2003年「民意民力」(東洋経済新報社)にて掲載
経済産業研究所に請われ、「民意民力」に寄稿した原稿。



NPOが社会変革の原動となる

伊勢志摩NPOネットワークの会会長
伊勢志摩バリアフリーツアーセンター理事長
中村 元



■はじめに

 私は今、「伊勢志摩NPOネットワークの会」という市町村を超えた広域的なNPOのネットワーク団体と、「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」という障害者の伊勢志摩旅行を普及するNPOの代表をしている。 とは言っても、私自身が、その活動に時間の多くを割いているというわけではなく、設立時に中心的な役割を果たしたから、という理由だけで代表を務めている呑気な会長であり理事長である。
  しかも現在の私は、鳥羽水族館副館長という地元に密着していた職を辞して東京に住み、活動の場を関東に移しているというような状況で、1ヶ月に数日しか三重県には帰っていない(もっとも、そのほとんど全てはNPOに費やしてはいるのだが)。

 それでもこの2つのNPOが大きな成果らしきものを得ているのは、実際に活動の中心になっている元気でタフで類い希な能力を持ったスタッフたちがいるからである。彼女たちこそが事業を推進している主役であり、それを支える仲間がいてこそ活動が成り立っているのである。

 幸運なことに、この2つのNPOの活動に、三重県という革新的な行政からの理解が得られている。それは、私たちの活動が想定以上の影響を社会に与えることになり、行政から事実上のバックアップがあるという、様々な新しい社会循環を生み出している。

 それほど長い歴史を持ってはいない2つのNPOが、それなりの評価を得ているのは、それぞれの理念が明確であることと、その設立の過程には、現在の社会が抱える問題の解決方法や、市民セクターに期待される行動の原理があったからだろうと思う。



■補完性の原理と市民活動

 近頃、今まで「官」が独占してきた公共を市民の手に、という議論が盛り上がっている。しかし、それは本当に「官」が主体的に独占してきたものなのだろうか?
  私は、どうも違うような気がするのである。本当のところは、私たち「民」が自らの責任を「官」に積極的に委ねてきた、もしくは押しつけてきたというのが正しいのではないだろうか。

 あるいは、行政の方がよくこんなことを言う。「市民のみなさんのご意見をうけたまわり、行政に反映したい」と。市民はさもありなんという顔で頷いている。
  いやしかし、それはおかしいのだ。代表制民主主義のシステムで、市民を代表して意見を言うべきは議員の役割である。市民のみなさんは、意見を言うのではなく、市民としてなすべき事をなすのが本来の役割である。それなのに、意見さえ言えば、お上がすべてをやってくれると信じさせていては、真の意味での市民活動が起きようもないだろう。

 地方分権を語るのに、日本でもようやく「補完性の原理」という言葉が使われるようになってきた。そう、今までの日本の国家と地方自治の関係は補完性の原理によって、一挙に覆されることになる。補完性の原理によれば、事務事業などは、基礎自治体(地方行政)のできることがより広域的な自治体(国家)に優先するということであるから、中央集権の考えそのものが崩れてしまうからだ。
 だが、それ以前に理解しなくてはならないと思うのが、補完性の原理の背景にある考え方である。そこで優先されるのは、より小さなコミュニティーの実行力と責任である。
  つまり、「個人でできることは個人でする、できないことをコミュニティーでする。そしてコミュニティーでできないことは行政に任せる」という、社会に対する「民」の基本的な責任というものが、補完性の原理の根底に流れていて、その最も基本的な部分を理解し、実行しなくては、さらに上位にある地方と国の補完性など語ることはできないのだ。

 そして言うまでもなく、それを実行してこなかった「民」こそが、デモクラシーというものを原理も知らぬ間に受け取っていた、お上頼りの私たちだったのである。
 私のNPO活動は、こんな気持ちから始まっている。自分のまちを住み良く魅力的なまちにし、子どもたちの輝かしい未来を築くためには、「お上」に頼っていてはいけない、自分たちでできることは自分たちでするのだ。そんな意識が求められているのが、NPOの時代であると思うのだ。



