2006年9月下旬
21日 年譜編纂者の深遠なるもくろみ 六部さま
22日 年譜編纂者を喜ばせる点鬼簿の妙味 トリックか人間描写か
23日 年譜編纂者が夢見る見事な幕切れ わたしの豊島紀行
24日 年譜編纂者を悩ませる作業の泥沼化 わたしの豊島紀行
25日 どうするテオフィル わたしの豊島紀行
26日 離れて遠き満州事変 わたしの豊島紀行
27日 はやわかり旅順海戦館 わたしの豊島紀行
28日 まるみえ旅順海戦館 わたしの豊島紀行
29日 あなたも名張の散歩者に、みたいな 乱歩の魅力を演劇で紹介
30日 虚構の日付と地上の時間 亡父随想
 ■ 9月21日(木)
年譜編纂者の深遠なるもくろみ

 そんなこんなでほんとにね、ほんとにはかどらないの『江戸川乱歩年譜集成』の編纂が。泣きたくなるくらい進まないの。泣いてばかりもいられませんけど、時間を見つけて作業にかかってもすぐに寄り道してしまうこの惰弱さはなんとかならぬかと自分でも思う。

 ご紹介しておりますとおり現在ただいまは、『探偵小説四十年』に記されている事実を年表化する作業と、登場した人物の生歿を年表に落としてゆく作業、このふたつをメインに編纂を進めているわけなのですが、後者の作業にはもう少し重要な意味があるのではないかという気がしてきたところです。たとえば出羽ヶ嶽文治郎という人物が出てきたら、彼が生まれた年のページに何月何日、出羽ヶ嶽が生まれたと記し、乱歩とのかかわりを記し、何年何月に彼が死去したと記してゆく。それが後者の作業なわけなのですが、これはいわば目次づくりのようなものなのではないか。

 出羽ヶ嶽の場合はただ一度だけの遭遇であったけれど、これがたとえば横溝正史になると話は複雑です。青年期から乱歩が死去するまで(乱歩が書いた本陣評の裏話なんてのは乱歩の歿後に明かされてるわけですけど)濃厚な関係性で乱歩と結ばれており、『江戸川乱歩年譜集成』の随所にその名が登場してくるはずなのですが、それは時間の流れに沿った断片的な記述にならざるを得ないでしょう。ならば横溝の出生時、アウトライン程度のものにしても生涯にわたる乱歩とのかかわりをまず示しておくのがいいのではないか、と年譜編纂者は考えたわけです。

 横溝出生の時点で何年何月には乱歩とのあいだでこんなことがありましたと書いておけば、読者にはその何年何月のページを開いてよりくわしい記述に接することが可能である。だから目次なわけ。これは『江戸川乱歩年譜集成』のどこに横溝正史が出てくるのかを大雑把に知ることができる目次といっていいのではないか、と年譜編纂者は考えてるわけ。なかなか面白いもくろみじゃないの、とも考えてるわけ。で、面白いけどそれはまたずいぶんと面倒な、と頭を抱えてるわけ。

 頭を抱えて寄り道に走り、『江戸川乱歩年譜集成』にかろうじて関係がなくもないといった程度の本(たとえば現代日本文学大系第三十八巻『斎藤茂吉集』がそれですけど)をむさぼり読むことの快感といったらあなた、ほかにたとえるものなんかありゃしませんぜ。

  本日のアップデート

 ▼2006年8月

 六部さま 坂東眞砂子

 「オール讀物」の8月号に掲載されました。メールで教えてくださった方がありましたので、さっそく本屋さんに取り寄せてもらったバックナンバーが届きました。

 雑誌のたぐいもチェックして乱歩の名前を探さなければならんなとは理解しているのですが、雑誌なんてのはまたばかみたいにたくさんありますから、はっきりいってチェックなんてできる道理がないではないか、と開き直っております次第ですので、どちらさまもお気づきのことはお気軽にお知らせいただきますようお願い申しあげます。

 「六部さま」は短篇小説。六部というのは「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」のあの六部、つまりは諸国を巡礼した回国行者で、異人殺しの民間伝承で普通にばたばた殺される人のことなのですが、とりあえず冒頭の三段落だけ引いておきましょう。

