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エッセイ集
山崎豊子作品「二つの祖国」を読んで感じたこと

 山崎豊子作品に切望するもの

「白い巨塔」に触発されて、他の山崎豊子作品も読んでみました。「二つの祖国」がそれです。この小説を書くに至った経緯は山崎さんの言葉を引用すれば、

「1978年秋、ハワイ州立大学の客員教授に招聘された機会を生かし、講義の合間に、移民史、日系人収容所関係の基礎資料を勉強し、日系一世、二世の方々の体験談を聞いたことによる」

とあります。第二次大戦は日系人に数々の不幸をもたらしています。人種差別に加えて、1941年12月8日、日本軍によるオアフ島真珠湾攻撃が日系人に対する差別を決定的なものにしてしまいました。

主人公の天羽賢治は日本とアメリカの両方で一定期間教育を受けたため、両国の文化を理解していました。両国を愛する彼は進んで志願兵としては応ることはできなかったのです。しかし、戦争を早く終わらせるという大儀のため、直接日本兵を殺さずにすむなら、と語学兵を志します。

しかし、なまじ両方の文化を理解したためか、彼は結局終戦後自殺をしてしまいます。その最後のシーンを引用しますと、

「父さん、母さん、僕は、勇や忠のように自分自身の国を見つけることができませんでした、お別れを申し上げに行かねばなりませんが、もう一歩も歩けない・・・。
 アーサー(賢治の息子)、パパを許してくれ、三世のお前は、パパのような苦しみを味わうことなく、りっぱに成人しておくれ。
 賢治はずり落ちた銃口をもう一度、こめかみに当て、眼はブースのガラス越しに法廷を見下ろし、引き金をひいた。」

私はこの下りを読んだとき、何だかがっかりしてしまいました。拍子抜けしてしまったというか、暗い気持ちになってしまいました。

「白い巨塔」もそうでしたが、山崎さんの作品では驚くべき労力が作品執筆のための取材に費やされています。それは非常に大切なことで、そうでなければあれだけのリアリスティックなものはできないでしょう。しかし一方、作品の底に何か悲観的なものが流れているような気がします。

そう言えば、「白い巨塔」も最初は医療過誤の被害者が敗訴し、真実を主張した内科医が左遷の憂き目にあったところで小説を完結しています。その下りは、

「退職届、私儀、今般、感ずるところあり、本学を退職し、併せて山陰大学医学部への赴任を辞退致します。昭和39年12月17日里見修二、鵜飼医学部長殿
 そうしたため、筆をおいた。これから先、どうするかは解らなかったが、白い巨塔を自ら去ろうとする決意だけが里見の心の中にあった」

つまり、これも現実から去っていく結末なのです。その後読者から、「この結末では納得が行かない。作者は作品の社会的影響の大きさを考えて結末をもっと違ったものにすべきだった」と抗議の手紙が寄せられ、山崎さんは続編を書きます。

脳外傷問題にしても同じだと思います。脳外傷の患者と家族を取り巻く現状は確かに厳しいものがあります。もし山崎豊子さんが脳外傷問題を取材して作品を書くとしたら、悲劇的な話は星の数ほどあるでしょう。一家離散やら自殺やら・・。しかし、かと言ってその現実をそのまま描いたとして、果たして現状を打開し、社会を良くする力となり得るのでしょうか?私は疑問に思います。

話を「二つの祖国」に戻しましょう。私があの作品で山崎さんに描いて欲しかったのは、異なった文化を持つ日本とアメリカが互いにその長所を発揮して良好な国際関係を築く姿でした。矛盾に苦しんで自殺する姿ではありません。

もし、私が欲したような二つの文化の融合が見事に描かれていたならば、また、物事の本質をもっと追求していたならば、その作品はただ単に日系人に対する人種差別、社会の矛盾をさらけ出しただけでなく、後世の人々に大きな希望、指針を与えたことでしょう。80年代に起きた日米貿易摩擦や、その後の経済戦争も止められたかもしれません。

脳外傷をはじめとする福祉の問題も、もっとポジティブにとらえなければなりません。例えば、脳外傷や脳卒中によって脳障害に苦しむ人達への社会復帰プログラムを充実させることは、これから間違いなくやってくる超高齢者社会への準備になります。何故なら、年をとれば皆障害者になるからです。

福祉サービスが充実してくれば障害者の多くが社会復帰を果たせるでしょう。今は IT革命と言われるご時世です。テクノロジーの進歩が人間の足りない部分を補います。植物人間のような状態でも仕事ができて給料をもらえるようになるでしょう。

そうすれば福祉事業は一大産業として成長していくはずです。全国にゴミの山を築くほど商品を大量生産したり、無用の長物となるような建物を景気刺激策という口実のもとに無計画に建て続けるエネルギーがあるなら、それをもっと福祉事業に向けるべきです。そうすれば環境問題も不景気も、そして何より脳外傷がもたらす不幸も全て良い方向に転換できるでしょう。

そういった明るいビジョンを持った作品が世に出ることを切望します。

Friday, December 15, 2000

追記(1)

戦争中の日系人について最近感動的な話を聞きました。1941年12月7日(現地時間)の真珠湾攻撃から程なく、バイリンガルである日系2世がアメリカ本土に招集されます。解読された日本軍の暗号を英語に翻訳する任務のために。集められた日系2世の若者は驚愕します。何と、彼らに日本語の読み書きを教えるのは白人教師!しかもその白人日本語教師は息子さんを太平洋戦争で亡くしたばかり!

緊張する若者達に白人教師は言います。

「私は息子をこの戦争で亡くした。しかし、私は日本人と日本には何の恨みも無い。今まで通り日本人を尊敬しその文化に畏敬の念を持っている。また、私は大変嬉しい。今日からは君たちが私の息子なのだから。」

日系の若者達は皆涙を流し、彼の元で熱心に日本語を習います。戦争を一日も早く終わらせるために。

白人教師は戦後、教え子達に流暢な日本語で年賀状を送り続けます。そしてある年、「私も年を取った。すまないが今回が最後の年賀状だ。君たちと知り合えて私は幸せだった。ありがとう。お幸せに。」という年賀状を最後に亡くなられます。

今まで何故この話が表面に出て来なかったのか疑問です。いまだに人種問題が根底にあるからでしょうか?それはさておき、もしこの話に興味のある方がいらしたら、是非本に書いて欲しいと切望します。テーマ、内容共に申し分無いことは疑いありません。

Friday, July 27, 2007

追記(2):

昨年10月22日(木)ある方からこの白人日本語教師について問い合わせがありました。戦時中の日系米人について調べていてこの話を知り興味を持って関係者に直接会いたいとのことです。この話をもたらしてくれた方にお願いして何とかその海軍諜報部で翻訳作業にあたった元日系米人兵士に会えるようお願いしました。

ところがご高齢のため残念ながら今から3年前に他界されたとのこと。遺族は奥さん始め息子さんや娘さんがお元気で、特に奥様は白人日本語教師からの年賀状も見ているので何か発展があればよいなと期待したのですが、難しかったようです。軍では、知り得た情報を外部に漏らさない、と署名しているでしょうし、自らが翻訳して伝えた情報によって潜水艦に撃沈され疎開児童を始め多くの非戦闘員が亡くなった対馬丸のような悲劇が数多く生まれた訳ですから、余り積極的に話したい内容ではありません。

しかし最近聞いた話では元MIS(MISLS = Military Intelligence Service Language School)のメンバーで歴史家でもある人物とコンタクトを取れるかもしれないという情報を頂きました。うまく行くと良いですね。

今後新たな情報が入ればお伝えします。

(2010/01/22)