2007年2月上旬
1日 さあ2月1日だ 地域の声で迫る海村・須賀利
2日 さあがんがんかましてやるかこら 立教大学、旧江戸川乱歩邸
3日 おそらく無理だといっていいでしょう 横溝亮一
4日 公設民営方式に見る権力の冷酷 文学への目覚め
5日 細川邸乱歩講座 電人M
6日 桝田医院第二病棟はどうなるの 稽古場の三島由紀夫氏
7日 ミステリー文庫は学級文庫か あとがき
9日 八日戎でまちなかナビを配布する 宝塚花組公演「−黒蜥蜴」
10日 2月7日の最後の授業 百怪を眺めゆく
 ■2月1日(木)
さあ2月1日だ 

 いよいよ2月1日になりました。名張まちなか再生委員会の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会(仮称)が開かれる日です。それに間に合わせるべくさっきまでかかって「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」にいささかの増補を加えました。2006年6月の項目です。

6月26日、不肖サンデー名張市役所の名張まちなか再生委員会事務局に赴き、5月23日にお出しした「名張まちなか再生プランに名張市みずからが変更を加えるためのもっとも合理的な手法を考える」という宿題のお答えを頂戴しました。示された回答は「名張まちなか再生プランの時点更新(再生プロジェクト更新調書)について」というもので、同じく右のリンク先「人外境主人伝言2006年6月下旬」から引きますと、
 「名張まちなか再生プラン(以下「プラン」という。)」は、名張地区既成市街地(以降「名張地区」という。)のまちづくりを進めるうえで、市民、事業者、各種団体、市など、多様な主体の共通するまちづくり指針として重要な役割を担っており、さまざまな主体の参加と協働によってはじめて成果が得られます。
 このような中、名張地区の再生を多様な主体の協働により推進していくことを目的として名張まちなか再生委員会(以下「委員会」という。)を設置し、早期実現可能なものから検討、具体化に努め、実現化に向けた課題が大きいものに関しては、ある程度長期的な視点にたって、必要な調査、調整を行い着実に実現に向けた取り組みを進めています。
 委員会は、プランの実現を目指し、役員会を設置し、プラン全体の執行管理に関すること、再生整備プロジェクト全体の事業調整及び推進を図るとともに、再生整備プロジェクトを設置し、プランに掲げたプロジェクト事業の企画、計画の立案、実施、運営管理、合意形成を行っています。
 これにより、プラン実現のためのより実効性のある事業を現在も展開しているところですが、プランは、市民と行政が共に尊重し、共に育む計画として位置づけているため、名張市としては、委員会が担う機能により育まれるプランの内容を対象として、1つの単位を1年と定め(委員会総会の単位)、育まれたプランや組織の内容を“再生プロジェクト更新調書”として補完し、より市民にわかりやすい状態で管理する必要があると考えているところです。
※再生プロジェクト更新調書=あくまでもプラン策定にご参画いただいた市民の皆さまの思いや、まちづくりに取り組む姿勢等を大切にするため、プラン策定委員会から提案いただいた表現を尊重し策定したプランの内容には変更を加えず、委員会運営の中で、より実効性のある事業内容として展開がなされ、表現や内容が育まれた部分のみを抽出し、とりまとめたもの。
 とほとんど意味不明。いったいなにがいいたいのかまるでわからない文章なのですが、あれこれ質してみたところ結局は名張まちなか再生委員会と名張市の両者だけでプランの「更新」ができるようにする、といったことであるようで、
 そもそも私は名張まちなか再生委員会における桝田医院第二病棟の整備構想にかんして、それが議会のチェックを経ることもなければ市民に公表してパブリックコメントを募集することもなく、完全なノーチェックのままいつのまにか検討されていることがおかしいと批判してきたわけです。名張まちなか再生プランに片言隻句も記されていなかった構想を名張まちなか再生委員会が検討するというのであれば、その構想もプランと同様のハードルをクリアすることが必要であろうと、だから必要な手順を踏んでプランを変更するべきであろうと、しごくあたりまえでこのうえなくまっとうなことをずーっとばかみたいに主張してきたわけです。委員会と市という当事者だけで好きなように更新ができる、ありていにいえば自由にプランを変更してしまえるというのでは、私の批判はこれっぽっちも生かされていないことになります。むしろもっとも望ましくない方向へ向けて制度化が進められつつあるといってもいいでしょう。
 しかし、しかしそんなこと以前にもっと重要な問題がここには存在しています。それは、いくらフィードバックシステムを確立したとしてもフィードバックできないものはフィードバックできない、ということです。プランに記されていた細川邸の問題をプランにフィードバックすることは可能であっても、プランに記されていない桝田医院第二病棟の問題はいったいどこにフィードバックさせるというのか。そんなものはどこにもできない。できるはずがないではないか。まったく困った話である。
 というしかありません。不肖サンデーこれにはすっかりあきれ返り、もうこんな連中の相手はしてらんない、話になんない、好きにしろばーか、とか思って、
 いやもういい。もういいもういい。もういいんだ。月は晴れても心は暗闇だ(この「暗闇」は「やみ」とお読みください)。ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体ですもの。お蔦。あい。済まないな、今更ながら。水臭い、貴方は……。いやいや、こんなとこでひとり婦系図湯島の境内をやってる場合じゃありません。しかしまあ早瀬主税ではなけれども、おれもそろそろ別れを切りだすべきころおいではあるだろう、これからはもう名張まちなか再生プランに対して助言やアドバイスを行うこともないであろうなと私は思い、これは名張まちなか再生委員会の事務局に伝えても意味のないことではあったのですが、結局何が悪いのかというもっとも本質的な問題をいわば置きみやげとして厳しく指摘してまいりました。
 何が悪いのか。名張市が悪いのである。私は名張市立図書館の嘱託を拝命して十年あまりになるのであるが、その間ずっと名張市は悪かった。てまえども名張市は乱歩にかんしてこのように考えております、このようなことをしたいと思っておりますと、明確なビジョンを示すことがついになかった。乱歩にかんしてはあくまでもその場その場の思いつき、それもろくに乱歩作品を読んだこともない人間の思いつきでことを進めてきただけなのである。だから私は、
 ──名張市は乱歩から手を引け。
 と以前から主張しているわけなのであって、名張まちなか再生プランの場合も本来であれば、つまり名張市に乱歩にかんする明確なビジョンがあったのであれば、まちがってもこんなことにはならなかった。そのビジョンに照らしてプランを策定すればいいだけの話だったのである。しかし現実はまったく逆であった。名張市にはビジョンが存在しない。名張地区既成市街地再生計画策定委員会はプランのなかに桝田医院第二病棟のことをまったく盛りこまない。その結果どうなったのか。乱歩のことを考える知識も見識もない、そしてそれ以前にそんな資格も権限も与えられてはいないはずの名張まちなか再生委員会にすべてが押しつけられ、おまえらそんなことでいいのか実際、というしかないような委員によって桝田医院第二病棟の整備計画が検討され、見事なまでにうわっつらだけを飾った文学館構想が決定されてしまったのである。いい加減にしなさい。おれはほんとにもう知らん。とにかく私は以前から、
 ──名張市は乱歩から手を引け。
 と主張してきたのであるけれど、名張市がこのうえまーだ乱歩をどうこういうのであれば、文学館のことなんかよりいったい乱歩をどうしたいのか、それを明確にすることが必要である。庁舎内の乱歩関連セクションに密接な横のつながりをつくって、そのうえでじっくり考えてみなさい。考えるったって名張市役所のみなさんにはそもそも乱歩にかんする知識がないのだから困ったものではあるのだが、私は乱歩のことならいくらだっておはなししてさしあげることができるのである。むろん私は、
 ──名張市は乱歩から手を引け。
 と本気で考えているのであるけれど、これはあくまでも個人的な考えなのであって、名張市が悔い改めて乱歩のことを本気で考えたいというのであれば、そのための助言やアドバイスを惜しむつもりは毛頭ない。いつでも訪ねてこられよ。あらあらかしこ。

 ながながと引きましたが、ひとことでいってしまえば名張市はどうやらばかなのである。私は桝田医院第二病棟の整備構想が「議会のチェックを経ることもなければ市民に公表してパブリックコメントを募集することもなく、完全なノーチェックのままいつのまにか検討されていることがおかしい」と指摘し、その点をクリアする手段を検討するよう名張市に求めた。その回答がじつに意味不明で、あれこれ質してようやく判明したのが「委員会と市という当事者だけで好きなように更新ができる、ありていにいえば自由にプランを変更してしまえる」という内容であった。

 こんなのもう相手にしてらんない、とか思った相手を私は本日不本意ながら相手にしなければならぬわけなのですが、「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」をつくっていてひとつ気づいたことがある。上に引いた「名張まちなか再生プランの時点更新(再生プロジェクト更新調書)について」というほとんど意味不明の回答が、昨年6月18日に開催された名張まちなか再生委員会の2006年度総会に提案され承認されていたということである。名張市オフィシャルサイトの「平成18年度名張まちなか再生委員会総会」には議事の「その他」にこうある。

