2005年9月中旬

●9月11日(日)

 お役所ハードボイルド「アンパーソンの掟」の途中ではありますが、本日はまずお知らせを二件。

 一件目。作品社から『国枝史郎探偵小説全集』が出ました。

 編者は末國善己さん。全一巻、限定千部、本体五千八百円。現在入手可能な作品を除き、存在が確認できた国枝史郎の現代もの探偵小説を一巻に網羅。「評論・感想篇」には乱歩と一戦を交えたエッセイも収録されておりますが、『子不語の夢』に収められた村上裕徳さんの脚注を併読すれば興趣は倍増することでしょう。ぜひお買い求めください。

 二件目。これはちょっと長くなるか。

 光文社文庫版江戸川乱歩全集の最新刊、第二十二巻『ぺてん師と空気男』の新保博久さんによる解説「正統なる異色作」から引用します。

 なお昭和三十四年には、乱歩自筆作品目録によって、六月に「旭だより」という雑誌に「窓が割れていた」という推理クイズ小説を発表していることが以前から知られていた。これらの時期「少年」や「少年クラブ」に乱歩名義で出題されたクイズ小説はいずれも代作なので、これもその一つだろうと怪しみもしなかったが、代作なら代作でその旨を明かしているのに同編については何ともしるされていないので、念のため現物を確認する必要が今回生じた。しかし公的機関には所蔵されておらず、乱歩は博報堂の雑誌と書いているから、もと広告代理店勤務の逢坂剛、奈良泰明両氏を煩わせたところ、旭硝子のPR誌「ガラス」の前身で、博報堂は編集を請け負っただけらしいと判明したものの、どこにも保存されていなくて手を焼いた。結局乱歩の遺品から切り抜きが見つかったが、残念ながら「兇器」(昭和二十九。本全集第17巻)を短くリライトしたものにすぎず、問題編B5判一ページのタイトル・カット部分に「先方で書いた」ものといったふうな書き入れがある。

 新保さんご指摘の「乱歩自筆作品目録」は、つい先日も佐藤みどりの件で話題にした目録のことなのですが(そういえば本日は衆院選の投開票日。岐阜一区の情勢はどうなのか、眼を血走らせてテレビの開票速報を見守りたいと思います)、「小説作品目録」の昭和34年のページにはたしかにこんな記述を見ることができます。

推理クイズ小説
窓が割れていた
3  博報堂
「旭だより」
六月号

 つまり、博報堂の「旭だより」という雑誌の六月号に原稿用紙三枚ほどの「窓が割れていた」という小説を発表したのだと、まあそういったことでしょう。

 『江戸川乱歩執筆年譜』をつくったとき、この「窓が割れていた」にはおおきに悩ましい思いをさせられました。「旭だより」だなんてあなた、どこ探したって見つかるものですか。そこで私も新保さん同様、広告代理店勤務の知人に相談してみたのですが、発行者が博報堂であるというのはなんだか疑わしいという結論に至ってしまいました。

 すなわち、博報堂が噛んでいるということは「旭だより」がどこかの企業のPR誌である可能性が高い。その場合、編集実務は博報堂が担当し、乱歩のもとを訪れて原稿を依頼したのも博報堂の社員であったと判断されるが、PR誌の発行所名義は博報堂ではなくその企業ということになる。なんだか雲をつかむような話だなや。んだんだ。

 私がもう少し明敏な人間であったなら、「窓が割れていた」というタイトルはより正確に記せば「窓ガラスが割れていた」であろうところからガラスを連想し、さらに「旭だより」の「旭」から見えない連鎖をたぐり寄せて「旭硝子」という企業名を割り出せていたはずなのですが、残念ながらそんな芸当ができるわけありません。

 とはいえ、乱歩がわざわざ記録しているのですからむげに黙殺してしまうわけにもゆかず、氏素性のはっきりしないまま「窓が割れていた」を刊本『江戸川乱歩執筆年譜』に記載し、当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」の昭和34年6月の項にもこんな具合で掲載いたしました。

