2003年ぐっすり」(崑崙文舎)創刊号にて掲載
マブタの中の海

中村 元

眠りにつこうと目を閉じると、不思議な浮遊感に包まれる。
部屋の暗闇が、マブタを下ろした瞬間に異質の闇に変わるのだ。
それは水中ダイビングの感覚に似ている。ユラユラと定まらず、上も下も分からない、重力から解放された浮遊感。

水族館で初めての宿直。
新米飼育係のボクは懐中電灯で一つ一つの水槽を照らしながら、異常がないことを確かめていた。
ベテランだろうが新米だろうが、夜は宿直係一人がすべての水槽の最高責任者。だから異常があったりしては困るのだが、異常を発見したいという意気込みもあり、不安と期待感が入り交じって気分は高揚している。

そんな緊張の中で、いくつめかの水槽に懐中電灯を向けたとたん、ドクンと胸が音を立てた。
「いない!」水槽にたくさん泳いでいるはずの魚たちがいないのだ。
早くも水槽に異常あり!
新米飼育係は事務所に走って戻り、先輩飼育係に伝える。
「水槽の魚が1匹もいません!逃げたか、盗まれたか、とにかく一大事です!」
先輩と連れだって戻る。

すると先輩のやれやれという目。
「おい、これキュウセンの水槽じゃないか・・・」
うむ、消えたのはきれいなベラたちで、名前はキュウセンと言ったけ。しかし、だからなんだと言うのだ?新米には分からない。
「あのな、キュウセンってのは夜になると、いっせいに砂に潜って寝てしまうんだよ」
えっ?魚って寝るんだ・・・。
そういや、金魚は冬になると金魚鉢の底で冬眠していた。
しかしボクは、その時初めて、魚も日常的に眠るのだということを認識したのだった。

魚は眠る。
サンゴ礁の魚は、昼の派手な衣装を、夜には地味な模様のナイトウェアに変色させて眠るし、ブダイは毎夜、体の回りに粘膜でつくったカプセル状のカーテンを張って寝る。
サンゴのベッドから落ちて流されてしまわないように、ピンと立てたツノやヒレを突っかい棒にしながら眠る者たちもいる。
時速60キロ以上という高速で泳ぐマグロだって眠っている。
居眠り泳ぎでも群れからはぐれないのは、群れの周囲の水塊も一緒に移動しているからなのだそうだ。
しかしうっかり全員が眠ってしまったらどうするのか?少々心配ではある。

魚が眠らないと誤解されるのは、魚たちにマブタがないからだろう。
「マブタがない→目を閉じない→眠らない」の三段論法。
なるほど、しかし魚は目を開けたまま眠るのだ。

魚の眼の角膜はとても堅いし、水中で暮らしているのだから、眼が乾燥することもない。
そもそも、魚にマブタのないことが特殊なのではなく、陸上の動物にマブタがあることが特殊である。
勇敢な古代魚が陸上を目指して私たちの祖先となったとき、乾燥しては困る眼を、水分で包むために発明されたのがマブタなのだから。

つまりマブタの中は小さな海。
ボクたちはマブタを閉じるとき、いつもそこに海を見ているのだ。
ゆらゆらユラユラ、マブタの海の暗闇の中でボクの眼球が揺れる。
眼球は漂いながら、太古の海で眠っていた頃の記憶をたどる。
ボクはいつも海の中で眠りにつく。



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