 ・名張まちなか再生プランの時点更新について

 「協議結果」はこう。

 上記案件は全て承認されました。

 「総会資料」として「名張まちなか再生プランの時点更新(再生プロジェクト更新調書)について」(pdf)も掲載されている。

 なんだか話が違いすぎてやしませんか。おれが出した宿題は「名張まちなか再生プランに名張市みずからが変更を加えるためのもっとも合理的な手法を考える」ということであった。あくまでも行政の主体性の問題として考えろということだ。そんなことも理解できんのか。理解できないままなあなあ体質まる出しの回答を思いつき、しかも去年の6月26日に名張市役所でおれにそれを示す以前、6月18日の名張まちなか再生委員会総会にその「名張まちなか再生プランの時点更新(再生プロジェクト更新調書)について」をこそこそ提案して承認を得ていたというのか。

 話にならんな実際。どいつもこいつも可哀想なほどのばかではないか。しかし可哀想だからとて容赦はしない。きょう開かれる第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会(仮称)にうすらばかのみなさんがどんなおつもりで参加されるのかは知らねども、まさかこのおれが桝田医院第二病棟の活用にかんする助言やアドバイスを行うためにのこのこ足を運ぶとは思っておらぬであろうなこら。助言やアドバイスならこのふたつの参考資料に尽きておるからプリントアウトして持ってこい。

 参考資料一点目、「僕のパブリックコメント」(pdf)。

 参考資料二点目、「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」。

 結論ならばこれに尽きておる。

 もっと大きな結論というならばこれである。

 ──名張市は乱歩から手を引け。

 さあ名張まちなか再生委員会のうすらばかのみなさんや、どうぞ覚悟してご出席ください。第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会(仮称)は本日午前10時、名張市役所三階の三〇三会議室で開会です。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 地域の声で迫る海村・須賀利/いつしか虚構へ誘う「ジギ谷」 藤田明

 朝日新聞三重版の「展望 三重の文芸」で「名張まちなかナビ──ナビゲーターは江戸川乱歩 o(^∇^)o」をとりあげていただきました。

 朝日新聞オフィシャルサイトに掲載された同内容の記事から引用いたします。

地域の声で迫る海村・須賀利
 可愛いリーフレットが届いた。名張高校3年生8人の制作「名張まちなかナビ」。江戸川乱歩の「ふるさと発見記」を手がかりに旧町内をガイドするわけだが、見事に仕上がった。「マスコミ論」受講生が県からのわずかな補助を活用したものとはいえ、何より地域への目に拍手を送りたい。卒業までに地域への認識を高める。そうした目標を各学校とも掲げているのかどうか、気になるところだが、若い感性によるこうした新鮮な類が各地から生まれれば、と思った。

 ご紹介いただいておりますとおり「名張まちなかナビ──ナビゲーターは江戸川乱歩 o(^∇^)o」は三重県から「わずかな補助」を受け、県民のみなさんの血税五万円を頂戴して、県教育委員会の2006年度「元気な三重を創る高校生育成事業」として発行いたしました。

 しかしわずか五万円とはいえこれほど有意義な税金のつかいみちはおいそれとは見つからぬのではないかと思われるほど公金の有効利用に努めました次第ではあり、三重県民のみなさんにはその点のご報告とお礼とを申しあげたいと思います。

 それでもって2月3日の土曜日には津市にあります三重大学で県教委主催の「元気な三重を創る高校生フォーラム」が開かれ、「元気な三重を創る高校生育成事業実践校による発表」なんてものも行われるのですが、私の教え子のうち選抜メンバー三人が「地域の活性化を図るタウン誌の作成」とのお題をいただいて堂々の発表に臨みますので、えへん、先生も教え子の晴れ舞台を冷やかしにゆくことになっております。お近くの方は下のチラシを頼りにぜひどうぞ。

 午前の部では野呂昭彦知事による基調講演やシンポジウムが行われるのですが、聞きたかねーやそんなもん、とか不埒なことを考えている先生は午後から顔を出す予定です。


 ■2月2日(金)
さあがんがんかましてやるかこら 

 さあかますぞ。本気になってぼこぼこにしてやるぞ。おれが本気になって怒ったら手がつけられんぞ。まあ覚悟しておきなさい。

 さて昨日、名張市役所で第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会が開かれました。まず配付された「乱歩関連施設整備事業検討委員会(仮称)名簿」を転載。

氏名
役職
備考
的場敏訓
委員長
乱歩蔵びらきの会
鈴木啓司
委員
乱歩蔵びらきの会
名和健治
委員
乱歩蔵びらきの会
山口浩司
委員
乱歩蔵びらきの会
辻本武久
委員
名張地区まちづくり推進協議会
山口勝義
委員
名張地区まちづくり推進協議会
岩本信博
委員
名張市総合企画政策室長
山崎恵子
委員
名張市教育委員会事務局
文化振興室長
秋永正人
委員
名張市まちづくり推進室副室長
荒木雅夫
事務局
名張市都市環境部
まちなか再生担当監
雪岡太
事務局
名張市市街地整備推進室長
今村典義
事務局
名張市市街地整備推進室
中相作
オブザーバー
田畑純也
オブザーバー
名張まちなか再生委員会委員長
北村嘉孝
オブザーバー
名張まちなか再生委員会
歴史拠点整備プロジェクトチーフ
堀永猛
オブザーバー
名張市都市環境部長
増岡孝則
オブザーバー
名張市教育委員会事務局教育次長
東川元信
オブザーバー
名張市調整監
朝野陽助
オブザーバー
名張市都市環境政策室長
岡中恵
オブザーバー
乱歩蔵びらきの会
上田豊太
オブザーバー
乱歩蔵びらきの会
高田裕市
コンサルタント
株式会社都市環境研究所
三重事務所

 「鈴木啓司」とあるのは「鈴木啓史」の誤り。ご欠席の方はこの色で示しました。私の名前と役職が線で消されているのはむろん私がこんな委員会に加わっているわけではないからであって、開会前に配付資料に眼を通していたら名簿に自分の名前が記されているのを発見いたしましたので、

 「なんでおれがオブザーバーやねん」

 と異議を申し立てて名簿から私の名前を削除していただきました。

 さて、まずかいつまんで要点のみを記しておきましょう。私が出席者のみなさんにお伝えしたのは、私にはあなた方を相手にするつもりはまっくない、ということでした。むろん協力する気もいっさいない。なぜなら名張まちなか再生プランがインチキだからである。私はインチキには荷担できない。それにいまやこのプランは異常事態と呼ぶべき段階に立ちいたっており、委員会ではなく行政の責任を追及すべき時期に来ている。端的にいえば市長の責任である。だから私はなんらかのかたちで市長にコンタクトし、名張まちなか再生プランの現状をどう認識しているのかをお訊きしたうえで、行政の主体的判断で事態を収拾するべきではないかと進言するつもりである。プランをいったん白紙に戻さなければ話は前に進まないであろうというのが私の見るところである。

 まあだいたいそんなことを口角泡をとばしてぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ訴えてまいりました。それからこんなこともいったっけ。

 みなさん乱歩生家の復元とかミステリー文庫とかいってるようだけど、そんなものはもとをただせばおれがパブリックコメントに書いたことである。それをいっさい採用しなかったくせにここへ来てミステリー文庫なんかつくったりされたらおれはアイデア盗用で名張市を訴えるかもしれない。そんなことにはならぬと思うが、そういうこともきっちり念頭においておけ。

 裁判ということになるともうひとつ、江戸川乱歩リファレンスブック編纂の正当な対価を求めて私が名張市を訴える、という可能性もまったくないではないことをここに記しておきましょう。

 ほんとにお役所のみなさんというのは裁判沙汰にしてすべてを、この「すべて」という言葉には人の誠実さなんかも含まれておるわけですが、とにかくすべてをお金の問題に換算してわからせてやらないとなにも理解できないらしいな、ということがきのうの会合でもあらためて実感された次第です。

 くわしくはまたあした。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 立教大学、旧江戸川乱歩邸 伊東武志(写真)

 「東京生活」十九号に掲載されました。特集「これであなたも池袋の達人」の一篇。見開き二ページの記事です。

 乱歩がなぜ池袋を選んだのかはいろいろと理由が考えられるが、その前に住んでいた喧騒な環境に起因するようだ。転居当時の乱歩邸は、梅林、ツツジ、畑、芝、築山などに囲まれ、今とはおよそかけ離れたのどかさだったと想像できる。そんな自然の豊かさが、中心部の雑多でごみごみとした雰囲気に愛想を尽かした乱歩を引きつけたのかもしれない。

 補足しておきましょう。まず2006年5月21日付伝言から乱歩の随筆「書斎漫談」をば。

 久しく洋風の書斎で仕事をしなかつたから、椅子に腰をかけ、テーブルに儼然と向つてペンを持つたならば書けるであらうと、戸塚から現在の高輪の家へ引越した訳であるが、やつぱり駄目だ。