窓が割れていた
旭だより ?日
推理クイズの出題。
三枚

 で本日、「昭和34年●1959」のそれを次のごとく改めました次第。

窓が割れていた
旭だより6月号 ?日
推理クイズの出題。代作。昭和29年の「兇器」を書き替え、改題
三枚

 また、刊本『江戸川乱歩執筆年譜』277ページ(巻末データ集26ページ)の「逐次刊行物データ」にある「旭だより」は、発行所が博報堂となっておりますが、これは申すまでもなく旭硝子の誤りです。いやどうもとんだことで相済みません。

 新保さんからは乱歩の遺品から見つかったという「旭だより」の切り抜きのコピーをお送りいただいておりますので、「窓が割れていた」の冒頭二段落をご覧いただくことにいたしましょう。

「アッ助けて!」という声につずいて、ガチャンと大きな音、カリカリとガラスの割れる音がした。主人の佐藤が駆けつけると、細君のミネ子が朱にそまって倒れ、左腕の肩にちかいところがパックリと割れて血が流れていた──。
 その夜おそく、S署の鑑識係庄司巡査部長は、かねて顔なじみの名探偵、明智小五郎の部屋で、名探偵とむかいあって話しこんでいた。

 この作品を「江戸川乱歩執筆年譜」に記載すべきかどうか、それを厳密に考え始めるとかなり悩ましい問題になってしまうのですが、とりあえずは以上のようなことにいたしました。

 なお、新保さんの解説につづいて巻末に収録された芦辺拓さんのエッセイ「〈乱歩〉を生きた男──戦略的な、あまりに戦略的な」は、乱歩ファン必読の相当に気合いの入った一篇。『子不語の夢』もご紹介いただいておりまして、まことにありがたいことであると思っております。

 それでは、あちらこちらに感謝を捧げつつまたあした。あ。「アンパーソンの掟」は本日はお休みということになってしまいました。平身低頭。


●9月12日(月)

 きのうは衆院選の開票速報につきあって、すっかり夜更かししてしまいました。

 乱歩関連小選挙区の結果を記録しておきましょう。

 まず三重一区。乱歩が終生恩人と慕った川崎克の孫、川崎二郎さんが当選を果たしました。

 つづいて岐阜一区。ご存じ佐藤ゆかりさんは小選挙区で苦杯を嘗めましたが、比例区で復活当選。

 最後が東京十区。乱歩のお膝元では、刺客候補として注目を集めた小池百合子さんが圧勝しました。

 まあこういったところでしょうか。


●9月15日(木)

 すっかりご無沙汰してしまいました。衆議院議員選挙における小泉自民党のあまりな圧勝ぶりに熱が出て、というわけでは決してないのですが、雑事に追われて生活がやや不規則になっておりました。

