平凡社コロナブックス「水族館に行こう」にて掲載

水族館から見えるもの

中村 元 

 水族館なんて別に気合い入れて行くもんじゃない、と思っておられる方は多いことだろう。 確かにそうかもしれない。水族館に行って精神的な安らぎが得られ、楽しむことができ、ついでに彼女を口説き落とせれば、まあたいていことは足りる。
 でも皆さんは水族館に入ったとたん、実はそんなこととは別の次元のことを感じているはずだ。 日常からは得られないこと、学校の授業では教えてもらえなかったこと、何かよくわからないけれど、生きていくのに大切そうなこと…。

 そう、その何かとは、知っていなければ困るというほどじゃないけれど、でもとっても大切なことだ。 ヒトが地球の動物として生きていくために、ヒトが人間として生きていくために大切なことが、水族館には潜んでいる。
 それに気づかずにいると、せっかく時間とお金をかけて水族館に来てくれているのにちょっともったいない。

 水族館でいったい何が見えるのか?水族館で感じることができるのはいったい何なのか?水族館をつくってきた側である私はいつも真剣にそれを考えてきた。
 少し耳を傾けていただけば、あなたにとって水族館はもっとおもしろいところになるにちがいないだろう。

 私が生まれたまちには海がなかった。 そのかわり、そこかしこに雑木林が点在し、ときおり氾濫する川が流れる見事な田舎だった。 だから当然のごとく、野生動物と出会う機会も少なくはなかった。 それはいつもほんの瞬きするような間の出来事だったけれど、私は今も彼らのことを鮮明に覚えている。

 森の中で出会った野ウサギとは一瞬目があった。 野ウサギはびっくりしたような顔をして体を硬直させ私を見た。 そして身を翻してピョンピョンピョンと3度跳ねて林に消えたのだ。 彼の顔も跳ねた方向も、今でも私の頭の中で鮮明な映像として再生できる。
 林の向こうに見えたシカの後ろ姿、カエルを呑み込もうとしてあえぐヘビ、森の中の池で躍った巨大な魚、火の鳥のように飛び立ったキジ…。 信じてもらえないだろうが、河原では河童にも会った。

 彼らはテレビや図鑑で観る動物とは違って、明らかに呼吸をし、なんらかの感情を持ち、何よりも私の住んでいる地球に生きている動物としての存在感があった。
 私たちの暮らしと同じように、彼らの生活があり、彼らの生活の延長線上に私たちヒトがいる。 そんなことを感じられるのは、生身の動物の生活を見るというライブな経験からだけだろう。

 水族館の水槽が巨大化する理由がここにある。 自然そっくりの環境を作り上げることによって、動物たちのライブな生活を再現したいのだ。
 そしてそれが、みなさんが水族館に入ったときに感じる非日常感の原因でもある。水の空間があるというだけで、地球環境に対峙することができる。 すでにそこから、私が生まれ故郷で感じていた地球感覚と同様の体験が始まっているのだと思う。

 まあ、別にそんなことを考えながら水族館に入らなくちゃならないわけではないのだが、とりあえず、ヒトの社会に支配されない地球へ飛び込ませる水族館マジックに騙されて欲しい。 ヒトの社会に支配されないというのはヒトの価値観に縛られないということなのだ。

 実は私は動物や海のことについて特に勉強したわけではなく、まるで知識のないままに鳥羽水族館の飼育係となった。 そんな私が飼育係になった初めての日、スポンジ一個を持たされて、ピラニアの水槽を内側から磨けと命じられた。
 アマゾンの猛魚と恐れられるあのピラニアである。 ご丁寧に「ピラニアナッテリィー:ピラニアの中でも最も凶暴な種類」などと説明が付いていた。 でもそんなもの見なくても、むき出した三角の歯と三泊眼の目、ぎらぎら光った額を見れば、そいつらがどのくらい危ない奴かは想像ができる。

 声を失い、リアクションに困っている私を横目に、先輩飼育係は「こうするんだよ」とおもむろに手を水槽に突っ込んだ。 その瞬間、想像していたような大惨事は起きず、水槽の中ではピラニアたちが慌てふためいて逃げ回っていた。

 後にアマゾンに行ったとき聞いた話では、ピラニアはどこにでもうようよいるが、それは大きな魚たちの餌になるためにいるようなものだと言う。 だからピラニアは大きな生き物に対してはこそこそ逃げ回っている臆病な魚なのだそうだ。 そしてたまに流れてくる死体を見つけると、ここぞとばかりに食らいつく。 その時骨のすみまでしゃぶれるようにむき出しの歯を持っているのだという。
 考えてみれば、ピラニアにとっちゃ生きていく上でそれは当たり前のことではないか?