 いらっしゃい。六部さまのご参拝ですか。

 はい、そうですとも。二十年近くも前に、この峠で行き倒れていたお遍路さんの死体ってのが、六部さまの発端ですよ。この村の人が、後の祟りが怖いってんでお祀りしたら、どんな病でも霊験あらたかとかっていわれだしたんです。一時は通夜堂は毎晩満員、門前には茶屋や土産物屋が軒を並べ、木賃宿もできるわ、見世物小屋も掛かったりして、大にぎわいだったんですけどね。

 それが、大東亜戦争が始まってから、戦勝祈願の永田村の八幡さまのほうに人気が出て、今ではこの通り、閑古鳥の鳴く始末で、木賃宿も土産物屋も店じまいして、まだやっているところは、うちくらいのもんです。それでも、休みの日なんかはけっこう人出があって、なんとか開けていられますけどね。

 やはり六部は死んでおります。すわ「死国」の著者お得意の土俗ホラーの開幕か、とお思いの方も多いことでしょうが、作品はこのあと回想に入り、舞台は語り手が娘時代に勤めていた東京のカフェ・ノートルダムに移動します。

 なじみ客のひとりとして森下という男が登場するのですが、これが「目も眉も口も、鼻から遠くに飛びだしていきたがっているような剽軽な顔」をしていて、職業は編集者。森下の連れの男というのもいて、名前は淡中、言葉には西国なまりがあり、どうやら探偵作家志望者のようです。

 おはなしは土俗ホラーではなくて魔都を舞台の人情噺みたいな展開をたどることになるのですが、カフェ・ノートルダムにはわれわれにとても親しいある人物もちらっと顔を見せます。興味を惹かれた方は「オール讀物」8月号をどうぞ、と申しあげたいところなれど、立ち読みしようにも世間にはそろそろ10月号がならぼうかというころおい。図書館でバックナンバーを手に取るか、単行本に入るのを待つか。適当にご判断ください。


 ■ 9月22日(金)
年譜編纂者を喜ばせる点鬼簿の妙味

 読者諸兄姉にもそんなおぼえがおありでしょうけど、当面こなさなければならない作業から逃れるようにして本を読むことには得もいえぬ快感があり、なんかもうやみつきになってしまいます。むろん私の場合には『江戸川乱歩年譜集成』に関係がある、ないしはかろうじて関係がなくもない、といった限定を設けてはいるわけですけれど、それにしたって読むべき本はたくさんあります。

 たとえば『探偵小説四十年』の最初のほうに倒叙ミステリの例としてあげられている「クロイドン発12時30分」。読んだことがありませんのでこれは眼を通しておかなければと思っておりましたところ、少し前に悪の結社畸人郷の先達からもうじき新訳が出るとお知らせいただき、なら好都合だと心待ちにしていたのが加賀山卓朗さんの訳によるハヤカワ・ミステリ文庫『クロイドン発12時30分』。先日地元の本屋さんにならんでおりましたのを購入いたしました。

 これは『江戸川乱歩年譜集成』の編纂に必要な作業なのであるとみずからにいいきかせ、一気読みはせず時間があいたとき基本的に一章ずつ、ぽつりぽつりと読みはじめてみたのですが、まず驚いたのはてっきり鉄道の話だろうと思っていたら飛行機かよ。アリバイ崩しじゃねえのかよ。しかしなんだかかったるいな。まあ倒叙ミステリなんだから出だしはこんなものか。ところが主人公が殺人を決意してその準備を進めるあたりから俄然面白くなってきて、きのうなんかとうとうフレンチ警部が主人公を訪ねてきましてさあ大変。このあと一気読みに走ってしまいそうな予感がして私は怖い。

 そうかと思うとカラマーゾフ。これもいい機会だから再読してみたいなと念じてはいたのですが、あの新潮文庫の細かい活字がなんだかな、と鬱々としておりましたところ渡りに船、光文社から古典新訳文庫なるものが創刊され、新聞広告によれば第一回配本にカラマーゾフの名があるではありませんか。そこで地元の本屋さんで探してみましたところ、光文社文庫がならんでいるところにはまるで見あたりません。田舎の本屋には置いてないのか、とか思いながらお店のお姉さんに尋ねてみましたところ、光文社古典新訳文庫は講談社文芸文庫や岩波文庫なんかがならんだあたりに平積みされておりました。普通の光文社文庫よりちょっと格上、みたいな扱いでしょうか。そこで亀山郁夫さんの訳による『カラマーゾフの兄弟1』、嬉々としてあがなってまいった次第ではあるのですが、訳文も活字のぐあいもかなりよさげなこの文庫本、実際にひもとくのはいつのことになるのでしょうか。

