2005年10月中旬

●10月11日(火)

 10月2日日曜、思い出の池袋西口広場をあとにしたのは、それでも正午前くらいの見当だったでしょうか。そのときの所持金を計算してみると、新橋から池袋までの電車賃が百九十円、公衆電話二通話で二十円、電話番号の問い合わせ一件百円、煙草二百七十円、池袋駅の自動販売機でペットボトル入りのお茶を買ったのがたぶん百二十円、池袋西口広場の名張市のテントでH謹製たんぽぽゼリーを飲んで百五十円、以上で八百五十円ですから、千円からこれを引けば百五十円。

 わずか百五十円しかなかったところへHから三万円を借り、私はまっすぐ東京駅へ向かいました。八重洲ブックセンターに立ち寄る気にもなれません。そのまま新幹線のぞみに飛び乗り、帰宅してジャケットの内ポケットを探ってみると、新橋駅前交番で手渡された白い封筒が出てきました。あちらこちら折れたり皺になったりして、汗のせいかやや湿り気の感じられる空っぽの封筒には、その日早朝以来の失意と得意の記憶がひっそりと封じ込められているように思えました。

 もう一枚、池袋西口広場のテントで配られていた名張市のPRチラシも出てきました。その表裏両面、ご参考までにご覧いただきましょう。

 怪人二十面相もこのように申しておりますことですから(しかしいいのか)、読者諸兄姉も機会がございましたらぜひ近鉄大阪線名張駅で降りてみてください。

 さるにても、よくよく考えてみるとだな、といまや私は思うわけですが、豊島区と名張市が友好提携を結び、池袋で開かれた物産展に名張市のお菓子が並ぶようになったのも、淵源を尋ねれば2002年の探偵講談ではないか。あの年の早春、立教大学への移管を目前にした旧乱歩邸にお邪魔して、平井隆太郎先生の前で旭堂南湖さんに「魔術師」のさわりを演じてもらい、帰りの新幹線のなかでこれはぜひ東京でも探偵講談を公演して平井先生に全篇をご覧いただかねばと意を決した、あのときの俺の決意がすべての始まりだったわけではないか。

 すなわち、区長さんやMさんをはじめとした豊島区の関係各位にいろいろと便宜を図っていただいて、2002年の秋に豊島区民センターで公演を無事に終えることができた、あのとき俺の蒔いた種がいまこうして美しい花を咲かせ、たわわな実を結んだということではないか。物産展の名張市のテントで借金できたというそれだけの事実を花と呼び、実と称していいものかどうか、そのあたりいささか微妙ではあるのですけれど、とにかく私はそのように思います。そしてまた、このようにも。

 ──積善の家に余慶あり、とはこのことか。いや、ちょっと違うか。

 以下、後日談となりますが、東京から帰った次の日、つまり10月3日の朝早く、JR新橋駅から電話が入りました。銀座口のトイレのゴミ箱から私のバッグが見つかったという知らせです。宅配便で送ってもらうことにして、バッグが到着したのは6日木曜のことでした。同じく6日、警視庁中野警察署から一枚の葉書が届きました。私の財布が同署管内で拾得されたという通知書です。紙幣だけが抜き取られたこのバーバリーの財布は、いまも中野警察署に保管されています。


●10月12日(水)

 案じますに、10月2日早朝、私のバッグを置き引きした賊は、足早に別の車両に移動して、新橋駅で下車した。直行した銀座口のトイレでバッグを検め、入っていた財布を懐に入れたあと、バッグをゴミ箱に放り込んだ。その後、中野区まで移動して、紙幣だけを抜き取り、財布もまた捨て去った。JR新橋駅と警視庁中野警察署からの連絡に基づいて考察しますと、以上のようなことになります。

 バッグと財布の拾得者が律儀に届け出てくれたおかげで、紙幣以外はすべて戻ってくることになり、げんにバッグは届いたのですが、わざわざ新幹線に乗って中野警察署まで財布を引き取りにゆくのは面倒至極。代理人を立ててもいいのですが、人手を煩わせるのもなんだか気が進みません。財布に入っていたカードのたぐいは盗難の届け出と再発行の手続きを済ませてありましたから、残る問題はバーバリーの財布のみ。えーい、置き引きに遭った財布なんか験が悪くてつかえるか、と強いて考えることにした私は、きのうダックスの財布を新調してしまいましたので、中野警察署に保管されている財布は所有権放棄ということにしてしまおうか、と思案しているところです。

 いずれにいたしましても、首都圏にお住まいの皆様は、東京の治安悪化にずいぶんご注意めされますよう。また、左の告知板に本日掲げました催事三件、ご都合よろしければぜひお運びのほど。


●10月14日(金)

