1998.9.19 またも御無沙汰してました〜(^_^;) (MARにゃん)
久しぶりにAQ見にいってみたら、流民さんのパソコンがくたばっていた時期のまで勢揃いで、そりゃまあ内容てんこもりですねえ。おまけに気のせいか、流民さんのレスもかなり長い〜(^-^)/
読む楽しみが出来て、嬉しい悲鳴が上がりましたわ。
しかし、うっかり忙しさに紛れてチェックしていない間に、ジュゴンの番組を見損ねてしまったとわ!!
不覚!!
今度のすけ嬢に見せてもらおうっと(ヨロシクね!)。
そういや流民さんは、MARにゃんが風邪菌に懐かれてた頃、恐怖の寄生虫と懇意になっていたそうですね・・・好きな人はお好きなようですが、MARにゃんは菌類とか寄生虫とかの物体(すでに生物の範疇を超えていると思います・・・あんなん、同じ地球上の生き物と思えない!!ホラーの生き物なのだわ!さるさん、ごめん!)は得意じゃないです。イカ好きなMARにゃんとしては、今年は控えようと決心させるに充分な話題でした。
忙しいからといって、侮れないもんですね、胃痛って!さすが後厄なだけはあるかも・・・(本の廃刊のお知らせとか、非常に残念です。一度廃刊になってしまうと、後は図書館くらいしか機会がなくなっちゃうんですもの。今のうちに鳥羽水へ駆けつけて、入手しなきゃ!)。
でもきっと、これを乗り越えれば後は楽しい事が待っているのではないでしょうか?
オフ会とかね!
ところで流民さん、「どうしてもルールを破りたい時」って一体・・・?
「本当は何でも出来る人がみんなのための規範を作る」というのは、要するに上に合わせることは出来なくても、出来る人が出来ない人に合わせることは出来るという、そーゆうことですか?
世の中全部にそれが当てはまっているとは言えませんが、まあそーゆうこともありますね。
確かに人それぞれ、生まれつきの条件も育つ環境も違うから、どれだけ努力しても凡人には超えられない地平とか存在する訳で、そうすると努力の有無に関わらず、「出来る人」というのは「出来ない人」のために多少の犠牲は払わざるを得なくなるというのは、一応公平かもしれないけど・・・努力して「出来る人」になった人とかからしたら、良い迷惑かも・・・。
それから、野生動物の保護に対する考え方に対して、流民さんの意見に大賛成!!
MARにゃんも、アメリカのネイティブでない国民(白人の侵略者)は、相当凶悪だったと思ってますし、その反動で動物保護に走るのも良いけど、行き過ぎてることもあると思うし、何よりも日本は昔から自然崇拝の生きている国で、各地の鎮守の森がいまだに健在(減ってたりはしますが・・・)というのは、諸外国に対してとっても誇れることだと思ってます!神道万歳!!(別に無神論者ですけど、やはり日本人の心の宗教は神道かな・・・って思うのです)
さらに日本は日本の事情に合った野生動物との付き合い方を考える必要性とか、自然崇拝がすたれ加減である現状に対する危機感が少ないことを問題視していることなど、「さすが流民さん!!」ですね。
これからも、そうした問題点を一般の人に向けて示して行って欲しいです。
・・・とゆー訳で、久々のメールおしまい(何とか中旬分に間に合ったわ!)。
(MARにゃん)
>「本当は何でも出来る人がみんなのための規範を作る」というのは、要するに上に合わせることは出来なくても、出来る人が出来ない人に合わせることは出来るという、そーゆうことですか?
そう、それが「公」の公平性なのです。
公の公平性には、結果的に誰もが基準を満たすことのできる水準や、結果的に誰もが公平に益を得られる線が求められます。
例えば、基本的人権とか、義務教育とか、あるいは交通ルールとか、世の中のほとんどがそれによって基準が決まっているのです。
それが行きすぎてしまっている状態が、いわゆる、「結果の平等」政策というやつです。
ところが、よく考えてみれば、結果的に平等でなくてもいいことって、本来はけっこう多いのですね。
それで、「結果の平等」に対して、「機会の平等」があるわけです。
例えば、高校は義務教育ではないから、機会の平等です。 だから、進学してもしなくてもいいし、あるいは授業をさぼっても、クラブ活動を主にしていてもかまいません。
だから、才能や努力によって、必ず不平等な結果が訪れます。
でも、それは本人の責任に帰属することなのであって、だれの責任でもないことを納得しなくちゃならないのですね。
さぼっていて、成績が悪かったり、退学させられたりしても、学校の教え方が悪いからだなんて言うのは筋違いなのです。
ところが、社会では多くの場面で、自分の能力のなさや、努力のなさを棚に上げて、結果の平等が当たり前だと錯覚してしまいます。
だから、それを錯覚した人に不幸なことが起こってしまうのです。
まあそこまでは、可哀想だけど錯覚していた人が悪い。
でも、それを、社会が悪いせいだとすり替える人たちがいます。
さらには、「できる人」を指して、あいつらがやっているから悪いんだとまで言い出す始末。
これが私の最も頭にきちゃう部分です。
機会の平等には、当然のごとく結果の不平等があり、それは本人の責任である。
モラルにも、ある部分からは、そんな考え方が必要ではないのかなと思うのです。
(地球流民)