2005年11月上旬

●11月1日(火)

 そもそも中心市街地の衰退や空洞化は名張市だけの問題ではなく、全国どこにでも見られる傾向であって、有効な手だても見つかってはおりません。と申しますか、そんなものはないであろう。中心市街地活性化を図るために制定されたいわゆるまちづくり三法も、むしろ大型店の郊外立地に拍車をかけ旧来の中心街をいよいよシャッターストリート化ないしはゴーストタウン化してしまう結果しか招かなかったため、わずか七年で見直されることになったのは先日メディアで報じられたとおりです。

大型店など郊外出店を規制 自民がまちづくり三法改正案
 自民党の中心市街地再活性化調査会(中曽根弘文会長)は27日、中心市街地の空洞化を防ぐため「まちづくり三法」(大規模小売店舗立地法、中心市街地活性化法、都市計画法)の改正案の概要をとりまとめた。大型商業施設のほか、病院や福祉施設など公的施設の郊外への立地を規制する方針を打ち出した。

 11月中にも最終案をまとめ、来年の通常国会での法改正を目指す。「まちづくり三法」の見直しは、人口減少や高齢化を背景に、中心部に商業・公的施設などの都市機能を集約することを促すのが目的。経済産業省と国土交通省が法改正の作業を進めている。

朝日新聞 asahi.com 2005/10/28/00:10

 それから、これはもう一か月ほど前の記事になりますが、いわゆるまちづくりに関しては「コンパクトシティ」なる言葉が囁かれ始めているらしく、しかしこれも単に方向性が示されたというだけの話に過ぎません。

「郊外拡張」から中心街回帰へ 街づくりコンパクトに 政府、法改正で政策転換
 政府は二十五日、都市計画の基本政策を、人口増に対応して郊外に拡張する都市から、徒歩でも暮らしやすい小さなまちづくりを志向する「コンパクトシティ」へ、大幅に変更する方針を固めた。大型店や市役所、病院など公共施設の郊外立地に歯止めをかけるため、都市計画法など関連する法律の改正案を次期通常国会に提出する。少子高齢化時代に対応し、中心市街地整備などへの住民の要望をかなえつつ、道路などインフラ整備費を削減するねらいもある。拡大を前提とした戦後のまちづくりの理念が、抜本的な転換期を迎えた。(上野嘉之)

 政府が採用する「コンパクトシティ」の概念は、商店や公共施設の中心街への集積を意味し、十年ほど前から環境や都市計画の研究者が提唱してきた。

 ニュータウン開発に代表される従来の拡張型都市設計は、マイカーを利用できない高齢者や障害者が暮らしにくく、生活コストが余分にかかり、環境にも悪影響を与えるとされる。

産経新聞 Sankei Web 2005/09/26/02:36

 だいたいが昔から、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす、などと説かれておりますそのとおり、栄耀栄華なんて春の夜の夢や風の前の塵にさも似たり。かつて繁栄を誇った名張のまちがいまや見る影もなくさびれているのは、誰にも押しとどめがたい時代の趨勢のもたらしたところだと申しあげるしかありません。

 したがいまして私見のかぎりでは、名張まちなか再生プランが目指しているところの再生は、はっきりいってかなり難しい。ほとんど無理。それが正直なところだと思います。とくに商業地として再生させるのは、いくらコンパクトシティがどうのこうのと掛け声をかけてみたところで、ちょっと不可能ではないかと判断される次第です。

 とはいえ、と申しますか、だからこそ、と申しますか、名張のまちのために行政と市民が知恵を絞る必要があるのは申すまでもないことで、ただし知恵の絞り方にはおおきに問題がある。名張まちなか再生プランに関する一連の動きを見ていると、私にはそんな気がしてならないわけです。ですから率直なところを述べてしまうと、

 「こうなったらもうプラン全体を白紙に戻したほうがええのとちゃいますか」

 といったことになってしまいます。何をどう考えても、そういったことにしかなりません。


●11月2日(水)

 新潮社オフィシャルサイトの「週刊新潮」のページによりますと、本日発売の同誌11月10日号、「ワイド 名声のレシピ」という特集にこんな記事が掲載されているそうです。

 ──「佐藤ゆかり」の母親は『傷だらけの天使』のモデルだった!?