 新潮文庫に入った宇月原晴明さんの『聚楽 太閤の錬金窟』を読んでいて、思わずにっこりしてしまいました。

 「現は夢」

 「夜の夢こそ、真」

 というフレーズに出くわしたからです。きょうびの言葉でいえばリスペクトってやつですか。作者は乱歩のファンでいらっしゃるのかもしれません。そんなことはまあともかくとして、日本と西洋をオカルティックなアナロジーの鎖で強引に結びつけてしまうこの作品の力業には、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した前作『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』同様、ほとんど茫然とするほどに目を見張らされてしまいました。

 これらの作品に見える宿痾のごとき、とでも表現したくなるような博覧強記にはむろん巧妙に虚実が混交されているはずで、私にはそれを見分けることなど最初から不可能ではあるのですが、たとえば『信長』ではわれらが伊賀の国がこんなふうに描かれています。

 一五八一年九月、信長は四万の軍を集め、伊賀の国を焦土に変えた。伊賀は小国であり、敵対勢力も数千にしかすぎなかったが、しかし、ここは魔術師達の国であった。信長ですら死の前年になるまで手がつけられなかったことを考えても、彼らの力がよくわかる。服部、百地をはじめ十二人の熟達者が統治するこの国の者達はすべて、日本のアサシンであった。侵入し、破壊し、暗殺する。

 以下、新潮文庫版の172、173ページをお読みいただくとして、そこに引かれている『伊賀国風土記』は実際には現存しておらず、つまりはこのあたりの虚実の綯い交ぜぶりが私にはすこぶる面白いと思われるわけです。時代小説ファンのみならず、尋常ならざる畸形のごとき小説をお探しの諸兄姉にお薦めしておく次第です。

 といった具合にですね、静謐な読書生活のよどみに浮かぶうたかたをああでもないこうでもないとただ書き綴っているだけで済めばまことに世はこともないのですが、あいにく世の中には社会生活というものもまた存在しているわけであって、降って湧いたような置き引き騒動の後始末もようよう片づきましたので、さーて、名張市におけるなべての愚かしさ(のごく一部)を相手取った総力戦に突入し、地域社会に一身を挺してやるか、アサシンとして侵入し、破壊し、暗殺してやるか(むろん暗殺の対象はなべての愚かしさです。私は字義どおりの暗殺などという剣呑不穏物騒な意志を有しているわけではありません)、と考えた私は、きのうの午後、名張市役所に足を運んでみました。ところが、四階の建設部でも一階の生活環境部でもお会いしたい方が会議その他で席を離れていらっしゃいましたので、すごすご引き返す仕儀となってしまいました。なんか莫迦みたい。

 それにいたしましても、名張市役所にちょこっと足を踏み入れてみるだけで、自分がほんとに嫌われ者であるという事実が私にはよく実感されます。冗談でもなければ誇張でもありません。むろん私のことなんかご存じない職員が大半ではあるのでしょうが、顔見知りの職員からはやはり相当に、いわゆる蛇蝎のごとくに嫌われているらしいなと痛感されます。

 私は生来、温厚で円満、善良かつ誠実、心に深い調和を保って生活している人間ですから、本来であれば人から嫌われることなどないはずなのですが、何の因果か目の前に理不尽や不公正があると何かしらいいたくなってしまう。しかも根が正直なものですから、思ったとおりを口にしてしまう。ゆえにたとえば、

 「展示すべき歴史資料が存在しないにもかかわらずそこらの旧家を歴史資料館として整備するなんてのは絶対におかしい。そんなのはただのリフォーム詐欺ではないか。何を考えておるのか。関係者は莫迦なのか」

 などといったことを平気で公言する。たったこれだけのことで嫌われてしまう。なかにゃ私を嫌ったあげく、私には直接何もいわないくせに、

 「あんな嘱託さっさと図書館をクビにしてしまえ」

 などと陰でこそこそ関係各所に働きかけてくれる卑劣きわまりない腐れ市民も出てくる。ばーか。そうしたばーかな人たちの愚かしさは、おそらくはもう救いようがないものだと私には思われます。ばーかは死ななきゃ治らない。ですから、名張市におけるなべての愚かしさ(のごく一部)を相手取った総力戦、というのはより正確には、名張市におけるなべての愚かしさ(のごく一部)を相手取った不毛の総力戦、といったことになるはずなのですが、まあもうどうでもいいや。行けるところまで行ってみましょう。


●10月15日(土)

 さて、名張市におけるなべての愚かしさ(のごく一部)を相手取った不毛の総力戦の火蓋を切るべく、私は昨日再度名張市役所を訪れました。四階の建設部都市計画室にお邪魔し、名張まちなか再生委員会事務局の職員の方からお話を伺うことができたのですが、それだけで時間の余裕がなくなってしまって、一階の生活環境部には立ち寄ることができませんでした。生活環境部長さんにお会いするのは、したがいまして週明けのことになります。

