2000年月刊レジャー産業8月号にて掲載
20世紀の水族館・21世紀の水族館
文化をレジャーに変える水族館の可能性
中村 元


日本における水族館の立場
日本の水族館の歴史
昭和初期からの挑戦
戦後築かれた多様な水族館
巨大水槽と環境展示
ラッコがつくった新時代の幕開け
開発ブームに乗った巨大水族館時代
水族館の未来



日本における水族館の立場


 はたして水族館はレジャー産業なのか?それとも文化施設なのか?水族館を簡単にレジャー施設として位置付けることには大いに抵抗があるところだが、歴史的には多くの観光地を支える集客施設として、あるいは再開発の目玉として、かなりの力を発揮してきたのも事実であるし、教養文化施設として果たしてきた役割も認められるところである。
 おおよそ日本における水族館は、公立の場合は教育施設として、私立の場合はレジャー施設として捉えられている。それはおそらく、日本では生涯学習という活動であっても、企業が行うときにはレジャー産業という収益事業として捉えねば運営ができない未成熟な社会によるものである。
 アメリカは水族館(博物館)の先進国として有名であるが、それは寄付による民活システムが発達しているからだ。目的と手法が評価される施設や、優れた研究には、企業や資産家から税金代わりに寄付金が供出されるシステムである。その結果、水族館は社会的に認められる質のいい展示を目指せばいいのであって、客にも行政にも媚びを売らなくていいというわけなのだ。
 ところが日本では、そのような仕組みはない。公立の場合はお上の方針に従って税金を使うから、博物館の意味さえも知らない政治家や行政によって八方美人的な水族館がつくられる。一方、銀行から資金調達をして建設をしなくてはならない私立の水族館は、民間からの寄付が免税にならないどころか、企業の常識として税金を払わねばならないのだから、とにかくレジャー施設として真剣に金儲けを目指さなくてはならない。おのずからショーをやったり、よそで成功した展示を真似したりという、客に媚びた施設になっていくしかないのである。
 そういうわけで、日本の今の制度のままでは、水族館を含む博物館などの教養文化施設は、どう逆立ちをしてもアメリカに勝つことはできない。アメリカで成功した事例を粛々と真似ているしかないのだ。そして、日本の水族館の歴史は、そんな未成熟な日本の制度の中で、歩まされてきたのである。

日本の水族館の歴史


 日本での水族館の発祥は、1882年(明治15年)に上野動物園内に作られた「観魚室(うおのぞき)」だとされているが、「水族館」の名前が初めて使われたのは、1897年に神戸市で行われた第二回水産博覧会の中心施設として建てられたもので、目玉集客施設のルーツと言えるだろう。濾過循環装置まで備えた本格的なものだったが、期間限定の運営だった。
 この日本最初の水族館以降、明治時代にいくつもの水族館が設立されている。1899年には浅草に「浅草公園水族館」が日本初の私企業による娯楽施設として建設され、1903年には、第5回内国勧業博覧会付属堺水族館が建設されて世界一との評判を得た。堺水族館はその後、およそ60年間「東洋一」と謳われて運営されていた。明治時代が生んだ最高の水族館である。
 動物園と水族館には、はっきりとした区分はない。どちらにもペンギンがいてアシカがいてカワウソがいる。大きな違いは、水族館が特化している分、水処理の技術に優れていることだ。水で呼吸をする魚類や、水中で観せなくてはならないイルカなどの展示には、完成された水処理が必要なのだ。それは水族館の立地にも現れている。動物園が大都市の中にあるのに対して、水族館の立地している多くが、鳥羽のようにわりあい辺境の小さなまちなのは、海水が手に入りやすい臨海地であることが必須であったのと、展示物を得るための漁港が近くにあることが重要だったからである。しかしもちろん、入館者がいなければ意味がないから、結局は海のある観光地での立地が多いのだ。

