1997.12 ダイヤモンドプレス「T&R Lounge」にて掲載
生命に戻るとき

中村 元

 海のない田舎で生まれ育った私にとって、海はいまだに畏れを感じる存在だ。だからと言うわけではないだろうが、私の海の旅には必ず厄難がついて回る。

 ジュゴンの調査では、泳いでいる最中に腕時計が漁網にひかかり、あわやという時に時計をはずして助かった。タスマニアで水中ビデオを回していた時には、ジャイアントケルプ(巨大なワカメ)にからめ取られ、エア切れとホオジロザメの恐怖に震えた。撮影に夢中になって怒ったアシカに追いかけられたり、ダイビングの後で浮上したら、待っているはずの船が故障で見あたらなかったり、巨大な波にスタッフをさらわれたこともある。
 しかし、そんな恐怖の経験の後、しみじみと「生きてるなあ」と実感して嬉しくなる。

 広い宇宙の中で、たいした人生じゃないかもしれないが、私は確かにこの地球に生きている。そんなふだんは忘れている当たり前のことを実感できるのだ。
 生命としての自分に気づくことができるのは、素晴らしいことだと思う。リゾート地に住みながら、年中休みもなく睡眠不足で、経済と人間関係に神経を減らせている、典型的なジャパニーズビジネスマンの私にとって、自然のど真ん中で裸の一生命に戻れる瞬間こそが、至上のリゾートなのかもしれない。

 ところが、カリブの海で、ドルフィンダイビングとシャークダイビングに挑戦した時、私は思いもかけない妙な感覚を味わった。
 動物愛護にうるさいアメリカ人が、アメリカ人リゾート客のためにやっていることだから、水族館の私としては興味津々だった。
 ドルフィンダイビングは、湾内で飼育しているイルカを海に連れていき、水中でダイバーと遊ばせる。イルカは私たちと遊んだり写真を撮られたりする事によって、エサをもらえるのである。そうして私たちダイバーは、ヒトとイルカが友だちであることを信じることができるというわけだ。

 一方、シャークダイビングでは、事前のレクチャーでサメがいかに危険かを教えられる。そして私たちは、鎖帷子をまとい棍棒で武装した筋肉モリモリボディーガードたちに囲まれながら、10数匹の巨大なサメが待ちうける海に潜るのだ。
 サメは、次から次へと私たちに向かってくる。ボディーガードはそいつらを棍棒で打ちのめす。恐怖のシャークダイビングの始まりだ。ところがよく観察していると、打ちのめされたサメは、次に近寄って来るときにはエサを貰っているではないか。なんのことはない、サメたちは棍棒で打ちのめされるという仕事と引き替えに、エサを貰っているのだ。 つまり、イルカもサメもビジネスなのである。

 ただ、イルカはベビーフェイス(善玉)役、サメはヒール(悪玉)役を演じているに過ぎない。なるほどこうしてアメリカ人たちは、ますますイルカが好きになり、ますますサメを怖がるようになっていくのだろう。
 そしてこれが、動物界の頂点に立つヒトが考え出した、自然界で安全お手軽に野生動物と出会い、コミュニケーションを持つ方法なのである。
 ここには生命の存在や尊厳などどこにも見つけられはしない。私はヒトと動物たちのビジネスライクな関係に、なんだか憂鬱な気持ちになってしまった。これだったら水族館の方がずっといい。

 地球の魅力は、生命を生みだし死を与える巨大な力であり、そこに生まれた生物同士の出会いは、常に生死を賭けた戦いであると思うのだ。そしてヒトもまたそんな地球に生きている一生命なのではないか。
 ビジネスを教え込まれ、友情を演じるイルカや悪玉に成り下がっているサメに、わざわざ会わなくても、海はいつも「お前は生命だ」と教えてくれる。だから私はまた懲りずに、厄難だらけの海の旅へと出かけるのだ。 


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(C) 1996 Hajime Nakamura.