 佐藤ゆかりさんの母親と申しますと、佐藤探偵局を率いる女探偵として令名を馳せた佐藤みどりであり、私は日本でただひとりの佐藤みどり研究家たらんと志した人間であるのですが、そんな志もいつかすっかり忘れ果てていたつい先日、「週刊新潮」の取材記者の方から電話が入って、佐藤みどり著『情事の部屋』に乱歩が寄せた推薦文を読みたいのだがとのご依頼をいただきました。そこで本のカバーにある推薦文をコピーしてファクスで送信し、原稿の素材として提供いたしましたので、もしかしたらこの記事には乱歩の名前も出てくるのかもしれません。それにしても、「傷だらけの天使」のモデルだったということは、あの高名なテレビドラマで岸田今日子さんが演じていた女探偵事務所長、あのモデルがじつは佐藤みどりなのであったということなのでしょうか。「週刊新潮」買ってこなきゃ。

 さて、いまや天使よりもっと傷だらけな名張まちなか再生プランの話題ですが、

 「こうなったらもうプラン全体を白紙に戻したほうがええのとちゃいますか」

 といくらアドバイスをさしあげても、これが素直に聞き入れられる可能性はきわめて低いと申しあげざるを得ません。三重県が天下に恥をさらした官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」でもそうでしたけれど、面子や体面が手枷となっているのか、行政の無謬性という神話が足枷となっているのか、官民ともに正当な批判に対して頑ななまでに聞く耳を持たない。これがこういった場合の通例のようです。

 子のたまわく、過ちては改むるに憚ることなかれ。いまさら拙速主義に走る必要はないでしょうし、これまでのプロセスに看過しがたい問題が存在していることは明らかなんですから、とりあえず名張地区既成市街地再生計画策定委員会にまで遡ってプランを見直し、より公正で透明で開かれた議論を進めるべく努めてみてはどうかね、そんなことでは市民に顔向けもできんだろう、と名張まちなか再生委員会のみなさんには申しあげておきたいと思います。子のたまわく、過ちて改めざる、これを過ちという。たまにゃ論語も読んでみろ、というわけです。

 さるにても、伊賀の蔵びらき事件にしろ名張まちなか再生事件にしろ、事業が本来もっていたはずの可能性の芽を無惨なまでに摘み取ってしまったのは、結局のところお役所の旧来的な構造と手法であるというに尽きるでしょう。それが問題の根っこだというわけです。しかしその根っこを掘り出して旧弊を改めるのは至難の業であり、いったいどうなってしまうのか。ともあれここのところは、名張まちなか再生委員会の委員長さんからどんな見解がお聞きできるのか、それを待ちたいと思います。

 ところで私は、名張まちなか再生プランのエリアとなっている名張の旧市街地、今年はいつの年にもましてよく歩き回ったという気がします。雑誌の取材のお供であったり、こちらからお願いして名張市民以外の方に散策してもらったり(世代でいえば下は女子大生から上は六十代までといった感じでしょうか。いやいや、先日は高校の授業で名張のまちを歩き回りましたから、下は高校生からということになります)、それであらためて実感したのは、これはもうまるで死んだみたいに静かなまちだということでした。


●11月4日(金)

 まるで死んだみたいに静かな名張のまちを歩き、名張まちなか再生プランなんていくらつくったって効果はゼロなのではないかと惻々たる気分にひしがれる。そんなことを私は今年、もう何度となく経験してきました。もしもプランが必要だというのであれば、それは観光や商業のみならず福祉や教育なども含めた幅広い領域を横断する総合的で統一的な視点のもとに策定されるべきものであって、上っ面を飾り立てるだけの施設整備計画などむしろ悪い結果をしかもたらさぬのではないか。そんな気があらためて、そしてしきりとしてくることも、まちを歩く私にはすでに習いとなりました。少なくとも、いつまでたっても縦割り構造から脱却できないお役所には、みずから主導してそうした総合的で統一的なプランを策定することは無理であろう。てゆーか、お役所なんてとうの昔に主体性を放棄しているように見えるわけだけど。

 そしてきのうもまた、私は名張のまちを歩いてみました。きのう11月3日は、江戸川乱歩生誕地碑の除幕式が営まれてからちょうど五十年がたった記念すべき日です。五十年前に除幕式が始まった午前10時に生誕地碑前に立ってみようと考えたのは、たぶん単なるセンチメントのしからしむるところだったでしょう。ともあれ私はカメラを手にして、五十年前には除幕式でごった返していたはずの、つまりそこに乱歩その人が夫人とともに存在していたはずの空間を訪れてみました。2005年11月3日午前10時、生誕地碑はいつものように静寂に包まれていました。撮影した写真のうちの一枚がこれです。

 写真右側に大きく写っている掲示物が何であるのか、私にはよくわからないのですが、名張のまちではきのうウォークラリーみたいなイベントが開催されていたようですから、その通過ポイントを示す立て札ででもあろうか推測されます。しかし、しかしこれはいったいどういうことなのか。とても信じられないようなことが書かれてあります。拡大してみると、ほれこのとおり。

