2005年5月上旬

●5月3日(火)

 ご無沙汰いたしました。いやもう連休もへったくれもあったものではありません。

 昨2日月曜は例によって三重県立名張高等学校でマスコミ論の授業があった日なのですが、教材の準備にかける時間が思うように取れなかったため、生まれつき赤茶けた髪をした女子生徒が教師から強制的にスプレーで髪の毛を黒く染められたあげく自主退学に追い込まれたという宮城県立蔵王高校事件についてみんなで話し合おう、みたいなことで二コマ目五十分のお茶を濁してしまいました。

 お茶を濁したといったってそれなりに有意義な授業ではあったはずなのですが、というか生徒たちにとっては私が一方的に喋るよりもさらに面白い授業になったのではないかと思われる次第なのですが、実際にはどうなんでしょうか。ともあれ私としては、教職こそわが天職と思い定めて与えられた職務に邁進するしかありません。

 この授業ではネット上にあった読売新聞と中日新聞の記事に基づいて話を進めたのですが、両者の記事には重要な点で相違があり、また自主退学に至る経緯が曖昧にしか報じられていなかったため、いっそいわゆるメディアリテラシーのことにまで踏み込んで話をすればよかったのかなと思い返されもする次第ですが、新米教師があれもこれもと欲張ってしまうのはたぶん禁物であるにちがいありません。

 そうかと思うと一時はどうしようもなくひっくり返っていた私の書斎、4月30日夜の時点でこうなりました。

 要するにこの際ですから書斎に書棚をつくりつけてやろうと一念発起し、29日と30日の二日間で大工さんに作業を進めてもらったという寸法です。設計などごくおおざっぱなもので、床から天井までの長さを十等分すれば B6判、九等分すれば A5判、八等分すれば B5判がきっちり収納できる計算になりましたから、棚と棚の間隔をその三種類に設定し、壁面二面全面ともう一面は全体の四分の一ほどを書棚で埋めることにしたのですが、八等分した棚に百科事典を入れようとするとこれが入りません。高さが足りません。いくら入れようとしても垂直に立てた百科事典はこん、こん、こんと棚板に空しくぶつかってしまうばかりです。私は頭のなかが真っ白になってしまいました。

 もしかしたら A4判というサイズを念頭に置いていなかったのかもしれないなと反省もしてみたのですが、いくら反省しても取り返しはつきません。大工さんに無理をいって八等分のところを七等分につくり直してもらうことにし、それでもすべての作業は30日夕刻で終了しましたので、5月1日にはまたご近所在住の大学生にアルバイトで手伝ってもらって書棚に本を収納する作業を進めた結果がこんな塩梅。

 作業はまだ継続中で、しかもとりあえず本を並べてみただけですから書棚としての体系性はひとことでいえば無茶苦茶なのですが、体系性の問題は今後どのようにでもなるとして、もうひとつの看過しがたい問題がここへ来て急浮上してきました。すなわち、どうも今回つくりつけた書棚に手持ちの本をすべて収めるのは無理なのではないか、本がオーバーフローしてしまうのではないか、こらまずいんちゃうか、いやもうえらいこっちゃがな、という不安が日に日に強まり、私はまたしても頭のなかがスモークを焚きでもしたように真っ白になってきているところです。

 そうかと思うと『南方熊楠邸資料目録』が刊行されました。昨年8月に出た『南方熊楠邸蔵書目録』と対をなす一巻で、和歌山県田辺市が旧熊楠邸を核として開設準備を進めている南方熊楠顕彰館の収蔵品目録となるものです。B5サイズのじつに堂々たる目録で、二巻あわせて熊楠研究の基礎資料であることは申すまでもありません。詳細は南方熊楠資料研究会このページでご覧ください。

 自筆資料の稿本、写本、抜書、ノート、日記などは申すに及ばず、関連資料として写真、絵葉書、名刺あたりも記載され、果ては新聞のスクラップまでいちいち網羅されておりますから、スクラップの見出しを眺めながらいつまでも妄想に耽ってしまって困ったものです。

 ここで乱歩ファンのためにお知らせしておきますと、来簡のうちの関連書簡には岩田準一宛関連書簡というのがあって、なかにはこんな一通が。

[来簡5701]平井太郎(江戸川乱歩)から岩田準一宛・封書 1942(消印). 4. 5 2枚 28.0×39.0

 1942年といえば昭和17年。乱歩は準一に手紙で何を伝えたのか。その封書がどうして熊楠の手許に保管されていたのか。乱歩ファンなら風船玉みたいにいくらでも妄想を膨らますことが可能なのではありますまいか。


