卒業記念作品「はじめの一歩」 1996年12月作成
はじめの一歩−1
JCには鉄腕アトムの正義がある
だからJCが好きだった…

社団法人 鳥羽青年会議所
1996年度理事長 中村 元



JCはかくあるべき、Jayceeはかく行動すべき。
これはもうはっきり言って私の勝手な思いこみなのである。
この多様性の時代に、かくあるべきなどという言葉自体がすでにおかしいのだ。
でも一度、文字にして書いてみたかった。
ここ数年ブロックのアカデミーや他LOMのセミナーで講演させられている内容、昨年50億を編集してきた編集方針、本年JC-NETのJC広場で書き込んできたこと、そして 理事長をして気づいたこと、そんなことの要旨を簡単にまとめてみた。
今年で卒業してしまう私にとって、今以上のJCに対する思いも知識もあり得るはずはなく、今以上JCを理解することもないだろう。
でもできれば卒業してもJC現役の頃の自分に正直に生きていきたいと思う。
なぜならそこには、自分の生き方を決定的に変えたたくさんのものがあったからだ。
これはそんな現役最後の消えゆく自分に対する遺言状のようなものである。
もしこれが現役の皆さんが悩んだときの何かの参考になれば幸いである。


だからJCが好きだった・・・:目次
T.鳥羽JCの本質編
T-1 JCは何をめざすのか?
T-2 ビジョンなきJCに行動なし
T-3 頼りにされるJCになるために
T-4 JCは失敗が許されるのか?
T-5 だからJCが好きだった
U.運動編
U-1 デモクラシー運動
U-2 地球市民意識とまちづくり
U-3 指導力開発に望まれること
U-4 JCの広報
U-5 自己改革の本当の意味
V.リーダーシップ編
V-1 リーダーの器とJCの可能性
V-2 できる!から始めよう
V-3 好かれるより頼りにされることの喜び
V-4 自分の土俵で闘うな
V-5 ロールプレイングの本当の意味

W.組織と運営編
W-1 理事の責任
W-2 理事会の意味
W-3 三役会は真剣に悩み、
         ぶつかり合いたい
W-4 出向者とLOM
W-5 JC−NET



T.鳥羽JCの本質編

T-1 JCは何をめざすのか?

 入会して15年、私は何度JC綱領を繰り返し口にしてきたのだろう。最初は空で言うのが精一杯だったが、あるとき自分の言葉の中に綱領の一節がごく自然に入っていることに気づき驚いた。 『明るい豊かな社会を築き上げよう』
 それはもうJCの活動のすべての根幹であり、決して変わることのない大目的だ。私たちのいうまちづくりとは、明るい豊かな社会を追い求めることなのである。
 何故JCがそんなことをしなくちゃならないのか? それは私たちには家庭人として、市民として、国民として、そして人類として、未来への責任があるからだ。
 『われわれJAYCEEは、社会的・国家的・国際的な責任を自覚し…』
 そう、JCは未来のすべてに対する責任を感じた志ある者の集まりなのだ。
 たった一年間の事業を考える前に、たった一度きりの事業や担当例会のことを考える前に思い出したい。社会的・国家的・国際的な責任を自覚し、明るい豊かな社会を築き上げるために、JCのすべての活動は行われているということを。


T-2 ビジョンなきJCに行動なし

 JC運動には未来に対するビジョンが必要だ。
 なぜ会頭所信や理事長所信の最初に「今世界は…」とか「今、時代は…」なんて入っているのか?それは自分自身のビジョンを展開するのに、まず社会環境を明確にする必要があるからに他ならない。
 ビジョンとは、その時代におけるJC運動の方向性であり、行動のきっかけである。
 どれほどすぐれた手法を知っていても、どれほど素晴らしい講師を擁していても、ビジョンがなければ、行くあてもないのに車を借りてきたようなものである。 行き先のない車など、動かす気にもなれないし、だれも乗ってはくれないだろう、それを無理矢理動かせば、無駄にガソリンを使い不必要な事故まで起こすのだ。
 まちの未来ビジョンを描いて、初めてまちづくりができる。理事長のビジョン「所信」を理解して初めて事業計画が立てられる。
 ビジョンなきJCに行動はできない。そしてまた行動なきJCにビジョンはつくれない。ビジョンから行動へ、行動から新しいビジョンへ、それが単年度制の連続である。