 あーこれこれ名張まちなか再生委員会のみなさんや。いくらなんでもこれは駄目でしょ。これやっちゃあきまへんがな。

 などと記しているだけでは、名張まちなか再生委員会以外の読者諸兄姉には何のことやらさっぱりおわかりにならぬでしょう。そこで補足説明を加えておきますと、名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクト、すなわち私の申し出に対して、

 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」

 などと言語道断な回答をお寄せくださった人たちのことなのですが、その人たちが桝田医院第二病棟の整備計画を検討してきた過程で乱歩文学館というプランが浮上してきたのだとご承知おきください。だから私は、あーこれこれ名張まちなか再生委員会のみなさんや、いくらなんでもこれは駄目でしょ、と怒るわけ。委員会発足直後から、私は事務局を通じてこの委員会に協議の過程を公開するよう要請してきました。情報開示の重要性を訴えてきました。それに対してまともな回答もできておらんというのに、その陰でこの委員会は何をやっておるのか。名張のまちで行われるイベントに情報をリークして、ここには乱歩文学館が整備される予定ですなどとぬけぬけとほざいてやがる。これがおまえらの情報開示か。

 それにしても名張まちなか再生委員会のみなさんや。みなさんにはあらためて一驚を喫しました。おまえらにはほんとにルールも手続きもないわけね。そもそも乱歩文学館のことならば、私とて聞き及んでいないわけではありません。ただし委員会事務局から聞いた話ではなく、ある情報提供者の方からこれはオフレコだとの前提で教えていただいたことですので、私はこの伝言板では乱歩文学館の件にはいっさい触れなかった。しかしおまえらがここまで卑怯姑息なふるまいに及ぶのであれば。こちらもすっかりオープンにしてしまおう。おまえらがいってる乱歩文学館というのは、これのことであろう。

 ご苦労さんなことです。しかしこんな図面を何百枚も描かせてみたところで(どうせまたコンサルタントとか称する輩に血税ぼったくられたのであろうと推測される次第ですが)、細川邸と桝田医院第二病棟に関する名張まちなか委員会の決定は完全に無効なわけです。ですから私は委員会の委員長に対し、その点の見解を聞かせてくれとお願いしているわけなのですが、市民への情報開示をいっさい行わず、市民からの質問に答えようともせず、そのくせ乱歩文学館がどうのこうのといい加減なこと好きなようにほざくのがこの委員会の実態であるらしい。なにしろ、

 ──乱歩生誕地碑をふくみ、将来は乱歩に関する様々な情報を集めた、乱歩文学館として整備を予定しています。

 とおっしゃるんですからまたしても一驚を喫し、それでは足りなくて三嘆これを久しくしたりもしてしまいますが、「乱歩に関する様々な情報を集め」るというのであれば、その道の先達にしてインターネット上でそうした情報を発信し、名張市にその人ありと謳われもし、乱歩のことで「週刊新潮」から問い合わせの電話だって入ってくる(そういえば「週刊新潮」11月10日号、乱歩の名前も出てました。詳しくはまたあらためて)人間でもあるこの私は、乱歩に関する最新情報をこんな具合に発信することにいたしましょうか。

 ──名張まちなか再生委員会が名張市本町に整備を計画している乱歩文学館は、ひとことでいえばいんちきです。何から何まででたらめです。ばったもんだぜおっかさん。

 さるにても、生誕地碑建立から五十年がたったいま、名張市には乱歩のことに思いを馳せ、乱歩のことを真摯に考えている人間はひとりも存在しないようです。むろん私を除いての話ですが。あとはもう、乱歩の名前をなんとか利用してやろうと手ぐすね引いている不届き者ばかり。こら。これはおまえらのことだぞ名張まちなか再生委員会。


●11月5日(土)

 一驚したり三嘆したりしてるだけでは莫迦みたいですから、私はきのう名張市役所四階にある名張まちなか再生委員会の事務局を訪ねて事情をお聞きしてきました。

 まず最初に確認したのは、委員長に提出した文書の回答はいついただけるのか、ということです。文書は委員長にお読みいただけたそうなのですが、回答はまあそのうちに、みたいな感じでした。

 つづきましては当然、11月3日に桝田医院第二病棟に掲げられていたこれはいったい何なんだ、という話題です。

 答えは、名張まちなか再生委員会による「歩行者ネットワーク等社会実験」のための掲示物だったそうです。私はどこかほかの団体がウォークラリーみたいなイベントを開催したのだろうと推測していたのですが、ほかならぬ名張まちなか再生委員会が名張地区まちづくり推進協議会の協力を得てタリウム使用の化学実験、ではなかった地域住民参加の社会実験を実施したとのことで、その目的は事務局で頂戴してきた資料によると次のとおりです。