●5月6日(金)

 また二日ほどお休みしてしまいました。ひいひい。

 『南方熊楠邸資料目録』と南方熊楠顕彰館の話題から「名張まちなか再生プラン」に盛り込まれた歴史資料館構想に移行し、これはまたなんたる愚策かとばんばんかましてやるつもりでいたのですが、それは先送りしてもっと身近で切実な話題を本日も。

 棚の高さを B6判、A5判、A4判の三種類に設定した書棚の話ですが、本の高さというのもこうして見るとじつにまちまちで、 A5サイズであるにもかかわらず A5判用の棚にぎりぎりかつかつ、実際に本を立ててみるまでちゃんと収まるかどうか冷や冷やさせられ、文字どおり滑り込みセーフで指を入れる隙間もなく収まったというのが小学館の『日本古典文学全集』、それとほぼ同じ高さだったのが大修館書店の『折口信夫事典』、わずかに低くなって未知谷の『国枝史郎伝奇全集』、それよりもう少し丈が短くなったのがごく一般的な A5サイズの本ということになるようです。

 むろん A4判サイズの棚にも入らないほど背の高い本もあり、偕成社の『巨大生物図鑑』や樹林舎の『伊賀秘蔵写真帖』、それからまだ並べてはいないのですが中央公論社の『日本の絵巻』あたりもどうやら無理でしょう。どうすればいいのか。

 みたいなことを考えながら、チアガールが手にしているポンポンのような掃除用具で本の埃をぱたぱた払い、真新しい書棚に本を整理している図などというものはおそらく絵に描いたような俗物という以外の何者でもないはずなのですが、なに俗物だってかまうものか、あれは江藤淳であったか、「教師根性」と書いて「スノビズム」とルビを振っていたではないか。教師がスノッブでどこが悪い。

 みたいなことを自身にいいきかせながら本日もなんとか乗り切りたいと思います。ひいひい。


●5月7日(土)

 すっかり間が抜けてしまいましたけれど、2005年の黄金週間の開幕と軌を一にして始まった「名張まちなか再生プラン」の徹底批判、そろそろ本格的に進めたいと思います。

 話の流れのおおよそのところを振り返っておきますと、名張地区既成市街地再生計画策定委員会がプランの原案を策定し、名張市がそれに対する市民のパブリックコメントを募集いたしましたので、私はそれに応じて得たりやおう、丁々発止と「僕のパブリックコメント」を提出するに至った。そんな感じになっております。

 名張市オフィシャルサイトの「《パブリックコメント結果》「名張地区既成市街地再生計画 名張まちなか再生プラン(案)」」によれば、パブリックコメントは2月21日から3月22日までの期間で募集され、三人の市民が意見七件を提出しました(はっきりいってめちゃ少ない)。その取り扱いは下記のとおり。

修正 素案を修正するもの 0件
既記載 既に素案に盛り込んでいるもの 0件
参考 素案に盛り込めないが、今後の参考とするもの 7件
その他 素案に反映できないが、意見として伺ったもの 0件

 したがいましてわが渾身のコメントも「素案に盛り込めないが、今後の参考とする」というけんもほろろ、蕎麦はとろろのあしらいを受けた次第ではあったのですが、私のコメントの要約とそれに対する名張市の見解を転載しておきましょう。

市民等の意見の概要
 北の藤堂家邸に対して南にもうひとつの歴史拠点の整備として、「歴史資料館」の提案があるが、広く公開すべき展示資料があるからこそ、歴史資料館の必要性を論じるべきであり、案においては展示資料に関し言及されているのは、江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩などに留まっている。名張のまちそのものが歴史資料であって、旧初瀬街道を主軸にし、江戸川乱歩の生まれたまちとして全体を回遊してもらえる発想を持つべきである。
具体的な提案として、
(1)桝田医院第2病棟跡に現在の佇まいを生かしつつ、一角に江戸川乱歩の生家を復元する。
(2)細川邸には、名張市立図書館の乱歩コーナーにある関連資料を移動させると共に、ミステリ専門の図書館分室として活用する。

