2007年3月中旬
12日 横溝正史の挑戦状 名探偵たちのユートピア
14日 乱歩の評言 D坂の殺人事件
15日 池袋モンパルナスその他 押絵と旅する男
20日 乱歩と正史の緊張関係 横溝君の呪ひの塔
 ■3月12日(月)
横溝正史の挑戦状 

 それでもってほんとに正史はどうしてこんなことを、という話題なのですが、「陰獣」の最初のタイトルであった「恐ろしき復讐」は正史も認めているように「詰まらない」「非常に平凡な」ものであって、にもかかわらず正史はこれをわざわざ「呪いの塔」に登場する人気探偵作家、大江黒潮の作品名として使用しています。大江黒潮がそんなベタなタイトルしか思いつけない作家であっていいのかどうか、読者の頭のなかで黒潮の才能に疑問符がついてしまうのではないか、という心配なんかしたのかしなかったのか、とにかく昭和7年の時点でなら乱歩もいまだ記憶していたであろう「陰獣」の原題を、正史は「呪いの塔」に象嵌していたわけです。

 これはもう乱歩に対する厭がらせ以外のなにものでもないのではないか。厭がらせといえばそもそも作中に乱歩をモデルとした、あるいは「陰獣」の大江春泥を想起せしめる探偵作家を登場させたこと自体、乱歩にとっておそらくは不快なことであったのではないか。

 このあたり、石上三登志さんの指摘を見ておきます。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 名探偵たちのユートピア 黄金期・探偵小説の役割 石上三登志

 第十四章「横溝正史の不思議な生活──続エドガワ・ランポの謎」から引用。

なんかもう正史の乱歩に対するあからさまな反発ともとれますよね。それが証拠に同じ三二年にこれは書下ろしで新潮社から出た、次の長編『呪いの塔』……これがすごいのです。軽井沢の高原に廃棄状態にある奇妙な巨大観覧塔で、たまたま「探偵ゲーム」をやるために集まった有閑人種が次々に殺されて……という、これも「探偵小説」ですが、それはもうどうでもいいんです。そしてこの作品の探偵役が、探偵小説雑誌の編集者で自身も探偵小説を書く、まるで正史自身のような由比耕作……姓名を一字ずつ変えると、由利と耕助という、後々につながる面白いネーミングも、とりあえずどうでもいい。すごいのは、彼を軽井沢に呼んだのが「有名な小説家」で「殊にその作風が他の作家と違っていつも血みどろで、陰惨で刺激的」な、大江黒潮という探偵小説作家なことです。○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○、だからこれは乱歩の例の「言い訳」小説『陰獣』のパロディでもありまして、それやこれやで乱歩は……いやいや、大江黒潮は殺されてしまうのです。こうなるともう、すべてを「お遊び」趣向でごまかす、そんな小説として発散された、これは正史の「乱歩憎悪」大絵巻といっても言い過ぎではないでしょう。言い忘れましたが、最後に暴露される真犯人の正体のこれまたすごいこと……いくら「お遊び」といったって、これじゃ乱歩は内心、烈火のごとく怒ったと思います。

 文中の「○○○」は、未読の読者の興を殺ぐおそれがあるかもしれぬと判断されたゆえ、引用者の判断で伏せ字とした。

 乱歩は怒っただろうと私も思います。作品に塗り込められた自身への悪意を感じたのではないか。ただし正史の内面にあったのが単純に「乱歩憎悪」と呼ぶべきものであったかどうか。正史には乱歩に対する烈々たる敵愾心に火をつけることで創作意欲やモチベーションを維持しかきたてるようなところがあったと見受けられますから、憎悪というのとは少しちがって、そして厭がらせといってしまってはなんだか子供じみているというのであれば、「呪いの塔」という作品は横溝正史が作家専業となるにあたって乱歩につきつけた挑戦状のようなものなのではなかったか。たとえば大江黒潮が作中で殺害されてしまうといった過激であからさまな設定と筋立てによって、乱歩への複雑なアンビヴァレンツをあえて表明する。そのことで専業作家たらんとする自身を鼓舞する。正史にはそうした意図が、なかば無意識的なものとしてあったのではないかと考えられないでもありません。