 高輪の家を最初見た時は可なり気に入つてゐた。ことに土蔵を直して洋館にした一棟は、天井も高く、床もシッカリしてゐて、ちよつとその辺にある赤瓦の文化住宅とは全く趣を異にして、これなら書けそうだナと思つた位だ。

 書棚、テーブル、椅子、置物など、すべてその部屋に合ふやう、ことごとく註文して、先づこれなら落著けるであらう、と、理想通りの設備をした。ところが、テーブルに向つてみると、どうも落著けない。戸を閉め切つて、日光をさへぎつて電灯を点してやつても見たが、高い天井の空間が、気味悪いほどに拡がつてどうにも落著けない。

 結局また戸塚時代、といふよりもう十何年としてゐる習性の蒲団書斎に逆戻りしてしまつた。

 枕もとに電灯を置いて、蒲団の上に腹匍ひになつて原稿を書く──これが一番私の性に合つてゐるらしい。

 日中でも雨戸を閉めて置く。どうも私は日光が怕い。それに戸を閉めて置けば、比較的騒音が入らない。

 年中夜の国でもあつたら、私は早速引越すかも知れない。

 つづきましては2006年9月23日付伝言から平井隆太郎先生の「わたしの豊島紀行」第一回。

 私共一家が現在の立教大学前に転居して来たのは昭和九年七月のことである。閑静で空気がきれいというのを父が気に入ったのであった。東京で一番空気の澄んだ土地という当時の新聞の調査結果の切り抜きが書斎に置いてあったのを覚えている。

 その前は泉岳寺近くの芝区車町八番地に一年ほど住んでいた。現在も史跡が残っている大木戸に面した横町の家であった。しかし第一京浜国道が目と鼻の場所だったので父は騒音を嫌って僅か一年足らずで引き払った。新青年に掲載予定の【悪霊】の筆が進まず父は苦吟の最中だったから一層不快だったのであろう。当時の父は国道に面した二階を寝室にしていたので騒音が直撃したのである。

 こういったことをいともたやすく知ることができる『江戸川乱歩年譜集成』は鋭意たらたら編纂中なのですが、刊行予定となるといつになるんだか雲をつかむような話です。


 ■2月3日(土)
おそらく無理だといっていいでしょう 

 きのうのつづきに入る前に別の話題。タイトルに興味をおぼえて本間義人さんの『地域再生の条件』を読みはじめました。岩波新書の1月の新刊。「はじめに」にいきなり「まちづくり交付金制度」のことが出てきました。名張まちなか再生プランはこの交付金をあてにして策定されたものです。

 2005年に地域再生法が施行され、政府が地域再生プログラムを策定したことが紹介されたあと──

 これより前の二〇〇四年三月には都市再生特別措置法が改正され、まちづくり交付金制度が創設されています。政府は二〇〇二年四月に都市再生本部において「全国都市再生のための緊急措置──稚内から石垣まで」なる推進策を決定しています。まちづくり交付金制度は、その一環として自治体のまちづくり施策に交付金を出すというものです。二〇〇五年度予算では一三三〇億円が計三八四地区に支出(つまり一地区あたり三・五億円)されています。

 果たして、これらの法制度や政策により衰退した地域がよみがえることができるかどうか。おそらく無理だといっていいでしょう。なぜなら法制度や政策の対象が、従来の公共事業と変わらない物的な対象とされているからです。たとえば、地域再生法の特例措置の対象は道路、農道、林道、下水道、集落排水施設、港湾施設、漁港施設などとなっています。これらの整備に特例をみとめることが地域再生につながるでしょうか。こうした土木建設事業は地域開発の主要事業として、これまでも行われてきたことではありませんか。政府が行おうとしていることは、ピントがずれています。

 こうした政策には、まず地域を再生するためのコンセプト(全体を貫く基本的な視点や考え方)が見られません。なぜ、地域が衰退していっているのか、荒廃していっているのか、その前提に始まり、それらをよみがえらせるのに第一に必要なのは何かというものが見当たらないのです。本当に必要なものは、道路や農道、あるいは林道といったものではないはずなのに、なおそれらにばかり目を向けているのです。これでは地域の再生がなるはずもありません。

 おそらく無理だといっていいでしょう、とはまた身も蓋もない指摘ですけど、この私だとてそう思う。政府のみならず地域再生の現場でも、旧態依然とした価値観や手法が幅を利かしておるからである。地域社会に知恵さえあれば、ピントがずれた政策を利用してなにかしら有効な手だてを講じることができるかもしれない。しかしそんなことは無理である。それを可能ならしめるためには「コンセプト」を見つけることが必要だとこの著者は主張していらっしゃるのだし、私がこれまで述べてきたところに即していうならば名張まちなかという地域のアイデンティティの拠りどころをどこに見いだせばいいのか、みたいなことをまず明確にしなければならない。しかし地域再生の現場において、あるいは名張まちなか再生プランにおいて、そんなことはいっさい無視されておるのである。

 さらに引用。

 しかし、地方の側にはワラをもつかまんばかりに、この政府の法制度と施策に拠って地域再生を図ろうとしている自治体がなお多く見受けられます。おそらく、それでは地域再生がなるはずもないといっていいでしょう。政府の施策により地域が再生されるなら、今日なお衰退と荒廃に苦しむ地域(ごく一部の例外を除き)は存在しないはずだからです。都市についても同様のことがいえるでしょう。規制緩和策が都市にとって真にのぞましい施策であったなら、都市の混乱と欠陥はとっくに解消しているはずだからです。しかし、その混乱と欠陥はますますひどくなっているのが実態です。

 それでは地域を再生するにあたって必要なコンセプトとはどういうものなのか。それが問われることになります。どうしたら人々が自立した暮らしを営める地域となりうるのかが、そのコンセプトでなければならないのはいうまでもありません。しかし、そのコンセプトは、ある前提があってはじめて成立するもので、これなしにはありえません。では、その前提とは何なのでしょうか。

 興味を惹かれた方は本屋さんへどうぞ。気になるお値段は本体七百四十円。名張まちなか再生委員会のみなさんもお読みになられてはいかがかしら。

 この「はじめに」には、

 ──人々が豊かに生活できる場の実現こそが、「真の再生」なのです。

 とも記されており、私が以前からいってるのも似たようなことなのであって、名張まちなかの再生というのであればそれはまずなにより生活の場としての再生でなければならないはずなのですが、名張まちなか再生プランにはそうした視点が完全に欠落している、こんなプランはまったくだめである、つまりは温かい血の通ったプランではないのである、みたいなことはおとといの第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会においてもはっきり指摘しておきました。

 さてその委員会、午前の部は10時から正午まで、午後の部は1時から3時までの予定でしたが、午前の部は正午をまわって12時45分ごろまでつづきました。私は開会劈頭からなんかいやな雰囲気の集まりだなと思い、きのう記したようなことを述べて自分はあなた方にいっさい協力しないと明言するだけで帰ろうという気になっていたのですが、引き止められたりなんやかんやで午前の部はつきあい、午後の部は欠席いたしました。午前の部だけ出席したという方は少なからずいらっしゃったようで、名張まちなか再生委員会の委員長もご同様だったのですが、委員長は別れ際、市役所一階ロビーでこんなことをおっしゃいました。

 ──市の職員にはおまえに対するアレルギーがあるようだ。おまえの名前を出すだけでみんな露骨に拒絶反応を示す。

 おれは背中の青い魚か? とか思いながら市役所一階の受付の前を通りかかると、受付嬢のお姉さんが「あ。中さんあれなくなりました」と声をかけてくれました。このお姉さんにはアレルギー症状は見られなかったわけなのですが、「あれ」というのは「名張まちなかナビ」のこと。受付に五十部ばかり置いてもらってあったのがなくなったとのことで、「また持ってきます」と約束して外へ出た私は、三重大学で行われる「元気な三重を創る高校生フォーラム」を翌々日に控えて発表の練習に励んでいる女子生徒が待つ(べつに待ってもないのだろうが)名張高校に足を運び、名張市役所の受付用に「名張まちなかナビ」五十部を確保しました。

 それで翌日、というのはきのう2日のことなれど、私は「名張まちなかナビ」五十部を市役所へ持っていったわけです。受付でリーフレットのたぐいを配布してもらうための窓口は四階にある管財室というセクションで、最初に置いてもらうときに話は通してありましたから二回目は受付にぽんと置いてくるだけでよかったのですが、いやまあ管財室まで行ってみるか、職員諸君がどんなアレルギー症状を呈するのか見てみたいし、とか考えて私は管財室まで行ってみました。

 それでどんな反応が見られたのかといいますと、これがまあじつに微妙であった。明らかなアレルギーとはとてもいえないまでも、私が入ってゆくといあわせた職員のみなさんがいきなり浮き足立つような感じになったと見えなくもありませんでした。きゃはは、なーに意地の悪いことやってんだか、とか思って管財室をあとにした次第だったのですが、まあおれのことを好きなだけ煙たがったり毛嫌いしたりしてくれたまえ名張市職員のみなさんや。おれは名張市が明らかにおかしいことやってるからそれを指摘しているだけの話だ。やましいことなんてこれっぽっちもないのだぞ。おれの名前を聞くだけでアレルギーが出るというのであれば、それはそっちのやましさが原因なのではないのかな。いやいや、自分たちがやましいことをしているという自覚もないのかな。けっ。ま、どーでもいーやそんなことは。