 名張まちなか再生委員会事務局での用件は、大雑把にいって二件ありました。一件目は、先日事務局から頂戴した下記のメールにいささか不得要領なところがありましたので、もう少しくわしいところを確認したいなということでした。

中 相 作 様

 名張まちなか再生委員会の取り組みにつきましては、歴史拠点整備、水辺整備、交流拠点整備、生活拠点整備、歩行者空間整備の各プロジェクトにおいて、各種の事業実施に向けた基本方針等の検討を行っています。

 名張まちなか再生委員会の開催状況等の公開につきましては、進捗状況及び検討経過等を市民の皆さまにお知らせするために、名張市ホ−ムペ−ジへの掲載を考えており、現在、事務局で公開に向けた準備をしている段階であります。

 そもそも私が問い合わせたのは8月に行われた役員会の内容なのであるが、と尋ねてみたところ、役員会は8月17日に開かれたのだが、委員会の審議のプロセスを公表するべきかどうか、公表するとすればどんな方法によるべきか、そういったことを事務局が役員に諮るには至らなかったとのことでした。理由は、事務局側の準備不足と、議題が多かったことによる時間不足だったそうです。で、つづく9月30日の役員会に諮った結果、上記メールにあるような方針が確認されたということです。結構でしょう。名張まちなか再生委員会がより高い公開性を目指すことは、名張市民に対する委員会側の責務であると申しあげておきます。

 しかし、7月21日付伝言でお知らせしましたとおり、委員会の事業計画はこんな具合になってるわけです。

事業名
事業内容
実施予定日
歴史資料館の整備事業 ・細川邸を活用するにあたっての基本計画を作成する。 平成17年6月〜平成17年10月
・細川邸の活用にむけた基本計画をふまえ、整備にあたって実施設計を行う。
・細川邸整備後の、施設管理運営体制や、施設運営方針の検討を行う。
・細川邸の一部除却解体。
平成17年10月〜平成18年3月
桝田医院別館第2病棟跡地活用事業 ・桝田医院別館第2病棟跡地を活用するにあたっての基本計画を作成する。 平成17年6月〜平成17年10月

 つまり10月中には「細川邸を活用するにあたっての基本計画」と「桝田医院別館第2病棟跡地を活用するにあたっての基本計画」が決定されることになっていたわけで、きょうはもう10月も15日。いまから準備して名張市のオフィシャルサイトに委員会の審議経過を発表するなんてほんとにできるのか、たとえできたとしてもそれはあくまでも審議結果の報告に過ぎず、審議プロセスの公開とは呼べぬのではないかとも思われるのですが、とにかく委員会側の意向はそういったことだといいます。で、日程は未定ながら、10月下旬から11月上旬にかけて役員会が開催され、五つのプロジェクト(この場合、プロジェクトという言葉はプロジェクトチームの意で使用されているとご理解ください)からの報告を受けて何らかの計画がまとまる見込みであるとのことでした。

 二件目。細川邸を歴史資料館として整備する構想が白紙に戻されたと伝えられるが、どうよ、と質問しましたところ、果たしてそのような雲行きになっているみたいです。つまり歴史資料館は整備されないらしい。結構でしょう。ろくな歴史資料もないのに歴史資料館を整備するなどという愚の骨頂、最悪の事態だけは回避できたようです。ただし、細川邸の歴史資料館化は名張まちなか再生プランに明記された構想であり、いっぽう名張まちなか再生委員会にはプランそのものに変更を加える権限は附与されていません。その点どうよ、と訊いてみたところ、これはかなり苦しいのですが、名称変更という手法で切り抜けたいというのが委員会の考えのようです。苦しい苦しい。とても苦しい。

 要するに、名張まちなか再生プランにおける歴史資料館整備構想には、歴史資料の展示という要素のほかに地域住民の交流という要素も含まれていた。だからもともと想定されていた交流という機能に軸足を置いて細川邸を整備すれば、歴史資料以外のものを展示することになってもプランを変更したことにはならない、というのが名張まちなか再生委員会の認識らしいのですが、苦しい苦しい。死ぬほど苦しい。そんなこといってないでここはすっぱり、9月24日付伝言にも記したとおりプランを策定した名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集し、そこに細川邸歴史資料館化構想を差し戻して、ふたつの委員会で協議検討を進めるという特例的措置を講じるべきだと私は考えます。

 それにそもそも、名張地区既成市街地再生計画策定委員会の責任はどうなるのか。ろくな歴史資料もないのに歴史資料館を整備するなどという子供騙しな、いやいや、そこらの小学校に通ってるお子供衆すら騙せないようなでたらめなプランを策定した連中の責任はどうなるのか。名張市のオフィシャルサイトに掲載された名張まちなか再生プランのこのページには委員十四人のお名前が列記されているのですが、この十四人のみなさんに私は問いたい。

 ──あんたら、あほなん?

