書房
- 底本 『斎宮志』新装版、昭和61年(1986)7月、大和書房/p.57
- 採録 1999年10月21日
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悪党・忍者・猿楽 一 悪党・忍者・猿楽 一三一八年、第九十六代天皇に即位した後醍醐帝は、かねてから抱懐していた天皇親政の念願をたぎらせて討幕路線を妄想的にさえ思える程ひたむきに押し進んで行った。 |
- 初出 「河内どんこう」ほか
- 底本 『悪党・忍者・猿楽』平成5年(1993)5月、新人物往来社/p.13−14
- 採録 2001年1月29日