 名張まちなか再生委員会の委員長とは昼食をともにしてから別れたのですが、食事のおり委員長さんからはじめてプランについておはなしをうかがうことができました(以前にお会いした委員長は初代の方、現在は二代目の委員長です)。そのときの話と午前の部の集まりにおける委員ならびにオブザーバーの発言を総合して、私はひとつの結論にいたりました。結論というか午前の部でもこちらから指摘しておいたことなのですが、名張まちなか再生委員会が直面している最大の問題は名張まちなか再生プランに明記された「公設民営」という文言である、というのが私の結論。

 プランから引きましょう。

【2】 歴史資料館の整備事業 (重要度:◎)

 名張のまちにひろがりとまとまりが感じられるように、北の名張藤堂家邸に対して南にもうひとつの歴史拠点を整備します。

 初瀬街道沿いの最もまとまりのある町並みの中にある細川邸を改修して歴史資料館とします。細川邸は円滑な賃貸契約が見込めるほか、平成16年11月の芭蕉生誕360年祭において旧家の風情を活かした魅力的な歴史資料館になりうること、適切な企画によって集客力が期待できることなどが確認できたので、歴史資料館にふさわしい建築物と考えます。

 老朽化した部分を除却し、町屋の風情を大切にして母屋と蔵を改修します。また、来街する市民の便に配慮して、駐車場、公衆トイレと喫茶コーナーを設置します。歴史資料館の主用途は資料の展示ですが、多様な市民ニーズに応えるために物販や飲食などを含む複合的な利用も可能なものとします。なお、歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします。

 最後にちょこっと、ついでに書いときますけどみたいな感じで記されている、

 ──なお、歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします。

 という文章、これがネックであり手枷足枷であり障害なのであって、この「公設民営」という限定のせいで委員会はにっちもさっちも動けない膠着状態、プランは完全に暗礁に乗りあげているというのが現状であると私は見ました。

 あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 横溝亮一 父・横溝正史に金田一の影を見た

 リメイク版「犬神家の一族」の公開にあわせて企画されたらしい「別冊宝島」の一冊『僕たちの好きな金田一耕助』に掲載されました。巻末インタビューです。

──正史さんにとって江戸川乱歩先生とは、どんな存在だったのでしょうか?

 江戸川先生は、私も子どもの頃からずいぶんとかわいがってもらって…、おもちゃを買ってもらったり(笑)。父も常に目標としていた人で、乗り越えられない壁であるとともに、作品を書くエネルギー源でもあったようです。評論しか書かなくなった時は、父は怒っていましたし、亡くなられた時も、「なんで死んだんだバカヤロウ」と悲しんでいましたね。

 ちょうどその頃から、社会派推理小説が台頭して、父は10年ほど出版界から干されたのですが、そのことは特に気にもせず、怒っても悲しんでもいませんでしたね。松本清張氏のような作品も、あってしかるべきという感じでした。ただ父は、「推理小説」という言葉が嫌いでした。やはりなんといっても「探偵小説」という呼びかたが好きだったようです。


 ■2月4日(日)
公設民営方式に見る権力の冷酷 

 行ってまいりました。きのう三重大学で開催された三重県教育委員会主催の「元気な三重を創る高校生フォーラム」。中日新聞オフィシャルサイトでこんなぐあいに報じられております。

元気な三重創造する高校生が実践 津でフォーラム 7校の成果発表
 特色ある取り組みをしている高校がその成果を披露する「元気な三重を創(つく)る高校生フォーラム」が三日、津市の三重大講堂であった。七校の生徒が発表し、三十三校が成果をまとめたポスターを展示した。

 高校の特色づくりを支援するため、県教育委員会が二〇〇六年度に始めた「元気な三重を創る高校生育成事業」の一環。取り組みを広く知ってもらうとともに、子どもたちのコミュニケーション能力を高めるための場として、フォーラムを開いた。

 発表校は同事業の実践校の名張、相可高校と、国から研究校の指定などを受けた五校。

 相可高校は、食物調理科の実習施設「まごの店」や住民への料理教室などを通じて地域と連携を深める取り組みを紹介。同科二年の奥村俊彦君と池内亜衣さんが「自分の技術を磨きながら地域を元気にしたい」と話した。名張高校は、町の魅力を紹介するため作成したタウン誌について説明した。

 午前中には野呂昭彦知事の講演などもあったのですが、そんなもの聴きたくもありませんから(ほんとは久しぶりでお目にかかりたいなとも思ったのですが)現場到着はお昼過ぎ。相可高校の生徒が午前5時からつくったというお弁当が六百五十円で販売されておりましたので、それをぱくついてから県内七高校の発表に接するべくホールに入りました。

 高校ったって私どもの時代から考えますとおおきに様変わりをしておりまして、桑名では高校生が週に一度そこらの企業に出社して働いていたり(デュアルシステムとかいうそうですが)、それからどこだったかは忘れましたけど高校生が温泉饅頭の開発を手がけていたり、わが名張高校の「名張まちなかナビ──ナビゲーターは江戸川乱歩 o(^∇^)o」とは比べものにならないスケールでなんやかんややっておるのだということを知りました。とくに高校野球県大会でのみ名前を知っていた(どこにあるんだかいまでもよく知らないのですが)相可高校には「食」に特化したカリキュラムが存在し、高校生が地域の食材でつくった料理やスイーツ(甘いものというかお菓子のことをきょうびはスイーツと呼ぶそうな)を「まごの店」という名前の店舗で販売しているとのことだったのですが、名張のまちでもこういうことができんものか。

 それで私の教え子も、中日の記事にあるとおり「名張高校は、町の魅力を紹介するため作成したタウン誌について説明した」、無事に発表を終えたのですが、去年の春には名張のまちのことなんかなーんにも知らなかった高校生が授業で名張のまちを歩きまわらされ、それなりに「町の魅力を紹介」したりフォーラムでの発表に臨んだりしたりしているというのにまあおまえらと来たらいったいどうよ、という話題に移行します。

 名張まちなか再生プランにはこう書かれてあった。

 ──なお、歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします。

 プランの素案を読んだとき、私は眼を疑った。冗談かと思った。このプランをつくった連中は名張まちなかのことをなにひとつ知らないのではないかと思わざるをえなかった。

 「公設民営」とはどういうことか。細川邸をなんらかの施設として使用するにあたり、建物の整備その他の面倒、言葉をかえればオープンまでの面倒は「公」が見ますけど、そのあとの維持管理運営はすべて「民」でやりなさい、そのための費用は勝手に捻出しなさいということである。

 ばかかこら名張地区既成市街地再生計画策定委員会のぼんくらども。おまえら名張まちなかがどういうところだか知っておるのか。商店経営を成り立たせることなどもはや不可能、ご多分にもれずシャッターストリートと化してしまい、完全にさびれきって真っ昼間でも人っ子ひとり通らないことが珍しくない場所である。そんなところに歴史資料館つくるだけつくってあとは民間でやりなさいなどと、そんないいかげんなブランがよくも策定できたものだ。無責任にもほどがある。しかもこらばかども。名張地区既成市街地再生計画策定委員会のぼんくらども。おまえら歴史資料館つくりなさいとか適当なことさえずってるけど、そんなところに展示する歴史資料がいったいどこにあるというのだこのばか。こんなプランつかいものになると思っておるのかこのぼんくら委員会。

 みたいなことを素案を読んでおれは思った。とにかくこんなブランではどうしようもないからとパブリックコメントを提出したのだが、プランに記されている「公設民営方式」に言及すると論点がぼやけてしまうなとも判断されたので、乱歩に直接関連する点だけをとりあげ、ただし公設民営方式に対する批判として、

 ──細川邸は名張市立図書館ミステリ分室とする。

 という案を提示したわけなの。2月1日、名張まちなか再生委員会の委員長と昼食をともにしたとき、私は委員長さんに、

 「おまえな、あんなとこにどんな施設つくったかて自立した運営ができるわけないやないか。施設つくるのやったら市の施設にする以外ありえへん。それが行政の責任ゆうもんやろ。せやからおれは市立図書館のミステリ分室にせえゆうとるねん」

 と申しあげましたところ、委員長は、

 「あ。そうか。そうゆうことやったんか」

 とおっしゃってましたけど、あの見捨てられたような名張のまちに再生のための施設を整備するというのであれば、最後まで名張市が責任をもって面倒を見ますというのでなければうそである。名張地区既成市街地再生計画策定委員会のぼんくらどもはいったいなにを考えておったのか。むろん名張市が極度の財政難に陥っているのは百も承知であるけれど、それでもあえてまちなか再生のためになんらかの施設を整備するというのであれば、つくるだけつくってあとは知らないなどと無責任で卑怯で依存体質まる出しなことを名張市にいわせてはいけない。行政としての覚悟と気概を見せてみろ、みたいなことが盛り込まれたブランでなければならない。