意見に対する名張市の考え方
<参考>
計画案の7ページ【2】歴史資料館の整備事業として、旧家の風情を残した細川邸を活用し、名張地区に関係深い資料の常設展示にあわせ、企画展示や市民の皆さまがお茶会などの各種イベントの開催会場として、また、まちなか散策の要所として多様な市民ニーズに対応できる施設としての整備の方針を掲げています。
この歴史資料館の整備につきましては公設民営方式とし、今後は施設の具体的な利用形態や運営管理のあり方について、検討を行なう組織を立上げ、整備に係る基本設計を進める予定ですので、頂きましたご意見につきましては、十分に参考にさせていただきます。
なお、昨年、寄附を受けました桝田医院第2病棟跡の土地、建物の活用方法につきましては、細川邸の詳細な利用計画を作成する際に、細川邸との相互機能補完を基本とし、一体的に歴史文化的な空間を創出することにより回遊性を高め時の流れを歩いて楽しむことのできる整備、活用方法について検討を行ないます。

 あーこれこれ名張市役所のみなさんや。三重県立名張高等学校でマスコミ論を教えている立場の人間からひとこと指摘しておきますならば、こんなことではいけません。こんなことおっしゃってちゃ駄目でっせ。これではそもそもコミュニケーションが成立いたしません。みなさん果てしなく無意味なトートロジーの泥沼に両脚を突っ込んでいらっしゃいます。

 私がパブリックコメントで申しあげたことは、煎じ詰めていってしまえば歴史資料館などまったく必要ないではないかということでした。「僕のパブリックコメント」から引いてみましょう。

「なんでいきなり歴史資料館やねん」
「歴史拠点をつくるのやったら歴史資料館ゆうのはごく順当なとこですがな」
「せやからそれが短絡やゆうんですよ」
「何が短絡ですねん」
「つまりぶっちゃけてゆうたらこれは最初に細川邸ありきゆう話なんです」
「細川邸を活用したらよろしいがな」
「活用の道は歴史資料館しかないのかゆう話なんですね結局。そんなことまったくないんですけどとりあえずはい次」

 あるいは。

「歴史資料館の話をしてるのに肝心の資料に関する言及が城下絵図と乱歩だけで終わりゆうのはどうゆうことやねん」
「でも歴史資料に関してはそれだけしか書いてないんですから」
「つまり話が逆なんですね。広く公開するべき資料がたくさんあるから歴史資料館が必要やゆうのが本来なんですけど」
「最初に細川邸ありきですか」
「細川邸を歴史資料館にするという月並みな発想がまず最初にあって」
「ところが展示すべき歴史資料がほとんどないと来てるわけですか」
「そんな資料館つくったらどんな結果になるかくらい相当あれな名張市役所のみなさんでもお察しのはずですけどね」

 はたまた。

「つまり歴史資料館の必要性なんかまったくないんです。それをこのプランみずからが雄弁に物語ってるわけなんです」

 私ははっきりこのように述べているわけです。歴史資料館整備構想を頭から否定しているわけです。こうしたコメントが提出されたのであれば、まず歴史資料館の必要性を説くことから始めなければなりません。これこれこういう事情や背景があるから歴史資料館を整備することにいたしましたと、はやる相手を論理的に説得することが真っ先に要求されます。それがコミュニケーションの第一歩です。

 しかるに「意見に対する名張市の考え方」におきましては、歴史資料館の必要性にはいっさい触れることなく、ただ歴史資料館を整備することになっておりますとの説明がくりかえされ、無意味なトートロジーがくりひろげられているばかり。根拠を示さない説明はコミュニケートの障害にしかなりません。

 三重県立名張高等学校でマスコミ論を教えている立場の人間からひとこと申し添えておきますならば、名張市役所のみなさんにはあまりいいお点をさしあげられないように思います。


●5月8日(日)

 まずお詫びと訂正です。昨日付伝言に名張市オフィシャルサイトの「《パブリックコメント結果》「名張地区既成市街地再生計画 名張まちなか再生プラン(案)」」から「意見に対する名張市の考え方」を転載いたしましたが、これがいささか変な具合で、同じ文章をダブって引用した箇所がありましたことをお詫びいたします。ちゃんと訂しておきました。

