RUMIN’s ESSAY


    旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第14回)
      97年5月号(4/15発売)













 ジャイアントケルプ(オ ニワカメ)は、その名の通 り巨大な海藻だ。海底に根 をはって林立している様は、 まるで海の森のようであり、 そこにはたくさんの小動物 がすんでいる。

タスマニア危機一髪
中村 元 
 今回はちょっとライブにお届けしようと思う。今(と 言っても1月だが)、タスマニアに滞在し、この夏から 開催予定の特別展示に使う映像を取材している最中なの だ。 タスマニアは地図で言えばオーストラリアの右下にある 三角形の島だ。島と行っても北海道を少し小さくした程 の大きさで、タスマニア州というオーストラリアの中の 一地域となっている。 ただし、オーストラリアと言えば思い浮かべるゴール ドコーストやグレートバリアリーフの、海から天まで突 き抜けるような明るさはない。この先にはもう南極大陸 だけという最果ての土地なのだ。1月と言えば南半球で は夏の真っ盛りというのに、風は冷たく夜は寒い、ヤワ な日本人には半袖で歩くなんて無謀なことはとうていで きない陽気だ。  実はもう一つ私が陽気になれない理由がある。という のも、今回は私が自ら海に潜って水中ビデオ撮影をしな くてはならないからだ。そしてその最初が、今滞在して いるジョージタウン沖合の孤島に群れるオーストラリア オットセイの撮影である。  ここ数年ディスクワークに忙しく、年に1回程度のリ ゾートダイビングしかしていない私にとって、作業つき のダイビングは危険で荷が重い。しかもタスマニアの冷 たい海に備えて生まれて初めてのドライスーツを着るこ とになっている。ウエットスーツと違って水に濡れない ほど機密性のいい潜水着だが、体の自由は利かず、圧迫 感があって苦しい。  孤島では、ちょうどオットセイの子供が泳ぎ始める頃 で、それを狙って大型のサメが徘徊している時期である。 5年前にダイバーがサメに食われた事実もあるというこ とだが、私にとって怖いのは、サメよりもダイビングそ のものだった。 しかしオットセイの群がひしめく孤島を目にしたとた ん、自然と気持ちは高ぶる。私は体に30キロもの機材 を背負い、久しぶりの水中ビデオカメラを手にして、船 から飛び込んだ。海には長さが20メートルにもなるジ ャイアントケルプ(巨大な海藻)が林立していた。  サメは海底にいるものは襲いにくいというオーストラ リア人の言葉を信じて、とりあえず海底まで一気に沈む ことにする。ところが海底についてからオットセイの島 の方を目指して泳ぎ始めようとしたら、ケルプの枝がダ イビング機材にひかかって体が前に進まないではないか。 「まいったな…」とつぶやき、自由になる左手だけで、 グルグルともがきながらケルプをほどいた。  そして気を取り直し、再度泳ぎ始めたところで、大変 なミスを犯したことに気が付いたのである。右足が動か ない!さっきぐるぐる回ってもがいたときに、ケルプが ひどく巻き付いてしまったらしい。そして同時にもう一 つのミスに気が付いた。シーナイフを持たずに潜ってし まったのだ…。 ドライスーツと機材で着膨れした私には、ケルプが右 足にどんな具合に巻き付いているのか見ることもできな い。千切ろうとしたが、直径が何センチもある茎のとこ ろが絡まっているらしい、ナイフなしではとても無理だ。  パニックに襲われそうな自分を、深呼吸で落ち着かせ ているとき、右足が少し浮いてくるのが分かった。どう やら絡まっているのは、ケルプの水面近くの部分らしい。 それなら少しは望みがある。  私はベストに思い切り空気を入れた。浮き上がる浮き 上がる、あと5メートル。そこで右足は再び引っ張られ、 浮上は止まってしまった。万事急須!こんどこそパニッ クが襲う。 必死で足を見ようと体を曲げるうちに、別 の枝が私の水中マスクに絡みつき、マスクにザーと水が 入り視界がなくなった。そこで思い出したのだ。ここで 暴れたら、次には口にくわえたレギュレーターが奪い取 られる。そうなったらもうお終いだ。「ボンベの空気は まだ2時間ある。俺には不可能はない。パニックはすべ てを台無しにする。落ち着け。」そう唱えながら深呼吸 を3度。  そして右足を軸に体を回転させてみた。足の締め付け が少し軽くなって少し浮上する。慌てずに急がずにそれ を慎重に続けると、少しずつ海面が近づく、そしてフッ と体が軽くなり海面へ。助かったのだ。  人間は万能ではない。いつだって気を抜いたら簡単に 死ぬのだ。文明の中で温々と暮らしているうちに、そん な事さえ忘れていた自分が恥ずかしかった。
 オットセイの島の前は、一面
がケルプ、ケルプ、ケルプで埋
まっている。


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(C) 1996 Hajime Nakamura.