 いまあらためて名張まちなか再生プランを読み返してみると、

 ──なお、歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします。

 という文章には権力の本質としての冷酷さがまざまざと露呈されているという気がしてきます。「公」という隠れ蓑の下から権力というものの冷酷さがぞっとするほどなまなましく顔を覗かせている。

 とにかく公設民営方式なんてものにこだわっていては話は永遠に前へは進まない。ですから私は2月1日の会合の午前の部で名張まちなか再生委員会の委員長に対し、

 「おまえの委員長権限でこの委員会解散させられへんのか」

 とお訊きしてみたところ、

 「そんなことは規約に決められてへんからなあ」

 とのお答えが帰ってきました。しかし委員会を解散するかなにかしてあの名張まちなか再生プランというインチキプランを完全に無効なものとしてしまわなければどうにもならんぞ、とおれは思う。思うから2月1日の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会でもそれを強く主張してきた。みなさんはそろそろ怒ってもいいのではないかと訴えてきた。こんなインチキプランを押しつけられてどうして怒らないのか。そろそろ怒ってもいい時期なのではないか。

 もしかしたらこの公設民営方式の問題をパブリックコメントの段階でもっと明確にしておいたほうがよかったのかなという反省もいまの私にはあるのですが、名張市のパブリックコメント制度なんてしょせん形骸なんですからいずれにしても甲斐のないことではあったでしょう。

 要するに名張まちなか再生プランなんてのはとっとと捨て去るしかないインチキなのである。公設民営方式で細川邸を整備するというのはどういうことか。名張まちなかに新たな負担を押しつけるということである。お役所は名張まちなかのためにこんな施設を整備しましたと自慢げにいうのであろうが、そんな施設を誰が望んだか。新しいお荷物になるしかない施設を誰がつくってくれと頼んだのか。

 まったくひどい話である。名張地区既成市街地再生計画策定委員会は名張のまちを殺すつもりであんなプランを策定したとしか思えぬではないか。だから三重大学あたりの御用学者をトップに据えた委員会などろくなものではないというのだ。地域住民の生活のことなどいっさい顧慮せず、ただ行政の顔が立つようにして地域には負担を押しつける。こら三重大学の御用学者。おまえそんなことしてなにか甘い汁にでもありつけるのか。曲学阿世もたいがいにしておけ。

 あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 文学への目覚め 北杜夫

 日本経済新聞出版社から『どくとるマンボウ回想記』という新刊が出ていて、帯にはこう記されていました。

 ──「航海記」から半世紀。

 あちゃー、もう半世紀ってか、とか思って購入したのですが、巻末の「北杜夫著作目録」によれば『どくとるマンボウ航海記』が世に出たのは1960年3月ですから厳密にいうとまだ四十七年ほど。しかしまあ半世紀ではあるな。茫然としてしまうな。

 少年時代の回想に乱歩が登場してきます。

 それからしばらくして、春陽堂文庫に江戸川乱歩の「吸血鬼」があった。「少年倶楽部」にはかなりの小説があったが、もっとも夢中になったのは江戸川乱歩「怪人二十面相」シリーズであった。「吸血鬼」は大人向けの小説であったが、いかにも奇怪で不気味な話だったので夢中になって読んだ。ところどころに絵があって、この筋なら今度はどんなこわい絵が出てくるのだろうかと、ページをくるのが恐ろしかったほどだ。そのあと、私は生れて初めて図書館に行って乱歩の全集を借り、やがてはそのすべてを読んだ。

 ■2月5日(月)
細川邸乱歩講座 

 そんなこんなで2月1日、名張市役所で開催された第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会において見聞したところにもとづいて判断するならば、

 ──なお、歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします。

 という名張まちなか再生プランの文章がネックや手枷足枷や障害になって、名張まちなか再生委員会はいまや身動きのとれない状態になっている。これが私の結論であり、こうなったらもうプランを白紙に戻すしかないであろうという以前からの考えがより確信的なものになった次第でした。

 しかしそれにしてもあいかわらずひどいもので、なにがひどいかというとたとえば事務局。2月2日付伝言に掲載した名簿には事務局として三人の市職員の方が名を連ねていらっしゃいますが、2005年6月に名張まちなか再生委員会が発足した当初からの事務局職員はひとりもいらっしゃいません。どなたも最近の異動で名張まちなか再生プラン担当セクションにいらっしゃった方で、ほんとにこんなんありかよおい。名張まちなか再生プランの策定プロセスはおろかここ一年半ほどの委員会の動向すらよくご存じない方が事務局を務めますって、そんなんで話がすんなり進むわけがないではないか。

 そうかと思うと話し合いの途中、

 「せやから中さんもそんな排他的なこといわんと」

 などと口走ってくださった職員の方がいらっしゃいました。カチンと来ました。久々のカチンであった。

 「そんなもん排他的なんはいったいどっちやゆう話やないか」

 と私はいきり立ち、「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」から引きますならば──

7月1日、不肖サンデー名張市役所建設部都市計画室にお邪魔して、名張まちなか再生プランならびに名張まちなか再生委員会のことをいろいろお訊きしました。設立総会で配付された資料と委員名簿を頂戴しました。細川邸の整備は歴史拠点整備プロジェクトが担当するとのことでしたので、右のリンク先「再生整備プロジェクト会則」の、
(意見聴取)
第5条 チーフは、必要があるときは、構成員以外の者の出席を求めて意見を聴くことができる。
 という条項にもとづき、乱歩に関する基礎的な知識をプロジェクトのメンバーにレクチャーする場を設けていただくようお願いしました。

7月29日、名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの第二回会合が名張市役所で開かれました。7月1日に不肖サンデーが申し入れた乱歩に関するレクチャーのことが検討され、
 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」
 との結論が出されました。

8月2日、名張まちなか再生委員会事務局から不肖サンデーに対し、
 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」
 という歴史拠点整備プロジェクトの回答が電話で伝えられました。

 といった2005年における一連の経緯を早口にまくし立てました。ちなみに2005年8月2日というのは掲示板「人外境だより」に新怪人二十面相とかいうばかからはじめて投稿があった日で、なんだかずいぶんわかりやすい話だなと私は思います。

 それにしても、おれのことを排他的だとはよくぞ申した。いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。まあ不憫といえば不憫なわけであるけれど、この職員の方のご発言には思わず耳を疑ってしまうものが含まれており、それは名張まちなか再生プランとは直接関係のないものでしたからその場では不問に付しておきましたけれど、といって聞き捨てにはできないものでありましたのであらためてメールをさしあげてご存念をお聞かせいただくことになるでしょう。なんか不憫だ。しかしいたしかたありません。発言には責任ってものがつきまとうわけなんですから、なあなあの通じる仲間うちでならいいけれど、おれみたいな外部の人間、しかも口舌の徒と口を利くときはもう少し言葉に気をつけたほうがいいと思うぞ。

 ここでお知らせしておきますと、もしかしたら近いうち、問題の細川邸で名張まちなか再生委員会の主催による乱歩講座が開講されるかもしれません。というのも2月1日、名張まちなか再生委員会の委員長と昼食をともにしたおり、私は委員長さんにこんなことを申しあげました。

 「おまえな、細川邸を会場にして乱歩の講座を開く気ィないか。主催はおまえらの委員会で、講師はおれ」

 「どんな狙いや」

 「一般市民を対象にして、ていうかほんまの対象はきょう集まってた委員やねん。あのメンバーでこれから桝田医院第二病棟をどうするこうするゆうて検討するんやろけど、それにはどうしても最低限知っとかなあかんことがあるねん。おれはおまえらの委員会に協力する気はないけど、市民対象の講座ゆうことであの委員に最低限の知識を身につけてもらいたい。だいたいあの細川邸もっとつかいまわさなあかんで」

 それはまったくそのとおりで、名張まちなかに住む人たちでさえいまや細川邸のことを冷めきった眼で見ているというのが私の印象。その理由のひとつは細川邸の整備にかんする情報がいっさい公表されていないということなのですが、しかし細川邸をなんらかの公的施設として利用するというのであれば、 整備の方向性が定まっていなくたっていいからせめて月に一度くらいは細川邸に市民が集まる機会を設けるべきであろう。細川邸と地域住民とを結びつける手だてを講じてゆくべきであろう。私は委員会に協力する気はないのですが、委員会がそうしてゆくべきだとは考えていますから、委員長に細川邸乱歩講座の話をもちかけた次第です。

 念のためにお断りしておきますと、何度もくり返しますけど私には名張まちなか再生委員会に協力するつもりは微塵もありません。彼らの拠って立っている名張まちなか再生プランが完全なインチキだからです。そんなプランの実現にはとても協力できない。本来は協力しなければならない立場の人間なのであるけれど、あんなインチキにはいっさいかかわりたくないのであるということは2月1日の会合でも明言してまいりました。しかし細川邸乱歩講座ということになるのであれば、プランのインチキとは直接的なかかわりのない催しなんですから講師くらいはいくらだって務めてみせましょう。私は排他的な人間ではないのである。

