観光再生の本:恋に導かれた観光再生〜奇跡のバリアフリー観光誕生の秘密


かれた観光再生 〜奇跡のバリアフリー観光誕生の秘密〜
著:中村 元
 
伊勢志摩バリアフリーツアーセンター理事長




■目次 

はじめに

第1章 出会い、小さな奇跡
 ・出会い小さな奇跡
 ・観光のバリアフリー

第2章 奇跡の始まり(NPOと三重県)
 ・おでかけ!チェアウォーカー
 ・三重県NPOの時代
 ・下心の奇跡

第3章 伊勢志摩再生プロジェクト
 ・競争力を失っていた伊勢志摩
 ・障害者もマーケット
 ・儲かる仕組み

第4章 観光地の凋落はなぜ?
 ・リゾート法で、遊ばずに働いた日本人
 ・視察団ご一行が、観光開発を失敗させた
 ・お上頼りの失敗
 ・業界団体での平等が、観光客の不満をつくる
 ・民間主導の効果
 ・客を見ていなかった観光地

第5章 パーソナルバリアフリー基準
 ・観光地も住民のもの
 ・ユニバーサルでない言葉「UD」
 ・パーソナルバリアフリー基準
 ・障害者も旅行を楽しみたい
 ・ボーダーフリー

第6章 バリアフリーツアーセンターの始動
 ・事務局長橋本あゆみ
 ・スタッフ
 ・羽ばたくメンバー
 ・橋本あゆみ、スターになる

第7章 広がるバリアフリー
 ・初めての、宿泊バリアフリー評価
 ・旅館はタイプが多いほどいい
 ・バリアフリーアドバイス
 ・宿泊施設のリスクヘッジ

第8章 切り拓くバリアフリー
 ・切り拓くバリアフリー
 ・心のバリアフリー

第9章 工夫と人がつくるバリアフリー
 ・トイレマップ
 ・ミキモト真珠島
 ・どこでもチェアー
 ・BFIG(バリアフリー・イマジネーション・ゲーム)

第10章 立ちはだかる壁
 ・神の顔
 ・財源確保の難しさ
 ・稀人殺し

第11章 新たなる奇跡
 ・パーソナルバリアフリー基準を全国に
 ・補完性の原則(あとがきにかえて)


こちらにも詳しいです。

ハサカル日記:主人公あゆみ事務局長Blog

TERUBlog :購読感想一番早かった友人Blog

CWSコモンズ :感激の長文書評です

いとちり :地理の先生のBlog

Blog水族館 :これは自分のBlogですねw

 

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ついにというか、やっとこさというか、中村元完全著の「まちづくり本」が出版されました。

理事長をやっているNPO法人伊勢志摩バリアフリーツアーセンターの誕生から成功への道のりを情景的につづりながら、NPO社会、ノーマライゼーション社会、そして、観光再生と観光施策やまちづくりの根本に、グサリと手を入れた本です。

一貫して述べているのは、「いい観光地」も「いい社会」も、つまり「まち」というのは、そこに住んだり訪れたりする人が創るものなのだということ。
だから、登場人物はいっぱいです。
一人のフリーターが、一人の車イス青年が、一人の主婦が、一人のボランティアが、そんないっぱいの一人の市民の行動が、低迷する伊勢志摩の観光に光を導き、全国の障害者や高齢者とその家族に豊かな観光を提供し、さらに伊勢志摩が住みやすいまちになる大きな第一歩を踏み出させることになりました。

そんなわけで、「恋」なんて軟派な言葉と「観光再生」なんて硬派な言葉を並べた、ひどく長ったらしい書名になったという次第です。

著者が自分で言うのもなんなのですが、
・全国の観光地で悩んでいる業界と市民と行政のみなさん。
・NPO活動に限界を感じている方々。
・日本の地方分権の現状や、NPOの置かれている現状を知りたい方。
・新しい公の形を模索しているみなさん。
・ユニバーサルデザインやノーマライゼーションに興味を持っている方。
そんなどなたにもオススメの書。

さらに誰にでも楽しく読みやすく元気が出て、実はかなり専門的な仕事をしていらっしゃるみなさんにも新たな発見をしていただけるはずの、まあなんというかこれこそ奇跡の書ではないかと・・・。

いやまあ、こんなに自著を褒めるのは、これがボクの本というより、先に上げたいろんな人たちのノンフィクションだからです。
めちゃくちゃ頑張らなくても、ちょっと社会に目を向ければできるスゴイまちづくり。
本著を読んで、みなさんも始めてみませんか?