 今回の社会実験は、将来の名張地区を想定し、まちなかの、特に名張地区の都市構造として特徴的な、旧名張城郭区域、城下川及び高岩井堰碑、寺町周辺のひやわい、及び将来まちなか再生の新しい拠点となる、(仮称)初瀬ものがたり館、(仮称)乱歩文学館、水辺の公園とそれらを結ぶ初瀬街道を中心として、仮サインを設置したまちなかを、参加者に散策体験してもらう。

 そして、各仮サイン設置場所を通過する参加者数をカウントし、あわせて参加者にアンケート調査を行うことにより、歩行特性を把握し、将来予定の、サイン・案内板設置や、安全安心な歩行者ネットワーク整備にあたって参考となるデータを取得することを目的としている。

 なんでいまごろこんな暇そうなことやってんだろ、という気はいたしますが、それはまあ措くとして、10月末日までにまとめられる予定だった基本計画とやらはいまだ策定に至らず、市民から要請のあった検討経過の情報開示もできておらず(そのうち開示してくれるそうですけど)、市民から寄せられたプランの根幹に関わる質問にも答えようとせず(そのうち答えてもらえるそうですけど)、にもかかわらずこの社会実験とやらでは「乱歩文学館」と明記した仮サインなるものを設置して、

 ──乱歩生誕地碑をふくみ、将来は乱歩に関する様々な情報を集めた、乱歩文学館として整備を予定しています。

 などと平然と公言している、この名張まちなか再生委員会の傍らに人なきがごとき独善専断ぶりはいったい何に由来しているのか。連中のやってることと来たら、ほとんど白痴的な印象さえ与えるではないか。

 私はきのう、委員会の事務局で四十五分ほど話し込んできたのですが、じつは話し込むうち、委員会の独善専断に関して卒然として了解されたことがありました。

 ──ははーん。どうやらこの委員会、名張のまちが自分たちの専有物であると勘違いしているらしいな。

 そして私は、伊賀の蔵びらき事件をあらためて思い起こしました。あの事件の関係者には、三重県によってばらまかれた三億円の予算が自分たちの専有物であるという認識しかありませんでした。それが地域住民の税金であるという認識は完全に欠落していました。だからこそ一般住民に対する説明責任という言葉など、関係者の頭のなかのどんな片隅にも転がってはいなかった。

 もとよりそれは、お役所のみなさんの通例ではあるでしょう。名張市役所の職員のみなさんにしたところで、自分たちのつかってるお金が税金であるとどこまではっきり認識できているものやら。だからこそ、日ごろから税金の無駄づかいに腹を立てている民の出番なわけなのですが、伊賀の蔵びらき事件における民というのは私利私欲むきだしの乞食みたいな人たちばかりのようでしたから、彼らの頭には自分たちの金を自分たちの好きにつかって何が悪い、という勘違いに基づいた思いあがりしかありませんでした。そしてその思いあがりは、

 「そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!」

 という怪人19面相君の悲痛な叫びと完全に共鳴するはずのものでもあるでしょう。名張エジプト化事件であれ、名張まちなか再生事件であれ、関係者の思いあがりの基盤となっているのが名張のまちは自分たちの専有物であるという幼児的勘違いであることは、いまやどのような論も俟たぬであろうと私には結論される次第です。

 しかし伊賀の蔵びらき事件では、まったくの形骸であったとはいえ、チェック体制というものが存在していました。伊賀びと委員会がまとめた事業計画と予算案を事業推進委員会が承認するというプロセスが存在していました。実際には詳細がいっさい明示されていない予算案がそのまま承認されてしまうという、茶番と呼ぶには異常すぎる茶番劇が関係者の誰ひとりとしてそれに不審を抱くことなく演じられたに過ぎなかったのですが、それでもそこには事業と予算をチェックするというシステムの形骸は存在していました。

 ところが、上記引用中にも「将来まちなか再生の新しい拠点となる」と位置づけられている「(仮称)初瀬ものがたり館、(仮称)乱歩文学館」、すなわち細川邸と桝田医院第二病棟の整備計画は、先日来しつこく指摘してきましたとおり、わずか十人ばかりの歴史拠点整備プロジェクトの恣意に完全に委ねられております。そこには第三者がチェックするためのシステムはいっさい存在しておらず、しかも関係者は誰ひとりとしてその異常さに気がついていないというありさまです。このままで行けば、と私は思います。この委員会は何から何まで独善と専断で押し切ってしまうのだろうな、と。