T-3 頼りにされるJCになるために

現在鳥羽JCは市民からある意味で頼りにされている。それは先輩達が築き上げてきた鳥羽JCの歴史が築き上げてきたものであり、いまさら自信がないから頼りにしないでくれといっても通用しない。そして同時に、気を抜いていればすぐにでも不信感を抱かれる程度の、実にあいまいな信頼感でもある。
 なぜ、JCが頼りにされる組織なのか?それは私たちメンバーが、まちから逃げ出すこともできないほど地域に根ざしていると同時に、非常にグローバルな目をもち、しかも代償を求めることもなく社会活動を行っているからである。
 さらに重要なのは、JCを構成している我々JCメンバーが市民でもあるという厳然たる事実だ。私たちは行政の手先でもなく、経済界の代表でもない、市民の側に立った視野が広く行動力のある若くて元気な統制のとれた集団、それが鳥羽におけるJCの姿なのである。その姿を保っている限り、JCはいつまでも市民から頼りにされる組織でありつづけることだろう。


T-4 JCは失敗が許されるのか?

40才までは失敗が許されるからJCは失敗を恐れるな。などという訳の分かったような分からないようなことがよく言われる。JCは失敗を許される団体なのだろうか?
 そんなわけはない。いくら若くても失敗は恥ずべきことだし、必ずや誰かに迷惑をかけることである。もし許されるとしたら、失敗を犯さないためにどれほどの努力をしたかがその基準となる。
 委員会や理事会で議論を重ね、理事の承認を得た上で、失敗をしないための最大の努力をした場合にのみ、その責任は担当者でなく理事全員のものとなる。しかしそれでも、対外的に失敗をしたのであれば社会はJCをバカにすることだろう。
 とにかく注目されているのだ、衆目の中で失敗していたのでは信頼はがた落ちである。
ただし、失敗を恐れるばかりになんの行動にも移せないのは論外である。
 JCは失敗を許されるのではない。「JCは失敗を恐れるな!」その程度に考えておいたほうがいいだろう。


T-5 だからJCが好きだった

 私がJCを好きだった最大の理由は、JCの世界の中では正義が正義として通るということである。
 だれに雇われているわけでもないし、どこからお金をもらっているわけでもないから、その行動に正義が見いだせなければ、だれもついてはこないだろう。
 あるときいみじくも樫畑会頭が、「JCには鉄腕アトムの正義がある…」と語ってくれたが、そう、JCの正義とは人を基本とした社会正義だと思うのだ。
 そして、人が多様性に富んでいるのと同じように、様々な価値観における正義がある。
だからJCはいつも悩み、議論をしているのである。
 さらに、鉄腕アトムは自分の信じる正義のために、いかなる行動をも起こす。
 かれの信じる正義がはっきりしていて、その行動が利他的であるからこそ、だれもがかれに共感し応援するのである。
 鉄腕アトムと同じように、悩みそして必ず行動を起こす、私はJCのそんなところが好きだった。


U.運動編

U-1 デモクラシー運動

 まちづくりの事業をすると、「市民を巻き込んで」なんてことをよく言ってしまう。
 でもそれはちょっと違うのだ、われわれJCメンバーも市民の一員である。同じように行政マンも学生も主婦もみんな市民の一員である。
 生活者という言葉を借りてみればわかりやすい。市民が生活や文化のレベルでまちを考え社会をつくりあげること、それがデモクラシー運動の基本だ。
 経済効果を狙ったまちづくり、行政によるまちづくりは、経済基盤づくりとインフラ整備でしかなく、まちづくりの大目的たり得ない。大震災の後の神戸がいい例ではないか、まちは破壊されても人は残った。そしてその人たちがまちを復興させたのだ。
 ありがたいことにJCは行政やデペロッパーのような職業まちづくり人ではない、そして経済人としてもまちの生活に密接につながった職業が多いではないか。
 鳥羽の生活者としてまちを考えて明るい豊かな未来を目指す、そこから経済基盤への取り組みが生まれるのもいいし、都市計画に取り組むのも結構だと思う。
 ただ、基本は、鳥羽に生活をしている市民の一員として、考え行動を起こすことであることを忘れないようにしたい。それがデモクラシーではないか。
 そうでなければ、いつまでも「市民を巻き込む」なんてことが出来るわけがないのだ。