 いかんいかん。私は本ばかり読んではいられないのだ。『江戸川乱歩年譜集成』の話題に戻りますと、『探偵小説四十年』に登場した人物の生歿をすべて年譜に落としてゆくという構想は、やはりなかなか見るべきところのあるものだと思えてきました。生歿の生のほうについてはきのう記したようなことなのですが、歿のほうだって結構面白い。歿ったって要するに何年何月何日に誰が何歳で死んだのか、その事実だけを点鬼簿のごとく無感情に録してゆくだけのことなのですが、それが意想外な興趣をおぼえさせるものだということを私は小谷野敦さんの『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』に確認いたしました。

 『谷崎潤一郎伝』には谷崎歿後の動向も記されており、最後のほうは谷崎と関係のあった人物の死去の記録が主体となります。たとえばこんなあんばい。

一九六六年一月二十二日、川田順死去、満八十四歳。

同    六月七日、安倍能成死去、満八十二歳。

一九六七年二月七日、津島寿一死去、満七十九歳。

同    五月十一日、轟夕起子死去、満四十九歳。

 死去の事実が列記されただけであるにもかかわらず、人間の生というもののなまなましい重みがひしひしと伝わってくるように感じてしまうのは私だけ? とにかく私は自分が『江戸川乱歩年譜集成』で試みようと考えていたことの先行事例をここに発見し、わが意を得たといいますか意を強くしたといいますか、そんなような気がしたことを打ち明けておきたく思います。

 ちなみに『江戸川乱歩年譜集成』の1966年と1967年は、現段階ではこんな感じになっております。

 まず1966年。

08月11日 大下宇陀児、六十九歳で死去。
12月01日 佐佐木茂索、七十二歳で死去。

 よく見てみたら現時点では1967年の物故者はゼロですので、1968年をごらんいただきましょう。

06月04日 保篠龍緒、七十五歳で死去。
11月12日 浅岡信夫、六十八歳で死去。
11月21日 石浜金作、六十九歳で死去。
12月19日 白石潔、六十二歳で死去。
12月26日 川上三太郎、七十七歳で死去。

 相当よさげじゃ、と私は思う。浅岡信夫って誰だっけ、とも思うけど。

  本日のフラグメント

 ▼2006年3月

 トリックか人間描写か 渡辺淳一

 「オール讀物」の連投としゃれこみます。「六部さま」の載った8月号のついでに今年の3月号も本屋さんに頼んでおきましたところ、やはり在庫があってじきに届きました。

 3月号は第百三十四回直木賞が発表された号で、受賞者はいうまでもなく東野圭吾さん。選考委員会では「容疑者Xの献身」をめぐってかつての乱歩と木々高太郎による論争もひきあいに出された、みたいな新聞記事を思い出しましたので、もしかしたら選評にも乱歩の名前が出ているかと踏んで注文してみたのでしたが、残念ながらあてとふんどしは向こうからはずれました。

 とはいえ、『江戸川乱歩年譜集成』にいわゆる探偵小説論争のことを記述するに際して、2006年にいたっても直木賞の選評にはまーだこんなことが書かれてやんの、みたいなことを指摘する必要が生じてくるかもしれませんゆえ、乱歩の名の見えぬフラグメント、あえて録しておきましょう。

 受賞作の「容疑者Xの献身」について、わたしは不満である。理由は、この作品を推理の巧みさの面からみるか、人間描写の確かさを求めるかによって、評価が分かれるからである。いわゆる謎解きの、推理小説の面白さという点からいえば、本作品は過去の作者の作品とくらべて、より綿密に、かつ精巧に組み立てられている。

 しかし問題は人物造形で、最後の謎解きにいたるにつれて、主人公の石神がいかにもつくりものじみて、リアリティーに欠ける。作者はその点を危惧してか、主人公の特異な性格や職業上の問題、靖子という女性への異常な思慕など、さまざまな角度から詳しく描いているが、それらをもってしても、この主人公の小説的リアリティーは獲得されていない。

 以前、とくに一九七〇年代ころから、推理小説の文学性について否定的な意見が強く、直木賞の候補として挙げられることもきわめて少なかった。その理由は、推理小説が謎解きに主眼をおきすぎ、その結果、人物造形が手薄になり、人間を描き、その本質に迫る姿勢が弱かったからである。事実、そのために、これまでかなり高名で売れっ子の作家が、賞の対象にならずに見送られてきた。

