あなたはおぼえていますか 伊賀焼のふるさと 丸柱 !  

土筆を摘む掌に 春の光が キラリと光ったことを
紫雲英(れんげそう)の咲く 野面に陽炎が ユラユラ したことを 
夏の太陽の下で あなたの麦藁帽子が白くかがやいて見えました
黄金の波の中で蝗(いなご)が 泳いで いましたね
窯の煙が 冬空に ゆったりと 尾を曳いていました
伊賀の町は あなたを待っています

左はしがらき 右はうえの。丸柱にたつ道標は伊賀・甲賀の境を示す。

伊賀市(旧阿山郡阿山町概要)

阿山町の概要

古い歴史と豊かな自然、そして人情あふれる地域性をもち、今日の生活や産業、教育文化を育んできた阿山町。「緑豊かで活力と心のふれあう文化の町」をキャッチフレーズに、豊かな自然とおだやかな人間性を大切にしながら、魅力ある活気に満ちあふれた健康で文化的な町づくりを推進

位置

三重県伊賀盆地(上野盆地)北部に位置し、北および北西は、山岳を境にして滋賀県に、東および南は、阿山郡伊賀町に、南西は、平坦部を経て、上野市にそれぞれ接している。

広ぼう

東西13.2km 南北10.6km 面積75.88ku

人口

8,582人 世帯数 2,428(平成13年5月1日現在)

主な産業

伝統的工芸品である「伊賀焼」と銘柄米「伊賀米」、肉の横綱「伊賀牛」の産地

沿革

県下最古級(4世紀後半)古墳が存在する阿山町は奈良時代に東大寺荘園として栄え、また、戦国時代の忍者の祖(藤林長門守)生誕地である。

伊賀焼の歴史このホームページに掲載のイラスト・写真・商標の無断転載を禁じます。

伊賀の国丸柱窯即ち現在の三重県伊賀市丸柱にあった丸柱窯は、遠く天平宝字年間に創起されたものであります。天平宝字より140余年後、延喜大神宮式に伊賀より神酒2瓶年2回大神宮に献ずる式あり、この酒を盛る瓶は此れにて造られてと記録があります。
天文年間(1532〜1554)筒井定次が伊賀の城主になったころから、花生、茶器を焼かしたという、これが「筒井伊賀」と称する古伊賀焼であります。
寛永年間(1624〜)に茶人子堀遠州の好みによる「遠州伊賀」が作られ、寛永12年には藤堂家二代高次が京都三条(栗田)の陶工孫兵衛、伝蔵を呼び寄せ丸柱の水差を焼かせた記録があります。一部を徳川将軍家に献納しあとを秘蔵にしたのが「藤堂伊賀」の水差で愛陶家の垂涎の的となっています。
現在、土鍋、行平等は、伊賀に産する耐熱性の強い粘土を生かし、又伊賀焼独特の味を生かした釉調は、一般に広く好評を博しています。とくに、茶器、酒器、花器等は今も登り窯で焼かれており、伊賀焼の持ち味の侘び、寂と共に風味の絶大なることは他に追従を許さないところであります。

伊賀焼の名品はこちらから


年表

時 代

区 分
年 号

関   連  事  項













天平年間
(729〜749)

●種壷時代・・・・・種壷は昔、農家で米、麦、大豆等の種子を貯蔵する農具であり、浸種壷は貯蔵した種子を蒔くときに一週間程水に浸しておく必要から生まれたものである。これらは農具であり農耕のかたわら焼かれたもので出発は技巧からでなく実用から踏み出されたものだと思われる。これら種壷、浸種壷は何時代の産物であるか詳かでないが布目瓦の出来た天平時代からみて、これら農家の必需品は同時代もしくはあまり隔たりのない時代から出発されているものと想像される。

●丸柱窯は、天平宝字年間に創起されたものであります。天平宝字より140余年後、延喜大神宮式に伊賀より神酒2瓶年2回大神宮に献ずる式あり、この酒を盛る瓶は此れにて造られてと記録があります。
 長く文化の中心であり、日本美術の源であった奈良朝の歴史的影響を受け、又この環境の間に伊賀丸柱窯は発展を遂げる。




永亨12年
(1440)

●丸柱村割谷に鎌倉から室町にかけての窯跡があった。

●堺の豪商茶人、津田宗及の自会記の天正9年(1581)10月27日の条に、伊賀焼の壷の事が記されている。





天正13年(1585)〜
慶長13年(1608)

●初期伊賀と比べて、作風に画然と違いのある茶陶伊賀焼(花生や水差)が造られるようになったのは、筒井定次が伊賀に封じられた1585年頃からと推定される。・・・・・『三国地誌』に「筒井定次ノ時焼」と記されている。


 











慶長13年(1608)

●藤堂高虎(1556〜1630)伊賀の領主とる。
●高虎在世中、伊賀焼そのものの消息が判然としないが、元和9年(1623)銘の沓(くつ)茶碗が現存しているので、在世中に丸柱焼かれていたのは確かであり、それがすでに灰釉が施されているので、高虎時代に古伊賀と同類のものを焼きつつ、作風が変化していったものと思われる。



寛永年間
(1624〜1644)

●『遠州伊賀』・・・・・高虎にとって娘婿であり、二代目高次にとって義兄弟である遠州の時代であるから、伊賀窯の茶陶については、遠州の指導的な関わりがあったであろう。この時代の作は、藤堂伊賀の後期にあたる。
●二代目高次は京都より陶工を招き、伊賀人に火加減等学ばせる。(1630)
●藤堂高次は、寛永12年(1635)京都より孫兵衛、伝蔵を招き丸柱で茶器水差を焼かせる。




寛文9年
(1669)

●藤堂高久、丸柱窯で用いられていた伊賀独特の白土山の陶土は採掘禁止とする。いわゆる御留山となったことが記されている。







宝暦年間
(1751〜1764)

●丸柱窯に瀬戸の陶技を導入し、伊賀焼の復興をはかる。

明和元年(1764)

●七代藩主高豊の時代、主に焼かれていたのは日用の雑器で、従事した陶工のなかでは弥助・久兵衛・定八などの名が知られている。古伊賀とちがってほとんどが施釉の陶器でなかには藍オランダ風のものも焼いていた。

明和7年(1770)

●初代弥助は九代藩主(たかさと)から「伊賀国」「丸柱制」の印を拝領して作品に捺印している。その後定八に与えられる。

文化〜文政年間
(1804〜)

●丸柱で開窯するもの多く、十件程あり。

天保年間
(1830〜1843)

●徳利や土瓶などの雑器に、白濁色の釉地に銅緑釉や藍釉を流したものなどの生活必需品を大量に焼くようになる。

古伊賀の精神と風格を追求しています

伊賀焼の荒々しい造りかたは素朴さと、自然の美しさをかねそなえ憎々しの幽玄さをかもしだす。

伊賀焼は焼いて焼いてそして焼いて黒く焦げた肌に紅葉した火色土肌に灰釉がかかり自然釉となりずっしりとした重みの中に一種のはなやかさが加わる。

それは、1400度の炎の中から生まれた美しい「泥の花」である。


焼成中の窯の中

「古伊賀焼」の歴史と伝統を守るため古伊賀焼の再現に取りくむと共に、近代的作品のやきもの造りに日々努力を重ねています。是非御観覧頂ければ幸いに存じます。