 ■3月14日(水)
乱歩の評言 

 いかんいかん。身辺があわただしくてサイトの更新が一日おきになってしまいました。

 どんな話題をつづっていたのかというと、そうであった横溝正史であった。横溝正史は昭和7年、「呪いの塔」という長篇を書きおろしで発表したのですが、それを読んだ乱歩はきっと怒ったにちがいないと推測されるような内容で、どうしてまた正史はこんな小説を書いてしまったのか。編集者稼業から足を洗い、専業作家として立つにあたって、あえて乱歩に挑戦状を送りつける、みたいな不逞不遜な気構えを示したのではないか。そんなぐあいに想像してみたわけです私は。

 ところで私は「呪いの塔」をまさに読み進めつつあったとき、2月10日付伝言に、

 ──たぶん乱歩はこの作品に一度も言及していないはずで、

 と記しましたが、これは誤り。読み終えてから調べてみたところ、『探偵小説四十年』で言及されていました。新潮社の新作探偵小説全集は結果としてたいした成果をあげることができなかった、と回想して──

 しかし、中に二三の佳作がなかったわけでもない。甲賀三郎君は発案者だけに責任を感ずることが深く、都塵をさけて、一と月ほどどこかの温泉にとじこもって「姿なき怪盗」を書き上げたが、通俗的ながらもプロットがよく考えてあり、甲賀君の長篇の代表作となったものである。又、この題名はなかなか魅力があったので、その後、新聞の犯罪記事の表題に、実に屡々「姿なき怪盗」という文字が使われた。現在でもよくお目にかかる。それほど魅力ある題名の発明者は他ならぬ甲賀君だったのである。

 そのほか、浜尾四郎君の「鉄鎖殺人事件」がやはり力作で、「殺人鬼」とならび称せられる彼の代表作となったし、大下君の「奇蹟の扉」横溝君の「呪ひの塔」なども悪い出来ではなかった。

 言及しているといっても、全集のなかでは二番手ないしは三番手といった扱い、しかも「悪い出来ではなかった」という漠然とした評言しか記されていません。じつに素っ気ないものです。

 私も素っ気なくてまたあした。

  本日のアップデート

 ▼2007年2月

 D坂の殺人事件 江戸川乱歩

 きょうはアンソロジー収録の話題。

 学習研究社から「中学生のためのショート・ストーリーズ」という全八巻のシリーズが出ていて、その第一巻「あさのあつこが選ぶ ミステリー集」に収録された。

 収録作品は次のとおり。

あさのあつこが選ぶ ミステリー集
火曜ナイトクラブ アガサ・クリスティ 高見沢潤子訳
黒猫 エドガー・アラン・ポー 富士川義之訳
赤髪連盟 コナン・ドイル 阿部知二訳
師走の客 宮部みゆき
灰 吉橋通夫
D坂の殺人事件 江戸川乱歩

 ■3月15日(木)
池袋モンパルナスその他 

 本日はまずお知らせ。

 池袋できのう14日、「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」がスタートしました。毎日新聞の記事をどうぞ。

まちかど回遊美術館:池袋モンパルナス、きょうからスタート /東京
 「街全体を美術館に」をテーマにした「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」(実行委主催)が14日からスタートする。池袋駅周辺の45会場で、美術展や講演会など多彩なイベントが開催される。

 1930〜40年代の池袋は、多くの芸術家がアトリエなどを構えて活動し、パリにちなんで「池袋モンパルナス」と呼ばれた。地元の商店や企業、立教大、豊島区などが05年、芸術を通じた街おこしとして「新池袋モンパルナス」構想を打ち出した。回遊美術館は今年で2回目。

 旧乱歩邸も公開されます。詳細は立教大学オフィシャルサイトのこのページでどうぞ。

 ついでにお知らせしておきますと、池袋の新文芸坐では3月17日土曜日の夜、実相寺昭雄監督追悼オールナイトの第二夜「怪奇とエロスの世界」が催され、四作品が上映されます。乱歩原作の映画では「屋根裏の散歩者」と「D坂の殺人事件」が登場。詳細は新文芸坐オフィシャルサイトでどうぞ。ただしこのサイト、さっきからいくらアクセスしてもいっこうに反応がありません。ま、そのうちなんとかなるでしょう。