U-2 地球市民意識とまちづくり

 地球市民というとすぐに国際協力を考えてしまうが、JCはNPOの真似事はできてもNGOにはなれるわけではない。 鳥羽JCにはなじみの深いGTSも、国際協力をするための事業ではなく、これからの時代を感じる体験学習なのである。
じゃあその体験学習で何を感じ取らねばならないのか?
 まず一つには、世界が国家やイデオロギーで形成されているのではなく、ひとり一人の個人の集合であるということ、そしてそのひとり一人は様々な価値観を持っているということを理解しなくちゃならない。(なんのことはない、小さなデモクラシーの世界である)
 そしてもう一つは、消費主義文明の裏やイデオロギーの闘争の影に、また私たちの豊かで平和な生活の延長線上に、同じ人間の貧困や飢餓や死や、そして悲しみが生み出されているという、そんな悲しいバランスがあることを現実として受けとめることだ。
 今まで先進国を支えてきた消費主義経済は、その価値観と共に崩れ去ることであろう。
 人と人がつくる新しい価値観による経済や社会、そんな新時代に対応できてこそ私たちは青年経済人たる市民なのである。


U-3 指導力開発に望まれること

 CD(社会開発)とLD(指導力開発)は両輪の輪である…と言われ続けてきたが、それは今の世にも十分通じる言葉である。なぜなら社会づくりを真剣に推進するならば、社会を理解し社会を動かすことの出来る人材が必要だからだ。
 しかし多様性を認め、人が作る社会を主張しはじめたJCにとって、かつてのセミナー型の意識開発プログラムや精神訓練は、ある意味で無用のものになりつつある。
 日本JCから研修室がなくなったのは、バーチャルな研修よりももっと大切な事業があり、しかもそれに打ち込むことによりセミナーによる研修よりもはるかに貴重な精神訓練が出来たからである。日本JCよりその事業を引き渡された各地のブロックでも研修と言えば新入会員相手のアカデミースクールが主流となってきている。
 今の時代に必要な指導力とは、時代を読む力であり、新しい知識を得る努力であり、ビ
ジョンを展開できるセンスであろう。コミュニティー・地球市民意識・環境・高度情報化と、現在の社会が抱える問題は多様化しており、JCはそのひとつ一つを理解しながらまちづくりに取り組んでいかねばならない。
 そのような人材をつくることのできない指導力開発であれば、それはあまりにも意味のないものである。
 今後ますます多様化複雑化するであろう社会づくり。それに対応したメンバーづくりのためにこそ指導力開発系の委員会が必要なのである。
 よって指導力開発担当者は常にまちづくりを研究しておかねばならない。特に人数の少ない鳥羽JCでは、だれもをまちづくりの即戦力にさせる指導力開発が必要なのである。


U-4 JCの広報

 JCは広報が下手だとよく言われる。
 しかしながらそれをよく聞いてみると、事業をやっても新聞に載らないという程度のことなのである。それはつまり運動の本質論ではなく、JCの存在をアピールできないという意味であるらしい。
 もちろん、それはそれで大切なことであり、ありがたく耳を傾け努力するべきなのだが、実はJCの広報下手はもっと別なところにあるのだ。
 それは、JCの理念や運動のプロパガンダをたいして行っていないということである。
 鳥羽JCは規制緩和をどうやって市民に伝えただろう、もったいない運動は? 地球市民意識は?私たちはどうやってまちにJC運動をプロパガンダしてきただろう?
 これができるのが、広報とばなどへの折り込みであったり、フォーラムやシンポジウムなどの集会を開いて伝えることなのである。
 市民を集めなくちゃならないのは、イベントの成功のためではない。
 提言書を配るのは活動をアピールするためではない。
 すべて運動を効率よくプロパガンダするための手法なのである。