 人のトートロジーすなわち同語反復を批判した人間が自分でも同語反復を犯していたというのは結構笑える事態ですが、ははははは、と笑ってばかりいないで私も少しは反省ってものをしなければなりません。ひたすら反省しつつ訂正分を再掲しておきます。

意見に対する名張市の考え方
<参考>
計画案の7ページ【2】歴史資料館の整備事業として、旧家の風情を残した細川邸を活用し、名張地区に関係深い資料の常設展示にあわせ、企画展示や市民の皆さまがお茶会などの各種イベントの開催会場として、また、まちなか散策の要所として多様な市民ニーズに対応できる施設としての整備の方針を掲げています。
この歴史資料館の整備につきましては公設民営方式とし、今後は施設の具体的な利用形態や運営管理のあり方について、検討を行なう組織を立上げ、整備に係る基本設計を進める予定ですので、頂きましたご意見につきましては、十分に参考にさせていただきます。
なお、昨年、寄附を受けました桝田医院第2病棟跡の土地、建物の活用方法につきましては、細川邸の詳細な利用計画を作成する際に、細川邸との相互機能補完を基本とし、一体的に歴史文化的な空間を創出することにより回遊性を高め時の流れを歩いて楽しむことのできる整備、活用方法について検討を行ないます。

 それにしても、これによく似たことは以前にも経験したことがあるのではないか、と思われましたのでつらつら振り返ってみましたところ、何のことはない「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業がそれでした。

 三重県知事を会長とする事業推進委員会なるものが発足したおり、こんな委員会はまったく必要のない組織であり、二〇〇四伊賀びと委員会の自主性や主体性を脅かすものでしかないとも判断されたものですから、私は事務局に対して「事業推進委員会を発足させることは、いつ、誰によって決定されたのか」といったことなど八項目にわたる質問を送付しました。

 事務局の回答は「基本構想の策定時において、三重県をあげた事業とし、県全体として推進していく事業推進委員会を設置することを予定していました」といったもので、これでは答えになっておりません。いつ、誰が決めたのかという質問に対して、これこれこのように予定していましたという回答では、何かを答えたことにはまったくなりません。主体性というものが完全に見失われていて、その意味で見事なまでにお役所チックではあるのですが、こんな回答は世間で通用するものではありません。結局あの事務局、私の質問にはろくに答えないまますたこら解散してしまったわけですが、いま思い出してもずいぶんひどい事務局でした莫迦でした。

 それと完全に同じです。私は「名張まちなか再生プラン」の歴史資料館構想を正面から否定しており、しかも名張藤堂家邸跡の現状や展示すべき資料がほとんどないことなど具体的な根拠を示して否定しているわけなのですから、名張市に必要なのは私の意見を容れて歴史資料館の整備を中止すること、でなければ歴史資料館の必要性を具体的に示して私の意見を覆すこと、このいずれかのはずなのですが、実際には「施設としての整備の方針を掲げています」だの、「今後は施設の具体的な利用形態や運営管理のあり方について、検討を行なう組織を立上げ、整備に係る基本設計を進める予定です」だの、何の根拠もない方針や予定が説明されるばかりです。いったい何をゆうておるのかあーこれこれ名張市役所のみなさんや。みなさんはもしかしたら二〇〇四伊賀びと委員会事務局ですかあーこれこれ。

 まあ三重県職員と名張市職員の差こそあれ、ともにお役所に棲息して責任回避と自己保身と思考停止の日々を生きているという意味ではどちらも同じ穴の狢に相違はないわけですけれど、こんなことではいつまでたっても県および市職員と地域住民とのコミュニケートなんてできる道理がありません。いわゆる協働なんて夢のまた夢(しかもいわゆる協働ってやつが地方公務員の責任回避と自己保身と思考停止に拍車をかけているように私には見えるのですが、その点についてはまた別の機会に)、平たく申せば話が全然噛み合いません。北京原人の上顎骨と下顎骨だってもう少しうまく噛み合っていたのではないかしら。なんてこといってたら北京原人から叱られてしまうのではないかしら。

 こうなったら私は三重県立名張高等学校のみならず、われらが名張市役所においてもコミュニケーションのいろはを手ほどきしてさしあげるべきなのかもしれません。そうでもしないとこのままではパブリックコメントの実効性に大いなる疑問が生じてしまい、最終的にパブリックコメントという制度そのものが形骸化してしまうことにもなりかねません。むろんこちらから押しかけるわけにはまいりませんが、要請さえあればいつでも名張市職員諸兄姉の指導をお引き受けする用意があることをここにお知らせしておきたいと思います。

