RUMIN’s ESSAY
文・写真共に禁転載


     旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第21回)
      97年12月号(11/15発売)











 

 地中海にすむナガスクジラ。ボートを怖れることもなく、興味を示すでもなく、我関知せずといった風情だ。

 
地中海のクジラとウサギ
                    中村 元
 海洋カメラマンの中村庸夫氏から、クジラの水中撮影に一緒に行かないか?と誘われた。彼はクジラの写真集も出しているくらいだから、クジラと会うことに関してはプロ中のプロである。
しかも場所は地中海、南フランスだというではないか!絶海の孤島だとか南氷洋だとかに潜るわけではないのだ。 軟弱なダイバーである私は、未だにクジラと泳ぐチャンスに恵まれたことはなかった。それがなんと南フランスである。もちろん私は全ての仕事をなげうつ覚悟で、大きくうなづいていた。

 地中海の夏は、日本よりはるかに過ごしやすい。しかし海の天気が変わりやすいのはどこでも同じだ。到着した日から、風が吹いたり雨が降ったりする。
 ただの地中海観光ならば何の問題もないのだが、ボートでクジラを探し出して、水中撮影をしようという我々にとっては、あまりよくない天気である。
 クジラの撮影のために予定してあった日があと2日となったとき、空は真っ青に抜け、風は止み、撮影には最高の日が訪れた。
 水中ビデオを抱えてボートに乗り込んだ私は、思わず武者震いをする。自分が船に弱いことなどとうに忘れて、揺れるキャビンの屋根の上に駆け上がった。

 ところで、昨夜のレストランで、同伴してくれる専門家たちから面白い話しを聞いた。フランスでは、船に乗っているときには、絶対に「ウサギ」という言葉を口にしてはいけないというのだ。
 私が「心配するな、オレが知っているフランス語は、ジュ・テームだけだ」と笑うと、英語だろうが日本語だろうがウサギのことを言ったら、よくないことが起こるから、絶対に言ってはだめだと真剣に言い張る。
もしかすると白波がウサギがはねているように見えるから、波を呼んで嵐になるというような迷信なのかもしれない…そんなことを考えながら、クジラを探していると、なにやら白いモノが遠くに浮いているのが見える。
 退屈しているボートのキャプテンは、そちらに向かった。ところが近寄ってそいつの招待が分かったとたん、乗組んでいたフランス人たちに異様な沈黙が訪れたのが感じ取れた。
 海を見てその理由はすぐに分かった。なんと海の真ん中に浮いていた白いモノは、ウサギのキャラクターの風船だったのだ。ご丁寧に長い耳までついているから、他のものには間違えようにもない。

陸が見えないような沖で、巨大なクジラに会うことができないのに、海にはいないはずの、口にしてはならないウサギに会うなんて……事実はマンガよりも奇なり。
 そして迷信とはまるで縁の無いような、西洋の動物学者たちが、ウサギの風船を見たとたん、実にすみやかに沈黙を始めたのだから、なおのこと笑わずにはいられない。
 私は彼らには理解できない日本語で「そいつはウサギじゃないか!」と叫んで大笑いをしていた。さてさてどんな悪いことが起こるのだろう? しかし、その10分後に、私たちはクジラの噴気を見つけたのである。

 「クジラだ!」船長の声が海の上に緊張感を貼り付ける。私の目にも噴気がはっきりと見える。
 噴気の下のあたりが、輝くコバルトブルーに透き通っている。巨大なクジラの背中によって海に浅瀬ができるので、そこだけがまるでサンゴ礁でもあるかのように、コバルトブルーの海が出現するのだ。
 そのコバルトブルーの海が、形を変えながら移動をするのを、私は食い入るように眺めていた。しばらくすると黒い島が現れて噴気を吹き上げる。それは驚くほど近くだった。
 気が付けば、クジラはあっけないほど簡単にボートのそばまで近づいていたのだ。水中ビデオを用意するどころの話しではない。
 とりあえずカメラバッグからスチルカメラを取り出し、シャッターを押すことにする。
 クジラはシャッター3回分だけボートと並んで泳ぎ、その一瞬後に尻尾をわずかに上げて、海中深く潜っていった。

 私は、子供の頃近所の森で見た野ウサギを思い出していた。そいつはほんの一瞬私と目があって、ピョンピョンピョンと3回跳んだら、見えなくなったが、それでも私の脳裏に彼の記憶を鮮やかに残していったのだ。
 さっきの風船ウサギは、あの時の野ウサギの分身だったのかもしれない…。


 旅の手帖タイトル集へ戻る





HAJIME'S PAGE
(C) 1996 Hajime Nakamura.
禁転載