2001年7月号FRONT「水をめぐる断想」にて掲載
河童のいる水族館

中村 元

 鳥羽水族館の企画室長としては公にしにくいことなのだが、実は、私は河童に会ったことがある。 そしてこれも秘密なのだが、鳥羽水族館では河童にお住まい願っている。

 小学生だった私が、河原でカエルをいじめていた時のことだった。 爆竹を取り出しながら、ひどくイケナイことをしようとしているという自覚に心臓はドキドキと波打っていた。
 爆竹に火をつけようとしたそのときである。 突如として背後の空が真っ暗になり、生ぬるい風が吹き、ドドドーンという雷の音。 びっくりした私が振り向いたそこに、そいつは立っていた。

 逆光で影になった顔に、大きな目と大きな口、そして笠をかぶったようなザンバラ頭。 間違いなく河童だった。
 私は声も出せずに一目散に逃げた。 河原は広く、近くにはだれもいなかったが、とにかく逃げ出すときのダッシュがよかったのだろう。 その時は運良く尻子玉を取られずに済んだ。
 もしかしたらそれは、カエルが私に掛けた呪いの幻惑だったのかもしれないし、罪悪感がその夜に見せた夢なのかもしれない。 しかし、いつ後ろから首根っこを鷲掴みにされるかと怯えながら、振り返りもせずに走ったあの恐怖感は、今でも首筋によみがえるのだ。

 その日から、私はたびたび河童の存在を感じた。
 川の淵で流れに飲まれて溺れかけたとき、淵の底からじっと私を見ている河童の目があった。 その目は、さあこっちへ来いよと誘っているようでもあったし、こっちに来てはいけないと怒っているようでもあった。
 とにかく私は、河童から逃げようと川下に向かってもがき、気が付いたら浅瀬にいた。脳みそまで疲れた頭の中で、ヒトは簡単に死ぬんだと河童が笑っていた。

 川干しで生け捕りした魚を焼いて食べようということになったときにも、すぐそばに河童の存在を感じた。 破れ傘の骨を串にして魚の口から刺したら、魚は猛烈に暴れて嫌がり、じきに私たちの手の中で息絶えた。
 たき火で焼いた黒焦げ生焼けの川魚が、調味料もなくて美味しかろうばずもないと思うのだが、私たちは「旨い旨い」を連発しながら生臭い身をほおばった。
 そのまま食べずに捨てたら、あの時の河童が必ず出て来ると分かっていたのだ。 あいつは絶対に僕らを見張っていて言っただろう。「お前たちは他の者たちの命をいただいて生きているのだ。殺しておいて食べないのなら、オレがお前たちの尻子玉を食ってやる」と。

 自然をいたずらにヒトの手に掛けることの罪悪感、ヒトが簡単に死ぬものであるという当たり前の感覚、ヒトのいるべきところといてはいけないところがあること、ヒトが他の命を奪ってしか生きていけないこと・・・。
 現在の私の自然観に流れる最も基本的なことは、すべて子供の頃に遊んだ川で学んだ。 そしてそのそばには、いつも河童がいたのだ。
 河童はきっと、先人たちが川に住まわせた自然への畏れである。
 川や山や海、そして自らの意識の奥底に物の怪を住まわせて、豊かな自然を残してきたのだ。
 河童たちが私たちの記憶から消えたときに、自然も崩壊してしまうだろう。 だから私は、鳥羽水族館を河童の見え隠れする水族館にしようと努めてきた。 よくご覧いただけは、水槽のそこかしこに、河童たちの目が光っているはずだ。

 小学校をあがってから、もう30年も経つが、今でも川縁に立つと河童の存在を探ってしまう。 でも、河童が潜んでいそうな川はもうほとんど見あたらない。 最近どこかで野生の河童を見かけたという方は、ぜひ私にご一報いただきたい。

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