季刊金つなぎ 金つなぎ

がんと闘う

マラソンに夢をつなぐ
串谷 暢子(大阪市、自営業)

 平成六年三月に乳がんを手術。 「胸に巣食ったがんのカタマリさえ取れば、 すぐに仕事に戻れる!」 と、 早期発見を喜んでいたのですが、 あまりにもこの病気に対して無知であったことを思い知らされる最初の出来事が、 退院の翌日起こりました。 行きつけの銀行で、 振り込みをしようと並んでいたとき、 強いめまいを感じてその場にうずくまってしまったのです。 退院の日、 「急に元の生活に戻そうと、 あせってはダメよ」 と、 看護婦さんに注意を受けて退院したのに、 後から思い出す始末。 とにかく、 がんの手術による体力の低下は避けられない現実でした。
 私の仕事は、 自営業 (進物関係) の夫の手伝いです。 一生懸命働こうとするのですが、 思うように体が動かず、 つい 「痛い」 と口にしてしまうことも多く、 当時、 夫からそれをひどくなじられた悔しさは忘れられません。 あれも“夫流”の励ましだったと、 今では分かるのですが…。
 過ぎたことを思い出して、 くよくよするのは体によくないとのことなので、 楽しい未来しかないのだと心に決めて、 毎日を送っています。
 この乳がんの手術と、 阪神淡路大震災を経験したことで、 「人生、 終わりがある!」 ということを頭にたたき込まれました。 そして、 素晴らしいことに昨年の夏、 こんな私にオマケが付きました。 交通事故で左足と左肩が少し不自由になったのです。 でも、 このことで 「私がほんとうにしなければならないことはナニ?」 と考える良い機会をもう一度与えられた思いです。
 今は、 夫とことし二十歳になる息子が、 積極的に家事を手伝ってくれます。 家族のいたわりで、 つい不安になりがちな気持ちも和らぎます。 がんを病むって、 ありがたいことなんですね。
 金つなぎの会の皆さん、 先日テレビを見ていて思ったのですが、 「ハワイ・ホノルルマラソン」 に参加しませんか。 “金つなぎチーム”の名で参加できたら、 素晴らしいと思うのですよ。 この会の会員さんのお住まいは、 広域にわたっておられるのだから、 いくつかのブロックに分けてトレーニングして、 レースに臨みましょう!
 あのマラソンは、 どんなに時間がかかっても、 最後までゴールを開けて待っていて下さるんです。 病んだ私たちにぴったりだと思いませんか。 とかく、 順位を争う生活が当たり前の今日このごろ、 たとえ一か所でも、 そんなふうにゆったりしたスポーツの場があるなんて、 うれしいこと。 ご一緒に走りましょうよ。



明るく強く乳がんとの共存
大塚 淑(敦賀市、主婦)

 昨年三十七歳で乳がんと診断され、左の乳房切除手術を受けました。主人の転勤で宮崎県から福井県に来ており、子供は小一と幼稚園の年中組で小さいし、子供達の顔を見ては、「私がもし死んだらこの子たちはどうなるんだろう?」と、悩んだものでした。

 そんなある日、長女に「お母さんが死んだらどうする?」と聞いたら、「死なないよ。朝、昼、晩、神様にお祈りするから」と云ってくれました。優しい子に育ってくれてうれしく思うと同時に、とても勇気づけられました。
 いざ主婦が入院となると大変です。宮崎から父母が来て一定期間同居。やがて長男を連れ帰ってもらい、しばらく預けることにしました。男の子にしては手がかからず、おとなしく、実家で暮らすことを理解してくれました。
 乳がんは、偶然に乳房をさわって見つけました。「もしや、がんでは?」と思い、夜も眠れない日々を六カ月ほど過ごしました。その間に胸のしこりは約二センチほどに。
 やがて、左の脇のリンパ節がはれ、入院して手術することになった時も、恐ろしくて…。主人も心配してくれて、手術当日は、寝ずの看病をしてくれました。がんになって、初めて家族の温かさを感じました。
 主治医も婦長さんも、「遠くから来ているのだから、不安も大きいでしょう。何でも遠慮せず云って下さい」と云われ、その時の言葉がありがたく、今も忘れられません。当地で友達になった仲間も毎日のように見舞ってくれ、おかげさまで後半は楽しい入院生活を送ることができました。ただただ周りの人達に感謝しています。
 現在も抗がん剤、ホルモン剤、胃薬などを服用しており、抗がん剤の副作用で貧血と白血球が下がり気味です。
 私の性格は人と話す時には明るく、あまりくよくよしていることを見せないのですが、それはみせかけだけで、一人っきりになると、やっぱり再発の不安で、むしょうに淋しくなります、
 そんな時に「金つなぎの会」を知って頭の下がる思いでいっぱいでした。テレビ(NHKテレビ「ナビゲーション'96・金つなぎの会の取り組み」) の中で、乳がんの手術後を四段階にわけたグラフで示され、“がんに立ち向かう人”は十三年後の存在率がもっとも良いことが云われていました。私も子供たちが大人になり、孫を見るまでは死ねない!とつくづく思いました。
 これまで、レストラン、喫茶店などで食後の薬を飲む際、隣にいた全く知らない人に「それは何の薬?」としつこく聞かれ「かぜ薬です」と答えて、苦しい思いを何度となくいたしました。これからは、がんに立ち向かって生きるため、堂々と飲むことにします。
 私はいま、こうして文章を書いているだけでも、ホッとする気持ちでいっぱいです。
 これからも“明るく強く”がんと闘っていきたいと思っています。