「はじめに」と「補完性の原則(あとがきにかえて)」 は、下記にて立ち読みできます。
(一番堅い部分だけど)

■帯の推薦文は、NEWS ZEROのメーンキャスター村尾信尚さん

『役所の限界が指摘される今日、役所に代わって公益を担うのは市民だ』。
本書は、とことん市民サイドに立ってまちづくりを実践してきた、中村元さんとその仲間の、活動記録と政策提言の書である。
中村さんはウォーム・ハート(暖かい心)とクール・ヘッド(冷静な頭脳)の持ち主、しかも無類の行動派。日本のNPO活動に、本書が何らかの示唆を与えてくれるのではないか、と期待している。

NEWS ZEROメーンキャスター 村尾信尚 (関西学院大学教授)


■ご購入は、 注文かネットか伊勢志摩バリアフリーツアーセンターで
残念ながら 大規模書店でしか置かれてないと思います。
書店にない場合は、長崎出版「恋に導かれた観光再生」と、お取り寄せ下さい。
ネット書店ではどこでも扱っていますが、できれば、伊勢志摩バリアフリーツアーセンターのHPを経由してAmazonにてお買い上げいただくと、わずかながらセンターにお金が入ります。
ご近所の方は、センターにお越しいただけば、わずかじゃないお金がセンターに入る上に、もれなくスタッフの笑顔がついてきます。w


■立ち読み

●まえがき

 日本の多くの観光地では、まちづくりというものが行われていない。そう言い切ったらおそらくどなたも「いや、うちはやってるよ」とおっしゃるだろう。しかしそのほとんどは、観光事業者や商業者が勝手に考えた観光まちづくり。いかに儲かる市街地をつくるかを最大目的とし、インパクトの強い景観や施設に、観光客に金を使わせることのできる街並み、そして収容台数の多い駐車場などを造っていくのだ。それぞれを結ぶ系統づけられたコンセプトもないことが多い。
 それはまちづくりとは言わない。それは観光の街並づくりだ。いったいそんなまちを、住民の誰が愛してくれるだろうか。まちの住民が誇りに思わない観光地に、観光客が集まるわけがない。そう、まちの住民たち、とりわけ観光業を営んでいない人たちが自慢できる観光地こそ、観光客が自然に集まるまちなのである。

 歴史と文化、そして豊かな海の幸と、観光資源にとびきり恵まれた伊勢志摩だったが、観光客の数は年々低下し、思いもかけないような翳りを見せてきた。そこに覆い被さる経済の低迷と少子高齢化社会。
 地方分権という地域間競争の荒波の中で、あえぎ、息を切らせ始めていた伊勢志摩で、一人の娘の恋心が、観光再生のきっかけとなる小さな奇跡を起こした。彼女の奇跡は奇跡の連鎖を呼び、地元の障害者と市民が中心となって活動する「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」が誕生した。

 伊勢志摩を日本一のバリアフリー観光地とすることによって観光の再生を図り、日本一の福祉まちづくりを目指す、伊勢志摩バリアフリーツアーセンターの設立から四年。スタッフが開発した、顧客起点の「パーソナルバリアフリー基準」が成功し、伊勢志摩は日本で唯一、バリアフリー旅行斡旋システムのある観光地として注目を浴び、見事にバリアフリーマーケットを獲得することができた。
 実際に集客斡旋の実績を増やしたことによって、バリアフリー化に取り組む宿泊施設も年々増えている。地元障害者の念願であったバリアフリーインフラも次々に整いつつある。観光業者だけでなく、レストランや地域住民の理解も急変し、学校では福祉教育が取り入れられるようになった。そして今では、パーソナルバリアフリー基準が全国標準として拡がろうとしている。