■ふるさと創生1億円

 もう何年前になるだろうか?「ふるさと創生1億円」の狂騒と顛末。あの当時、全国ほとんどすべての首長の皆さん方の主張は地方分権であり中央集権批判だった。
  「地方分権でなければ独自のまちづくりはできない。国の画一的な政策は無駄だ、地方が自由に予算を使うことによって、まちづくりは成功するのである。」
とまあ、そのようなことをおっしゃっていたのだと思う。

 その地方分権推進の時流の中で、ホラッとばかりに目の前に置かれた、なんの制限もない1億円である。さて、地方分権を叫んでいた地方自治体が、この1億円をどんな有効な使い方をするのだろうと、興味を持って見ていた。
 ところがなんと、多くの自治体が、1億円の使い道を考えられずに、中央の総研だとか広告代理店に、使い道を考えてくれと依頼しているではないか。信じられなかった。あれほど、条件付きのお金は無駄だと言っていた各地の自治体が・・・。

 金塊を買って盗まれ有名になった自治体もあったし、温泉を掘るつもりが泥水が出たというところもあった。1年ほどたった週刊誌では「1億円のあきれた使い道」特集が組まれるほど。
 いや、それでも使ったのはまだいいほうだ。多くの自治体が、まちづくり基金なんていうもっともらしい名前を付けて貯金しているのである。まるで、宝くじが当たったとたん、その利子だけでなんとか生活していけないかと考えているような小心さが可愛いといえば可愛いが、それにしてもまちで1億円貯金してもしょうがないだろうと思うのだ。

 さらに驚くべきは、あれほど有名になった「ふるさと創生1億円」なのに、わがまちがいったい何に使ったのかを知らない市民の多いこと。おそらくこの本の読者の9割以上の方もご存知ないはずだ。
  まちづくりの講演に出かけると必ず、そこに集まっていただいた、少なくともまちづくりに興味のある筈の聴衆のみなさんに、知っている人が何人いるのか手を挙げていただくことにしているのだが、今まで5%を超えたことはない。行政職員の研修会でさえ、1割を超えたことはない。きっと議員さん方に尋ねても、あまり違いはないのだろうと想像する。

 たった、1億円ではある。そんなはした金では使いでもないかもしれない。しかし、たった1億円を有効に使うことのできない首長。それを決めるシステムもない行政。そして、自分のまちの1億円が何に使われたかさえ知らない市民。そんな状態で、地方分権はないだろうと思った。
  いや、もしかしたら、あのふるさと創生1億円とは、盛り上がり始めた地方分権議論への警鐘。「ホントに中央集権でなくてもいいのか?」と問いつめるために、政府が巧妙に仕組んだ踏み絵ではなかったのか?私は真剣にそう思ったものである。

 気が付いたら、私は、青年会議所の仲間に、そして講演に訪れる先々で、「あなたのまちはホントに地方分権でやっていけるのか?」と問いかけていた。そして、それは同時に自分自身への問いかけでもあったのだ。すると自然に自分のやるべきことが見えてきた。
 頼りない行政や首長に、自分の未来を委ねていてはダメだ。市民としてできることをやってこそ、行政はなすべきことを見つけるだろう。そんな社会を早く築かねば、地方分権の時代なんてやってこないのだと。そんな気持ちを、青年会議所時代の友人村岡兼幸がこう呼んだ。「小さなデモクラシー」と。そう、まさしく小さなデモクラシーが、ふるさと創生1億円のショックによって私の心に芽生えたのである。そう考えると、あの1億円は、私にとっては、とても価値ある1億円だったのかもしれない。



■行政への不信感

 私は青年会議所を卒業すると、まちづくりが好きだった友人たちに、まちづくりをこれからもずっとやっていかないかと声をかけた。それまで青年会議所で行ってきた単年度一丁上がりのまちづくりに、少なからずジレンマを感じていた友人たちが応じてくれて活動を始めることにした。それが、まちづくり塾「でもくらしちずん」である。

