|
天正10年 6月2日 |
信長、本能寺において光秀に攻められ自害
情報を得た伊賀衆は各地で潜伏から立ち上がる、「勢州軍記」は「伊賀国一挨蜂起」と表現
柘植の福地城を攻め、福地伊予、池尻を攻め伊勢へ追い払う、平楽寺の仁木友梅を攻める、鎮圧に大和の沢六郎、秋山右近、芳野宮内などを派遺 |
9日 |
伊賀一之宮付近で合戦(森田浄雲戦死)
- 「一之宮城主森田入道浄雲味方に向かって鉄砲を撃つ」(「勢州軍記」)と書かれているが、9年の乱では織田勢に降伏して許され一之宮城主となったが、本然に戻って織田勢に鉄砲を撃ったとすべきこうした状況は各地に起こったのではないか?
- 信雄は伊賀を滝川三郎兵衛雄親に与え、雄親は神戸丸山城に住居していた
- 丸山城の滝川雄親は北進して平定
- 柏原城、此自山城の合戦は天正10年の時にも再び行われた
- 柏原城(滝野ヶ城)は「新九郎覚書」では9年の乱後、目置大膳が配置されていたが信長死去の報を受けて織田の各将は松ヶ島城へ帰った、伊勢帰還後の各城に伊賀勢が入り込んで戦を挑んだ、(7月)
- 奈垣城で伊賀衆蜂起(9月)
- 9月頃には曖で伊賀勢は大方は城より撤退した滝川三郎兵衛は長期作戦(柔軟作戦)をとる
- 島ヶ原城の戦10年10月浪人集まる、滝川三郎兵衛、信雄に追討の指示を仰ぐ、「攻め破ることまかりならず侯間うらも引き取り侯へ」との司令が出る(「新九郎覚書」)寺を守るための話し合いがあつたか?
|
11月 |
あまこひの城(雨乞城)に浪人集る、尾張衆を派遺
- 信雌から近目上洛するから伊勢衆尾張衆引き上げの指令が出る
|
天正11年 4月27日 |
頃から南伊賀の国衆が蜂起して畑城(山添村)を攻撃(10年7月頃からの続き)「多聞院日記」 |
5月10日 |
今暁伊賀において筒井陣に夜討ちあり、散々に手負多数(略)内衆討死手負数知れず |
20日 |
順慶大和へ帰参
- 滝川三郎兵衛から餌賀の様子は、折々に京都の秀吉に使者を送って報告していた
|
<HOME |
NEXT> |