昭和初期からの挑戦


 昭和の初期、いくつかの水族館が設立されたが、中でも1934年に甲子園にできた阪神水族館は、近代の水族館を考える上で面白い。一つには、電鉄会社が、事業の一つである送客や土地開発の一環として設立したことである。現存する民間水族館にも、電鉄会社の肝いりで設立されたものが多く見られる。海のある土地開発に、水族館は最適の施設であったのだ。
 さらに、この阪神水族館は、世界で初めてイルカ類の飼育を行っている。1937年に太地からゴンドウクジラを搬入して展示に成功したのである。イルカのショーと言えばアメリカがパイオニアだと思われているが、実は飼育もショーも、この阪神水族館が初めてのことなのである。日本の水族館が、当初からエンターティメントに目覚めていたことと、水生生物の扱いに慣れていたことが分かる。
 残念なことに阪神水族館は、第二次世界大戦の勃発により閉鎖されることになった。しかし、阪神水族館のあった兵庫県には、1957年に須磨水族館が設立された。須磨水族館には、日本で初めて冷却装置のついた水槽が設置されていた。当時はこの冷却装置のついた水槽でミズダコを飼育したらしいが、冷却装置のついた水槽が開発されなければ、日本でラッコを飼育することもかなわなかったのは言うまでもない。さらに、この須磨水族館が、後に現代の超巨大型水族館の先駆けとなった須磨臨海水族園に変身するのである。日本最初の水族館から始まって、阪神水族館、須磨水族館、そして須磨海浜水族園と、兵庫県には日本の水族館の歴史がある。

戦後築かれた多様な水族館


 この須磨水族館が設立された戦後が、日本の水族館の黎明期とも言える時代である。1945年から20年間に、60館もの水族館が全国に誕生したのだ。現在耳にする水族館の多くがこの時代に設立されたものであり、さまざまな技術や展示方法がこの時代に生まれている。
 阪神水族館で初めて行われたイルカショーは各地の水族館で行われ、動物園のチンパンジーのように水族館になくてはならないものになった。まだ窓は小さかったが、巨大な水槽もこの頃から登場した。鳥羽水族館に設置されたドーナツ型の水槽は、後に大分マリーンパレスが激しく流れる潮流を再現し、回遊水槽として完成をみた。ドーナツ型回遊水槽は、水量を押さえて、なおかつ魚類が無限に泳ぐことのできるアイデアであり、その後各地でドーナツ型回遊水槽が造られた。水槽の大型化が可能になってきてからは、新しく造られることはなくなったが、近代水族館である葛西水族園においては、高速遊泳をするマグロを飼育するためのものとして、最新最大のドーナツ型回遊水槽が設置された。
 しかし、このような技術だけでなく、注目すべきは、当時の飼育係から、その後水族館の歴史を作った多くの著名な人材が育成されたことである。特に昭和29年に設立された江ノ島水族館からは、その後誕生した水族館の館長が数多く輩出されている。日本のように、企業水族館と行政水族館しかない状態でありながら水族館が評価されてきたのは、水族館に対する情熱やポリシーをしっかり持っている館長たちがいたことに尽きる。