 「でもくらしちずん」の名前は、デモクラシーな意識を持ったシチズンシップを持とうという意味である。地方分権の時代には、今までの感覚における民主主義ではなく、日本の民主主義には経験のなかったデモクラシー運動とでも言える意識を持った市民が必要であろうと考えていたからである。
 このまちづくり塾には、市民参加に興味を持つ40名を超える市民が登録してくれた。私たちは、ほぼ毎月、市民運動を推進する講師を招いてさまざまなまちづくりの分野における知識を市民として得、それと共に、直接民主主義の手法である「ワークショップ」を繰り返して、集まった市民の人々と体験を積んだ。2年目からの「でもくらしちずん」は、体験によって得たワークショップの運営のノウハウを活かし、ワークショップ開催のための、ファシリテーターやコーディネイターをボランティア派遣するNPOとなった。

 実際のところ、ワークショップなどそれほど使われることなどないだろうと思っていたのだが、すぐに大きなワークショップの運営をする機会がやってきた。今まで何度も取り組みながら、住民のさまざまな思惑で進んでいなかった、旧市街地の区画整理を推進するのに、ワークショップがいいだろうということになり、でもくらしちずんで運営することになったのだ。
 最初は、こんなゲームみたいなことをやって、とバカにしていた住民代表のうるさ方たちも、次々と繰り出されるワークショップの手法に、驚きと楽しさを憶えてくれたようで、参加者は増えていき、ついに、住民主導による区画整理案まで到達することになった。
 アドバイザーにお願いした大学の先生も、私たちも、何よりも、住民代表である組長さんたちが、みんな驚いたし、住民が責任を持って考えた区画整理の素案ができたということで、その後の本当に意味のある、住民主導によるまちづくりが進むはずだったのである。

 ところが、ここで、担当者であり裏の運営者でもあった行政が、実にマヌケな勘違いをしていたのである。
 行政はこう言った。「みなさんの考えてくれた区画整理の案は配慮しましょう。しかし、実は、最初からこのようにしたいという図面があるので、今後はこれを基に話し合いをして下さい」と、ワークショップを開く前から準備してあったという図面を広げたのだ。つまり、市の側では、ワークショップを、住民の意見のはけ口としか考えていなかったのである。あるいは、住民たちをその気にさせる手法としか考えていなかったのかもしれないし、住民参加という形ばかりのアリバイを作ったつもりでいたのかもしれない。

 当然のことながら、住民の代表たちは怒り狂った。ワークショップを運営していた私たちは落胆した。アドバイザーをお願いしていた大学の先生はびっくりし、ワークショップが上手くいっても行政のせいで達成できなかった非常に珍しい例として使おうと、嘆いていた。さらに言えば、ずっと参加してきた市職員だって、相当悔しい思いをしたに違いない。今までの苦労が、市の幹部の考え方と、その間違いを訂正できない行政のシステムによって、すべて水泡に帰したのだから。
 この事件以来、私の行政への不信感はますます増していき、その分、市民がどれほど強い意志と力と知識を持たねばならないかという気持ちが、ますます強くなってきたのである。



■伊勢志摩NPOネットワークの会

 〜NPOの理念と目的〜
 伊勢志摩NPOネットワークの会は、現在37のNPOがネットワークされ、個人による会員数は、運営会員、登録会員、賛助会員による112名である。
  文字通りNPOがネットワークされ、相互に支援をし合う組織なのだが、他地域のネットワーク系の組織と少々違うのは、設立当初から、伊勢市、鳥羽市、志摩郡5町、度会郡10町村という、市町村をまたいだ広い範囲を活動エリアとしていることと、福祉・地域開発・環境・子育て・生涯学習・地球市民意識・NPOネットワーク・ITなど多様な分野のNPOやボランティアが積極的に関わっているところだろう。

 よく、「ネットワークを作ったのだけど、それが機能しない」「ネットワークしたのだけど、何をすればいいのか?」といった相談を持ちかけられる。
  組織はでき、立派な拠点も提供されたものの、最初の自己紹介から次の段階に進まなかったり、意見を交換するだけで話がかみ合わなかったり、というようなことらしい。このようなことは、わりあい高頻度で起こっているようであり、実際に、組織を作ったものの、1年で解散したり自然消滅している事例を知っている。

 原因は簡単に指摘することができる。一つには、NPOセクターを束ねてみたいという野心家が進めてしまった場合だ。馬鹿げているようであるが、理論が先走り、実際のNPO活動などしたことのない人は多く、頻繁に起こる事実だ。各地の青年会議所や商工会議所が中心になって失敗した少なくない例がこのスタイルによっている。