 いやいや、むろんあほではありますまい。名張市から委嘱されてプラン策定に携わられたみなさんです。大学教授や関連団体代表や市議会議員など錚々たる方々が揃い踏みされた委員会です。あほ、などと申しあげたらお叱りをいただくことは必定でしょうが、それでもいたって正直な人間である私は、やはりこのように問いかけたいという思いを禁じ得ません。

 ──あんたら、あほなん?

 いやいかんいかん。ほんとにいかん。こんなこといっておっては明らかにいかんのではあるが、それでもなお敢えてひとつだけ確認しておきたいと私が考えますのは、かりにあほであったのだとしても、あほだからという理由で責任が免除されるということはあり得ないという事実です。どうしてこんなでたらめなプランが策定されなければならなかったのか、その原因を究明しておかなければ、似たような過ちが将来くり返されることにもなりかねません。だから名張まちなか再生委員会はこの際、名張地区既成市街地再生計画策定委員会の責任をきっちり追及するべきではないかと私は愚考する次第です。

 そういったことはまあ措くとしても、それならば細川邸はどのような名称のもとに整備されることになるのか、と問い質しましたところ、事務局からは、これはむろんまだ仮称でしかないのですけれど、たとえば初瀬街道ものがたり館、からくり館……

 「あーあかんあかん。からくりはあきません。初瀬街道はまだ地域に根差したものと見ることが可能ですけど、からくりはあきません。あんなもん、名張には何の関係もない大嘘やがな」

 私は事務局職員の説明を遮るようにしてそう告げました。そして、

 ──出やがったか。

 と思いました。何が出やがったのかと申しますと芭蕉チルドレン、すなわち芭蕉さんの子供たちです。これがいったいどんな子供たちなんだか、9月15日付伝言の「アンパーソンの掟」から引用しておきましょう。

 もしも『ふしぎとぼくらは何をしたらよいかの百科事典』の編集部から依頼があれば、俺は「芭蕉さんの子供たち」の項をこんなふうに執筆することだろう。

 ──二〇〇四年、三重県が伊賀地域で実施した官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を契機として発生した市民層。中心をなすのは事業に直接携わった地域住民で、閉鎖性と排他性を特徴とし、独創性や先進性には乏しく、責任の所在を極力曖昧にしながら、公共概念にはまったく無縁なプランに公金を費消するために活動する。事業終了後も伊賀地域各地に散らばり、事業の悪弊を持続させる潜勢力となった。……

 野呂昭彦という知事はあの事業を指して、みずから提唱する「新しい時代の公」のモデルケースだと評した。新しい時代の公、という言葉が正確に何を意味しているのか、残念ながら俺には不明だ。とはいえあの事業に、現時点で「公」と呼ばれているものの貧しい内実が示されていたことは間違いのないところだろう。当節の官民合同だの協働だのといったものからは、じつは肝腎の公共概念がすっぽり抜け落ちている。それが現在ただいまの「公」の姿なのだという認識に立脚しているのだとすれば、知事の言はまさしく正鵠を射ていることになる。

 そして芭蕉さんの子供たちは、公共概念の不在には何の疑問も抱くことなく、それぞれの「公」に携わる。官民合同の名のもとに、正当な判断や正規の手続きなど端から無視して、いや、そうした判断や手続きの重要性に顧慮することさえ知らず、ただ自分たちの手で公金を費消することのみに狂奔し、すっかり味を占めてしまった子供たち。彼らはお役所の無責任や怠慢と強力なタッグを組みながら、地域社会に着実に地歩を占めてゆく。後顧の憂いという言葉は、どうやら「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のためにこそあったものらしい。

 ──芭蕉さんの子供たち。

 これがまあ、出やがったわけですね。出やがったと申しますか、いよいよ馬脚を露わしたと申しますか。いずれにせよ、

 ──よーし。上等だ。

 私は胸のなかであらためて宣戦布告しました。名張市におけるなべての愚かしさ(のごく一部)に対して。


●10月16日(日)

 さーあ莫迦、いやいきなり莫迦といってしまっては身も蓋もありませんけれど、とにかくこれで、もとより正式決定はいまだなされておりませんものの、名張まちなか再生プランに盛り込まれていた細川邸を歴史資料館として整備するというとんでもない構想はきれいさっぱり消えてしまったと見ていいように思われます。慶賀慶賀。と申しますか、慶賀も何もこれはごく当然のことでしょう。ろくな歴史資料もないのにどうして歴史資料館がつくれるんだばーか。