 そんなことはともかくとして、問題は歴史資料館です。名張市新町に残る細川邸という旧家を歴史資料館として整備するという構想です。これはいったい誰の発案なのでしょうか。「名張まちなか再生プラン」ではきわめて短絡的にこの構想が決定されており(つまり必要性も根拠も、それどころか展示すべき歴史資料さえろくに示されていないことを私は「短絡的」であると指摘しているわけですが)、いやいや、もっとありていに申しあげてしまえば、細川邸を歴史資料館にするという構想は「名張まちなか再生プラン」の動かしがたい前提として存在していたようにすら見受けられる次第なのですが(もしもそうだとしたら、プランを策定した名張地区既成市街地再生計画策定委員会がこの構想を決定したわけではないということになります)、実際のところはいったいどうなっているのでしょうか。


●5月9日(月)

 ありゃりゃ、といってるあいだに黄金週間も終わってしまいました。黄金週間の開幕とともにスタートした「名張まちなか再生プラン」徹底批判はさらにつづきますが、このプランを概観してどうにも腑に落ちないのは、きのうも記したことながら、名張市新町に残る細川邸という旧家を歴史資料館として整備する構想が、じつはプランに先がけて前提的に存在していたのではないかという印象を拭いきれない、その一点です。ですから私はわが渾身の漫才「僕のパブリックコメント」に、

 「つまりぶっちゃけてゆうたらこれは最初に細川邸ありきゆう話なんです」

 と明記しておいた次第なのですが、プランに見られる細川邸イコール歴史資料館という短絡ぶりは、その背後に何かしらの事情の介在を勘ぐらせずにはいないものであると申しあげておきたいと思います。

 別の見方をすれば、細川邸を歴史資料館にという構想そのものが、何かしらの事情の介在を想定することなしにはその成立が納得できないほどに必要性を感じさせず、はっきり申せばきわめて不自然な構想であるということです。ですから私はわが渾身の漫才「僕のパブリックコメント」に、

 「そんな資料館つくったらどんな結果になるかくらい相当あれな名張市役所のみなさんでもお察しのはずですけどね」

 と明記しておいた次第なのですが、これは要するに、いくら名張市職員とはいえそれ以前にひとりの名張市民なのですから(むろん名張市民ではない市職員の方もいらっしゃいますが)、市職員としての職務上の立場からはいったん離れていただいて、一市民として持ち合わせている名張のまちや歴史資料その他に関する知識に基づいて判断していただければ、細川邸イコール歴史資料館という構想がいったいどんな結果を招来するのかくらいのことは掌を指すごとくにおわかりであろうという意味です。

 先日もちらっとお知らせいたしましたが、和歌山県田辺市では旧南方熊楠邸の資料を核として南方熊楠顕彰館の開設準備が進められており、開館予定は来年4月。それに先がけて昨年8月に『南方熊楠邸蔵書目録』、今年4月には『南方熊楠邸資料目録』が刊行されました。つまり二巻の目録になるほどの資料が存在し、開館以前にそれを目録として公刊できるほど周到な準備を経て初めて、顕彰館であれ記念館であれ資料館であれ、そういったたぐいの施設が開設されるのが普通だと判断される次第なのですが、「名張まちなか再生プラン」における歴史資料館はまったくそうではありません。

 それに、これも以前に記したことですが、過日お邪魔した蟹江町歴史民俗資料館の学芸員の方からお聞きしたところでは(それにしても、「名張まちなか再生プラン」の関係者の方は関連施設の調査研究見学視察みたいなことをなさったのでしょうか。細川邸を歴史資料館にするというのであれば蟹江町歴史民俗資料館は恰好の先例であり、私にお申しつけいただければいつでもご案内申しあげたうえ、怪しの居酒屋昭和食堂蟹江店での大宴会もきっちりセッティングいたしましたものを)、ちゃんとした歴史資料館をつくろうと思ったら開館準備に十年はかかるとのことでした。名張のまちの「再生」は時間的余裕のある話ではなく、むしろ焦眉の急にして喫緊の課題、しかもとりあえず着手できそうな事業は細川邸の整備くらいなものなのですが、細川邸をちゃんとした歴史資料館とするための準備に十年もの月日をかけてしまうというのでは、じつにどうもなんだかなな話であるなと思われてなりません。