 ちなみに私は事務局で、初瀬ものがたり館たら乱歩文学館たらいうプランに関する批判もちょこっと展開してきましたので、名張まちなか再生委員会のみなさんはまた機会があれば事務局にお立ち寄りいただき、事務局にお伝えした私の意見に素直に耳を傾けていただければ幸甚なのですが、たぶん無理だろうな。ただし私は、プラン自体の愚劣陳腐ではなくて、プランを決定する手順そのものを問題視しているわけなんですから、名張まちなか再生委員会のみなさんにはそのあたりをよくご認識いただきたいと思います。

 ところで怪人19面相君といえば、名張まちなか再生委員会の事務局で四十五分ほど過ごしたあと、ああ、もうお昼になってしまうとあわてて生活環境部にお邪魔してみたところ、ご多忙な部長さんは残念ながらきのうもお留守でした。名張エジプト化事件の解明がまたしても先送りとなってしまったことを、ひたすら遺憾といたします。


●11月7日(月)

 毎度おなじみ乱歩が生まれたからくりのまち(嘘ですけど)名張の乱歩イベントとして、11月5日に有栖川有栖さんの講演会、5、6両日に劇団フーダニットの演劇公演「真理試験──江戸川乱歩に捧げる」が催されました。

 インターネット上でお読みいただける新聞記事は、毎日新聞伊賀版「江戸川乱歩:推理劇「乱歩に捧げる」 生誕地碑建立50周年、名張で初上演 /三重」、中日新聞伊賀版「乱歩に捧げる推理劇 名張で生誕地碑建立50周年」、伊勢新聞「乱歩生誕地で推理劇/名張・ファン150人謎解き楽しむ」くらいなものか。とりあえず以上をご紹介してお知らせといたします。


●11月8日(火)

 やれやれ、ここ数日はじつにあわただしく時間が過ぎ去ってしまいましたが、名張公演を無事終えました劇団フーダニットの「真理試験──江戸川乱歩に捧げる」、来年1月中旬には東京公演が行われますので、関係方面にお住まいの乱歩ファンのみなさんにはにきにぎしくお運びをたまわりたく、左にちょこっと案内を掲げました次第です。よろしくお願い申しあげます。

 「真理試験──江戸川乱歩に捧げる」が初演された11月5日、東京では映画「乱歩地獄」が公開されました。上映館はシネセゾン渋谷、テアトル新宿の二館。初日には舞台挨拶も行われたようです。

「乱歩地獄」浅野ら弱気なあいさつに笑い
 「乱歩地獄」(東京・テアトル新宿)の初日舞台あいさつに5日、浅野忠信(31)松田龍平(22)らが出席。4話のオムニバスで、全作に出演した浅野は「くっつけて見るとおなかいっぱいになるので、お客さん大丈夫ですか」。松田も「僕が感想言わなくても、皆さん意気消沈してるというか…。気持ちは分かります」。なぜか弱気な2人のあいさつに笑いが起こった。

 そーりゃ「弱気なあいさつ」になるのも無理ないかもしれません。もうひとつ行っときましょう。

忠信・成宮・龍平トリプル主演!オムニバス「乱歩地獄」公開
 同作は、作家、江戸川乱歩の4作品を映像化したオムニバスで、浅野は「火星の運河」(竹内スグル監督)、「蟲」(カネコアツシ監督)、成宮は「鏡地獄」(実相寺昭雄監督)、松田は「芋虫」(佐藤寿保監督)に主演。4作品とも出演している浅野は「僕が想像していた江戸川乱歩の世界とは違う世界ができました」とPR。成宮はスケジュールの都合、実相寺監督は体調を崩して舞台あいさつを欠席した。

 同じく5日、エジプトの絵とニューヨークの写真を掲げて当サイト閲覧者のみなさんから圧倒的な支持を受けております名張のまちを会場に、写したくなる町名張大宴会も堂々開催されました。ただし私はほかのお座敷との掛け持ちに忙しく、大宴会に着座できたのはわずか十分間ほどのことでしたので、お集まりいただいたみなさんにはろくにご挨拶もできませなんだことをお詫び申しあげたいと思います。

 さて、5日夜に掛け持ちした宴席でも名張市はいったいどうするの? とのお尋ねを三人ほどの方からいただいた次第だったのですが、私にはさっぱりわかりません。いったいどうなってしまうのか。つまりこれのことです。