 しかし恐ろしいものです。何が恐ろしいといって、私がこうやって声をあげなければ、名張地区既成市街地再生計画策定委員会によってまとめられた名張まちなか再生プランは名張まちなか再生委員会の手で実施に移され、つまりはろくな展示物もない歴史資料館が実際に誕生することになっていただろうと推測されるからです。リフォーム詐欺がまかり通っていたわけです。ああ恐ろしい。大丈夫なのか名張市は。

 あまり大丈夫ではないのかもしれませんが、名張市にとって幸福だったのは、私のような有能でものの道理のよくわかった人材が存在していたという一事でしょう。私がインターネットというメディアを利用し、むろん吹けば飛ぶような個人サイトではあるのですが、この名張人外境に歴史資料館構想をテーマとした正当な主張を公表した。となると、名張まちなか再生プラン関係者もそれに耳を傾けざるを得ない。といったような状況が、たとえば二年前とは比較にならないほど急速に一般化しつつあるように感じられます。

 二年前と申しますのは、すなわちあの三重県が天下に恥をさらした官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業において、二〇〇四伊賀びと委員会が総額三億円の事業予算案をまとめ、事業推進委員会がそれに承認を与えたときのこです。全国紙や地元 CATV などのメディアでは通り一遍のニュースとして報道されただけでしたが、じつはその予算案というのは明細がいっさい記載されていない詐欺みたいなものであった。そこで私はネット上であかんがな、こんなことではあかんがなという批判を展開したのでしたが、そのときに較べれば自分の主張がずいぶんすんなり浸透してゆくではないかというのが私の実感です。

 いわゆる市民メディアってやつですか。行政サイドのオフィシャルな広報や新聞など既存の印刷媒体による報道を補完する新しいメディアとして、インターネットはいまや着実に威力を発揮しつつあるということでしょう。そして私の市民メディアは、細川邸のリフォーム詐欺を未然に防いだあと、いよいよ芭蕉さんの子供たちの糾弾に乗り出すという寸法です。細川邸を歴史資料館にする目はなくなった(芭蕉さんの子供たちにとっては、細川邸を歴史資料館にする目がつぶされた、といった感じでなのでしょうけれど)、ではどうするのかという段になって、芭蕉さんの子供たちはいよいよ地金を覗かせます。

 ──からくり館がいいと思う。

 なんてことをいってるそうです。いやまいった。びっくりした。これでは歴史資料館よりもまだたちが悪いではないか。いったい何を考えておるのか。名張がからくりのまちであるなどと、そんな大嘘かますのもたいがいにしておけ。

 以下、糾弾をつづけるのはいくらだって可能なのですが、本日の私は名張市内某所の観光旅館で有史以前から昭和40年まで、まあおおよそ四百万年にわたる名張の歴史を半時間ほどで講演しなければならず、ただしそのあとは温泉に入って大宴会に突入するのみといういたって気楽な講演ではあるのですが、それでも最低限の準備はしておかなければなりませんので、糾弾のつづきはまたあした以降のことといたします。

 ではここで、芭蕉さんの子供たちの活躍ぶりをメディアの記事へのリンクでご紹介しておくことにして(つまりいつものようにいちいち引用している暇がありませんので)、「あんどん迷路やまちなか昭和村 15、16の両日に名張でからくりイベント」(10月5日)、「からくりのまち名張:紙芝居・昔遊び…、イベントいっぱい──15、16日 /三重」(10月6日)、「怪人も「癒される」/名張に足湯」(10月15日)、「きょうから「からくりのまち名張」 住民ら手作り屋台などを披露」(10月15日)。

 あともうひとつ、「“乱歩の足跡”影絵で紹介 名張の角田さん夫妻が上演」(10月16日)もご覧ください。


●10月17日(月)

 そういった次第で、名張市におけるなべての愚かしさを象徴するようなイベントがぱんぱかぱーん、15、16両日に催されました。10月4日付の予告記事をどうぞ。

あんどん迷路やまちなか昭和村 15、16の両日に名張でからくりイベント
 古い町並みが今も残る名張市の新町、本町、鍛冶町、中町の初瀬街道沿いを舞台にしたイベント「からくりのまち名張秋事業」が10月15(土)、16(日)の両日、街道沿いで開かれます。からくりのまち名張実行委員会の主催で、5日午前11時から名張市役所2階庁議室で記者発表が開かれました。イベント両日は250基のあんどんが町を浮かび上がらせ、怪人二十面相が神出鬼没に現れます。

 あんどんは4町の街道沿い600メートルの両側に設置され、両日午後5時ごろ、一斉に点灯。昼間は迷路のような名張の町を歩いて、15基のあんどんに書かれた文字を探して組み合わせるクイズ「あんどん迷路INからくりのまち名張」をはじめ、5か所のまちかど博物館を巡るスタンプラリーが開催されます。参加受付は本町のまちなか本部(旧中村家具店)、ゴールは新町の細川邸。