 さてそれで、私のそうした提案を受けた委員長は間髪を入れず、

 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」

 とはおっしゃらず、

 「おもろいやないか。やろ」

 と明言してくださいました。

 「おまえそんなこといつから考えてた」

 とのお尋ねをいただきましたので、

 「ついさっき、おまえと隠(なばり)街道市のこと話してたとき。コミュニティイベント主催したんやから委員会が講座を主催してもええやろ思てな」

 そんなこんなでこのままゆけば近く細川邸での乱歩講座が実現することになるはずなのですが、しかしこの講座、もしかしたらまったく無駄なものになってしまうのかもしれません。

 あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 電人M 江戸川乱歩

 例のシリーズも第二十三巻。

 例によって巻末解説から。

解説 「常識」を超能力に変える術
平井隆太郎
 推理小説ではむかしから使ってはいけない禁じ手があるそうです。それを使えば物語の興味がなくなってしまうからです。まだ常識になっていない科学技術や、完成していない未来の技術などです。超自然的な魔法なども禁物ですね。ですからこの作品でも大がかりなしかけは出て来ますが、普通の人なら納得できる範囲に入っています。ところが一つだけ最後のところで遠藤博士の仮死粒子ではこの約束が破られます。これを持ち出さないと事件が完結しないから仕方なかったのでしょう。もっともこの作品が書かれた時代でも、中性子爆弾などで新聞で話題にされていましたから、遠藤博士の仮死粒子くらいは勘弁してもらえるのかもしれませんね。

 ■2月6日(火)
桝田医院第二病棟はどうなるの 

 2月1日、名張市役所で開催された第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会。午後の部は1時からだった予定を1時30分からに変更して3時までということになったのですが、私は欠席いたしました。それでも用事を片づけて市役所に舞い戻り会議室まで足を運んでみましたところ、時間は3時30分ごろになっていたと記憶するのですが、話し合いを終えてぞろぞろと出てくるメンバーに遭遇しました。

 「あ。中さんくしゃみしませんでした?」

 とか尋ねられ、そこらでお茶でもということになったのですが、公務員というのはまったく融通が利かないもので、勤務中ですからとみんなとっとと職場に帰ってしまいます。それで乱歩関連施設整備事業検討委員会の委員長と委員おふたり(いずれも乱歩蔵びらきの会のメンバー)のお三方といっしょに市役所前の喫茶店に入りました。

 午後の部でどういう話し合いが行われたのか、くわしいところは教えていただけなかったのですが、次の委員会はいつ開かれるのかとお訊きしてみましたところ、未定であるとのお答えが返ってきました。ああこれは、と私は思いました。もうおしまいということかもしれないな。名張市が寄贈を受けた桝田医院第二病棟をどう活用するのか、それを考える作業を乱歩関連施設整備事業検討委員会は投げ出してしまったということなのかもしれないな。結構結構。それでいいのだ。桝田医院第二病棟にはこんな碑でも建てておけばいいのだ。

 しかしそうなると、とも私は思いました。昼食をともにしたおり名張まちなか再生委員会の委員長にお願いした細川邸乱歩講座は、もしかしたらまったく無駄なものになってしまうのかもしれないな。なぜかというと講座のいちばんの目的は桝田医院第二病棟のことを検討する委員のみなさんに乱歩にかんする最低限の知識を身につけてもらうことなのですから、その検討が行われなくなったのだとすると乱歩講座のいちばんの目的が見失われてしまいます。しかしまあ、一般市民が名張のまちと乱歩のことを気軽に知る機会というのはあってもいいはずですし、どんな施設として整備されるにしても細川邸をいまからつかいまわしてゆくのは悪いことではないでしょうから、まったく無駄ということでもないか。

 しかしそれにしても、それにしても名張まちなか再生プランはほんとにもう無茶苦茶だな、と私はコーヒーを飲みながら思い返しました。桝田医院第二病棟はこんなあんばいだし、名張まちなか再生委員会の委員長から昼食時にお聞かせいただいたミステリー文庫の構想もじつにお粗末きわまりないもので、ほんとにもうこんなくだらないプランは白紙に戻すしかないぞ実際。

 あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 稽古場の三島由紀夫氏 芥川比呂志

 乱歩にはたいして関係ないのですが、講談社文芸文庫の新刊『ハムレット役者 芥川比呂志エッセイ選』に収録されているのを読みましたので、三島由紀夫脚色「黒蜥蜴」の初演時におけるかなり面白いエピソードとして『江戸川乱歩年譜集成』につかえるかもしんない、とかあさましいことを考えて録しておきます。

 ちなみに芥川比呂志は昭和37年3月の「黒蜥蜴」初演で明智小五郎を演じ、『ハムレット役者』巻末の年譜によれば、

 ──この公演終了後、慶応病院に入院(昭和三九年四月三〇日退院)。

 とのことです。ときに四十二歳。

 さてその「黒蜥蜴」。三島由紀夫は自作の上演にあたって決して気難しい戯曲家ではなく、作者の希望を表明はしてもそれに固執することはなかったのだが──

 その代り、演出家や役者の領分に属することでも、ここと狙いを定めた点については飽くまで自説を曲げず、主張を貫いた。

 例えば、装置は常に絶対に写実的でなければならず、ある戯曲の劇中音楽は絶対にワグナーでなければならず、ある中年の夫人役の着る羽織は着丈や袖丈が十分に長い必要があり、絶対に元禄袖や茶羽織であってはならず、ある青年の役は絶対に全裸で登場しなければならないのだった。

 昭和三十七年、「黒蜥蜴」の最終景に登場したこの青年は、剥製にされて美術館に飾られているのだが、劇場側があまり心配するので、氏は彼を暗い一隅に、客席に背を向けて立たせることにし、全裸のほうは、そのまま押し通した。これは当時としては破天荒なことであったが、その割には話題にならず、氏を口惜しがらせた。この役を演じたボディビルダーの青年の体格がりっぱすぎたために、また彼が剥製の不動をあまりに完璧に演じたために、多くの人々が彼を人形と見誤ったのである。


 ■2月7日(水)
ミステリー文庫は学級文庫か 

 桝田医院第二病棟はほんとにもうこれでいいということにしておきましょう。

 どいつもこいつもばかだからまともなことをなにひとつ考えられないうえ、情けないことに名張市にはお金がありません。2007年度からの三年間で二十一億円もの財源不足が生じるそうです。二十一億です二十一億。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を七年連続で開催できる金額です。ですから名張市は職員に退職金を支払うために借金をしなければならないという笑い話みたいな状況になっていて、2月4日付中日新聞によりますと──

【伊賀】 10年間で総額66億円 名張市職員退職金
 市職員の大量退職時代を控え、退職金の増大が懸念される名張市で、2007年度から16年度までの10年間で、約600人いる職員のうち、3分の1強に当たる240人が定年退職し、退職金総額は約66億円に上る見込みであることが分かった。

 行政職に保育士や給食調理員を含めた市職員の年ごとの定年退職者はこれまで、1けたか多くても10人前後で推移してきたが、07年度から16年度にかけては13年度の40人を頂点に毎年平均24人ずつが退職する。

 同市は1965(昭和40)年の桔梗が丘団地の入居開始を皮切りに、次々と大型住宅団地が完成して人口が急増した。行政の仕事量の増加に対応するために、市が75年前後を中心に大量採用した職員が退職期を迎えるのが理由だ。

 大量退職時代の総額約66億円の退職金の財源をどう工面するかが課題で、これに対応する退職手当基金は現在、残金が約2億円しかなく頼れない状況にある。

 いわゆる団塊の世代の2007年問題は全国津々浦々で普通に見られることですが、名張市の場合は昭和40年代以降の大規模宅地開発に伴う行政需要の増大という要因がありましたから、退職金問題にもさらに拍車がかかるわけです。しかしそれにしてもけっして有能とはいえない、ていうか私の眼にはばかとしか映らないみなさんの退職金のために借金しなければならないなんてのは、ほんとに笑えない笑い話であると私は思う。

 笑い話はまあいいとしても、なにしろお金がないのだという錦の御旗があるのですから桝田院第二病棟をどうするかという問題にかんしては──

 こんな碑を建てて名張市の現状を正直に全国発信しておくのがいちばんでしょう。足りない知恵で妙なものつくってみたって禍根を残すばかりではないか。はっきりいって百年河清を俟つとしかいいようのない状況なのではあるけれど、それでも名張市にもいつの日か知恵のある人間が現れて結構なアイデアを提供してくれるかもしれないのだし、そのころにはもしかしたら財政状況が好転しているかもしれないわけなのですから、とにかくばかが焦って妙なものつくることだけはやめておけ。

 今度は細川邸の話題。2月1日、名張まちなか再生委員会の委員長と昼食をともにしたおり、現時点におけるミステリー文庫構想の概要をお聞かせいただきました。

 「細川邸の部屋のひとつにミステリー文庫つくって、そこに図書館からミステリーの寄贈本もってきて、それで外のほうにカフェテラスみたいなんつくって椅子とか並べるぐらいやな」