 むろんこれらのなかには、直木賞を受賞して当然と思われる作家もいたし、その基準が常に安定して守られてきたとも思えない。しかし今回の作品に関するかぎり、人間を描くという姿勢はいささか安易で、もの足りない。にもかかわらず本作品が受賞したことは、かつての推理小説ブームなどを経て、近年、推理小説の直木賞へのバリアが低くなりつつあることの、一つの証左といえなくもない。

 おちょくりたくなるところは数々あれど、武士の情けでスルーしてやるか。しかしバリアってのは低くなるものであろうか。低くなるのはハードルだろうが。うーむ。『江戸川乱歩年譜集成』にこんなあほみたいな文章引用してどうするの、という気がしてきた。猛烈にしてきた。


 ■ 9月23日(土)
年譜編纂者が夢見る見事な幕切れ

 きのうのつづきをもう少しつづけますと、小谷野敦さんの『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』の結びはじつに見事なものでした。天が味方したとしか思えぬほどの見事さです。単に関係者の死去の記録が連ねられているだけなのですが、1997年には嶋中鵬二と嶋川信子、1999年には雨宮庸蔵、2004年には水上勉と白川静、といったぐあいに死者の名前が列記され、最後はこんな一行。

 二〇〇五年四月二十日、丹羽文雄死去、満百歳。

 見事というしかないではないか、と私は思います。満百歳というのが見事である。谷崎の生涯を追い関係者の死去を録して最後が「満百歳」。長く介護を受ける身となりながらもよくぞ生きておったな丹羽文雄、でかした。なんてこといってるとずいぶん不謹慎な感じがいたしますけれど、谷崎のものであれその関係者のものであれ、あるいは読者それぞれのものであっても、これは愚かしさにあふれ場合によっては介護を受けて長らえるなどという不本意を余儀なくされることも少なくない人間の生というものを、しかしそれでもなお副題にある「堂々たる人生」としておおらかに肯定し、人生なるものの本来的な豊かさに思いいたらせる見事な幕切れであろうと私には思われます。

 見事という言葉をもう五回もつかってしまいましたけど、それほど私は感心しました。そして『江戸川乱歩年譜集成』の結びはいったいどのようなものになるのであろうかと、まだまだずーっとずーっとずーっと先のことにぼんやりと遠い思いを馳せ、しかしあの主人公のやつは執事まで殺しちまったのかよ、といよいよ佳境を迎えたハヤカワ・ミステリ文庫『クロイドン発12時30分』の展開もしきりと気にかかる。いろんなことを気にかけながらきょうも一日、愚かしさに充ち満ちた人生をなんとかふらふら生きてゆきたいなと念じている次第なのですが、本日は朝から亡父の墓参をはじめとした雑務がたてこんでおりますのでこのへんで。

  本日のアップデート

 ▼1995年1月

 わたしの豊島紀行 平井隆太郎

 東京都豊島区の「広報としま」に連載されました。豊島区にゆかりのある人が入れ替わり立ち替わり執筆を担当していたらしい「わたしの豊島紀行」。平井隆太郎先生はその百二十四回から百二十九回まで六回にわたって筆を執られました。

 本来であれば刊本『乱歩文献データブック』に記載されているべき文献なのですが、例によって例のごとく見落としておりましたところ先日ご親切に連載のコピーをお送りくださった方があり、ここにようやく増補を果たすことを得ました。

 本日はその第一回。冒頭をどうぞ。

 私共一家が現在の立教大学前に転居して来たのは昭和九年七月のことである。閑静で空気がきれいというのを父が気に入ったのであった。東京で一番空気の澄んだ土地という当時の新聞の調査結果の切り抜きが書斎に置いてあったのを覚えている。

 その前は泉岳寺近くの芝区車町八番地に一年ほど住んでいた。現在も史跡が残っている大木戸に面した横町の家であった。しかし第一京浜国道が目と鼻の場所だったので父は騒音を嫌って僅か一年足らずで引き払った。新青年に掲載予定の【悪霊】の筆が進まず父は苦吟の最中だったから一層不快だったのであろう。当時の父は国道に面した二階を寝室にしていたので騒音が直撃したのである。