 毎度おなじみ名張まちなか再生委員会の手で桝田医院第二病棟に乱歩文学館を建設するというプランが極秘裡に検討されており、むろんそんなプランなどどう考えても有効なものではありませんから、委員会の委員長さんに無効だろうがこんなものとお訊きしているのにご返事はいただけず、しかし何を考えておるのか11月3日に突如として、

 ──乱歩生誕地碑をふくみ、将来は乱歩に関する様々な情報を集めた、乱歩文学館として整備を予定しています。

 と記した説明板が桝田医院第二病棟に掲げられましたものですから、私は翌4日に名張まちなか再生委員会の事務所を訪れて事情を確認したことは先日も記したとおりなのですが、そのおりこの乱歩文学館構想に関してこれまでに決まったことを教えてもらえるかと事務局に依頼したところ、それはできないとのことでして、何の情報開示もできないのなら「乱歩文学館として整備を予定しています」などという説明板を掲げるのは早計に過ぎるであろうとお伝えしてきた次第です。

 あのおりにはほかにも、だいたいが連中は(連中というのは単に名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトのメンバーという限定的な意味にはとどまらず、いわゆる芭蕉チルドレン、どこへ行っても顔を出してくる一部地域住民のことであるとお思いください)月並みなことしか考えられないではないか、昭和がどうの灯籠がこうのといったところで早い話が伊賀市あたりのイベントとかぶっているわけだし、伊賀地域以外にもごろごろしてるぞそんな企画は、みたいなこともお伝えし、ありきたりなハコモノぽんとつくってあとの運営にはまったく意を用いないなんてことではどうしようもないではないか、ともお伝えしてきたのですが、読売新聞のオフィシャルサイトには本日こんな記事が掲載されておりました。

「乱歩館」などを整備 鳥羽商議所
国土交通省の補助を受け

 鳥羽商工会議所は、整備を計画している「鳥羽みなとまち文学館・乱歩館幻影城」「海女文化資料館」などが国土交通省の「観光ルネサンス事業」の補助対象になったのを受け、今年度から3年計画で各施設の実現を加速する。

 いやー、名張市における乱歩文学館構想と見事にかぶっておりますですね。単なるハコモノ構想なんてどこからでも湧いてくるという見本なわけですけど、名張まちなか再生委員会のみなさんはいったいどうするつもりなのかな。私にはさっぱりわかりません。


●11月9日(水)

 名張市のあとは神戸市ということで、横溝正史生誕地碑建立一周年記念事業が勤労感謝の日の11月23日に催されます。詳細は「番犬情報」でどうぞ。乱歩生誕地碑はすでに五十周年、正史生誕地碑はいまだ一周年ということですから、僭越ながらその道の先達たる名張から神戸に向けてエールを送っておきたいと思います。

 さて、きのうリンクを設定した読売新聞オフィシャルサイトの記事にアクセスしてみたら、本日付の新しい記事に差し替えられていて読むことができません。掲載は一日のみというシステムのようです。中日新聞と毎日新聞のオフィシャルサイトから、同じく鳥羽市の乱歩館構想に関する記事を引用しておきます。

 まずは中日新聞、奥野賢二記者の記事から。

鳥羽の観光ルネサンス事業 乱歩館や海女資料館整備
 鳥羽商工会議所は四日、国土交通省の「観光ルネサンス事業」の補助対象となった「中部国際空港を核とした国際海洋観光都市づくり」の事業概要を発表した。本年度から平成十九年度までの三カ年で、鳥羽みなとまち文学館・乱歩館幻影城(同市鳥羽)や、海女文化資料館(相差町)などを整備する。

 お次は毎日新聞、大原隆記者の記事から。

観光ルネサンス事業:鳥羽の「乱歩館幻影城」「海女文化資料館」、補助対象に /三重
 ルネサンス事業は、同省が05年度に新設した。外国人観光客を誘致するため、積極的な取り組みをしている民間団体を支援するのが目的。全国の13事業が補助対象で、同商議所の両事業(総事業費約7700万円)に対しては、3年間で計3000万円が補助される。

 同幻影城事業は、同商議所が04年秋に造った「乱歩館」横の蔵を改修して進める。立教大学の乱歩資料収蔵庫・幻影城に展示されている品々の複製品を並べる予定。07年度は蔵へ通じる路地も整備する。

 気になる。どうも気になります。鳥羽市にある蔵を改修して「幻影城」と命名するのはまだいいとしても(ほんとはこれも気になるんですけど)、「立教大学の乱歩資料収蔵庫・幻影城」というのはどういうことか。気に入らんな。乱歩が池袋の自宅にあった蔵のことを「幻影城」と称したことは一度もなかったはずですから、このようなガセネタを流すのは好ましくないことだと私は判断いたします。いずれ関係者は乱歩のことをよくご存じないのでしょうけれど、まったくもういい加減にしてもらいたいものだ。