 町中にはさらにグレードアップした怪人二十面相が出没し、自転車による水あめなどの駄菓子を移動販売。4町の空き店舗や駐車場などが「まちなか昭和村」として、蚤の市や昔遊びの空間に生まれ変わります。

伊賀タウン情報 YOU  2005/10/04/ 22:33:55

 私とてこの手のコミュニティイベントにいちいちケチをつけるほど野暮ではありません。なーに月並みなことやってんだ、とは思いますが、月並みな地域住民のために月並みなイベントを提供することにも意義は見出せるはずでしょう。伊賀の魅力を全国発信、などと大風呂敷をひろげておきながら結局はご町内の親睦行事を寄せ集めることしかできなかったどっかの莫迦とは異なり、この「からくりのまち名張秋事業」はご町内の親睦事業を寄せ集めることそのものが目的なのですから、好きにやっていただければそれでいいようなものなのですが、ただひとつ見過ごしにできないのは「からくりのまち」というコンセプトです。なーに勝手なことやってんだ。

 からくりのまちとはいったい何かと申しますと、三重県が天下に恥をさらした官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業において、ぱらまかれた三億円の予算から一円でも多くのお金を名張市に取り込むためにでっちあげられた乞食的発想に基づく嘘っぱちでしかありません。ばったもんです。でたらめです。いんちきです。そうであろうが芭蕉さんの子供たち。そんなものいつまでもずるずる引っ張ってんじゃねーぞたこ。

 いや、たこであれいかであれ、あるいはあなごであれしゃこであれ、からくりのまち名張実行委員会のみなさんはもういい大人なんですから、こんな大嘘かまして世渡りをしてはいけません。みなさんは名張市立名張小学校で「嘘をつくのはいけないことだ」と習ったのではないのかな。地域社会の歴史を学んだのではないのかな。それとも君たちが通った学校では、名張はからくりのまちであるなどという嘘八百を教えてくれたのかな。そんなあほたれな先生がいたらいますぐ名張市立図書館につれてきなさい。私が地域の歴史を死ぬほど教えてさしあげますから。しっかしまあ、名張のまちではいまや歴史認識もくそもないわけか。名張の将来はじつに暗澹としていると申しあげざるを得ません。

 ここで敢えて指摘しておきますならば、賢明なる読者諸兄姉はすでにお気づきのことでもありましょうけれど、虚偽や捏造を平然とぶちかませるこうした恥さらしな体質がゆくりなくも全面的に露呈してしまったのが、例の名張エジプト化事件にほかなりません。名張のまちの歴史を知ろうともせず、名張のまちに正面から向き合うこともせず、あろうことか書き割り一枚で名張のまちを覆い隠してしまうという驚天動地の発想には、笑ったりとか怒ったりとかそんなレベルをはるかに超えて、何やら空恐ろしいものさえ覚えてしまう次第なのですが、そういえば上に引用いたしました「あんどん迷路やまちなか昭和村」の記事、リンク先にこんな一文が記されていたことを読者諸兄姉はお気づきでしょうか。

また、「写したくなるまち名張」の新しいバージョンも登場する予定です。

 ぱんぱかぱーん。名張市が世界に誇る公益団体、写したくなる町名張をつくる会がまーたやってくれました。私はまだ現物を拝ませていただいてはいないのですが、10月14日付の読売新聞伊賀版にはちゃんと報道されておりました。写したくなる町名張をつくる会はエジプトにつづいていったいどこに白羽の矢を立てたのでしょうか。興趣を殺ぐことになりますから地名は伏せ字として引用いたしましょう。伏せ字は二字といたしますが、実際の字数はそれより多くなっております。

「今、××です」
名張駅前に巨大写真 携帯のカメラでいたずら?
 「××へ旅行?」「いいえ、名張で撮った写真です」──。こんな会話が楽しめる「からくりパネル」が13日、名張市の近鉄名張駅東口にお目見えした。

 ぱんぱかぱーん。見たい見たいぜひ見たい、という読者諸兄姉の熱狂的なご要望にお応えするべく、私はきょうにでもこのからくりパネルとやらを勇躍撮影してまいります。そしてあすの朝には、読者諸兄姉と「××へ旅行?」「いいえ、名張で撮った写真です」といった会話を楽しみたいと思います。ぱんぱかぱーん。


●10月18日(火)

 まずお詫びですが、ばんばかばーん、写したくなる町名張をつくる会のぱんぱかパネル第二弾、きのうは時間がなく、雨だったこともあって、撮影することができませんでした。どうも申し訳ありません。きょうにでも撮影してまいります。