 ほかにも、車町の町内には囲碁の名人や気合術の先生が住んでいて、この先生というのが朝から凄まじい掛け声を響かせたり近所のおかみさん連中を裸で追っかけまわしたり(いったいどんな先生か)、といったような乱歩が記していなかったディテールを知ることができてじつにありがたい連載。あすにつづきます。


 ■ 9月24日(日)
年譜編纂者を悩ませる作業の泥沼化

 『探偵小説四十年』を読んで出羽ヶ嶽という力士のファンになった、すっかりとりこになっちゃった、とおっしゃる方に耳寄りなお知らせです。きのうすべての雑務を終えて本屋さんにふらふら立ち寄りましたところ、平凡社新書の新刊で『昭和大相撲騒動記』というのが出ておりました。著者は大山眞人さん、発行は9月11日、本体七百四十円。版元オフィシャルサイトの紹介ページはこちらです。

 副題は「天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和7年」。われらが出羽ヶ嶽もちゃんと名前を連ねております。昭和7年に相撲界で何があったのかといいますと、角界の改革を求めて天龍を中心とした幕内力士が大日本相撲協会を脱退、新興団体を旗揚げするという大事件でした。協会が存続の危機に直面した大騒ぎだったらしいのですが、『昭和大相撲騒動記』にはその顛末がくわしく記されているようです(買ってきたばかりでまだひもといておりません)。

 『探偵小説四十年』には天龍の名前も出てきて、それゆえ昭和7年の春秋園事件(私が調べたかぎりでは天龍事件と称されておりましたが)について私にはわずかながらも知識があったのですが、こちらが必要としている資料はかくのごとくときに向こうから飛びこんできてくれるものなのであって、近い例ではやはり新書であれは新潮新書であったか、永嶺重敏さんの『怪盗ジゴマと活動写真の時代』というのがありましたけれど、新書の新刊もやはりこまめにチェックしておいたほうがいいだろうなと認識された次第です。

 しかしよく考えてみますと、乱歩は天龍にばったり顔を合わせてすらおりません。昭和6年5月、読売新聞の附録にサイン浴衣なるものの漫画が掲載されました。お姉さんふたりが各界ナンバーワンのサインで埋めつくされた浴衣を着ている図、みたいなやつです。そこに列挙されたナンバーワンが乱歩であり天龍であり、角界ではもうひとりやはり春秋園事件で天龍と行動をともにした武蔵山でありといったわけで、天龍にしろ武蔵山にしろ乱歩との関係はきわめて稀薄、ていうかほとんど無関係としかいいようがありません。

 そんなものまでいちいち調べにゃならんのかと思わないでもないのですが、『探偵小説四十年』に出てきた人名はひととおり調べつくすことにしておりますので、えー願いましては天龍は明治36年11月1日生まれで静岡県出身の本名和久田三郎なり、といったあたりのデータは是が非でも必要なのですが、しかし『昭和大相撲騒動記』に記されているであろう情報までは『江戸川乱歩年譜集成』には必要ないのである。ないのであるが面白そうだから読んでみるのである。これもまた寄り道なり。寄り道ばかりなり。寄り道が面白くって困るなり。

 だがしかし、とじつは私は考えておりました。出羽ヶ嶽の調べを済ませてそれ以降に登場する人名のチェックを進めていたときのことです。あんまり愛想がないのもいかがなものであろうか、と。で、方針に変更を加えてみました。いったいどういうことなのか、実例をごらんいただきましょう。

 まず、先日も引いた出羽ヶ嶽。明治35年12月の年譜です。

20日 出羽ヶ嶽文治郎、山形県に生まれる。本姓は佐藤、のち斎藤に改姓。力士。昭和三、四年ごろ、名古屋にあった大須ホテルの洗面所で乱歩と顔を合わせたという。昭和二十五年六月死去。

 つづきまして天龍。明治36年11月です。

01日 天龍三郎、静岡県に生まれる。本姓、和久田。力士。昭和五年関脇に進み、昭和六年五月「読売新聞」附録の漫画で各界ナンバーワンのひとりとして乱歩らとともに名を挙げられた。七年に角界の改革を要求して大日本相撲協会と対立、同志七十人と新たな力士組織を結成し、天龍事件と呼ばれたが、十二年に解散して引退。平成元年八月死去。

 要するに色をつけたわけです。単に生歿となりわいおよび乱歩とのかかわりを示すだけでなく、それはもう出羽ヶ嶽にだって天龍にだってそれぞれの人生というやつがあったわけですから、あまりあだやおろそかな真似もできんのではないか。こういうことを考えてしまうところに私の人間性というやつがにじみ出ているのでしょうけれど、とにかくそのように考えて、私は方針に変更を加えてみたのであった。