 それではさっそくまいりましょう。

芭蕉さんの子供たち
(2)
 比喩的に表現すれば、伊賀の蔵びらき事件の悪夢はいまや確実に蘇りつつある。いつのまにか伸びてきた黒い影のように、それは名張という町にすでに寄り添っているといっていい。いや、影という比喩では曖昧に過ぎるかもしれない。正体を具体的に指摘しておくことにしよう。
 試みにそれを、社民党の土井チルドレンや自民党の小泉チルドレンの顰みに倣って、芭蕉さんの子供たちと呼んでみようか。ただしこの芭蕉チルドレンには、土井たか子や小泉純一郎のような中心点は存在しない。芭蕉はかりそめの表象にしか過ぎない。税金三億円がどぶに捨てられた芭蕉生誕三百六十年記念事業でたまたま同床に異夢を結んだというだけの、それぞれに何のつながりも持たない市民たちだ。
 もしも『ふしぎとぼくらは何をしたらよいかの百科事典』の編集部から依頼があれば、俺は「芭蕉さんの子供たち」の項をこんなふうに執筆することだろう。
 ──二〇〇四年、三重県が伊賀地域で実施した官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を契機として発生した市民層。中心をなすのは事業に直接携わった地域住民で、閉鎖性と排他性を特徴とし、独創性や先進性には乏しく、責任の所在を極力曖昧にしながら、公共概念にはまったく無縁なプランに公金を費消するために活動する。事業終了後も伊賀地域各地に散らばり、事業の悪弊を持続させる潜勢力となった。……
 野呂昭彦という知事はあの事業を指して、みずから提唱する「新しい時代の公」のモデルケースだと評した。新しい時代の公、という言葉が正確に何を意味しているのか、残念ながら俺には不明だ。とはいえあの事業に、現時点で「公」と呼ばれているものの貧しい内実が示されていたことは間違いのないところだろう。当節の官民合同だの協働だのといったものからは、じつは肝腎の公共概念がすっぽり抜け落ちている。それが現在ただいまの「公」の姿なのだという認識に立脚しているのだとすれば、知事の言はまさしく正鵠を射ていることになる。
 そして芭蕉さんの子供たちは、公共概念の不在には何の疑問も抱くことなく、それぞれの「公」に携わる。官民合同の名のもとに、正当な判断や正規の手続きなど端から無視して、いや、そうした判断や手続きの重要性に顧慮することさえ知らず、ただ自分たちの手で公金を費消することのみに狂奔し、すっかり味を占めてしまった子供たち。彼らはお役所の無責任や怠慢と強力なタッグを組みながら、地域社会に着実に地歩を占めてゆく。後顧の憂いという言葉は、どうやら「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のためにこそあったものらしい。
 ──芭蕉さんの子供たち。
 オーソン・ウェルズの辛辣きまわりない断言にもかかわらず、スイスはいい国だと俺には思われる。ミケランジェロやダ・ヴィンチを生んだボルジア家の圧政には遠く及ばないかもしれないが、スイスはたとえばジャン・ジャック・ルソーを生んだ。アンリ・デュナンを、ユングを、クレーを生み、ついでのことにアンディ・フグまで生んでいる。
 五百年の平和を守って鳩時計を生んだことだって、やはり賞賛には値するだろう。考えてもみるがいい。この日本という島国が六十年にわたる平和と民主主義を経て、いったい何を生んだというのか。そしてその島国の、針の先でつついたような狭い盆地で生まれたものと来たら。
 ──芭蕉さんの子供たち。
 芭蕉生誕三百六十年記念事業という名の公金のばらまきが生み出した子供たちは、いまもこの伊賀地域のそこここに、周囲の同類を捲き込みながら、素知らぬ顔で棲息しているのだ。地域社会にぴったりと寄り添う黒い影のように。

 はーい。本日はここまで。


●9月16日(金)

 問題点を整理しているあいだにもう金曜日となってしまいました。お役所ハードボイルド「アンパーソンの掟」の「芭蕉さんの子供たち」は、書こうと思えばいくらでも書くことがあって自分でもびっくりしているのですが、たぶんあと一回で完結するはずです。したがいまして今週の目標ふたつ、つまり名張市建設部の名張まちなか再生委員会事務局に問い合わせのメールを出すことと、生活環境部の部長さんに催促のメールを出すことは、また週明けに延期ということにしてしまいます。あー忙しい忙しい。


●9月17日(土)