 よほど目に余ることがあれば抗議をかましてやることにして、当面の問題はもちろん名張市に存在しております。乱歩生誕地碑の建立から五十年が経過して、にもかかわらずいまだに乱歩記念館だの乱歩文学館だのと陳腐愚劣なことをほざく市民があとを絶たぬのは嘆かわしいことですから、この際ひとつ名張市民のための乱歩記念館講座を開講してみたいと思います。これは本来、名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトにお招きいただいたうえでお話しすべきことなのですが、

 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」

 などと恥も外聞もなく逃げを打たれては打つ手がありません。私個人にとってはいつ果てるとも知れぬモグラ叩きをつづけるようなものではあるのですが、慈悲の心で先生役を務めてさしあげることにいたしましょう。

 とはいえ面倒ですからごく軽く流すことにして、まずは昭和篇。昭和44年4月、講談社から乱歩全集の刊行が始まりました。第一巻『屋根裏の散歩者』に附された「江戸川乱歩全集月報」第一号の画像をご覧ください。これは今年8月の「名張市議会議員の先生方のための乱歩講座」で配付した資料に使用した画像の一部で、衆議院議員だった川崎秀二が寄せた「茶目っ気もあった乱歩氏」の結びの部分。

 ここに記された「機会があれば郷里の名張市に江戸川乱歩文庫でもつくり、この偉大な先人を顕彰したいと思う」という川崎秀二の言葉が呼び水となり、名張市に乱歩記念館をというプランが動き出しました。みたいなことは以前にも記しましたので、2001年10月4日付の伝言から、新名張という地方紙に掲載された昭和44年7月11日付の記事を引いておきます。

舞台を東京にうつし 乱歩記念館推進 46年度竣工をメドに計画
 わが国本格探偵小説の確立者であり育成者である故江戸川乱歩氏の記念館を生誕地の名張市に建設することにつき、地元に結成された乱歩記念館建設の会 (富永貞一会長)と東京の関係者(乱歩氏遺族、推理作家協会、在京名張人会等)との第一回懇談会は前号所報のように川崎秀二代議士の斡旋により三日午前十時半から国立国会図書館特別研究室で開かれた。この懇談会で原則的に次のことが申合わされた。

 ・建設費は最低千五百万円を目標とする。地元と東京で半額ずつ調達する。

 ・この記念館は市立図書館の付属施設なので、場所は原則として図書館の構内とする。

 ・近く開館する市立図書館は二年間の暫定的のものなので、この暫定期間がすぎ、図書館の位置が恒久的にきまった時点において着工する。メドとしては四十六年七月着工、同年末竣工とする。

 ・規模、内容については地元において成案を作成するが、あくまでも乱歩記念館であることを主体とする。

 ・九月中旬、本年度乱歩賞の授賞式が行なわれる。このとき地元・東京側で範囲を拡大した懇談会を開き全国一本の発起人会を結成し、地元作成の計画案を検討し、具体的な実施案を立てる。

 市長も同調
 建設の会と会談

 乱歩記念館建設の会では七日午後一時から市役所会議室で会議を開き、東京懇談会の出席者から報告を聞いたあと、この問題につき北田市長と初めての正式会談を行い、趣旨や経過の報告とともに市としての協力を要請した。これに対し同市長は、

 「川崎先生も骨をおってくれていることであり、本市にかような全国的な文化施設の出来ることはまことに結構である。個人として賛成であるばかりでなく、市議会とも相談して市としての協力態勢をかためたいと思う」

と語り、建設の会の今後の活躍を激励した。

 この乱歩記念館建設の会の活動は、実際には実を結ぶことがありませんでした。名張市における乱歩記念館構想1969年版はうやむやのうちに消滅してしまう結果となりました。

 つづいて平成篇。乱歩記念館構想1997年版となります。これも「名張市議会議員の先生方のための乱歩講座」で配付した資料に使用した画像なのですが、権利関係でいろいろ問題があるだろうなとは思いつつ新聞の紙面をそのままアップロードしてしまうことにして、1997年1月11日付中日新聞伊賀版の記事をどうぞ。

 当時の名張市長が新春吉例の記者会見の席上、乱歩記念館の「建設に向けた取り組みを、本年から始めることを明らかにした」と報じられております。といったところであすにつづきます。


●11月10日(木)