横行結腸がん
灰原 好(河内長野市、塾教師)

 平成七年、横行結腸を二十センチ切除した。腰痛で受診した近所の病院で血液検査をしてもらったのが、病気発見のきっかけである。
 結果は、C型肝炎の抗体陽性と軽い貧血があるとのことで、肝臓とCTとエコー、それに胃の透視と便潜血反応をすることになった。大病院にない良さで、三日後にはこれらの検査が済んだ。
 胃は異常なし。ただし、肝臓に一・五センチの影があり、潜血反応は三本中二本が陽性だった。肝臓は血管腫と診断され、安心する。血管腫を知らずに持っている人は多いそうだ。C型肝炎ウィルスのRNA量も測定、その結果、肝炎は治癒していることがわかった。
次は注腸検査だが、平成三年にも市の検診で潜血反応が三本中一本陽性となり、 結果は注腸検査で 「異常なし」 だったことがあり、 今回も絶対大丈夫、 という妙な自信があった。 よく本に書かれている症状 (便秘がち、 下痢と便秘を繰り返す、 血便など) が全くなかったのだ。 だから横行結腸の真ん中に二・五センチのでき物がある、 と言われた時の驚き!内視鏡で取るには大きすぎるとのことで、 開腹手術を受けるよう言われる。
 細胞診の結果は主人に報告があり、 腺ガンだがまだ初期のものだから、 「切れば治る」 と言って下さったそうだ。 これを聞いて、 落ちこんでいた気分に少し元気が出た。 上の二人の子供には病名と、 「手術をすれば治るから、 心配しないように」 と告げたが、 下の子は中学一年だったので病名は言わず、 手術をすることだけを話す。
 初診から一カ月後、 主人と一緒に紹介状とデータを持って、 近畿大学の附属病院で入院を予約。 待っている間に病気がどんどん進むのではないかと心配したが、 後で聞いたところによると、 大腸がんは進行が遅く、 年単位とゆっくりだそうだ。
 手術は一時間半で済んだ。 横行結腸というのは、 おなかの中にブランとぶら下がっていて周囲には血管や臓器もなく、 手術は簡単らしい。 後に、 腸の手術をした人何人かと話をしたが、 私以外の人は皆S字結腸だった。 そして自覚症状 (血便、 便が出にくい) があったという人が多かった。
 私の場合は、 ▽持病の腰痛が一カ月続いたこと▽そのため近くの沢田病院へ行ったこと▽寒川昌明院長が少しの貧血を見逃さず、 腸の検査をして下さったこと、 このどれが欠けても病気は発見できなかっただろう。 この好運、 強運に手を合わせたい。 (しかし、 ほんとうに運のよい人は、 こんな病気にかからないのではないだろうか。 それとも、 かかっても治る人は、 運がよいのだろうか―などと、 考え込んだりしていた)。
 退院の直前から五FUの服用と、 月に一度のマイトマイシンの静脈注射が始まり、 半年続いた。 この紫色の注射薬は、 昔、 製薬会社の研究所で抗生物質のスクリーニングをしていた頃、 取り上げたことがある。 二十年後、 自分の治療に用いられるとは思いもしなかった。 その投与も終わり、 今は三カ月に一度の検査通院だけとなった。
 元気に暮らせる日々が、 ほんとうにありがたい。



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