 それでは本日もここ、からくりのまち名張からぱんぱか小咄をお届けいたしますが、昨日も懇々諄々とご説明申しあげましたとおり、からくりのまちなんてのは大嘘なわけです。単なる思いつきに基づいたバッタモンのラベリングに過ぎません。中身や実質なんて何もない。眩暈がするほど何もない。試みに15、16両日に実施された「からくりのまち名張秋事業」をざっと打ち眺めてみましても、肝腎のからくりに関連のあるイベントがひとつも見当たらないのですから笑止千万。嘘八百で固めたコミュニティイベントなんかいい加減にやめてしまいなさい。しまいにゃ怒るぞ。からくりのまち名張実行委員会のみなさんには、そのようにお伝えしておきたいと思います。

 さて、名張まちなか再生委員会のお話に戻りますと、最近はこの委員会でもからくりというコンセプトが囁かれているそうです。細川邸という旧家を歴史資料館にする目はなくなり、しかしこの委員会にとっては細川邸を何らかの形で活用することがどうやら至上命令となっているようですから、歴史資料館が駄目ならばからくり館はどうかといった声も出ているといいます。などと記しますと、からくりというコンセプトが名張のまちにある程度定着しているような印象になってしまうかもしれませんが、そんなことは全然ありません。

 要するにまあ、顔ぶれが似たり寄ったりなわけです。あちらのなんとか委員会、こちらのかんとか委員会、いろいろ組織はありますけれど、並んでる顔は同じようなものですから、どんな委員会でも同じような発想しか出てこない。あちらでもからくり、こちらでもからくり。莫迦のひとつ憶えとはこのことかとばかり、名張のまちにからくりという言葉が谺しているわけですね。そんな詐欺まがいのことわめいて地域社会に仇をなしていないで、おとなしく家業に精を出すということはできんものかね、芭蕉さんの子供たちのみなさんや。

 からくり館のほかに、名張まちなか再生委員会では初瀬街道をテーマにした施設というプランも検討されているそうですが、これは伊賀市阿保に開設された「初瀬街道交流の館たわらや」みたいなもののことなのかな。しかしまあ、ごく近くにこうして初瀬街道をテーマにした施設があるわけなんですから、いまさら名張に似たようなものをつくってもしゃーないでしょう。というか、ぶっちゃけて申しあげますと、名張独自の施設を考え出すだけの知識も見識も、名張まちなか再生委員会は備えておらんのではないか。私はそれをおおきに怪しんでおります。委員全員、じつは委員を務められるだけの能力など持ち合わせておらんのではないか。うーむ。怪しい怪しい。とても怪しい。そんな人間が委員としてずらりと名前を並べていることこそ、世を謀り世間を欺く天下の大からくりなのではないか。

 いやいかんいかん。こんなことをいっておってはいけません。しかし遺憾ながら、私は実際そのように思っておりますので、14日金曜日に名張まちなか再生委員会の事務局にお邪魔したときにも、委員の能力に関する疑問をあらためて口にし、

 「だからこそ委員のみなさんに一度お話をさせていただきたいとお願いしたわけなんですが」

 と申しあげた次第です。むろん実際には、私の申し出に対して、

 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」

 という度肝を抜くような回答が寄せられておるわけで、こうなると知識や見識以前に姿勢の問題であろうと思われます。名張まちなか再生委員会のみなさんに、私は敢えてこう問いたい。

 ──あんたら、あほなん?


●10月19日(水)

 本日はまず訂正です。昨日付伝言に「しまいにゃ起こるぞ」とありましたのは「しまいにゃ怒るぞ」の誤りでした。どうも申し訳ございませなんだ。怒らないでね。

 それではお待たせいたしました。お約束したより一日遅れとはなりましたが、例のものです。さっそく会話を楽しみましょう。

 ──ニューヨークへ旅行?

 ──いいえ、名張で撮った写真です。

 ふーん。

 なんだかちっとも楽しめません。ひたぶるに、しらーっ、とした感じです。名張市が世界に誇る公益団体、写したくなる町名張をつくる会はいったいどうしてしまったのでしょう。第一弾のエジプトの絵がもたらした底知れぬ驚愕、あの名張エジプト化事件が名張市内のみならず全国の乱歩ファンにもたらした途方もない衝撃がまるで嘘のようです。10月14日付読売新聞伊賀版の記事によりますと、近鉄大阪線名張駅東口に掲げられましたのはニューヨークにあるロックフェラーセンタービルのクリスマス風景を撮影した写真パネルで、サイズは縦三メートル、横二・七メートルなのだそうですが、ふーん。 

 パネルの隅ではこんな会話も交わされております。

 ──ニューヨークに行ってきたヨ!(*^_^*)

 ──実は「からくりの町名張」だヨ(¬o¬) ----☆ 名張っておもしろいよ!