U-5 自己改革の本当の意味

 さすがに今では、JCの自己改革が懇親会を止めることだとか、事業を縮小することだとか、会議を簡素化することだとか、そんな主旨の外れたことをいうメンバーはいなくなったのはありがたい。しかし、今でもJCの自己改革という言葉を忘れてはならない。
 自己改革の最も大切な部分は、目的意識にそった行動をするということである。
   ・事業のための事業を行っていないか? (事業目的の喪失)
   ・継続のための継続を行っていないか? (継続目的の喪失)
   ・組織運営のためのJC運動を行っていないか? (運営のためのごまかし)
   ・役職をこなすための事業計画を立てていないか?(役職のこなし事業)
   ・会議のための事業計画をたてていないか? (会議の目的喪失)
 このように、常に自分自身やパートナーに問いかけてみればいい。知らぬ間に表面の絵面合わせを始めていた自分に気づくはずだ。
 大目的は「明るい豊かな社会を築き上げる」こと、そして当面の目的は自らの委員長所信なり、理事長所信なりに掲げた理念の実践である。
 感動・子供の笑顔・達成感・帳尻合わせ…と、目的意識をどこかに吹っ飛ばしてしまう甘い魔の手はどこにでも潜んでいる。また事業を組み立てる最も厳しい場面で、議論に入り込んでしまう余り目的意識を忘れてしまう。
 成功だと思ったとき、なんとかなりそうだと思ったとき、あるいは議論がかみ合わなくなったとき、そんなときにこそ今一度自己改革だ。
 いったい何が大切でなにが目的だったのか? なぜJCがやらなくちゃならないのか?そこに立ち戻れば、ものごとの本質が再び見えてくるのである。


V.リーダーシップ編

V-1 リーダーの器とJCの可能性

 鳥羽JCの歴史や、よそのJCの影響力のある活動を例に挙げるまでもなく、JCは時折無限の可能性を発揮する。それはJCあるいはそのリーダーが時代を読みアクティブに行動した時に発揮される力であるが、なによりもJCの可能性を信じるメンバーが揃ったときにJCの可能性は無限となる。
 ひとり一人が自分の枠の中だけで考えていては、鳥羽JCはただの若者の集団になってしまう。特にリーダーたるメンバー(執行部・委員長)が、可能性を自分の枠で閉じてしまったら、その下で行われる事業は鳥羽JCのものではなく担当者の器のものとなってしまうだろう。
 無限の可能性は、無限の可能性を信じる心から発揮できるのである。
 私はよくこんな考え方をする。「たかだか自分の考えたことだ、自分で考えたことくらい自分でできるだろう…」「たかだか自分の考えたことだ、自分の考えたことくらい鳥羽JCのパワーなら簡単に完成させてしまうだろう…」と。そして今まで、自分も鳥羽JCもその期待を裏切ったことは一度もなかった。


V-2 できる!から始めよう

「それは不可能だろう…」「私には無理です…」JCメンバーの中でそんな会話が出ると、JCが青年だなんて信じられなくなる。 努力もせずにできない理由を並べ立てられると、「じゃあオレがやってやるよ」と言ってしまう。
 もともと世の中に簡単にできることなんて一つもないのだ。
 他のだれかがやったって簡単にできることを、JCがわざわざ組織的に1年間かけてやったってしょうがないのだし…
 「できる」と思ったときから全ては始まる。
 不可能になる理由を考えているより、不可能を可能にするにはどうすればいいかを考える方がずっと楽しいと思うのだがどうなんだろう?


V-3 好かれるより、頼りにされることの喜び

 嫌われるよりは好かれる方がいい。しかし全てのメンバーや全ての市民に好かれることなど不可能である。こちら立てればあちらが立たず…それは世の常であるといえよう。
 それでもJCはメンバー同士長きにわたって行動を共にせねばならないし、うむをいわさず苦手なメンバーと一年コンビを組まされることもある。また嫌でも矢面に立たなくてはならないことも少なからざるのである。
 どんなに評判のいい男でも一年間理事長やら委員長など責任ある立場を終えたら、必ず幾ばくかの批判をされることは覚悟しなくちゃならない。さまざまな価値観があるのだから、彼のやり方を気に入らないメンバーは必ずいるのだ。
 私が常に心掛けてきたのは、ある先輩がポツリと言った「好かれるより、頼りにされたい」の一言だった。
 頼りにされるようになるのは好かれるよりも比較的簡単だと思う。
 人より信念をもって、人より勉強して、人より最期まで頑張って、率先して理想を口にし、口にしたことは何があってもやり遂げる。それだけをやってきただけで、私のようなタイプの人間でも、なんとか恥ずかしい思いをしなくてもよかったのだ。
 最終的にどのくらい頼りにしてもらったかは自分ではよく分からないが、いつも自分でも後悔するほどの高い目標設定をしたにもかかわらずみんなが支えてくれたのは、メンバーの心の中に、こいつは逃げ出す奴じゃないという安心感があったからじゃないかと思う。

