学習の友」2000年新年号にて掲載
地球環境をテーマにしたエッセイ集


人魚の進化
中村 元

 ジュゴンは人魚のモデル。そんな説明を受けながら、初めてジュゴンに会ったのはもう20年近く前のことです。でもその姿を目の当たりにして、少なからずショックを受けました。私の想像していた人魚とあまりにもギャップが大きすぎたものですから。
 人魚と言えば、腰から上はヒト。目鼻立ちは美しく、長い髪の毛を手ですいているものです。
 でもそいつときたら、目は小さくて鼻は穴だけ、髪の毛らしきものもなく、それをとくはずの手さえついていない。ただ足の代わりに尾がついているところだけが人魚のようだというシロモノでした。

 太ったイルカのようでしかない彼女は、どれほど想像力を働かせても人魚のようには見えません。水中で暮らすのに適した流線型の体は、洗練された美しさはあるけれど、それはどこから見ても魚類の美しさです。
 そう、私たちの感覚では、人魚どころかホ乳動物というだけで、四肢がそろっていて、毛が生えていて、立派な目も鼻も耳たぶもついていなければおかしいのです。だからジュゴンやイルカは、長い間魚類と勘違いされてきました。

 ところがジュゴンやイルカも、その祖先は、良く見える目と、よくきく鼻と、良く聞こえる耳を持ち、ふさふさとした毛皮で身を包み、長い四肢で陸上を走り回っていたのです。でも海で生活をすると決めてから、それらのものは全て捨て去るよう進化をしてきました。それは海という新しい世界に毛や足は必要なかったからです。

 一方、私たちヒトはどうでしょう?生きるために他の動物から肉と毛皮を奪い、火を使うことを憶えるまでは必要不可欠な進化だったのでしょうが、それ以降は、持てるものを増やすことばかりを進化の方向にしてきました。肉は冷蔵庫に入れてたくさん持ち、毛皮はお金に換えて別のモノを買い、火はついには車を動かし、その車はミラーまでもが電動で動く過度に便利なものへと発達しました。

 太陽電池で走るソーラーカーは、わずかなエネルギーで、普通の車にも匹敵するような速度で走るほど進化をしています。ソーラーカーレースに出場する車は、余分なものを捨てて重量を軽くし、空気抵抗を落とし、モーターから車輪に伝わる力を極力効率よくするのだそうです。つまり無駄な力のロスをそぎ落とすのですね。
 無駄な部分をなくすということで完成されたソーラーカーは、いかにも未来的な美しさに包まれています。そしてその美しさは、イルカやジュゴンの美しさと同じ種類の洗練された美しさです。

 手や足が消滅することは退化ではありません。それは無駄なモノを捨て、確実に未来に向かって進化をしている姿なのです。資源の枯渇や、資源の分配の不平等が危機を招いている現代の地球で、ヒトがこれから目指す進化の方向は、イルカやジュゴンの美しさであるべきではないでしょうか?


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(C) 1996 Hajime Nakamura.