 おまけでもうひとつ。4月12日発売の「ビッグコミックオリジナル」5月増刊号に伊藤潤二さんの「人間椅子」が掲載されます。詳細は同誌オフィシャルサイトのこのページ(JPG 画像)でどうぞ。この情報はついさっき、2ちゃんねるミステリー板の「【大暗室】 江戸川乱歩 第十夜」で教えられたものです。当該投稿者の方にお礼を申しあげつつ次の話題へ。

 とまいりたいところなのですが、またあしたといたします。

 とまいりたいところなのですが、諸般の事情によりあしたとあさっては更新をお休みして、18日の日曜日にまたお目にかかることにいたします。なんか寒い日がつづきますけど、みなさんどうぞお元気で。

  本日のアップデート

 ▼2007年3月

 押絵と旅する男 江戸川乱歩

 きょうもアンソロジー収録の話題。

 「没後一周年追悼出版」と帯にある『久世光彦の世界 昭和の幻景』に収録された。四百ページを超える大冊で、「追悼 久世光彦」「久世光彦論──〈文庫〉解説集成」「対談・インタビュー」「久世光彦作品集」「久世光彦詞華集──久世さんの愛した作品」といった内容。

 アンソロジーのパートの収録作品をあげておく。

久世光彦詞華集──久世さんの愛した作品
小説
小沼丹 村のエトランジェ
向田邦子 かわうそ
内田百 サラサーテの盤
川端康成 
太宰治 満願
江戸川乱歩 押絵と旅する男
野溝七生子 往来
松井邦雄 悪夢のオルゴール(抄)
渡辺温 可哀想な姉
大木惇夫 戦友別盃の歌
北原白秋 秋の日/紺屋のおろく
中原中也 朝の歌/雪の宵
西條八十 空の羊/蝶
三好達治 乳母車/少年
佐藤春夫 少年の日/海辺の恋/秋刀魚の歌
伊藤静雄 八月の石にすがりて/水中花
久保田万太郎 湯豆腐
劇画
上村一夫 鶏頭の花

 久世光彦や『一九三四年冬──乱歩』についてはいろいろと記したいことがあるような気もするのだが、またいずれ。


 ■3月20日(火)
乱歩と正史の緊張関係 

 予定していたよりも長くずるずると更新をサボってしまいました。3月ももう20日。わが名張市では3月定例会がきょう最終日を迎えることになっており、そういえば、

 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 の件もそろそろ本気になって名張市教育委員会の出来のおよろしくない教育次長をなんとかしてさしあげねばならぬところなのですが、そのいっぽうで手許の資料整理が地獄の様相。途中で方針を変更したりしたから余計に手間取っている。それはそれとしてこのところ寒い日がつづき、私はなんだか風邪気味なのかもしれん。早く暖かくならんものか。

 さてそれで私はどんな話題をつづっていたのか。乱歩と正史の関係についてであった。どうしてこんなことをつづっているのかというと、考察の結果を『江戸川乱歩年譜集成』に反映したいからである。乱歩との関係性に思いをいたすべき同時代の作家は宇野浩二とか谷崎潤一郎とかいろいろ存在するのだけれど、その筆頭にあげられるべきはやはり横溝正史であろう。両者のいわゆる交流を跡づけるなんてことではまったくなく、乱歩と正史との緊張関係は日本における探偵小説の成熟のプロセスに重なっていると見受けられる。

 石上三登志さんの『名探偵たちのユートピア』ではそのあたり、最終的には「正史の勝利」であったと説かれており、それはまあ探偵小説の成熟という点を問題にするならば正史の勝利ということになるのかもしれぬが、しかし本当の勝利者は誰であったのか。いやいや、私は勝ったの負けたのといった二項対立的な意味づけにさしたる興味はおぼえぬけれど、あえて勝ち負けにこだわるとするならば、乱歩は少なくとも負けてはおらなんだのではないか。