 もう一つは、「NPOが互いにネットワークすれば、市民セクターは強くなる」という神話を信じて、ネットワークを作ることをだけを目的とした場合である。何をするためにネットワークしたのかというモチベーションがないのだ。
 つまり、売るモノもないのに店を作ってしまったり、売る相手も想定せずにショッピングモールを作ってしまったのと変わらない。前者の場合など、ショッピングモールの社長になりたいからと、それぞれの店の顧客も知らずに、出店してもらったようなものである。いずれにしても、それで経営が成り立っていくわけがない。

 それはネットワーク系の組織だけでなく、単体のNPOやボランティア活動でだって同じことだろう。何のためにしたいのか?何が自分にはできるのか?それが自分にとって喜びや楽しみとなるのか?それらのことが満たされない活動は、基本的にNPO活動にはなり得ない。

 実は、私たちの「伊勢志摩NPOネットワークの会」は、最初からネットワークの設立を目指していたわけではない。発端は、NPO推進に関する報告書を作って欲しいという三重県南勢志摩県民局からの依頼だった。そのためのNPOへのアンケート調査費用や、報告書作成費用は用意されているという。
  しかし、あまり乗り気はしなかった。NPO活動家に報告書をまとめさせようという担当者の姿勢には共感したのだが、だからといって、その報告書が現場に役立つものとして使われる可能性はまずないだろう。下手したら、行政施策のアリバイづくりと同じように使われてしまうおそれだってある。

 そこで、私は条件付きで引き受けることにした。その条件とは、ただアンケート調査をするのではなく、実際に活動をしている方たちと一緒に考えたいこと。さらに、報告書のテーマを「市民活動がいきづくまちにするには、どうすればいいのか」という方向性をつけたいということである。そうすれば、少なくともそれに参加した人たちの意識も、新しいNPOの時代のものとして共有できるであろうし、南勢志摩県民局管内では具体的な大きな変化が起こるかもしれないと期待したのである。
 そこで、担当者には、県民局エリア内で、さまざまな分野から、最も活動されている方々を集めてもらった。そして、会議の方法は、私が主宰していたワークショップ運営ボランティアの「でもくらしちずん」による、ワークショップ方式で進めることにした。

 集まっていただいたみなさんは、みるからに一癖も二癖もありそうな怖そうな方々だった。それはそうだろう、最も活動されている方々をと望んだのである。ボランティアを始めて数十年などと年期が入っている上に、その歴史の中で、行政に裏切られたことなど何度もあるという方々。もちろん市民活動については何時間語っても尽きないほどの思い入れも理念も持っているみなさんなのだ。そんな方々が23人。

 実際、ワークショップは最初から、なかなか緊張感のある展開だった。それぞれ、主張したいことがあまりにも多すぎるのである。しかし、回数を重ね修羅場をくぐり抜けるたびに、なにがどうあればそれぞれの活動が地域で息づき、自分たちが何をすればNPO社会が実現するのがということを、互いに合意し共有するようになってきた。
 そして、最後のワークショップの時に、ここまで方向性がはっきりし、やるべきことが分かっているのに、行政への報告書だけで終わってしまっては意味がない。どうせなら、自分たちでそれを推進する運動体を立ち上げようではないかということになったのだ。
  そこから、伊勢志摩NPOネットワークの会の歴史は始まる。

 設立してから1年近くは、事務所もなく、事務局員もいなかったが、目的となすべきことが明確な組織は、2ヶ月に1度の例会と、目的の一つであった情報誌の発行、そして市民へのセミナーの開催などの事業だけで、会員数を増やしていった。

 途中で、緊急雇用事業によって、試験的に事務局員を雇い、企業から事務局を無償で提供してもらい、後に「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」へと飛躍する小さなNPO「伊勢ばりふり団」の支援事業を行うことになった。
 半年間の緊急雇用であったが、事務局員を得た半年の間に、別の行政事業を受託することによって、次の半年の事務局員雇用費を捻出した。そしてまた、その半年の間に次の半年の雇用費を捻出する。あるいは講師派遣などの収益事業によって、事業費を捻出するといった、自転車操業ながら、今のところ、事務局員を安定して雇用することができているのである。