V-4 自分の土俵で闘うな

勝負事や商売は相手を自分の土俵に上げるのがコツだ。それは何故かといえば自分にそれだけの能力しかないからだ。結局は分をわきまえて勝負しろということなのである。
しかしJCは違う。だれと勝負するわけでもないし、勝ち負けがあるわけでもないのだ。
 なのに私たちはついつい自分の土俵にしか上がろうとしない。
 まちづくり一本でやってきて、ブロックでもまちづくりを始めたほどまちづくりが好きだった私は、次の年にGTSの委員長を仰せつかったとき、実際辞退しようと思うくらい悩んだものだ。
 そう、国際貢献は自分の土俵じゃなかったからである。
 でもやってみた、力の限りやってみた。そしてふと気が付いたら地球市民意識は完璧に自分の新しい土俵になってしまっていた。
 JC-NETでも、やりたくもなかったけど委員長仲間のために広報ボードを提案して実行してみた。そしたら1年もたたないのにJC広場のボードオペに収まってしまっていた。  今じゃいただく講演依頼は、まちづくりより地球市民意識や通信のテーマのことの方が多い。
 JCのトレーニングとはこういうことだと思う。知らない土俵にすすんで上がるのだ。
 そうすれば新しい自分が見えてくるし、自分の新しい土俵が誕生するのである。


V-5 ロールプレイングの本当の意味

 JCの役職は一年ごとのロールプレイングであると事あるごとに言い続けてきたが、最近ずいぶん間違った意味で使われることがある。一年間役職を「こなす」ことがロールプレイングだと思われているような節があるのだ。ロールプレイングとはこなすことではなく演じることである。しかも完璧に…。
 役職が決まったら、理事長は理想の理事長像を、委員長は最高の委員長像を頭の中に描いて考えられる限り最高の理事長や委員長を演じはじめなくてはならない。本人のカラーとか適正などは後回しである。そこにはNGなしの本番が控えているのだから…。
たった一度きり、戻ることのできない本番を演じる。しかも観客はJC一座に対する期待感と違いの分かる目を持ったメンバーであり市民なのである。
 こなしの演技にはブーイングが飛ぶだろうし、失敗には野次が飛ぶだろう。
 かくも厳しいJCの世界を表したのが、「JCの役職はロールプレイング」という表現なのだ。「どうせロールプレイングだから…」って、そんな使い方をされるのは不本意だ。


W.組織と運営編

W-1 理事の責任

 理事の役割を真剣に考えたことがあるだろうか?
 実は鳥羽JCの理事は立場があいまいである、事業主体者である(会務系の)正副委員長がそのまま理事という形態は通常ではないのだ。
 本来は、ブロック会員会議所で会務系のブロック役員と表決権のある理事長の立場が別であるように、会務系の委員長と理事とは別個のものなのである。
 ところが鳥羽JCの場合は、人数の問題でそれが兼任となっている。
例えてみれば、官僚が国会議員を兼ねているようなものである。
 だから鳥羽JCの理事会では、事業を行う正副委員長の立場と、メンバーの代表として意見を申し立てる理事の立場は使い分けねばならない。
 つまり正副委員長としては執行部からのラインであるが、理事としては執行部に物申すメンバーから選ばれた立場であることを認識せねばならないということだ。
いうまでもなく理事会とはメンバーの代表である理事の会である。その理事としての責任は大きい。その自覚が鳥羽JCのシステムでは、ついつい希薄になってしまいがちなことに注意したい。
 理事構成メンバーは正副委員長である前に理事。それを十分理解してもらいたい。


