1999年倫理研究所『新世』11月号にて掲載
私の一冊
「アルジャーノンに花束を」
中村 元

 ヒトは誰でも、己を見つめる時がある。かっこいい哲学的な話じゃない。ただ単に、異性だの友人だの、まわりの人々から、自分がどう思われているのかが心配になって、知らず知らず自分自身を検証してみるのだ。
 たいていの場合は、自分のやっていること以上のことを、考えられる訳がないのだから、心配は杞憂に終わる。しかし「世間様」という言葉が頭の中をよぎったとたんに、心配は永久に続くことになる。自分が世間様という社会の中で、どう評価されているか、さっぱりわからないものだから・・・。

 もし、自分のことを客観的に、他人を見るように見つめることができたとしたらどうだろう?それはひどく怖ろしいことだ。己のバカさかげんや、己の間抜けな表情を見るなんて、恥ずかしくてとてもできやしない。
 ところが、「アルジャーノンに花束を」の主人公チャーリイ・ゴードンは、自分を見つめることになる。しかも見つめられる自分は、大人になっても幼児の知能しかなかった笑い者の自分。そして見つめる自分は、実験手術によって天才になってしまった自分である。
 それだけではない。一度は天才になったチャーリイは、また再び、幼児の知能しかない彼へと、戻っていってしまう。そんな自分をも、ゆっくりと見つめなくてはならないのである。

 しかし、この物語に緊迫した恐怖を覚える訳ではない。むしろ、いつしか、チャーリイがもとの彼に戻ってしまうのを、不思議に歓迎してしまうのだ。
 私たちがついつい気にしている「世間様」それは自分で考え出した根拠のない価値観にすぎない。そんなモノは糞食らえなのだ。自分を根拠なきモノに照らし合わせて悩むくらいなら、自分自身に忠実に生きた方がよっぽどマシじゃないか。
 友達だった天才ネズミの墓に花を供えるチャーリイの後ろ姿は、ヒトの本当の幸せのありかたを教えてくれる。


本当は、「星の王子さま」で書きたかったのですが、このコーナーは著名人による持ち回り連載で、案の定というか、すでに書かれてしまっていたのです。残念。


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(C) 1996 Hajime Nakamura.