 それでは一気にまいりましょう。

芭蕉さんの子供たち
(3)
 伊賀の蔵びらき事件に唯一見るべきところがあったとすれば、それは官民合同事業というものの限界を炙り出してみせたことだろう。本来なら可能であるはずのものを、事業関係者はなぜか次々と不可能にしてしまった。俺にはベストセラーを追いかける習慣がないから推測でものをいうしかないのだが、「バカの壁」というのはこうした限界や不可能性をみずから招き寄せてしまう脳の働きを指すのではないか。
 たとえば組織だ。組織をあたうかぎり複雑なものにし、それによって責任の所在をできるだけ曖昧にしてしまうのがお役所の常道なのだが、伊賀の蔵びらき事業もその例には洩れなかった。お役所の慣例から脱却した自由な発想や視点、手法という官民合同事業が本来担うべき可能性は、まずお役人衆による組織づくりの時点で否定されていたのだ。
 組織はあらかじめ骨抜きにされてもいた。事業の実行部隊だった伊賀びと委員会という組織を発足させるに際して、伊賀県民局は行政に都合のいい地域住民ばかりを民間委員として選出した。そのあと委員の公募も行われたが、日ごろから行政に批判的な応募者は採用されなかった。そうした不採用者の名前を、俺は二人まであげることができる。
 そして伊賀びと委員会以外に、事業推進委員会という組織が結成された。お役所お手のものの組織の複雑化だ。もとより双頭の蛇に過ぎなかったのだが、致命的だったのは事業推進委員会の必要性を説明できる人間がひとりも存在しなかったことだ。つまりまったく不必要な委員会だったのだ。やがて組織の機能不全が露わになり、全国紙の地方版でもふたつの委員会が存在することへの疑問を呈する声が報じられるに至ったが、馴れあいやもたれ合いに支えられて両者の関係性は曖昧なままに持続した。
 もしかしたら事業関係者は、和をもって貴しとなす、という聖徳太子のマニフェストに学んだのかもしれない。伊賀びと委員会の内部には摩擦や反目や確執が恒常的に存在し、狭隘きわまりない地域ナショナリズムが際立ってしまうシーンさえ一再ならずあったものの、双頭の蛇の組織全体としては一定の和が保持されつづけた。だがそれは、異質なものをすべて排除したうえでの限定的な和でしかなかった。聖徳太子が求めた和ではなかった。げんに太子の憲法には、第十七条としてこんなことが書かれているのだ。
 ──夫れ事独り断むべからず。必ず衆と論ふべし。
 それことひとりさだむべからず。かならずもろもろとあげつらうべし。ものごとは独断で決めてはいけない。必ず諸人と議論しなければならない。聖徳太子はそう説いたのだが、壁のなかで限定的な和を貴重なものとなしている事業関係者にとって、そんなことは逆立ちしたって無理な相談というものだっただろう。彼らが炙り出してみせた限界や不可能性のなかでとくに突出していたのは、壁の外部に存在する「衆」との、つまりは価値観を共有しない他者とのコミュニケーションが絶望的なまでに不可能だという事実だったからだ。
 ──衆と相弁ふるときは、辞則ち理を得。
 こういった条文はおそらく、芭蕉さんの子供たちには馬の耳に念仏でしかないだろう。彼らには「弁」もなければ「理」もないのだ。いや、わざわざ千四百年前の憲法を引き合いに出す必要はないかもしれない。百三十年あまり前の五箇条の御誓文、そこに記されていた「万機公論ニ決スベシ」という条文さえ、彼らには永遠に無縁であるにちがいない。彼らはみずから築いた高い壁の内部に、閉鎖的で排他的な精神性を互いの連帯のただひとつの拠りどころとしながら、頑迷な老人のように引きこもりつづけていたのだ。
 そして彼らは、一枚のカードを裏返すようにして、目の前の可能性をひとつひとつ不可能性に変えていった。触れたものすべてを黄金に変質させたというミダス王の手のように、彼らが関わったものはすべて官民合同事業の限界を示す指標となった。
 三重県が決定した単なる公金のばらまきを、彼らは全国への情報発信という麗々しいお題目で飾り立てたのだが、事業は結局のところご町内の親睦行事を寄せ集めることに終始した。可能性は不可能性に変えられてしまった。事業に投じられた三億円の税金は、双頭の蛇のいっぽうの頭が予算案をまとめ、もういっぽうの頭がそれを承認することで県と伊賀地域から引き出されたのだが、その予算書には詳細がいっさい記されていなかった。官民合同という隠れ蓑の陰の欺瞞性が明らかになり、可能性はまたしても限界を露呈して不可能性のリストが増補されることになった。
 伊賀の蔵びらき事件がカーテンフォールを迎えたあとにも、似たような事件がひきつづいた。名張まちなか再生事件はいよいよその相貌を明らかにし、名張エジプト化事件が新たに発生した。これらの事件には、間違いなく伊賀の蔵びらき事件の影が落ちている。そしてその影のなかに見え隠れしている、見紛えようもない芭蕉さんの子供たちの姿。俺の眼にはいま、そうした架空の風景が細密画のようにくっきりと立ち顕れている。

