2000年社会教育」10月号にて掲載
(財)全日本社会教育研究会発行
足のあるヘビ
〜命の多様性と想像力〜
中村 元

 小学校に上がったばかりの頃だった。林へ抜けるあぜ道で遊んでいた私と友だちは、驚くべきヘビを発見した。 なんと足のあるヘビである。
 そいつの胴体は、まぎれもなく一メートル弱のヘビだったが、異常に大きい頭部からは一対の立派な足が生えていたのだ。 そいつは、のたうちながらも足を震わせて踏ん張り、丸い目をこちらに向けていた。

 私たちは、習ったことも読んだこともない珍しいヘビを発見したことに興奮した。 二人にとってそれは、奇怪な化け物を見たという感覚ではなく、心躍る大発見だった。 それほど、そいつは当たり前のようにそこに存在したし、何よりも、二人はこれから様々なことを学んでいく発展途上人だったから、それまで知らなかった何を見たって、素直に受け入れることができたのである。

 しかし、じきに二人は、そいつが足のあるヘビなんかではなく、カエルを尻から飲み込んでいるヘビなのだと気付いた。 よく見れば、ヘビの口から後肢の先も少しはみ出ている。  ヘビもカエルも同じような保護色だったので、その境目に気が付かなかったのだ。

 普通ならヘビは、カエルを頭から飲み込むところなのだろう。 そうすることによって、カエルは速やかに窒息し、水中を前に進むがごとく自然に飲み込まれていくのだ。 ところが、このヘビはちょっと失敗した。 何かの拍子にお尻から飲み込んでしまったために、カエルはまだ生きているし、後肢が逆に開いてしまって喉につかえているのである。

 それに気付いたとたん、友達は決然と言った「カエルを助けよう!」
彼はそう言いながら、いつの間にか棒きれを手にしていた。 彼も私も、それまでにカエルをいじめたことも、ヘビを振り回して殺したこともある。 しかし、友だちの目には、飲まれゆくカエルの姿があまりに哀れで、喰らいつくヘビはいかにも禍々しく映ったのだろう。 

 ところが、なぜか私には賛同できなかった。 そして、理由がわからないもどかしさの中で、ふと思い立ち、自分の口を大きく開き、手を無理矢理押し込んでみたのだ。
 それはひどく苦しかった。 そして、指先が口の奧に触れたとたん、首のあたりが寒くなるほどの吐き気を覚えた。 賛同できなかった理由が分かった。 ヘビの苦しさが伝わっていたのだ。
 ヘビは食事の度に、いつだってこんな苦しさを味わっているのを知ったである。 私にはそのヘビが「もう少し、もう少し」と必死になってもがいているのが感じられたのだ。

 「やめとこ。ヘビが可愛そうやもん」 私がそう言ったとたん、友だちは一瞬、えっ?と怪訝そうな顔をしたが、すぐにそれもそうだとうなづいてくれた。 二人はそれから、カエルがゆっくりと飲み込まれていき、ついにはヘビの口の中に消えるまでの長い間を、息をのんで観察したのだった。

 その時から私には、他の命を奪ってしか生きられない生物の苦悩に満ちた姿と、それぞれの生き方の多様性が、想像できるようになったのだと思う。 動物たちに様々な形や生き方があるのは、神が定めたシステムではない。 それぞれの、必死に生きようとする意志によって、進化が決定づけられてきたのだ。

 イルカはより早く泳ごうとして、四肢を捨て毛皮を脱いだ。 カメは逃げ隠れするのが嫌だったから、重くて自由の利かない甲羅を背負った。 体を守るトゲをいっぱい突き出したウニがいれば、そのトゲに顔をしかめながら食べてしまうラッコもいる。
 そこにはどんな姿が一番いい姿だという法則などない。

 また、同じアシカでも、好奇心が強く積極的な者がいれば、臆病で消極的な者もいる。 積極的な者は、強く育ってハレムマスターとなり子供を残すのに成功するが、途中で死ぬかもしれない。 臆病な者は、逃げてばかりでいつまでもひ弱だれど、生き残ることによって子供を残すこともある。
 どんな性格や生き方が一番いいなんていう決まりもありはしないのだ。

 今、そんな当たり前のことを教えることができないのはなぜなのか? 
それは、公式や数値ばかりを、果ては「イイクニつくろう鎌倉幕府」などと、暗記の方法までもをシステム化して教えることに終始しているからである。 
 しかし公式や数値など、今はコンピュータに任せておけばいい。 鎌倉幕府が一一九二年にできたことよりも、鎌倉時代の人たちがどんな生活をしていたかを学ぶ方がはるかに歴史を学ぶことである。
 そして、資源量やリサイクルのことを学ぶ前に、我々動物のすべてが他の生命の命を奪ってしか生きられないことを知らなくては、本当の意味などわからない。

 私たちが見たカエルとヘビ。 その種類を知ることは、さほど重要なことではないはずだ。 そんなことには想像力も哲学も必要ではないからだ。
 それよりも、ニョロニョロとしか進めないヘビがなぜカエルを食べることができるのか? それでもカエルはなぜ絶滅しないのか? そんな様々な想像や思索を巡らせることから、科学も哲学も始まるのである。

 私が出会ったカエルとヘビ、子供の頃水族館で出会った動物たちの姿。 それらは進学には何も役立ちはしなかったが、私に想像力の限り科学することの面白さを教えてくれ、自分が生きていることに大きな理由を与え、今なお人生に多くの示唆を示してくれる。

 足のあるヘビが、確かにいるものだと受け入れることのできるのは、無限の想像力がある子供である。 そして、そんな素直な時代のヒトを預かっているのが学校なのだ。 これからの学校は、教科書を憶えていた教室から、想像力を働かせることのできるところへと場所を広げることが大切である。 そうすれば、子供たちの多様性の芽を伸ばし、さまざまな哲学の心を育てられると思うのだ。



社会教育は、(財)全日本社会教育連合会が発行する総合情報紙です。
見本誌をもらったら、教育や生涯学習に携わる方にはピッタリ。
連絡先は、千代田区霞が関3-2-3 (財)全日本社会教育連合会
TEL 03−3580−0608

essay
rumin'essay表紙へ

rumin@e-net.or.jp
home
地球流民の海岸表紙へ

(C) 2000Hajime Nakamura.

禁転載