 ですからサイン浴衣の登場人物でいいますと、たとえば「早大小川投手」はもちろん小川正太郎というフルネームを示し、昭和二年春の選抜で和歌山中学を優勝に導いた速球派サウスポー、みたいな乱歩とはまったく関係のないエピソードもとりあえず書きつけておいた次第なのですが、この調子では大山眞人さんの『昭和大相撲騒動記』に眼を通したあと上掲の天龍にかんする記述がさらに長くなってしまうのではないかとひそかに懸念されてなりません。

 『江戸川乱歩年譜集成』の編纂作業がますます泥沼化しているな、ということがひしひしと実感される昨今なわけなのですが、いったいどうなってしまうのでしょうか。

  本日のアップデート

 ▼1995年2月

 わたしの豊島紀行 平井隆太郎

 きのうのつづきです。きょうは第二回。

 大正11年3月から6月まで、乱歩一家は池袋に住まいしました。友人が池袋ではじめた庄司商工というポマード製造会社に支配人として招かれたため、乱歩は工人倶楽部の機関誌「工人」の編集に携わりながら、早稲田鶴巻町から池袋に転居してそのポマード会社に勤務したといいます。

 しかし、ポマード会社は間もなくつぶれてしまった。しばらくは母の電話局勤めでつないだが幼児を抱えては長続きせず、結局一家は十一年七月から守口市の祖父宅に転がり込む破目になった。ここで父は〔二銭銅貨〕〔心理試験〕〔D坂〕など初期の短編のいくつかを書き上げている。江戸川乱歩の筆名はこの頃から使っていた。父の回想では大正十一年からの守口時代が作家として最も充実した時期だったという。

 夫人に電話局勤めをさせたことがある、とは乱歩はどこにも記していなかったように記憶します。東京で食いつめて守口にあった父親の家に転がりこんだというエピソードに、あるいは「二銭銅貨」の執筆が文字どおりの背水の陣であったという事実に、これはもういっそうのリアリティを添えずにおかない些細だけれど貴重な証言であると思われます。


 ■ 9月25日(月)
どうするテオフィル

 乱歩とはほとんど接点がなかった人物の記述にもそれなりの色をつけるとなると、結局とめどというものがなくなってしまいます。例をあげるとゴーチエあたりか。テオフィル・ゴーチエの名は『探偵小説四十年』では昭和5年にただ一度出てくるだけで、平凡社から世界猟奇全集の第三巻として乱歩訳の『女怪』が出たけれど、あれは代訳で誰が訳したのかもわしゃ知らん、といったことが「代作二冊」の章に記されております。

 このゴーチエ作品は「モーパン嬢」、原題は「Mademoiselle de Maupin」、いかにも猟奇っぽく「女怪」とアレンジした題をつけられたわけですけれど、手許の文学辞典のたぐいをひもとけば「モーパン嬢」にかんして七月革命がどうのブルジョア批判がこうのとややこしい説明を見ることができます。しかし乱歩はそんなことにはまったく頓着いたしません。

 ──誰が訳したのかも全く知らず、訳文さえも読んでいないという、まことに申訳ない仕儀であったが、「モウパン嬢」そのものは英訳で読んでいた。

 と正直に打ち明けて、

 ──日本の古い物語には、女と思って恋していたのが実は女装の男であったとか、男と思っていたのが男装の女であったとかいう「とりかえばや物語」風の着想がたくさんあり、下っては元禄歌舞伎などにもこの趣向が夥しく入っているが、「モウパン嬢」がやはりそれで、私はこういう話にひどく興味を持つ性格なので、その点だけからでも、この小説は面白かった。

 と述べています。

 余談ながら、私には乱歩のこうした率直さがじつに好ましい。乱歩がいつまでも新しいのはこうした姿勢にも理由があるのではないかとさえ思います。革命がどうのブルジョアがこうのなんてことにはまったく頓着せず(フランスの話ですから頓着するだけの知識がなかったということもあるのかもしれませんが)、作品にじかに向き合ってその勘どころを的確につかみとり、自分はこういう面白がり方をする人間であると表明して「モーパン嬢」をマイフェイバリットの系譜に位置づけている。こういった作品との接し方というのは当節ではむしろあたりまえのことなのかもしれず、だからこそ乱歩はわれらが先達なのだということになりもするのでしょうけれど、とにかく私には乱歩の揺るぎなさを支えているのはこうした少年のようなまっすぐさであると思われてなりません。