 ここで石上さんの乱歩観を引いておくならば、これはもう昔から相当に辛辣なものであって、地獄の様相となっている資料整理の成果を少しだけ披露しておこう。1975年に出た石上さんの『男たちのための寓話』では、「名探偵たちの世界、又は論理的ヒーロー論」の章にこんなふうに記されている。

 即ち、乱歩の内的世界は、探偵小説ファンである僕らと同様に、かなり小児的であった。そして一方では、それからの脱却こそ、どうしても必要だと考えたのだろう。だからこそ彼は、日本探偵小説界のパイオニアとして、終始論理的謎解き探偵小説を熱心に提案した。この小児世界にあって、それこそが大人の理性の発露であると考え、初期には自分も手掛けたのだろう。だが、彼の内的欲求は、ユートピア志向の方が格段に強かった。作品は従って、非論理的な犯罪世界の色彩こそを強めていったのである。

 この乱歩のジレンマは、しかし論理的謎解き物を切望しながらも、それが一向に育たなかった日本探偵小説界の実情でもあった。乱歩の提唱にもかかわらず、わが国では変格物と呼ばれた犯罪世界物が続出した。探偵の自己主張よりも、犯罪世界の持つ甘美な魅力の方に、多くの作家が誘惑されたのである。

 その悲劇的典型こそが、小栗虫太郎のあの華麗な世界であろう、と論述はつづけられる。そしてそういった犯罪世界の誘惑を断ち切って日本という国に「論理的謎解き物」を実現したのが横溝正史だったのであり、ゆえに正史は勝利したのである、と『名探偵たちのユートピア』は結論づけている。

  本日のフラグメント

 ▼1932年11月

 横溝君の呪ひの塔 甲賀三郎

 横溝正史「呪いの塔」の同時代評。新作探偵小説全集附録雑誌「探偵クラブ」6号に掲載された。

 甲賀三郎の著作権は消滅しているので全文を掲げる。

 欧米諸国の事を賞めること、之は過古に於て我国の一つの流行だった〔。〕このよくない流行は満洲国承認を一転期として、既に廃れた事と思つてゐるが、探偵小説に限り未だ余喘を保つてゐるらしい。もし、探偵小説について、さう云ふ間違つた考へを持つてゐる人があつたら、是非横溝正史君の呪ひの塔を読んで貰ひたいと思ふ。

 この作品のうちには、横溝君自身も云つてゐる通り、外国の作品にあるいろいろの筋やトリツクが織り込まれてゐるかも知れない。然し、そんな事は少しもこの作を傷けはしない。それらのものは渾然と統一されて、さうして、そこには横溝君でなくては出来ない所の、芸術的な香りが溢れてゐる。

 私は従来探偵小説を芸術品扱ひをするのに、堅く反対の態度を持して来た。然し、それは芸術的ならんとする為に、探偵小説味が稀薄に時に絶無にまでなる事に反対したので、探偵小説味が豊かで、それに芸術的な香りが附せられるなら、蓋し上乗で、反対どころか、大いに賛成である。

 横溝君の呪ひの塔は、その探偵的なる点に於て、その芸術的なる点に於て、欧米作品に比して優るとも劣らないものである。悪い探偵小説では、冒頭の出来事などは兎角終りにうやむやになりたがるが呪ひの塔では大江黒潮の名を聞いて急に不機嫌になる汽車中の客が、最後まで重要な役割をしてゐる。伏線照窓の妙は蓋し堂に入つてゐると思ふ。

 最後の段落にある「伏線照窓」の「照窓」は「照応(應)」の誤植か。

 ところで「呪いの塔」には、「横溝君自身も云つてゐる通り、外国の作品にあるいろいろの筋やトリツクが織り込まれてゐる」のだという。こうなると私には雲をつかむような話になるのだが、この作品には「陰獣」のみならず海外の探偵小説から本歌取りしたストーリーやトリックが象嵌されているらしい。しかしだからといって、「呪いの塔」には「陰獣」を下敷きにして乱歩への烈々たる敵愾心が塗り込められている、との見立てに変更を加える必要はないだろう。