ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2001.8.12

ラッコの道標
第8章 ラッコの毛皮


8-6 帰ってきた日本のラッコ
 近年、沖縄の米軍ヘリポート建設がクローズアップされたために、その海域の生物調査がされ、おかげで沖縄では絶滅したと思われていたジュゴンが何頭も見つかった。
 どうやらそのジュゴンたちは、沖縄の海で繁殖し暮らしているようである。 世界で唯一ジュゴンをペアで飼育している鳥羽水族館としては、日本にジュゴンがいたということは大変喜ばしいことである。
 ジュゴンは日本の天然記念物に指定された保護獣であり、沖縄には多くのジュゴン伝説が残り、「儒艮」という漢字での書き方だってあるにもかかわらず、近年になってからその姿は往々にして瀕死の状態でしか見つかっていなかった。 だから、沖縄のジュゴンはすでに絶滅してしまい、時々見つかるのはフィリピンの方からたどり着いたジュゴンではないかと想像されていたのだ。
 そんな時に、定住しているらしいジュゴンたちのニュースである。生きている化石発見に近い喜びだった。

 そして実は、ラッコの方も、北海道で時々見かけるようになってきているのだ。
 ジュゴンと米軍ヘリポートのように大きな社会問題とセットになっていないから、あまり注目はされていないのだが、北海道でのラッコの発見は、沖縄でジュゴンが見つかったのと同じくらい重大なニュースなのである。
 アイヌの伝承叙事詩「ユーカラ」には、石狩川に上ってきたという黄金の毛皮を持つラッコの話があり、オホーツク沿岸の遺跡からは、10世紀頃と考えられるラッコの姿を彫った骨角器が見つかっている。
 また、北海道の日高山脈には、楽古岳という標高1472メートルの美しい山がある。 楽古岳の呼び方はラッコ岳。 山の形がラッコの頭に似ているからとも、麓を流れる楽古川の河口でラッコが暮らしていたからとも伝えられている。

 少なくとも10世紀前には、ラッコは北海道で普通に見ることのできる動物だった。 また、江戸時代後期には松前蕃が、択捉島の北にある通称ラッコ島でアイヌ民族が獲ってきたラッコの毛皮を交易によって得ていた。
 さらに、「ラッコのいる海」の著者吉川美代子さんが調べられたことには、明治初期に日本に来ていたイギリス人がたった一人で10年間の間に8410頭ものラッコを千島列島で密漁したという。
 なんとこの密漁のせいで、択捉島のラッコはほぼ絶滅したらしい。 しかしその後日本は、択捉島などのラッコの保護に乗り出して回復に成功、最近のロシアの調査では、択捉島で千頭を越えるラッコを確認している。 千島列島のラッコたちは、細々とではあるが回復に向かっているのは間違いない。

 そしてついに、北海道でもラッコの目撃が増えてきたのである。
 毎日新聞社の記者である本間浩昭氏は、北海道に現れたラッコを追って興味深い記事を幾つも書いておられるのだが、1998年4月14日の毎日新聞によれば、北海道大学ラッコ研究グループの調査では、過去35年の間に道東沿岸で目撃された回数が約80回、そのほぼ半数が最近3年間に集中しているのだそうだ。
 その紙面には本間記者自身が撮影された納沙布岬に現れたラッコの鮮明な写真が掲載されている。 本間記者はそれ以外にも北海道沿岸に現れた野生のラッコの写真を何枚も撮っておられ、いくつもの記事となって発表されている。
 一つの個体でも複数の目撃例になるから、何十頭ものラッコが発見されたというわけではないし、まだまだ北海道沿岸で繁殖しているとは考えられず、おそらく千島列島からやってきたラッコだと想像するのだが、とにかくラッコは写真に収められるほどの近くに来てくれているのだ。

 こうして自国内で野生生物が観察できることは幸せである。 ことに日本のように国土が狭いのに都市の数も人口も多い国で、一時は絶滅寸前にまで至った動物を見ることができるようになったというのは奇跡的なことだと言っていい。
 日本は過去に、アメリカとイギリス、ロシアの毛皮争奪戦にノコノコと出かけていきラッコの大量捕殺の一員となってしまった。
 ホ乳動物の大量ハンティングの文化や、それを経済資源と考えることなどそれまでなかったのに、西洋の経済中心的価値観、人間中心の文化をいそいそと真似たことが、ラッコの絶滅へ手を貸す結果となってしまったのだ。
 それは素直に反省すべきだと思う。 しかし、本来の日本人…自然のすべてに神が宿っていると考え、野生動物と共に暮らしてきた日本人。 その心をもう一度思い出していけば、やっと帰ってきたラッコたちと付き合うことができると思うのである。

 宮沢賢治の「なめとこ山の熊」が好きだ。
 熊撃ちの猟師が熊のことを心底愛しているのみならず、熊の方でも熊撃ち猟師のことが好きだなんて発想は、喰い喰われることで成り立っている食物連鎖の中に、ヒトもいるのだという実に当たり前の発想なのだと思う。
 賢治はこの物語に出てくる商人の、熊や殺す人の気持ちを金に換算する経済学に警鐘を鳴らしているのだ。
 そんな賢治の作品を愛することのできる日本人の文化を忘れ、今もなおキツネやアフリカ象をスポーツハンティングしている西洋人の文化をすんなりと受け入れてきたことが、そもそもの間違いであったのだ。

 せめて野生生物の命を、換金できて富をもたらす資源だとか、ヒトの虚栄心を満足させるための物質だとは思わないでいればいいと思う。
 この日本で暮らす人々が長い年月に渡って培ってきた自然観が大きく間違っていることなどけっしてないのだ。 それどころか、つい最近まで河童や豆狸などの物の怪と共生してきた自然観、アイヌが森の動物や精霊たちと共存してきた世界観は、森を切り開き制覇してきた西洋的な価値観より、はるかに認められるものとして今後の地球に役立てることができるだろう。
 その価値観には、金を生み貯えるための経済学は存在しないが、資源や心の資産を増やし、いつまでも生きていくことのできる実にシンプルで本質的な経済学があると思うのである。

 毛皮として登場したラッコは、その後童話の中に現れて、私たちにヒトと野生生物の関わりを説いた。 ついで水族館の人気者となって、毛皮の中いっぱいにつまった生きる者の姿を大勢に知らせてくれた。
 そして今、北海道に帰ってきたラッコはどんな道標を私たちに示しているのだろう? おそらく、彼らは、私たちの価値観が、ラッコがお金に換わり虚栄心を満たす毛皮であるという間違った考えを持ってしまった以前の時点に戻ることを期待しているのではないかと思うのだ。 そのときには、きっと北海道にラッコたちが住み着いているにちがいない。



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