 もちろん、行政から受託する事業はNPOに関することだけとし、さらに私たちのネットワークで行うからこそ、低いコストで高い次元の結果を生むという循環を作っている。NPO社会を発展させるために設立されたこの会の理念は、行政との協働という形で達成されているのである。
 ここで大きく物を言うのは、そのNPOの理念と、その事業を人・金・モノという視点からオーガナイズできるマネージメント能力であろう。
  この基本的な2つの要素が揃ってはじめて、NPOは運動体となることができる。そして、活動が長きに渡っているNPOのすべてが、その規模の大小に関わらず、これらの要素を充足しているのである。



■NPOの多様性

〜NPOが地方分権を救う〜
 このワークショップの過程で、一つたいへん興味深いことがあった。面白いことに当初は、それぞれの分野のNPO活動家にとって、その活動が世の中で最も大切なことであるという意識が強く、他の分野での活動に対する理解は、ほとんどなかったのだ。
  しかしながら、ワークショップによって、発言機会を平等にしていくことで、またたくまに、そのような意識は消えていった。分野や活動の規模は違っても、志す方向性は同じであり、悩みや喜びも共感できることが分かってきたのである。

 そう、NPOは多様性こそが命である。行政が縦割りなのは、分野によって分けられた施策を事務的に処理するからだ。その大元は、もちろん国の省庁であり、そこではそれぞれが自らのテリトリーを増やそうと頑張っているわけだから、その端末となる地方ではなおのこと縦割り意識は強くなってしまう。
  ところが、生活者の視点で捉えた市民生活にとって、縦割りになった事象などほとんどない。景気と福祉は密接に繋がるし、保育所と幼稚園は連続したものだ。その視点で活躍するからNPOは多様なのである。

 「でもくらしちずん」仲間に、若い頃は手のつけられない不良だったという男がいる。この男は、40歳を過ぎた今でも、現在の不良たちに一目置かれているような気合いの入った元チンピラなのだが、今彼が、個人的にやっている活動がある。まちでブラブラしている不良グループを見つけると、ロックバンドに仕立て上げてしまうのだ。

 彼の音楽センスは抜群で、不良時代にそれだけはプロからも認められたという音楽バンドを結成していた。そこで、今、何をするでもなくまちの厄介者になっている不良たちに、ギターやドラムを貸し与え、いくつものロックバンドをつくっていった。さらに、その連中のために、年に何度かは、野外コンサートが開催できるようにしている。

 彼はいつもこう言って笑う。「あいつら、あのままほっといたら、そのうち事故やクスリで死ぬ奴出るし、それにまちで騒いだりしたら、迷惑なことやろ。ロックやらしとくんが一番ええんよ。」

 私は彼の活動をとても評価している。
  もし、彼がその活動をしていなかったとすれば、本当に、住民が迷惑を被ることがあっただろうし、まちで彼らに出会えば嫌な威圧感を感じただろう。しかし、自分の親父と同じような年代の彼からロックを教えられ、野外コンサートを開くときには、近所に騒音のお詫びに回りに行くようになった少年たちは、まちで出会えば挨拶をするし、コンサートを見に来てくれた大人たちには愛想を振りまく。社会の一員として、立派に育っているのである。

 彼がこの活動をせずにまちに生じたであろうマイナスを金額に替えれば少なくはない数字になるはずである。さらに、彼がやっていることと同じことを、行政や警察で行ったら、それこそえらく高い人件費に付くだろうし、そもそも不良少年たちが、言うことを聞くわけがない。

 NPO活動は、それがどのようなものであっても、まちに利益をもたらせてくれる。それは、地方分権となり、行財政不安を持つ地方自治体にとって、大きな助けとなる筈だ。
 そしてますます複雑化している社会であるからこそ、多様なNPOが必要になるのである。いや、補完性の原理の観点からすれば、複雑化した社会になったからには、それに合わせた個人やコミュニティーの活動が、行政に先駆けて生まれてくるべきなのである。



