1998年 学研教室新聞「みどりのなかま」7月号にて掲載
「生きること」や「環境」を、
自然の体験によって発見しよう!
中村 元

(これは、小学生の父母対象に書いたものです)

私たちは生きている
 まちの中で、建物や機械といったさまざまな文明に囲まれて暮らしていると、自分が生き物であることを忘れてしまいます。
 大地に触れなければ、地球に住んでいることを忘れるでしょう。スーパーの切り身でしか魚を知らなければ、ヒトが他の生命を奪うことで生きているのだ…ということにさえも気付きません。
 便利な文明から少しの間離れてみる。視点のちがう体験をしてみる。そんな気持ちで、ちょっとだけまちから離れてみると、生きていく上での本当に大切なことを、子供たちは学ぶことができるのです。

命を感じてみる
 小さい頃、よくザリガニ釣りをしました。ザリガニは子供の知恵で捕まえるのに、ちょうど良い相手になる野生生物です。釣り上げると大きなハサミで攻撃してくるのは、彼らが死にたくないと思っているからですね。
 彼らを飼っていると、いつの間にかメスのお腹の下に卵が出来て、たくさんの子供が生まれます。母親は子供たちがザリガニの形になるまで、お腹にぶら下げて育て上げます。
 機会があれば、夜の海岸でウミガメの産卵や、生まれた子ガメが海に向かって必死に歩いていく姿を観察するといいでしょう。ザリガニもウミガメも母親は一生懸命子供を産み、子供たちは一生懸命に安全なところに進みますが、その中で無事に生きて大人になるものは、たった1匹かあるいは0匹なのです。生きると言うことはとても難しいことなのです。

命を食べる体験で「いただきます」を
 子供の頃、友だちと川ですくった魚を焼いて食べたことがあります。生焼けだったし、調味料も無かったのですが、何よりもクシを刺すときに、手の中で暴れて死んでいった魚の感触が強烈で、追い立てられるように食べました。あのときに「いただきます」の気持ちがわかったのだと思います。
 釣りでも潮干狩りでもかまいません。本当は、ニワトリを育てて食べるのが一番なのですが、キュウリを育てて食べてもいいでしょう。生きている者の命を、自分で奪って食べることを経験している子供には、いつしか自然や食べ物に感謝の気持ちが芽生えるものです。

境界線のない地球
 ヒトは地球に防波堤や堤防など、いろんな境界線を引いてしまいました。河口の干潟に行って、潮の引いたあとを観察してみましょう。無数のカニが現れるはずです。水が流れるところには、小さなヤドカリが数え切れないほど歩いているし、ちょっと待っていると、鳥たちがやってきて彼らを食べ始めます。
 干潟は、満潮の時には海になり、干潮の時には陸になり、大雨が降れば川にもなってしまう、ヒトにとってはなんの利用価値もない場所ですが、そんな場所こそがヒト以外の動物には楽園なのです。
 ヒトの勝手な価値観で地球に線を引くことで、いろんな生命が消えていきます。私たちのまわりに全て線をひいてしまったときには、ヒトが地球で生きる権利もなくなっていることでしょう。

双眼鏡で探検家
 野外に出るときには、双眼鏡やルーペを持っていると、感動がぐんと大きくなります。遠くでさえずっている鳥を双眼鏡で見ると、素敵な羽の色や、顔を動かす可愛いしぐさが見えるでしょう。海岸では、近づけば穴に潜ってしまうカニを見つけられるし、セミがお腹を震わせて鳴いている姿や、カエルがほっぺたをふくらませている姿が、テレビを見ているよりも臨場感をもって観察できます。
 小さなルーペの向こうには、きっと新しい世界が開けます。昆虫の目や足、魚のウロコ。磯ではフジツボやイソギンチャクが動いているようす。何を研究するという特別な目的はなくていいのです。ヒトの常識的な価値観とちがう目でみることだけで、地球や生命の躍動を感じることができるのです。

水族館でも双眼鏡
 水族館や動物園でも双眼鏡を使うと、驚くほど世界が広がります。携帯用のオペラグラスでも十分です。遠くの小さいものだけでなく、近くにいるものや大きいものにも焦点を当ててみましょう。
 小さな水槽のカニの目をアップしてにらめっこしてみたり、ジュゴンの背中に生えている細かい毛を発見したり、まるで自分が小さくなって水槽に入っているような、動物の仲間やエサになっているような、不思議な気分になることでしょう。
 双眼鏡一つで、もう一つの別の水族館を観ているほどの気分になれること請け合いです。  

「生きること」や「環境」は、教えられて理解するのでなく、体験によって気付くものです。夏休みをそんな機会にしませんか?


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(C) 1996 Hajime Nakamura.