 可愛い顔をしておなかの上で食事をするラッコ。 彼らは貝を石で割り、カニを食べるときは逃げないようにまずハサミと脚をもぎ取ってしまう。 すると「あら可愛い、頭もいいのね」と言われる。 カニの気持ちになったらたまらないだろうと思うのだが、ラッコの食べるものがヒトと同じだから、それは残忍でも極悪でもなく映るのである。

 ピラニアと言えば、残忍、極悪、凶暴のイメージから離れられず、ラッコは何をしても可愛い、それはヒトの価値観であり、多分に彼らの顔にも起因するのだ。 なんということか!小さい頃から外見で人を判断してはいけませんと教えられてきたのに、私たちは見事にそのいけないことをしてしまっているではないか。
 ピラニアはヒトを脅そうとして歯をむき出しているのではない。 ラッコはヒトに喜んでもらおうと思って貝を割るんじゃない。それぞれが生きるために精一杯戦い、納得しながら食い食われている。 そこは私たちヒトの価値観など入り込む余地のない世界である

 そんな大切なことに気づいたのは、初めてアシカたちのいる海に潜った時だった。 陸上では、まるで生ゴミの入った黒いビニール袋のようにどてっと転がっている巨体が、水中では飛行機のように飛び回り、私たちが不器用に潮流に弄ばれているのを、おもしろそうに見物にくるのだ。

 私は当時、アシカショーのトレーナーをしていたのだが、こちらがエサをあげる側という優位な立場にいるにもかかわらず、彼らはしょっちゅう私を咬んだ。 エサの差し出し方が悪いと咬み、隙があれば咬み、時には機嫌が悪いからという理由で咬むのだ。
 ヒトである私にとって、それはもう腹が立ってしょうがないことだったが、海中の彼らの雄志を見てからは納得することにした。 彼らが時折見せるあの不遜な態度は、偉大なる海の民としてのプライドだったのだ。

 アシカショーや動物園のプールで私たちが見るアシカの姿は、彼らにとっては最も不得意なほんの一部分の場面でしかない。 私はそれを知ったから、新しい鳥羽水族館にアシカの水中での姿を観察できるプールを作ったのである。 そのプールは彼らへの畏敬の念が形になったものだったといって過言ではない。

 水族館で感じて欲しいこと、それはそんな彼ら…ピラニアやアシカ、その他もろもろの動物たちの側から見た、価値観であり世界観なのだ。地球は人類のものではなく、地上の生物すべてのもの…などと立派なことを言えるようになった私たちであるのなら、世界をヒトの価値観で判断しない目を持って欲しいのである。

 水族館の水槽をよく見てみると、驚くばかりの種類の動物たちを発見できるだろう。鳥羽水族館を例にとれば、メインの魚類や人気者のラッコやジュゴンなどだけではない。 カメやカエルといった両生類爬虫類、飛べない鳥類であるペンギンもいれば、水生昆虫だっている。 そしてカニやエビ、クラゲやイソギンチャクのような、とても我々と同じ動物とは思えない連中。 彼らは可哀想なことに無脊椎動物と一くくりにされてしまっているが、圧倒的多数の彼らから見ればヒトの姿や生活はひどく特殊に映っているに違いない。

 これが地球なのだ。地球が豊かで歴史を大切にした惑星である限り、生命に絶対という基準はない、私たちが想像する以上に生命は多様性に富んでいる。
 地球上にすんでいる動物たちが、それぞれの価値観と意志によって自由に進化し生きていくことができる地球。 私たちにの目から見れば奇妙にうつる動物たちの姿も生活も、そんな地球の包容力の象徴であり、その子供たちである生命の意志の現れなのである。

 水族館にいる多様性に富んだ動物たちと、彼らのそれぞれの価値観から、皆さんの目に地球が見えてくれば嬉しい。 それは同時に、生命の意志を確信し、そして生命の一つにすぎない私たちヒトのルーツを知ることにもなるだろう。
 水族館とは、水槽の向こうに地球を感じ、多様な生命たちの価値観と、自分自身の存在を確認できる、神秘と現世の間にあるトワイライトゾーンなのである。 


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(C) 1996 Hajime Nakamura.