■伊勢志摩バリアフリーツアーセンター

〜協働の源流〜
 「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」とは、障害者や高齢者など旅行に出かけるのに支障がある人たちに、伊勢志摩へのバリアフリー旅行を案内するとともに、観光施設のバリアフリー化を促進するために設立したNPOである。
 車椅子のボーイフレンドを持つ事務局長を中心に、障害者と介助の経験のある10数名のスタッフたちが、観光施設や旅館などを実際に訪れたり宿泊したりして、障害者の目から見た評価をし、その情報を元に、全国にPRしたり、旅行者からの問い合わせに答えている。

 このNPOの事業の面白いところは、福祉系であるかのように思われながら、実際の目的は、観光のバリアフリー化と、それによるバリアフリーマーケットの先行独占という、伊勢志摩活性化事業であるところだ。
 もちろん、スタッフのモチベーションは、障害者の視点にあり、レジャーにおける機会均等の社会づくり、つまり誰にもノーマライゼーション化された観光地づくりと、外出や娯楽の機会が少ない障害者に対するサポートという目的を持っている。
  しかし、この事業にかかる年間1千万円という事業費は、三重県の「伊勢志摩再生プロジェクト」から供出されているのだ。

 伊勢志摩再生プロジェクトとは、落ち込みの激しい伊勢志摩観光の復興を目指して三重県から選任された地元メンバーが、それぞれの知恵と得意分野を活かして再生計画を立て、その結果責任を負いながら事業を遂行するという、これもまた新しい形の民間と行政による協働事業である。
 そのメンバーの一人である私が提案したのが、バリアフリーマーケットの獲得である。そのマーケットが潜在的に大きいことは、海外の例を見るまでもなく確実であるし、さらに、形のない「もてなし」のサービスは、様々な旅行者に対するバリアフリーという究極のサービスによって表現できるだろうと考えたのだ。
 そして、その考え方を推進するには、地元の観光事業者がバリアフリーに取り組まねばならないのだが、これもバリアフリーを正確にPRし、旅行者を斡旋するセンターさえできれば、経営的な判断により積極的にバリアフリー化を進める事業者が現れる筈である。

 その考え方に至ったのは、当時、伊勢志摩NPOネットワークの会で支援をしていた「伊勢ばりふり団」の活動と、そこで知り合った障害者の友人たちとの出会いである。彼女たちはすでに、伊勢志摩NPOネットワークの会の支援によって、地元の障害者を想定した遊びのバリアフリー情報誌「伊勢・鳥羽・志摩おでかけチェアウォーカー」を出版し、完売させていた。さらに、バリアフリー情報を得るために、障害者グループに声を掛けて、調査チームを結成し、本当に役に立つ情報誌を完成させたのだ。

 伊勢志摩のバリアフリー化を促進し、バリアフリーマーケットを獲得するためには、それなりの組織が必要であるが、そこに「伊勢ばりふり団」の理念と組織がピッタリと収まったのである。少なくとも、彼女たちがいたからこそ、この事業が始った。
 結局、彼女たちの運動理念は、地域活性を望む行政の協働を得て活動資金を得ることができた。さらに当初の思惑どおり、これによって旅館や施設をバリアフリー化させようとする事業者が相次いで現れることにもなった。そしてもう一つ、地元の障害者たちに社会活動の場と雇用の場を創出することもできた。

  現在では、北川知事の命によって、県のさまざまな部署におけるバリアフリー事業から、本センターにアプローチがある。つまり、彼女たちの小さな行動が、金を動かし、企業を動かし、三重県全体のバリアフリーの社会づくりに関わりはじめたのである。
 行政の枠組みに捕らわれないNPOの理念。それは、生活者起点の社会づくりである。その理念を基本にすれば、縦割りの行政を横断し紡ぐ糸になる。
  そして、企業さえもがその理念に照準を合わせて企業努力をすることになるのである。そこでやっと、市民セクター、行政セクター、企業セクターの3つのセクターによる協働が始まるのだと思う。
 協働とはシステムでは表せない。市民セクターに様々な理念と責任が芽生え、彼らが行動を起こしたときに、行政がいかに応えることができるかである。そうすれば、小さな政府のあり方などすぐに見えてくるだろう。

 地方分権の時代、社会変革の源流はNPOの行動にあり、その責任は「民」に託されている。それを理解し、行動する市民を多く育て上げた自治体だけが、新しいデモクラシーの時代を生き残ることができるのである。


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(C) 2000Hajime Nakamura.

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