2000年赤旗新聞エッセイ全4回
超水族館だより。


1.ラッコの食事   2.イルカの進化   3.アシカの視線の教育  4.ジュゴンの性衝動


第1回
ラッコの食事
中村 元

 ラッコと言えば、石で貝を割る食事が有名だが、エサは多彩で、アワビ、ウニ、カニ、エビ、タコ、ヒラメ…。 大きなハサミのロブスターはとりわけお気に入りらしい。
 そう、寿司屋やレストランのメニューに「時価」と書いてあれば、それがラッコのエサなのだ。だから誰もがラッコの食事をうらやましがる。
 しかし、ラッコの食事がうらやましいと感じるのはヒトだけである。

 動物にとってエサというのは、苦労せずに大量に獲ることができるものが上等なのだ。ハサミで反撃するカニやロブスター、岩に貼りつき殻も肉も固いアワビ、トゲトゲで食べるのに苦労するウニ、ラッコにしてみれば、どれもが苦労の種だろう。
 だいたい石で貝を割るなんて、見ている分には面白いが、やってる本人にはやっかいなことこのうえない。

 ラッコは海に生きるホ乳動物としては、まだまだ新参者なのだ。
 だから沿岸で暮らすことしかできないし、そのあたりで獲ることのできる、面倒でわずかな数しかないエサで我慢するしかない。
 一方、イルカやアシカは、どこででも大量に獲れる小魚やイカを主食にしているから世界中の海にいるし、クジラは大量のオキアミで巨大な体を維持している。実はそんなエサこそが、本来の上等な食事である。

 値段や希少価値だけでモノの価値を決めるヒトには、高級と上等の区別がつかない。 そしてラッコの食事の大変さにも気が付かないのである。

第2回
イルカの進化
中村 元

 ケモノとは毛モノ、つまり毛を特徴としたホ乳動物のことである。ところが毛のないイルカもホ乳動物なのだ。
 首や耳たぶだってありはしないし、なによりも四肢がない。おまけに魚のような形の尾まで付いている。
 こんな不気味なケモノはいないはずなのだ。
 ところがである、誰もイルカを醜いとは思ってはいない。それどころかイルカの美しさは万人の認めるところだ。 それはある意味で不思議なことだが、理由を付けるとしたら、彼らがただただ無駄のない体をしているからなのである。

 今から6千万年以上も遡った時代。イルカの祖先は、陸上に暮らすホ乳動物だった。その頃には4本の脚で歩き、毛もふさふさとしていたのに違いない。
 しかし他の動物に生活を追われて、海の暮らしに入っていった。 その長い年月の中で、尻尾や前足は泳げるように適応させ、海では不必要なものを消滅させていったのだ。 つまり、足や毛それに耳たぶなどは退化したと説明されている。

 しかし、これを退化という後ろ向きな一言で片づけてしまうのは気が引ける。 彼らの足や毛は、海という新しい環境で生きるために、消滅という形の進化をしたのだ。 イルカの美しさとは、いさぎよい進化による、無駄のない洗練された美しさなのである。

 もし、足を捨てずに魚の尾を付けたなら、想像するだに不気味な半魚人のできあがりだ。 しかし今のヒトの世界は、そんな不気味な世界のように思えてならないのである。

第3回
アシカの視線の教育
中村 元

 教えるということは難しい。 特に相手が子供であればなおのこと。
 逆に聖人君子に何かを教えるのは簡単だ。 一を言えば十を分かってくれるのだから。

 アシカに芸を教えるのは前者である。十を言っても一さえ分かってくれはしない。 それはそうだろう、彼らにはヒトの言葉も常識も理解できないのだから。
 じゃあどうすればいいのか?こちらの常識をアシカに合わせるのだ。相手がヒトより劣っているからと、無理にいうことを聞かせようなんてしたらもうおしまい。 パニックになって怯えるか、窮鼠と化して咬みつくか、あるいは無視をされるのである。
  そのうえ、一口にアシカと言っても、中には剛胆な者もいるし、ひどく臆病な者もいる。それはヒトと同じなのだ。 そこでトレーナーは、相手の性格に合わせながら教えたり、彼にあった新しい技を考えることになる。

 アシカにさまざまな性格があるのは、どの性格が生き残り、子を残せるか分からないからだ。
 剛胆な者がハレムをつくって子孫を残すのは事実だが、臆病でなければ生き残れない時代だってある。 だからこそ、さまざまな性格の子孫が残されてきたのである。

 アシカの目で社会を見ると、多様性の道理がよくわかる。
 この混沌とした時代に生き残る二十一世紀人が育つのは、試験さえできれば大人になれるという甘えた教育によってではない。
 新しい価値観を学ばせ、多様な能力を育てる教育だろうと思うのだ。

第4回
ジュゴンの性衝動
中村 元

 ジュゴンのジュンイチは、ヒトのオスと一緒で、年がら年中発情している。 それは広い海で、いつ妙齢のメスと出会っても後悔しないためだ。 ところがメスのセレナを検査したたところ、メスには排卵の周期があるため、オスを受け入れる期間、つまり発情期と非発情期があることが分かった。
 そのため鳥羽水族館では、彼らを同居させるのは、セレナの性周期に合わせた50日に数日間と決められている。

 自然界では、メスの意志によって、いつでも逃げられるのだが、プールの中では年中発情しているオスから逃れられないので、このような通い婚方式になった。 それに、セレナは気が乗らないと、しつこく迫るジュンイチに尻尾の強烈な肘鉄を食らわせるのだから、非発情期に一緒にいても意味はないのだ。

 しかし、オスのジュンイチにはそれが納得できない。 セレナの気持ちに関係なく、とにかく体が疼くのだ。
 ジュンイチの性衝動は彼の理性を失わせる。
 セレナのプールに行こうと、自分のプールを飛び出して、動けなくなったことなど何度もある。 遊び道具のウォーターバッグは、すっかりメスの代用品だし、最近では、掃除に潜る飼育係を相手に思いを遂げようと抱きつくから、危険きわまりない。

 しかし、それほどの性衝動があるからこそ、私たち生命は繁栄してきたのである。 パートナーを獲得しようと、あらゆることを試みるヒトのオス。 それはある意味で大切なことなのだ。


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(C) 1996 Hajime Nakamura.