 「それで終わりか」

 「終わりや」

 「あほか」

 と私はあきれ返りながら申しあげました。

 「おまえな、ひとつ施設つくるのやったらそこからなんかはじまるとかなんかがひろがるとか、そうゆうふうに進めなあかんねん。もしもそんなミステリー文庫つくってしもたら名張市はほんま笑いもんになってしまうで。そんなもん絵に描いたようなハコモノやないか。いったいなに考えとんねん」

 まったくひどい話であって、あほかというしかありません。私はこの日午前の話し合いでおまえらもしもミステリー文庫なんてつくりやがったらそんなものおれのパブリックコメントからのアイデア盗用なのだから最悪の場合は裁判沙汰に発展すると覚悟しておけと啖呵を切っておいたのですが、これではアイデア盗用にならないかもしれません。これではそこらの小学校の学級文庫と選ぶところがありません。私のパブリックコメントには学級文庫をつくろうなどとは書かれておりません。だからとにかくもう目先のことしかわからんわけだ。うわっつらをちょこちょこ飾っておけばそれで機嫌がいいわけで、どいつもこいつも心底ばかなのだ。そんな心の底からのばかどもが税金の具体的なつかいみち勝手に決めてんじゃねーぞこら。

 ところで読者諸兄姉、掲示板「人外境だより」をごらんいただいている方はすでにご存じのところでしょうが、2月4日にいささかけったいな投稿がありました。「公設民営の件ですが策定委員ではそんな言葉は聞いたこともありません」という主旨の投稿です。もとより信じられる話ではないのですが、さりとて投稿者がうそをついていらっしゃるとも思われません。勘違いや事実誤認はあるにしてもこの投稿にはひとつの事実、つまり名張まちなか再生プランに盛り込まれた細川邸の「公設民営方式」という文言は行政サイドの不当な介入によって押しつけられたものであるという秘められた事実が暗示されているのではないかと私には思われ、ですから投稿者の方にご存じのところをもう少しくわしくメールででもいいから教えてくださいなとお願いしているのですけれど、いまのところうんともすんとも応答がありません。

 まったくまあどいつもこいつもほんとにね、弱音を吐くつもりなんかなけれども、おれはもうなんだかほんとに泣きたいような気分だぞ。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 あとがき──あるいは好事家のためのノート 芦辺拓

 2002年刊の『明智小五郎対金田一耕助』が創元推理文庫に入りました。その「あとがき」(むろん単行本に収録されていたものですが)から表題作「明智小五郎対金田一耕助」の舞台裏を引きましょう。

 ──とはいえ、両探偵を出会わせるにはそれなりの舞台と事件が必要であり、それぞれの年代記になるべく沿い、かつ原典の隙間に入り込めなくてはなりません。何でもバーチャルな空間をつくってしまう当世流のやり方では、そこまでしなくていいのでしょうか。

 といったぐあいの一見さりげないけれどじつは肺腑をえぐるような「当世流」批判などが記されたあと──

 お次は明智小五郎氏ですが、そこで思い出したのは拙作長編『怪人対名探偵』を書くに際して、わざわざ駒場の近代文学館に足をのばし、『蜘蛛男』『魔術師』『黄金仮面』などの初出誌「講談倶楽部」や「キング」を読んでいたときのささやかな発見でした。それら通俗長編の連載では(単行本では削られてしまうのですが)、冒頭で必ず前回までのダイジェストと読みどころが紹介され、読者がすんなりお話に入れるよう工夫されていました。

 たとえば『蜘蛛男』の後半、「M銀行麹町支店」の章は、現行本では「召使いたちはそとから錠をおろした一と間の内に監禁されていた」と書き出されていますが、初出の「講談倶楽部」昭和五年四月号では、その前に「幾多の婦女子を誘拐惨殺し、その断末魔の舞踏を楽しんでゐた稀代の殺人魔『蜘蛛男』の正体は、今こそ明かとなつた」に始まる七百字ほどの導入部がついており、そのあとに本文に引用した“明智小五郎、大阪で途中下車して新聞読む”の一節が含まれていたのです。あわせて『悪魔の紋章』の一節も思い出され、これで両者が交錯する場は大阪と決まったようなものでした。

 文庫化に際して著者による「文庫版のためのそえがき」と唐沢俊一さんの解説「“対”の悲劇」が新たに収められ、気になるお値段は本体七百四十円。


 ■2月9日(金)
八日戎でまちなかナビを配布する 

 きのうは朝からちょっとした野暮用でサイトを更新できませんでした。無断でお休みしたら緊迫感がいや増すのではないか、などと考えていたわけではありません。

 さてきのうとおととい、名張まちなかがお祭りの人出でにぎわいました。鍜冶町にある蛭子(えびす)神社の八日戎(えびす)です。ポスターがこれ。

 いつもは閑散としている名張のまちが人であふれたのは、去年11月の隠(なばり)街道市以来のことでしょう。とはいえ私が子供だったころと比較すれば最近は八日戎も人出が減り、建ち並ぶ露店の数もずいぶん少なくなった印象なのですが、それでもこれはチャンスだと思い、「名張まちなかナビ」を配布するため7日の午後にまちなかへ出てみました。

 まず名張高校に立ち寄りましたところお客さんと鉢合わせ。奈良県桜井市にお住まいだという中年男性で、「名張まちなかナビ」を片手に名張のまちを歩いてきたのだとおっしゃいます。桜井あたりの読売新聞に「名張まちなかナビ」の記事が掲載され(伊賀版の記事が回されたわけですが)、それで名張高校に連絡して郵送で現物を入手してくださったとのことでした。自分の家にヤクルトを配達してくれているおばさんが名張の出身であるということをのぞけば名張にはまったく縁がなく、むろん名張駅で降りたのもきょうがはじめてであるとのことで、名張藤堂家邸跡にも立ち寄って名張まちなかの案内地図を貰ってきたのだが、高校生のつくった「名張まちなかナビ」のほうがはるかによくできている、じつは自分は中学校の教師をしていたのだが、病気で身体をこわして退職してしまった、現在は農業をメインに生活しているのだが、生徒を指導して「名張まちなかナビ」みたいなものをつくってみたくなった、などといろいろおはなししてくださいました。

 考えてみればこれは結構すごい話で、リーフレット一枚で名張まちなかに人を招き寄せるなんてのは名張市観光協会にもたやすくはできないことであろう。とか思いながら「名張まちなかナビ」の残部を確認し、八日戎で配布する分をバッグに詰め込んで私は学校をあとにしました。ジャスコ新名張店リバーナの駐車場に自動車を停め、ぶらぶら歩いて中町から本町の角まで来ると、もとは家具屋さんだった空き店舗でなにやら展示が行われています。入ってみますと7日と8日の二日だけ開設される作品展。さっそく関係者の方にお願いして「名張まちなかナビ」を五十部か六十部か、それくらいの見当で置いてまいりました。それからお祭りの中心、鍜冶町の蛭子神社へ。

 ちょうど祭典の最中とあって境内はごった返しています。ちょっと腹も空いておりましたので鍜冶町から丸之内へ抜け、おぼこ飯店でラーメン一杯、五百円。それでまた蛭子神社に舞い戻ってみますと祭典は終わり、人波も引いていたのですが、これは困ったなと私は思いました。私は社務所かどこか参詣客に縁起物を授与するあたりに「名張まちなかナビ」を置いてもらおうと考えていたのですが、縁起物が山と積まれてスペースに余裕などありません。神社関係者は誰もみな忙しそうにしていて、配布を依頼するのは控えたほうがいいだろうと判断されました。

 いや困ったな、とか思ってうろうろしている最中、知人とばったり出会いましたのでしばらく蛭子神社の前で立ち話。それでこの知人が伊賀市内の企業にお勤めであることを思い出したのですが、そういえば「名張まちなかナビ」は伊賀市内にはまったく出まわっておりません。バッグからごっそり取り出して知人に押しつけ、とりあえず銀座通りの Be、それから鍵屋ノ辻の数馬茶屋、あとは適当に、みたいな感じでお願いしておきましたので、伊賀市民の方も運がよければどっかそこらで「名張まちなかナビ」を入手していただけるはずです。伊賀市民のみなさんには、

 「やーい。やーい。伊賀市にはこんなのねーだろー。やーい。やーい。伊賀市にはこんなのつくれねーだろー。やーい。やーい」

 と名張市民が伊賀市民をあざ笑っていると思いつつ眼を通していただければありがたく思います。

 そうこうしているところへ別の知人が通りかかりましたので、

 「先生これ見てくれましたか」

 と声をかけました。この知人はもとをただせば小学校の先生で、現在は写真愛好サークルの会長さん。

 「おお見た見た。新聞で見た」

 それで「名張まちなかナビ」をお渡しし、

 「表紙の写真なかなかええ感じでしょ」

 とか喋っておりますと、

 「しかしこれ、どこ探してもあんたの名前が出てこんやないか」

 とのご指摘をいただいてしまいました。きゃはは。だっておいら伊賀の忍びなんだもん。

 そうこうしているところへ制服姿の女子高生四人組が通りかかります。うちふたりがなぜかにこにこしていて、よく見てみたら私の教え子。近くまで呼び寄せ、うちひとりが1月23日の最後の授業を欠席していたことを思い出しましたので、