 きのうのつづきです。1997年1月11日付中日新聞伊賀版で報じられていた名張市の乱歩記念館構想は、またしてもうやむやになってしまいました。理由はわかりません。そもそもの最初から無理な話ではあったでしょう。どこまでの成算があって当時の市長が記者会見でそんな構想を発表したのか、それも私には不明なのですが、成算と呼べるほどのものはなかったのではないか。と申しますのも、あとになってずいぶんひどい言い訳を……などと蒸し返すのも面倒だ。興味がおありの向きは2002年1月の伝言を1日から順にお読みください。

 ちなみに1997年の1月と申しますと、私は江戸川乱歩リファレンスブック1『乱歩文献データブック』の本文校正と索引作成に余念がなく、文字どおりお正月休みも返上していた状態でしたので、中日新聞の「乱歩記念館建設へ」という見出しを見て驚きはしても身動きのしようがありませんでした。乱歩記念館に関してはその前年、私は市立図書館嘱託としての見解、すなわち、

 ──名張市に乱歩記念館なんてまったく必要ない。どうしてもつくりたいのなら名張市が金を出して東京に建設すればいいのだ。お金が余ってればの話だけど。

 という見解を名張市教育委員会の教育長に伝えてありましたので、あれれ、教育長は俺の見解を市長に伝えてくれたのかな、伝えてくれなかったのかなと思い、一度確認してやらねばならんなと……などと蒸し返すのも面倒だ。乱歩記念館構想1997年版もまたポシャってしまったという事実だけを確認して、先へ進みましょう。

 前名張市長が旗を振ったにもかかわらず話がまったく前進しなかったのですから、乱歩記念館構想を口にする人間はもう出てこないだろう。私はそのように思って安堵していたのですが、2003年になって今度は名張商工会議所からその名が浮上してきました。乱歩記念館構想2003年版の登場です。まったく、これじゃ完全にモグラ叩きだ。

 その年、名張商工会議所と名張地区まちづくり推進協議会とが名張旧町地区の再生を目的に、なばり OLD TOWN 構想なるものをまとめることになりました。ついては乱歩記念館をつくりたいのだがと、商工会議所の関係者が名張市立図書館に相談に来てくださいましたので、いろいろお話をお聞きしてから、そんなことはやめてくれとお願いし、念のために会議所会頭のお宅に二回ほどお邪魔して、乱歩記念館構想2003年版の息の根は完全に止めることができました。

 そのなばり OLD TOWN 構想では当初、乱歩記念館のパースがこんな具合に描かれていました。

 しかし正式に発表された構想では、私の反対意見が容れられて、このパースは乱歩記念館ではなく名張歴史資料館のものとされていました。施設は新たに建設するのではなく、空き家になった旧家を利用して母屋と土蔵に郷土資料を常設展示し、休憩所を新設して土産物の販売も行うということでした。その旧家というのがこれです。

 で、その旧家の裏側がこんな具合になってるわけ。

 それにしても不思議だ。この写真だけは何度見ても笑えます。

 つまり細川邸、これが火種なわけです。名張商工会議所と名張地区まちづくり推進協議会は、この細川邸を乱歩記念館にしようとまず考え、それを名張歴史資料館に改めて構想を発表した。私の見るところ、乱歩のことなんてじつはどうでもよろしくて、ただ細川邸を活用するための口実が欲しいのだ、どうもそんな感じでしかありませんでした。しかしこの構想がどうなったのか、私にはさっぱりわかりません。わからないといえば、1997年1月11日付中日新聞伊賀版に記されていた伊賀地方拠点都市地域基本計画(ここに乱歩記念館の計画が盛り込まれていたらしいのですが)がどうなったのか、それも私にはわかりません。

 そして2005年、名張まちなか再生プランが策定され、火種の細川邸は歴史資料館として整備されることになりました。このプランはなばり OLD TOWN 構想とはまったく無縁なもののはずですが、細川邸をどうでも活用しなければならないという至上命令だけは暗黙のうちに継承されていたと見るべきかもしれません。でなければ、リフォーム詐欺までして細川邸を歴史資料館にしなければならぬ理由が見つかりません。

 ただまあ実際には、名張まちなか再生委員会の協議によって(そんな協議は無効なのですが)細川邸は歴史資料館ではなく初瀬ものがたり館たらいう施設として整備されることになったとも伝えられ、名張まちなか再生プランではまったく触れられていなかった(それはこのプランの致命的な不備だったわけですが)桝田医院第二病棟には、これこのとおり乱歩文学館が建設されるそうです(そんな決定は明らかに無効なわけですが)。

 まったくどいつもこいつも、なーに訳のわかんないことやってんだ。