 ともあれ、細川邸を歴史資料館に整備するという構想はどうにも納得のゆかない不自然なプランであると申しあげざるを得ず、こうした事態を前にした場合、時代劇ではおおむねこんな科白が常用されているようです。

 「裏で絵図引いてやがるのはいってえ誰なんでえ」


●5月10日(火)

 いやいや、「裏で絵図引いてやがるのはいってえ誰なんでえ」などと訝るのは勘ぐりが過ぎるというものでしょう。一般的にこうした場合、細川邸が歴史資料館になることで利得を手にするのは誰なのか、それを考察すれば答えはおのずから炙り出されてくることになっているのですが、まさかそんな人間がいるとも思えません。

 ですから結局のところこの歴史資料館構想は、細川邸の活用という設問に対して有効な回答を見出せなかった、単なる思いつきしか浮かんでこなかった、ありゃりゃ、という関係者における発想の貧困を物語るものであると判断しておくことにいたしましょう。

 「意見に対する名張市の考え方」に関してコミュニケーション論の視点からさらに論評を加えますと、「今後は施設の具体的な利用形態や運営管理のあり方について、検討を行なう組織を立上げ、整備に係る基本設計を進める予定ですので、頂きましたご意見につきましては、十分に参考にさせていただきます」とあります点、これではまるで喧嘩を売っているようなものです。良好なコミュニケーションはとてものことに成立し得ません。

 「頂きましたご意見」とはすなわち歴史資料館なんかつくるなということなのですが、それは残念ながら採用されなかったわけなのですから、「十分に参考にさせていただきます」も蜂の頭もありません。こういうおざなりな対応は自身の不誠実さを証明するばかりでなく、ます間違いなく相手を激怒させてしまう結果を招くものですから、コミュニケーション論の観点から見れば厳に慎むことが肝要です。

 もう少しつづけましょう。

なお、昨年、寄附を受けました桝田医院第2病棟跡の土地、建物の活用方法につきましては、細川邸の詳細な利用計画を作成する際に、細川邸との相互機能補完を基本とし、一体的に歴史文化的な空間を創出することにより回遊性を高め時の流れを歩いて楽しむことのできる整備、活用方法について検討を行ないます。

 こんなこといってた日にゃあなた、コミュニケーション論の観点から見ると相手はいよいよ激怒してしまいます。想定される激怒内容はおおよそ次のとおり。

 何をゆうておるのか。何を考えておるのか。はっはーん。何も考えておらぬのだな。考える能力がないのだな。だからわしが考えてやったというのに莫迦があっさりボツにしやがってこの。もう一度教えてやるからよく聞いておけ。まずこの文書のいけない点、敢えていえば卑怯な点は乱歩の名前を出していないことじゃ。桝田医院第二病棟の価値はあくまでも乱歩とのかかわりにおいてしか見出せないのじゃ。したがって乱歩にちなんだ活用策しか選ぶ道はあり得ない。つまり「細川邸との相互機能補完」だの「一体的に歴史文化的な空間を創出」だの「回遊性を高め時の流れを歩いて楽しむ」だのとご託を並べる前にまず活用策の前提として乱歩の名前を明記しなければならんのじゃ。それがなぜできぬのかというと細川邸の歴史資料館に乱歩の名前を出してしまってあるからじゃ。細川邸に乱歩関連資料を展示してしまったら桝田医院第二病棟で乱歩にちなんで何をしたらいいのかわからない。それが実情じゃろう本音じゃろう。そんなことじゃいけないと思います。いけないのじゃがそれ以上のことを考えることができないのじゃから仕方がない。だからわしがわざわざ桝田医院第二病棟には乱歩の生家を復元し細川邸は名張市立図書館ミステリ分室として整備すればいいではないかという名案を出してやったのじゃ。こんな妙案を思いつけるのは日本広しといえどもわしひとりじゃ。このアイディアにきょうび流行の相応の対価を求めるとすればべらぼうな金額になるはずじゃが、そこはただでよろしいと申しておる。なんともラッキーな話ではないか。悪いことはいわない。もう一度考え直してみることじゃ。よろしいな皆の衆。

 なんか途中でキャラクターが変わってきてしまいましたけど、とにかくそういうことだとお思いください。