ラッコがつくった新時代の幕開け


 さて、水族館の飼育技術や設備の技術が向上すると共に、さまざまな興味ある水生生物が展示されるようになってきた。クラゲや貝、サンゴなどの無脊椎動物、あるいはセイウチやシャチなど珍しい海獣の飼育などである。中でも、ラッコの飼育は近年の水族館事情に最も大きな影響を与えた。
 ラッコは、鳥羽水族館が飼育を始めるまで、日本人のほとんどに知られていない動物だった。そこで広報を手がけていた筆者は、ラッコの貝を割る姿などをビデオに収めて、ビデオデッキと小型モニターを抱えて、テレビ局やら出版社を回って歩いたのである。努力のかいあって、ラッコの名前はおよそ2ヶ月で日本中に知れ渡った。実は、ラッコブームとまで言われたラッコの人気は、そのようにして意図的に作り上げたものだったのである。
 ラッコブームは、時を同じくして動物園に入ったコアラと、動物番組の隆盛にもあおられて、大きな意味での動物ブームを引き起こした。動物ブームはますます大きなムーブメントとなり、ラッコの人気に拍車をかけた。
 当然、各地の水族館にも次々にラッコが入ったし、テレビの各局で動物番組が持たれ、動物の本もたくさん出た。また、各地で行われているデパートの催事やイベントなどでも、水族館や動物をテーマにすると、必ず集客に繋がった。最も多くの日本人が動物に興味を持った時代だろう。そしてその興味の中心となったのが水族館だったのだから、水族館はそれまでにない脚光を浴びた。この時代は、近代水族館の最初のブームだとも言われるが、実は、水族館のブームだったのではなく、ラッコブームであり、動物ブームの時代だったのである。
 動物ブームで勢いを得た水族館は、入館者が突然増加したため、それまでの規模の施設では、パンクしそうであった。鳥羽水族館の例を上げるなら、ラッコが来ることによって初めて年間百万人を突破し二百万人に達したし、一日の入館者数も2万人を越えてしまった。それまでの水族館といえば、一日の入場が1万人を越えることを想定して作られてはなかったのだから、水族館は突如として新しい次元に突入していたのだ。
 当時、米国で新しいタイプの水族館が次々と建設されたこともあり、日本の水族館も次世代の水族館について感心を持ちはじめた。兵庫県の須磨水族公園がその先陣を切って建設され、新鳥羽水族館がそれに続いた。すでに技術的にはどんな水槽でも建設可能で、利用者も多く見込めるという、かつてない好条件の下で計画された水族館は、今までの常識を越えた巨大なものとなった。また展示コンセプトも新しい時代を反映して、須磨水族公園が「魚の生き様」、新鳥羽水族館が「命と環境」であった。さらに今までの暗くてジメジメした空間であることを払拭して、広いエントランスホールと明るい通路を持ち、新鳥羽水族館では、世界で初めて順路のない自由通路型の水族館にした。
 この2館の完成とともに、最も近年の水族館ブーム「巨大水族館ブーム」あるいは各地水族館での巨大水槽展示へのリニューアルが起こる。

開発ブームに乗った巨大水族館時代


 そしてこの時期に、もう一つ大きな流れがあった。再開発ブームである。景気が上向いて銀行はいくらでも金を出したし、過去の産業だった工場や倉庫用地が港の周辺に閑散と広がっていた。さらに昭和62年に制定されたリゾート法がこのブームに拍車をかけた。貿易黒字の続く日本に対して、海外から労働時間の短縮と内需拡大が迫られ、みんなで休むためにリゾート法が制定されたのだ。しかし日本人は休まずに、再開発という巨大な仕事に群がった。新鳥羽水族館も、計画途中からリゾート法の適用を受けた。
 かくして、都市部は再開発、地方はリゾート開発と、日本全国が開発に沸いたのである。ところが、悲しいかな日本各地で、開発あるいは再開発の対象となるような場所のほとんどは臨海地域であったのだ。内陸が急峻な山である日本において、最低限交通インフラの整っている都市はたいてい海岸線にある。当時のアメリカ西海岸は、日本からのデベロッパーや行政、銀行などの視察団体であふれかえっていた。そして彼らが視察で持ち帰ったモノが、再開発の三種の神器とも呼ばれた、水族館、マリーナ、フィッシャーマンズワーフだった。
 中でも水族館の需要性はクローズアップされていた。集客には水族館しかなかったのだからであろう。特に、鳥羽のような田舎でもラッコによって年間200万人の集客があることが、デベロッパーの心のよりどころであった。当時の開発事業計画には、水族館の需要性とその根拠として鳥羽水族館の例が必ず掲載されていたのがそれを表している。しかし、当時の水族館のほとんどが赤字であることには触れられていなかったのだから、それらの計画書は、開発事業に群がったデベロッパーグループのでっちあげといっても過言ではない。そんな調子だったので、結局、計画の多くはバブルの崩壊と共に頓挫した。
 しかし、この巨大水族館時代には、水族館の新しい波が2つ起こっている。その一つが都市型の水族館の台頭である。巨額の資金を投入した巨大な水族館が都市部に建設されたために、地方の多くの水族館の集客は減少した。それまで日本の水族館の歴史を支えてきた民営の水族館にとっては辛い時代であるが、マーケティングの常識だとも言える。
 もう一つが、テーマパーク型の水族館の出現である。水族館を博物館とはとらえずに、自らテーマパーク型と称した水族館がいくつか現れた。正しくは「水族館型のテーマパーク」というべきであろうが、アミューズメント性に主眼を起き、再開発地への集客を主たる目的とした施設である。