 観光地は観光産業によって再生できる。バリアフリーでなくとも、顧客起点を実現させさえすれば必ず再生する。そして、その鍵を握っているのは、行政でも、もしかしたら観光業界でもなく、まちづくりの本来の主役たる市民ひとり一人なのである。
 伊勢志摩バリアフリーツアーセンターは、観光振興のための仕組みでありながら、発想の基準を、顧客たる旅行者と、観光地の住民である市民、それぞれの視点に置くことで誕生している。そして、そこに関わる者たちひとり一人の、理念と、理想と、誇りと、そして何よりも、行動を楽しむ心の結びつきを核にして成り立っているシステムなのだ。
 本書では、伊勢志摩バリアフリーツアーセンターの活動を通して、「まちはだれのものなのか?」「社会はだれがつくるのか?」を問いかけたつもりだ。
 本書が、観光やバリアフリーの関係の方々は言うに及ばず、NPOや行政など、社会づくりを担う全国のみなさん方と、私たち伊勢志摩バリアフリーツアーセンターとの繋がりをつくるきっかけとなることを願っている。

●補完性の原則(あとがきにかえて)
 まちづくりの指導者は首長である。まちの仕組みの運営者は行政である。しかし、まちづくりの主役は市民でなくてはならない。私たちの未来をお上に託そうとせず、自ら常に問いただし、自分たちでできることをやろうとする市民が、まちや社会の主役なのだ。
 もちろん市民が主役とは、市民が行政に物申すとか牛耳るとかいう意味ではない。もっと主体的にまちの未来を考え、そのためにできることを責任持って行う市民のことを主役と呼ぶ。

 近ごろでは、行政改革のために、「官」の仕事を「民」に移譲する民営化の議論がにぎやかだ。民営化すると何がよくなるのか? サービスがよくなり、コストカットに繋がると言うのである。
 それにしても、いったい民営化するだけで、金を使わずサービス内容がよくなるなんて二重にいいことがなぜできるのか? と、不思議に思われるだろうが、実は不思議でもなんでもない。本来「民」でやるべきことを、今までは「官」という市場原理の働かないところでやっていたから、サービスは悪化、コストもかけ放題になっていた。つまり、民営化で安くよくなったのではなく、高く悪かったものが正常に戻るだけなのだ。

 しかし、民営化による「官」から「民」というのは、民間企業がやってこそ正常というものだけではない。市民がやってこそ正常というものもあるのだ。いやむしろ市民がやるべきことの方が多いように思う。市民でやる方がコストも低く、ある意味においてはサービスもいいこと。あるいは、社会的には必要だけれど、官でやると不平等になりかねなかったり中途半端になるようなこと。それはつまり、官ではやるべきでなかったことなのだ。そしてNPOはそんな市民がやるべきことを行うための組織なのである。
 例えば、伊勢志摩バリアフリーツアーセンターのやっていることを、官でやろうと思えば不可能ではない。しかし、観光振興と障害者や高齢者の福祉という縦割り行政ではまったく別の管轄をまたぎ、さらに複数の地方自治体をまたぐという考え方、これを行政でやるには、人員的にも時間的にも非常に無駄の多い組織をつくらなければならないはずだ。

 コストに関して言えば、伊勢志摩バリアフリーツアーセンターは、今まで上げてきたような事業を、年間わずか500万円強の事務局運営費で行ってきている。事業費を入れても1千万円にもならない。
  同じことを行政でやったとしたら、500万円など一人の職員の給与で吹っ飛んでしまうだろう。しかも伊勢志摩バリアフリーツアーセンターで雇っているスタッフは、障害者の妻と当事者である障害者、つまりいずれも障害者のプロである。知識も経験もない行政職員とはまるで比較にならない人材2人を常時雇用し、何人もの専門員というプロ集団を雇い、それでわずか500万円、その価値が分かっていただけるだろうと思う。
 ようするに、伊勢志摩バリアフリーツアーセンターのやっていることは、産業再生であり、福祉社会づくりであるという、いかにも行政が推進すべきようなことでありながら、実際の活動範囲やスタッフのスキル、そしてカスタマーズ起点で考えると、NPOでやることが最も効果的でまともな方法であるということなのだ。まあだからこそ、その運営費くらいは、行政からいただけないかとは思っているのだが……。
 ただし、私たちが伊勢志摩バリアフリーツアーセンターをNPOで続けているのは、別にNPOでやればコストが安くなるからという意味ではない。私たち市民(あるいは業界)がやるべきことだからやっている、という理由だけなのだ。コストが安くつくのは、やるべきところでやるべきことをやっているからついてくる結果に過ぎない。あるいは、やって充実感のあることだからボランティアでも続けているスタッフの気持ちに甘えている結果に過ぎない。

