1999年:DCカード新聞1月号にて掲載
新しい発想
中村 元

常々、新しい発想が自由にできるのは30代までだと思っていたが、気がついたら、いつの間にか自分が40代になってしまっていた。
そしてやはり自覚している。 もうそろそろ自分自身が時代遅れになりつつあることを…。

気の毒なことなのだが、自称アイデアマンや、発想の転換が必要だと説く人に、本当に新しい発想が出来る人はまずいない。
アイデアだとか発想の転換などと考えている時点ですでに、既存の世界に立って周りを見ているからである。
考えてみればいい、常人から素晴らしいと認められるようなアイデア、それ自体がまさしく陳腐の証明である。

もっとも、産業革命から始まった経済社会、特に戦後日本の復興をなした高度成長時代を基盤にしていた頃は、発想の転換程度で、あるいは誰にでも理解できるアイデアの方が、うまくいくことも多かった。 ところが、時代はすっかり変わってしまったのである。

例えば、流行のインターネットを、発想の転換で商売に活かそうとしてあきらめた企業は多い。面白いアイデアで勝負しようとして企画倒れになり、いとも簡単に転けてしまう人も後を絶たない。何故だろうか?
簡単な話である、まず新しい社会に住むという当たり前のことをしなかったからである。通信という目に見えない社会は確実に拡がっている。ところがその社会に自ら飛び込み、そこで生活をしていなければ、新たな発想など生まれるべくもないのだ。

実は、進化というのはそんな具合に起こってきた。
弱肉強食や天変地異により、平穏な生活から弾き出されて、新しい環境で生活せざる得なかった者だけが、その適応の過程で新たな能力を身につけ、新たな世界を構築してきたのだ。
多様性の国アメリカでは、そんな半端者が認められ生きられる。だからビルゲイツなどという怪物が育つのである。

残念ながら、日本の旧時代最後の人類として育った私には、そろそろ新しい時代に生きるのが苦しくなりかけている。しかしその自覚こそを大切にしたい。
これからは、自分の発想よりも、新しい社会に生きる人たちの発想に教えを請い、それを育てることによって、自分も適応していけばいいのだから。


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(C) 1996 Hajime Nakamura.