 えー、本日で完結する予定だったのですが、まだ終わりません。なんとかあしたじゅうには終わらせ、意欲満々やる気充分で週明けを迎えたいと思います。


●9月18日(日)

 お役所ハードボイルド「アンパーソンの掟」、本日で「芭蕉さんの子供たち」の章がようよう完結いたします。

芭蕉さんの子供たち
(4)
 八月二日のことだ。名張市建設部に置かれた名張まちなか再生委員会の事務局から電話が入った。そのほぼ一か月前、俺はこの事務局に足を運び、委員会の歴史拠点整備プロジェクトが俺の意見を聴く場を設けるよう要請してあったのだが、七月二十九日に開かれたプロジェクトの会合でその申し出が検討されたのだという。結論はこんなものだった。
 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」
 別に驚くにはあたらないだろう。委員会の閉鎖性は最初から織り込み済みだ。だが、ご町内の親睦行事に関する話し合いならいざ知らず、歴史資料館の整備を検討しているはずの人間が、当の歴史資料に関する専門的知識の習得を拒否してしまうのはいただけない。閉鎖性や「バカの壁」のひとことで片づけられる話ではないだろう。歴史資料館の整備には市民の税金が投じられ、それは一度完成してしまえば公共施設として末永く存続することになるのだ。
 ──どうやら名張市では、ろくに基礎工事もしないで住宅を建設するような真似が平気でまかり通るらしい。リフォーム詐欺と同断ではないか。
 俺はそう思って唖然としたのだが、もうひとつ問題なのは、外部の人間の意見を聴く考えをもたない人間は、伊賀の蔵びらき事件の関係者と同様に、自分たちが進めた審議に関する情報を外部に開示する必要を認めない人間でもあるということだ。
 「この委員会には審議の経過を公表する気があるのか」
 俺は事務局にそれを確認した。審議のプロセスを逐一公表することには、むろんある程度の混乱が伴うだろう。しかし、それを完全に伏せたままで結論だけを発表した場合には、さらに手ひどい混乱がもたらされるかもしれない。審議は情報を開示しながら進めることが望ましいと、少なくともまともな感覚をもった人間なら、たとえば伊賀の蔵びらき事件からそんな教訓を得ているはずだ。あるいは、私立大学の誘致に端を発した前市長のリコール騒ぎからも、名張市の職員は同様のことを学んでいるはずではないのか。
 事務局からは、八月中旬に開かれる委員会の役員会で審議経過の公表方法を検討する、という答えが返ってきた。しかし九月のなかばになっても、それらしい動きは見られない。しかも、俺の耳には妙な噂も入ってきている。細川邸を歴史資料館として整備する構想が沙汰止みになったらしいという噂だ。根も葉もない風聞だが、これが事実だとしたらじつに不可解な話だというしかない。
 ──とにかくいま必要なのは、委員会が審議のプロセスをオープンなものにすることだろう。でなければ、これは伊賀の蔵びらき事件以上の騒ぎになってしまうかもしれない。
 俺はそう考えた。
 ──騒ぎが大きくなって、名張市という地域社会の抱えている問題点が白日のもとに晒されるのは、むろん市民にとって歓迎すべきことではあるのだが。……
 同じく八月二日のことだ。俺が開設しているウェブサイトの電子掲示板に、「新怪人二十面相」という名義による投稿があった。つづいて「怪人22面相」や「怪人19面相」を名乗る莫迦が揃い踏みして、三日間で七件の投稿が痴呆ぶりを競った。怪人19面相による最後の投稿は、こんな感じのものだった。
 「勘違い馬鹿のお方、いずれ近いうちに会うたるで。連絡したるからまっとれ。県民の血税を搾取なさったごとき事業をなさったオマエ、図書館嘱託のいんちきおっさん。いろいろ返事を書いて頂いて有難う。そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん! 回りくどい難しい言い回しでわかりにくいことくどくどゆうな、ボケ!」
 この真性の莫迦としかいいようのない投稿者は、これ以前の投稿から「写したくなる町名張をつくる会」という団体の関係者らしいことが判明している。この団体は名張市が市民の公益活動を助成する事業に名を連ね、例の細川邸の裏にエジプトの絵を掲げる活動を展開しているのだが、名張とエジプトに何の関係があるのか、すんなり理解できる市民はおそらく存在しないだろう。俺は自分のウェブサイトでこの理解不能な事業を紹介し、ここには何の論理も存在しないと評した。
 俺の正当な批判に幼稚な中傷で応じてくる。そんなことしかできない人間が、名張市の公益とやらを担う振りをし、そのいっぽうでは自分たちの首を絞め、公益活動そのものをも貶めるような発言を投稿しているのだ。これは行政当局にとっても頭の痛い問題だろう。俺は市民公益活動実践事業を担当している名張市生活環境部の部長にメールを入れ、事情を説明して、部長自身の見解を尋ねた。もたらされたのはこんな返信だった。
 「貴殿から当該事業に一定の評価をいただき、また、今回の投稿が与える影響についてもご心労を煩わせているところでありますが、事業の途中でもあり、この事業が良い方向で、その効果も現れてくるものと期待しているところです」
 これもまた驚くにはあたらないだろう。これが名張市役所のアベレージというものだ。公務員の第一義は何よりも責任回避であり、そのためには当事者意識などさっさとかなぐり捨てて、何ごとにも涼しい顔をして傍観者を決め込むのがベストの道だ。そんな毎日をくりかえしていれば、こんな恥知らずな科白も平気で吐けるようになるらしいのだが、俺はこんなことでは回答になっていない、ちゃんとした見解を回答としてよこすようにと返信した。その返事は、いまだ届けられない。
 ──やれやれ。しかし名張まちなか再生事件といい、名張エジプト化事件といい、どちらの事件にもわずかながら乱歩がからんでいるのだから、このまま見過ごしにすることはできない相談だろう。そろそろ第二ラウンドか。
 俺は溜息でもつきたいような気分で、そんなことを考えている。そしてとりあえずこんなところが、二〇〇五年九月十八日、ジミ・ヘンドリックスが酒と薬でくたばった日からちょうど三十五年が経過した日、まだ生きている俺がげんに遭遇している状況というわけだ。以上、報告終了。