 地方分権を語るのに、日本でもようやく「補完性の原則」という言葉が使われるようになってきた。補完性の原則によって、今までの中央と地方自治の関係は一挙に覆されることになる。
 私が補完性の原則という言葉を知ったのは新聞紙上、EU(欧州連合)が発足される直前だった。ヨーロッパという新しい国ができるのか? との問いに、どこかの国の代表が「補完性の原則だ。国でできることはそれぞれの国でする、国でできないことをするのがEUである」とあり、さらに注釈で「補完性の原則:ある自治体でできることを、より上位の自治体がやってはならないという原則」というようなことが書かれていた。
 これはなんだかスゴイ! と感じた。その頃はちょうど、地方分権への運動が盛んになっていた頃だった。私も青年会議所で地域主権だの道州制だのと張り切っていながらも、しかし日本で本当に地方分権になってもやっていけるのか? と不安が募るばかりのところだった。
 原因は「ふるさと創成一億円」だ。たった一億円の使い道に困って、ナンチャラ総研とかに相談していた全国の地方自治体を見るにつけ、やっぱり日本では地方分権など無理なのかもしれないと感じたのだ。地方分権と叫んでいた首長たちが一億円の責任さえも取れないのなら、数百億円のまちの財政に責任が取れるわけがないだろう。
 もしやこのふるさと創成一億円というのは、当時の竹下内閣が地方分権は無理だと示すための踏み絵ではなかったのかとまで勘ぐったものだ。

 しかし、補完性の原則によれば、基礎自治体(地方行政)のできることがより広域的な自治体(国家)に優先するのだから、中央集権の考えそのものが崩れてしまうではないか!
 そしてどうやら、ヨーロッパの連中は、補完性の原則とやらで、しっかりと地方自治に責任を持っているらしい。私はそれから少しだけ補完性の原則について勉強してみた。すると、しごく当たり前ながら、お上頼りの日本人がすっかり忘れていたことを見つけたのだ。
 それは、補完性の原則の背景にある考え方というか哲学のようなものである。もともと補完性の原則とは行政用語ではないらしい、宗教系の考え方で、「個人でできることは個人でする、個人でできないことは隣近所でする、隣近所でできないことはコミュニティーでする」という個人から始まることなのだ。
 とうてい無理じゃないかと思っていた地方分権に明るい光が射した。それまでの私は、地方分権されたときの巨大な責任を、地方自治体にのみかぶせてしまっていたのだ。しかしそうではなかった。行政の前に責任をとらねばならない者がいる。それは我々市民である。
 コミュニティーでできることはコミュニティーでする、コミュニティーでできないことだけを行政がするのである。社会に対する「民」の基本的な責任というものが、補完性の原則の根底に流れている。その最も基本的な部分を理解し、実行しなくては、さらに上位にある地方と国の補完性など語ることはできないのだ。
 私のNPO活動は、こんな気持ちから始まっている。自分のまちを住みよく魅力的なまちにし、子どもたちの輝かしい未来を築くためには、「お上」に頼っていてはいけない。自分たちでできることは自分たちでする。これからますます進む地方分権の中では、NPOの力がまちの力を決めるだろう。

 だからこれからの日本は、地方分権の時代ではなく、NPOの時代なのである。私が伊勢志摩バリアフリーツアーセンターの活動を通して、もう一つ起こしたい奇跡、それが、市民が責任を持つ補完性の原則によって社会が形づくられていく「NPOの時代の実現」なのである。


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(C) 2001Hajime Nakamura.