 ふーん。

 あまりにも不憫で痛々しいから、そっとしておいてやりましょう。次の話題に移りたいと思います。ただしその前にひとつだけ確認しておきますと、今回の名張ニューヨーク化未遂事件には怪人二十面相は関わっていないようです。前回の事件では──

 この写真でおわかりのとおり堂々の主役を張り、写したくなる町名張をつくる会のメンバーであるらしい怪人19面相君からも、

 「そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!」

 とのお知らせを頂戴していて、つまりこの事業の案内役はすべて怪人二十面相が相務める手筈になっていたのではないかと推測される次第なのですが、いったい何があったというのか。まさか19面相君がお仲間から、

 「どあほッ。あんたが掲示板にあんなあほなこと書き込むさかい二十面相のキャラクターつかえへんようになってしもたわてッ」

 「いたたッ」

 みたいな仕打ちを受けているなんてことはないのでしょうけれど。うーむ。謎が謎を呼ぶからくりのまちだぜ。

 では次の話題、というよりは元の話題なのですが、10月14日金曜、名張市役所建設部に置かれた名張まちなか再生委員会事務局でのことです。役員会の協議内容と歴史資料館構想の推移、以上の二点を確認したあと、私は乱歩生家の復元についても質問してみました。

 この件に関する私の考えは、名張まちなか再生プランの素案に対するパブリックコメントとして名張市に提出した「僕のパブリックコメント」でお読みください。概略のみを振り返っておきますと、桝田医院第二病棟跡地に乱歩の生家を復元し、細川邸は名張市立図書館のミステリ分室として乱歩の遺品や著作、探偵小説関連の図書類を管理公開すればいいという私のアイディアは、まことに残念なことながら採用されるには至らず、名張まちなか再生プランは素案どおり決定されることになりました。

 ところが、事務局で教えていただいたところによりますと、名張まちなか再生委員会の協議では、桝田医院第二病棟の跡地に乱歩の生家を復元し、そこに乱歩の遺品や著作、さらにはミステリー小説を展示するという構想が話し合われているというではありませんか。あーりゃりゃっ。そこでわが親愛なる名張まちなか再生委員会のみなさんに、私は敢えてこう問いたい。

 ──あんたら、あほなん?

 いやいや、このような手ぬるい問いかけで何とする。私はこのうえないほどに激しい怒りの感情をこめてこう問うのだ。

 ──おまえら、リフォーム詐欺のあとはアイディア盗用か。ご苦労なことだな。自分の頭では何も考えられないものだから大嘘かましたり人のものパクったり、莫迦ってのもやってみるとなかなか大変なものらしいが、しかしもういい加減にしろ。おまえらなどは死んでも治らん。休むに似たりの連中がああでもないこうでもないと何をやっておるのか。こら名張まちなか再生委員会の大莫迦ども。しまいにゃ起こるぞ、ではなくて怒るぞ。

 しまいにゃ、と申しますか実際にはもうすっかり怒ってるわけなんですが、つづきはまたあしたということにして、本日のところはこのへんで遥かニューヨークの空からお別れしたいと思います。えー、こちらニューヨーク、こちらニューヨーク。


●10月20日(木)

 さあこら莫迦ども。

 いやいや、こんな具合にただ莫迦どもとのみ記しただけでは、いったい誰のことだかよくわかりません。この秋、名張では見事に莫迦が豊作で、あるいは読者諸兄姉はもしかしたら名張って莫迦ばっか? とお思いなのかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。たしかに最近、どうも莫迦が目立ってるなという印象は拭いがたく、私もちょっと困ったなとは思っているのですが、困っているだけではどうにもなりません。莫迦の芽はひとつひとつ摘んでゆくしかないでしょう。

 と思っていたら、本日付中日新聞の三重第二版にこんな記事が掲載されておりました。伊東浩一記者の記事から一部引用いたします。

江戸川乱歩生まれた長屋復元 名張市が検討
 名張市は、地元出身の推理小説家江戸川乱歩の生誕地碑が立つ同市本町の旧桝田医院第二病棟の土地に、乱歩が生まれた長屋を復元する方向で検討している。年度内に復元の基本方針をまとめ、来年度には実施設計に入る予定だ。

 むろん莫迦の動向も報じられています。

 市の呼び掛けで6月に発足した、名張商工会議所、地元まちづくりグループなどの関係者でつくる「まちなか再生委員会」の歴史拠点整備プロジェクトチームは旧第二病棟を、乱歩生誕地にちなんだ歴史拠点に活用する方法を協議。旧第二病棟の建物を再利用する案も消えてはいないが、老朽化が進んでいることなどから、今のところ建物は取り壊し、更地に生家の長屋を復元する案を軸に検討が進んでいる。

 なーにが検討だこのパクリ野郎ども。泥坊野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴どもめ、と坊っちゃんならば立て板に水で啖呵を切っているところでしょう。しかし犬も同然といってしまっては、あんな連中といっしょにするなと犬が怒り出すかもしれません。

 時間に余裕がありませんので、つづきはあしたといたします。