同朋舎「GEO」にて掲載 1998年10月号
人喰い編−フグ−
テトロドトキシンの味

中村 元

水族館の水槽の前で、タイやクエなどを見ると思わず「美味しそう!」と言ってしまう方も、高級魚フグの水槽の前ではさすがに「美味しそう」とは言わない。美味しいフグ料理と恐ろしいフグ毒のジレンマは、普通の日本人にとってごく当たり前の事実なのだ。

フグ毒と呼ばれている毒は、テトロドトキシンという、毒に当たる前に舌をかんで死んでしまいそうな名前の神経毒である。猛毒であり、わずかな量で体を痺れさせ、呼吸困難を引き起こし死に至らせる。またテトロドトキシンは、煮たり焼いたりしても分解されることはなく、そのうえ無味無臭だから危険この上ない。
特に肝臓や卵巣などには高濃度に蓄積されて危険とされているが、種類によっては肉や皮に毒を持っている者もいる。そのため素人考えで内臓を取って調理して、中毒死する人もあとを絶たない。本来フグ料理には専門の免許が必要なのだ。考えてみれば、水槽に泳ぐフグを見ても食欲をそそらないのは、たいへん的を得ている感覚なのだ。

だが、ヒトはともかく、他の動物たちにとってはどうなのだろう?フグの毒はフグが身を守るために違いない。しかしある魚が知らずにフグを飲み込んだとしたら、これほどの猛毒だからその魚はフグと一緒に死ぬ。すると、理論的には、生きている魚の中にはフグに毒があると知っている者はいないことになる。食べられたフグには、死の報復をするだけでなんのメリットもないではないか。

実は、フグは驚いたり危険が迫ったりすると、体表からテトロドトキシンをにじみ出させるのだ。フグを知らない水槽育ちの魚に、天然の生きたフグをエサとして与える実験を見たことがあるが、その魚は躊躇せずにフグを飲みながらも、一瞬後に慌てて吐き出していた。明らかに、危険な味を感じたのである。ヒトには無味無臭のテトロドトキシンだが、魚にとってはかなり強烈な味があるらしい。

ところで養殖されたフグには毒がない。つまりフグは生まれた時から毒を持っているわけではなく、成長の段階で体に蓄積していくのである。しかし、だからといって養殖のフグの方が喜ばれるかと言えばそうではない。中国の詩人、蘇東坡の詩に「その味一死に値す」とあるそうな。フグには毒があってこそ美味いのだ。フグの美味さは、調理人に体を預けた信頼の美味さであり、そこまでしてフグを食うかという粋の美味さでもあるのかもしれない。

海外ではフグ料理が一般的でないばかりか、禁止されている国もある。かつてある日本人がニューヨークにフグ料理の店を出したら、危険だということで当局より閉鎖させられたとのこと。猛毒のフグを食べる日本人は野蛮であるとさえ言われている。しかし、野蛮といわれようが、危険と言われようが、寒い冬がやってくると、てっちり鍋を囲みつつ、これぞ食文化の極みと思うのである。

天下無敵のフグの毒も、ヒトの食欲の前にはなんの効果もない。ヒトにとってテトロドトキシンは危険で甘美な調味料でしかないのだ。


■鳥羽水族館情報
食用にはトラフグが上等とされ、ヒガンフグ、マフグなども使われる。ヒガンフグは彼岸フグ、死の世界を想像させる。鳥羽水族館では「熊野灘」の大水槽にいるのだが、豊かな熊野灘のことだから、一緒に泳いでいるのはクエ、カンパチ、タイなどの高級食用魚が多い。「美味しそう」の声が最も多いのがここだ。まるで生け簀料理店のノリである。しかし何人の方がトラフグを見て涎を垂らしているかは不明である。

GEO目次へ戻る

RUMIN'S ESSAY 表紙へ        地球流民の海岸表紙へ
(C) 1998 Hajime Nakamura.