 「おまえ授業はサボってもこういうときは絶対はずさへんのやな」

 と先生お小言。

 「あれはたまたま、たまたま」

 と女子高生意味不明のいいわけ。たまたま用事があって欠席したとかいいたいのであろうが、まあそんなことはどうだってよろしい。それよりいい機会だから最後の授業をしてやろう、と考えて私は女子高生四人といっしょに歩きはじめました。

 この日の蛭子神社では地元保存会による七福神踊りが奉納されたのですが、そのあたりは地元メディアの動画ニュースでどうぞ。

 奉納を終えた七福神は鍜冶町の町内を練るならわしとなっているのですが、すれ違ったとき神様のおひとりが両手をひろげて女子高生四人を抱きかかえるようなサービスをしてくださいましたので、女子高生はきゃあきゃあ大騒ぎして喜んでおりました。

 あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2007年2月

 宝塚花組公演「−黒蜥蜴」濃厚ラブシーンで幕開け

 宝塚大劇場の花組公演「明智小五郎の事件簿 黒蜥蜴」はきょう9日に初日を迎えます。

 でもってスポニチのオフィシャルサイトに掲載された記事がこれ。

 引いておきます。

宝塚花組公演「−黒蜥蜴」濃厚ラブシーンで幕開け
 怪盗・黒蜥蜴こと緑川夫人に扮する桜乃彩音は、背中に黒蜥蜴の入れ墨をほどこして妖しげに登場。明智に扮した春野といきなりラブシーンを演じるなど、清く正しく美しくがモットーのいつもの宝塚とはひと味違った濃厚なオープニング。春野も「原作ファンの方や宝塚を見るのは初めてというお客様にも楽しんでいただけるのでは」と自信のコメント。

 私は11日の日曜、この舞台に馳せ参じる予定です。宝塚なんて生まれてはじめてのことですから、いまからなんだか恥ずかしい。

 宝塚歌劇オフィシャルサイトの公演案内はこんなあんばいになっとります。


 ■2月10日(土)
2月7日の最後の授業 

 きのうのつづきの7日のおはなし。

 私は女子高生四人を引き連れて、お祭りの人出でにぎわう名張のまちを歩いていた。鍜冶町のはずれまで行ってまた引き返し、本町通りをぶらぶらしながら適当な店を探した。「名張まちなかナビ」を置いてもらう店だ。1月23日の最後の授業では、伊賀まちかど博物館や乱歩関連商品を販売している店舗を手分けして廻ったのだが、まちなかにはそれ以外の店舗がそれほど多くあるわけではない。ご多分に洩れぬシャッターストリートだ。それに八日戎名物のハマグリを売っている魚屋さんなんかにはとても頼めない。書き入れどきでずいぶんと忙しそうだし、置いてもらってもすぐびしょびしょに濡れてしまう。

 ようやく適当な店の前に来た。大為という陶器屋さんである。生徒四人と店内に入り、奥のほうにいた女性のもとまで歩いて、かくかくしかじかと事情を説明した。置いてもらえることになった。「名張まちなかナビ」を手渡しながら礼を述べると、うしろのほうで女子高生たちも、

 「お願いしまーす」

 と口々にいっている。よろしい。よくできました。最後の授業も終了だ。先月23日の授業を欠席した生徒も、これで最後の授業が受けられたということになる。店の外に出ると教え子ではない生徒が、

 「マスコミ論の授業受けたみたいな気がしたー」

 とつぶやく。私の授業の本質を瞬時に感得したらしい。そうかと思うと教え子のひとりは、

 「先生もたいへんやなあ」

 と独語めいて口にする。そうさ先生はたいへんなのさ。たとえリーフレット一枚でも無駄にしたりしたら三重県民と教え子たちに申し訳ないと思うから、バッグに詰め込んであっちこっち配ってまわっているのだよ。情報を伝えるというのはこういうことなのだ。暇だからぼーっと歩いているというわけではないのだよ。

 たしかに暇ではない。本を読む時間が足りなくて困っているくらいだ。げんに私の机のすぐ横には今年に入って購入したもののいまだに繙読できていない乱歩関連書籍が乱雑に積まれていて、こんな本が出ていると人から教えてもらったものも多いのだが、敬称略、順不同で著者名と書名を列挙すると、小鷹信光『私のハードボイルド』、睦月影郎『夢幻魔境の怪人』、三浦俊彦『のぞき学原論』、石上三登志『名探偵たちのユートピア』、それから文庫本が橘マリノ『笑う耕助、ほほえむ小五郎』、新書が山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』。そういえば去年購入した鈴木義昭『夢を吐く絵師・竹中英太郎』も未読である。乱歩関連の本ばかりつづくのもなんかばかみたいだ、と思わないでもないから乱歩に縁のない本を優先したりもするからなおいけない。いつになったら読めるのか。

 ちなみにいま読みつつあるのは横溝正史の『呪いの塔』で、去年の11月に出た徳間文庫だ。このあいだ何気なく立ち読みしてみたらありゃりゃッ、これって完全に乱歩小説じゃん、とか思ってあわてて買い込んだ。たぶん乱歩はこの作品に一度も言及していないはずで、ということは自身をモデルにしたことが明白なこの作品に、乱歩は不快をおぼえていたのかもしれない。まだ最初の殺人が起きたところまでしか読んでいないのだが、かりに乱歩の不興を招いたのだとしたらそれはどんな描写や設定なのか、みたいなことばかりが気にかかる。

 大為をあとにしてさらにぶらぶら歩いていると、自分のもっている「名張まちなかナビ」はどうすればいいのか、とひとりの生徒が訊いてくる。生徒には十部ずつ手渡したのだが、あと四枚残っているので、とのことだった。自分たちも配るべきなのだろうか、とでも思ったのか。

 「きれいに保存しといたら、そのうちヤフーオークションかなんかでええ値がつくかもわからんで」

 「えーッ。なんで?」

 「江戸川乱歩のことが出てくるから、乱歩ファンの人はこうゆうの欲しがるねん。まあマニアとかコレクターとかゆう人。せやから大事に残しといたほうがええと思う」

 「へーッ」

 しかしヤフーオークションで「名張まちなかナビ」が取り引きされる日がいつか来るのであろうか。そんなこと私にはさっぱりわからない。そうこうしているうちに本町の角まで来た。上本町の通りを歩いてみるという彼女たちと手を振って別れ、私は自動車を停めてあるジャスコ新名張店リバーナへ向かった。

 それが2月7日のことであった。翌8日にも私は名張まちなかを訪れた。本町の角の空き店舗で二日間だけ開かれていた作品展が、8日午後4時ごろから撤収に入ると聞いていたからだ。撤収前に覗いてみると、テーブルのうえに置いてもらってあった「名張まちなかナビ」はきれいになくなっていた。おれは空き店舗から蛭子神社に向かった。混雑のピークは過ぎていたが、行きかう人はみな柔和で、どこか幸福そうな表情をしていた。

 ここでお知らせです。東京に二か所、「名張まちなかナビ」を置いていただけるところを確保いたしました。

 ●立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター(東京都豊島区西池袋3-34-1 電話:03-3985-4641)

 ●弥生美術館(東京都文京区弥生2-4-3 電話:03-3812-0012)

 以上二か所です。現物の郵送は7日に手配いたしましたので、もう到着しているだろうと思われます。

  本日のアップデート

 ▼2006年11月

 百怪を眺めゆく 宇野亜喜良、喜国雅彦

 「彷書月刊」の昨年12月号に掲載されました。竹中英太郎の生誕百年を記念した特集「途をいずれに」の一篇。こうした特集が組まれていたことを私は知らなかったのですが、12月号をお送りくださった方がありましたのでひろうことができました。

喜国 横溝正史には映画の名作がたくさんあるのに、乱歩でよくできた映画というのはあまりない。つまり乱歩作品はイメージの小説なので、ストーリーだけ追ったら陳腐だったり安っぽくなったりしちゃうんです。その意味で竹中英太郎の挿絵は、絵による説明を目的としないで、乱歩のもつ空気感を中心に描いているから、かえって乱歩を表現しきれているのかもしれません。

宇野 たとえば『D坂の殺人事件』の障子の格子と黒白のしま模様が重なって、一人には黒服、もう一人には白い服に見えたなんてトリックは、文章のウィットなんですよね。文章ではなんとなく読めてしまうけど、人間は水平に直線的に移動するわけじゃないし、たとえば球体のなかに人間が収まってしまうとか、まったく言葉による幻想を絵にしなくてはいけない絵描きがわも大変。もっとも乱歩のほうも絵で再現してほしいとは思ってなかったのかもしれないし。