水族館の未来


 これらの事情を踏まえて考えると、今後の水族館事業は、必ずしも明るくはない。まず集客力の低下である。バブルの崩壊をくぐり抜け、デベロッパーの机上の計算だけでできてしまった水族館は言うに及ばず、今までの歴史を作ってきた老舗の水族館は、都市型の巨大水族館に利用者を取られてしまい、お互いに集客を望めない。
 そして、水族館型テーマパークは、新しいテーマパークやレジャー施設ができるたびに、その魅力を半減させていくことになる。インパクトのある新たな施設を次々と増設していくことのできない水族館には、テーマパークとして長年持ちこたえることはできないのである。
 歴史が証明するように、水族館をレジャー事業と考えることにそれほど誤りはない。文化や教養あるいは生涯学習は、レジャーや観光の中心と成り得るのである。ルーブル美術館や大英博物館が、パリやロンドンの最も有名な観光地となっているのは良い例である。しかしそれは、博物館としての権威と文化が、レジャーとしてとらえられる。つまり生涯学習そのものが、知的好奇心を満足させるレジャーに成り得るということであり、水族館をレジャー施設化するということではないのだ。これを取り違えると、水族館はディズニーランドと勝負をせねばなくなってしまう。
 ところで、知的好奇心を満足させる施設という意味では、水族館は実に将来性がある。IT革命という新しい情報のインフラは、紙の文化を超越し、映像の文化に革命を与えようとしている。そんな時代に、写真や映像を多用した博物館の展示は、今後すべてWeb化することになるであろう。わざわざ博物館に出かけなくとも、映像ならば家庭で十分に知的好奇心を満足させることができるようになるということである。だから、欧米ではハンズオンという五感を十分に使う体験的な展示が企画され、今後の博物館の主流となろうとしているのだ。
 その点、水族館は元来、博物館の中でも最も体験的な展示が行われている施設である。生きている動物を、直接見たり、臭いを嗅いだり、音を聞いたり、そんなバーチャルでは味わえない知的好奇心を満たすことが可能なのだから。
 水族館は、IT革命とはうまく付き合っていくことができるであろう。現在筆者が鳥羽水族館で行っているのは、動物の様子をWeb上や携帯電話端末上でリアルタイムに伝えることのできる、電子飼育日誌やメールによるニュースだ。日々変わる新しい情報を、一日数万人の人が楽しみにし、本物の動物を見ようとやってくる。また、携帯電話端末を利用したガイドブックも開発中である。
 このように、博物館としての基本と、水族館の特色を前面に出していけば、水族館という施設は、時代を超えて存在することが可能であると考えられる。これから新しく企画する場合には、もう一度、水族館を役割から考え直してみることが大切である。
 そしてそのためには、水族館で何を伝えたいのかを真剣に考える人材と、水族館の公立・私企業の区別無しに、生涯学習施設として社会が支えるアメリカ並みの仕組みが必要であろう。昨年まで水道課の課長だった人が館長に移動になるような公立の水族館、事業の内容よりも税金を払い借金を返すことだけを追いかけねばならない企業水族館、このどちらにも未来はないだろうと思うのである。

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(C) 2000Hajime Nakamura.

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