W-2 理事会の意味

JCのように組織運営がしっかりしている組織にとって、理事会とはそこで意見を出し合ったり、何かを作り上げたりする会議ではない。あがってきた計画についてその正当性をはかる会議であるのだ。
 そんなことは議案が理事会に出てくるまでに、委員会や三役会で出尽くしているべきである。そうでなければ委員会は必要なくなるだろう。
 理事会で主張すべき資料が整っていなかったり、何かいい案はないですかと意見を求めるのは、いい大人の会議としてあるまじき行為であると思って欲しい。
 論点はただ一つ、上程した議案を理事全員が納得できるか納得できないかである。
 だから、理事から質問があったら、相手を納得させるだけの思いを込めた答弁をしなくてはならないだろう。
これは簡単なようで難しいことかもしれない、でも組織というものの存在理由を考え自分の事業に深い知識を持っていれば、難しいようで簡単にできることでもある。


W-3 三役会は真剣に悩み、ぶつかり合いたい

 執行部はファミリーでありJCの中枢である。ファミリーだから嫌なことも言い合えるし、中枢であるから全員の意見を統一しておらねばならない。
 執行部というJCの中枢の中で少しでも疑問や意見の相違が残ったら、メンバーはよりどころを無くしてしまうだろう。
 そして執行部を一枚岩にするために、とことん議論のできるファミリーでなければならないのだ。
 はじめて専務で入れてもらった執行部、それは20周年という大きな事業を抱えていた年だったが、毎回のようにつかみ合いになる寸前まで議論を繰り返していた。
 全員が納得いくまで議論を止めなかったから、毎回深夜まで、その後も飲みながら激論を交わしていたものだ。
 おかげで理事会は楽だったし、自分の担当以外の事業であってもよく知っていた。
 担当外だから分からないというような副理事長は三役失格だし、そんな副理事長がいる
三役は執行部失格だというつもりですべてに望むくらいの気概があるいといい。

W-4 出向者とLOM

 鳥羽JCは先輩からの歴史を受け継いで、地方の小LOMとしては日本JCへのスタッフ出向や三重ブロック・東海地区への役員出向が非常に多いLOMであり、最近では目的意識を持って、自ら積極的に日本JCへの委員出向するメンバーも増えてきた。
 それが鳥羽JCが常に新鮮な情報を持ちアクティブであり続けてきた大きな要因の一つであることは間違いないであろう。
 鳥羽は全国や世界をターゲットにしていかねばならない国際観光文化都市であり、メンバーが外の世界にアクティブに飛び出すことは、新しい時流を先取りできるだけでなく本人が鳥羽の情報発信者としてまちをアピールすることにも繋がっているのである。
 今後も大いに出向を奨励するべきであると思う。
 ただし、出向者へのLOMの支援は常に万全にしていなくてはならない。出向者がLOMから浮いてしまったとすれば、それは出向者の責任ではなく全て執行部の責任でしかないと考えるべきなのだ。
特にLOMで使いにくいメンバーを出向させるという考えは断じてしてはならない。それは出向に対するメンバーの意識を低下させるばかりか、出向先や他LOMに対しても失礼な結果を招くことになるだろう。


W-5 JC−NET

 JC-NETは年々日本JCの主流の一つとなりつつある。かつてはオタク呼ばわりしていた私がJC広場のボードオペしていたのだからびっくりもんだ。
 鳥羽JCのID取得率は高く、JC-NETやはまゆうNETでは鳥羽JCが目立つほどの活躍をしていることは喜ばしいことだと思う。
 注意をせねばならないのは、JC-NETというJCだけのCUGの特性を十分理解した参加をすることだ。
 JC-NETはJC運動の推進のために用意されたものであり、そこには他の商用ネットのような匿名性もない。
 参加メンバーは鳥羽JCのメンバーであることを肝に命じなくてはならないし、LOMはJC-NET参加者に対してもその所属LOMとしての責任が派生することを覚えておきたい。
執行部は常にJC−NETでのメンバーの発言には気を配る(監視するのではない)配慮が必要である。

中村 元:1996年12月作成
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(C) 1996 Hajime Nakamura.