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JR西日本の事故と「自然」
JR事故はひとごとか? |
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| 福知山線塚口付近での、JR西日本の脱線事故については、当初、運転手の単なる操作ミスだという印象を持った。
しかし、その後の時間の経過につれ、背後にある深い闇があぶりだされてきつつあるように感じる。 |
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| 世の評価は、JR西日本の企業体質、それも親方日の丸時代から引きずってきた体質に問題がある、ということで固まりつつあるようなのだが、どうも特定の関係者をヤリ玉にあげるだけでは、後味が悪いことを、誰もが感じているのではないだろうか? いくら脳天気な私にしてみたところで、今回の惨事が、単に運転手の技術不足や、JRの管理体制の不備だけに押しつけて済む、とは思えない。 それは、「便利」や「経済合理性」を唯一の価値観として、限界まで無駄、余裕をそぎ落としてきた、我々人間の生き方じたいにつきつけられた、深い闇からの問いかけではないのか? 5分ほどの間隔もおかず、次々発着する電車と言う重い鉄の塊、そしてそれを、神経をすり減らしながら操作するJR職員たち。 その一方、それを全くしらぬかのように、当然の運行を要求する生活者。 このことが、どれだけ不自然なことだったか、はからずも今回の惨事があってはじめて、私たちは気づいたような気がしているのではないのだろうか? 貧しいのだ、そういう生き方は、...と知識ではわかっている。 いづれこの落とし前が、自分自身に返ってくる事もぼんやりわかっている。 いつか墜落する、きわどい綱渡りを続けているのだと。 しかし、懲りる事なく、そんなことを繰り返している自分に気づいて、驚くことはないのか? JRの事故は、はからずも自分自身を映し出す鏡だったんだと。 シュミの世界だと言う「山歩き」でも本質は同じことだ。 余裕のなさが、人間の勝手な都合が、自然を蝕んでいることはないのか? 自然を無限の資源だとカン違いしてはいないか? そして、自然というコトバを隠れ蓑にして、その実、破滅の道をまっしぐらに進んでいるのではないか? だからしかし、どうすればよいのだろうか。 答えはまだ見えないが、これからも自分に問い続けてゆきたい。 それがせめて、今回の事故の100人を超える犠牲者への鎮魂につながれ、と思う。('05.5.20) |