 まあそういったわけでがんす。異論反論がおありの方はどうぞお気軽にお寄せください。異説争論こそが自由の元素を生み出すのだと、福沢諭吉も申しております。


●9月20日(火)

 三連休も終わって新しい週がスタートしました。さっそくまいります。

 まず、名張市建設部都市計画室に置かれた名張まちなか再生委員会事務局にメールおひとつ。

 どうもお世話さまです。過日お電話を頂戴したおり、名張まちなか再生委員会の審議内容をどんな形で公表してゆくか、8月開催の役員会で検討が行われるとお教えいただきました。どんな結論が出たのでしょうか。ご多用中恐縮ですが、メールでお知らせいただければ幸甚です。

2005/09/20

 つづきまして、名張市生活環境部の部長さんにもメールおひとつ。こちらは「写したくなる町名張をつくる会」がらみの用件となっております。

 どうもお世話さまです。先日のメールでお願いしました件、ご回答はいただけないものと判断してよろしいのでしょうか。それならそれで、お手数ですが別途お願いしたいことがありますので、またあらためてメールをさしあげます。公務ご繁多のところ申し訳ありませんが、ひきつづきよろしくお願いいたします。

2005/09/20

 以上二通、つつがなく送信いたしましたことをお知らせして本日は失礼いたします。さて、どうなるのでしょうか。