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柳田国男

明治8年7月31日−昭和37年8月8日(1875−1962)

 柳田国男南方熊楠往復書簡
  2 柳の蔭を頼む──神社合祀に反対して──
   柳田国男から南方熊楠へ  明治四十四年八月一日

 二十六日帰京仕り候。三週間の旅行に美濃越前境上の山村を経廻し、さらに西京の北山大原、伊賀の名張などに遊び申し候。主たる目的は山民の生活を知るにありしも、別に「カワタ」「サンカ」などの特殊部落について若干の知識を加え得申し候。三重県の感化院長竹柴寅一郎氏はえた救済を終生の事業とする人にて、この問題につき縦横に観察を下しおり、その言もっとも聴くべく覚え申し候。えたの女が生殖器の構造異なれりなど申し候。彼らが陰毛はきわめて長く後方よりこれを見得るを常とすと申し候など、七難のソソ毛を連想せざる能わず候いき。昔の巫女は皆この徒より出でたりということを立証し得ば、かの難問題も解きうる望み有之候。

山中智恵子

大正14年5月4日− (1925− )

 斎宮志
  二、大来(伯)皇女
   2 初代斎宮卜定

 大来皇女の住んだ伊勢の斎宮──斎王の住居は、多気川のほとり、現在の斎宮址周辺に設けられたと私は思う。
 大来斎王群行の道は、記録もなく、種々のコースが推定されるが、泊瀬から榛原を経て、宇陀の山中をよぎり、高見峠を越えて、櫛田川に沿い、多気町の相可のあたりに出て、斎宮に入ったかと思われる。
 もうひとつ考えられる道行は、泊瀬から都祁
つげ(都介)山の道を経て、名張から阿保、伊賀伊勢の堺の青山峠を越えて、雲出川流域の家城、川口から壱志へ出て、多気に入る道である。このコースを採っても、青山峠を越えず、更に南方の塩見峠越えで、家城・川口に出る道もある。
 また、壬申の天武のコースの、宇陀から名張へ、現在の上野市をよぎり積殖
つむえ(柘植)から加太を越え、鈴鹿から南東の壱志へ出る道である。しかし加太越えは嶮しく、この三つのうち、高見越えと青山越えに心傾く。
 十四歳の大来は、このはるかな冬の山踏を、おそらく輿と騎馬の両方を用いて、国境ごとに境の神を祀り、川に禊して、船で川筋を下ったのであろう。

山本律郎

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 悪党・忍者・猿楽
  一 悪党・忍者・猿楽

 一三一八年、第九十六代天皇に即位した後醍醐帝は、かねてから抱懐していた天皇親政の念願をたぎらせて討幕路線を妄想的にさえ思える程ひたむきに押し進んで行った。
 しかし、後醍醐帝が幕府に対抗するには、その武力としては僧兵、山伏程度のもので、とうてい幕府に刃向かうには非力な軍勢であったから、この各地での悪党の蜂起の情報を後醍醐帝は見のがすはずもなく、積極的にこの悪党組織に接近をはかった。
 この後醍醐の悪党と称される疎外者への接近策は、今までの歴代天皇には考えられない軌道を外れた行動であったことには違いない。
 天皇からの呼び掛けを受けた悪党集団は今まで自分たちは賤なるものと自認していた非人たちであったから、この天皇というカリスマに近づけるという光栄に一同は喜び勇んで奮い立った。
 黒田の悪党は、この後醍醐帝の使者日野俊基と接して自分たちが皇室という秩序の中に入ったという認識を深めた。
 そして今までは東大寺に抵抗することのみ考えていたのであるが、改めて幕府権力を撲滅するという大目標を大義名分にすることに生き甲斐を感じて勇躍して討幕に参加することを誓った。
 各地の悪党はすべて反幕の集団であり、その悪党に正当性を認めた後醍醐帝に従って後日南北朝争乱になってからも南朝の軍勢となって戦った。
 その中で、黒田の悪党は朝廷に最も接近して禁裏供御人と自称していたのである。
 伊賀の在地武士豪族らは、皆この黒田の悪党を中心に結集して強固な組織集団となったのである。ことにその地の最大豪族であった服部氏とは地縁から始まって、一族同士の間に血縁関係を結ぶようになった。
 そして河内国で、その頃最強な悪党とみなされる楠木一族とは、正成がこれまた、大江氏に兵法を教わり指導されていた関係上、この大江氏の仲介によって伊賀流忍術の宗家服部元成の妻に、楠木正遠の娘、すなわち正成の姉が嫁いだので血縁で結ばれることになった。
 これによって両者の力も倍加されたのである。
 服部氏と言えば伊賀忍者の元締めであり、機動力に富み出没自在、従来の武士になかった戦法を随所に駆使した。


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)