 さてゴーチエの話題ですが、手許の文学辞典のたぐいだけでなくインターネットを利用すれば、ゴーチエにかんしてかなりの情報が得られるはずです。はずです、というのはほかでもない、掲示板「人外境だより」でこのところとくに力説しているとおり私は欧文にてんで弱くて話になりません。ゴーチエのことを記したフランス語のサイトなんてまったく意味が不明である。

 たとえばネット版百科事典 Wikipedia のフランス語版に見えるゴーチエは次のとおり。

 自慢ではないが何もわからぬ。それでもまあ、あれこれ参照し色をつけてゴーチエのことをどう書いてみたのかといいますと、文化8年、西暦でいえば1811年の8月にこんな感じで。

30日 テオフィル・ゴーチエ、フランスに生まれる。詩人、小説家。ロマン主義文学の影響を受け、一八三〇年(文政一三)二月にパリのフランス座でユゴー作品の上演をめぐって古典派とロマン派が客席で乱闘を演じた「エルナニの戦い」では、派手な衣装に身を包んだロマン派の闘士として指揮に立ち勝利に貢献した。二年後の短篇集『青年フランス党』では一転してロマン派詩人を諧謔的に評し、三五年(天保六)の長篇『モーパン嬢』では男性の本質を知るために男装して遍歴の旅をつづける若い女性を描いた。その序文では「芸術のための芸術」というみずからの文学的目標が明確に宣言されている。この作品はバルザックの賞讃を得たが、三六年からは生活のために絵画や演劇などの批評記者として身を立てることを余儀なくされた。最高傑作とされる小説『キャプテン・フラカス』は構想から二十七年後の六二年(文久二)に出版され、フランス各地を舞台とした剣と侠気の物語は非常な成功を収めた。詩集では『七宝螺鈿集』(一八五二)が名高く、ボードレールは詩集『悪の華』初版(五七)に「十全無瑕の詩人にして完璧なるフランス文学の魔術師テオフィル・ゴーチエ氏に」と書いて献呈したという。長篇『ミイラ物語』(五七)をはじめとして『コーヒー沸かし』(三一)、『死霊の恋』(三六)、『ポンペイ夜話』(五二)などの怪異譚も多く残しており、怯えながらも異界に惹き寄せられる作風はP・G・カステックスによって「感覚の世界に引き籠るのは、自らのあの世への郷愁と煩悶にうち勝とうとするからだ」と分析された。五十代なかばで執筆した『スピリット』(六六)は死んでしまった若い女性との霊的交感を主題とし、M・シュネデールに「フランスの文学史上もっとも鮮明でもっともよく観察された心霊論の物語」と賞された。バレエの台本も手がけ、四一年(天保一二)六月に初演された『ジゼル』はロマン派時代の代表作としていまも人気を集める。一八七二年(明治五)十月死去。昭和五年(一九二七)十二月、平凡社「世界猟奇全集」の第三巻『女怪』として『モーパン嬢』が翻訳刊行された。訳者は乱歩とされているが、代訳。

 生年月日は Wikipedia フランス語版には1811年8月31日とありますものの30日としている海外サイトもあり(いくら欧文に弱い私だとて生年月日のあたりくらいはつけられます)、とりあえず田辺貞之助の説くところに依拠して30日といたしました。これはむろんただの下書きで、結構遊んでるところやたぶん不正確なところもあるわけなのですが、それにしても長すぎます。『探偵小説四十年』にただ一度登場するだけの海外作家にこれだけの筆を費やしていてはいかんだろう。しかし、しかしなあ、せっかくこうやって書いたのだし、ゴーチエにはなんとか色をつけてやりたい気もするしなあ。

  本日のアップデート

 ▼1995年3月

 わたしの豊島紀行 平井隆太郎

 連載も第三回。

 当時の我が家のトイレは汲み取り式で、市の清掃車の厄介になっていた。少し以前までは練馬の農家が定期的に汲み取ってくれたそうである。トイレまわりには定石通りヤツデやヒイラギの植え込みがあった。トイレが簡易水洗になったのは戦後も昭和三十年代に入ってからであった。ようやく下水が通ったからである。

 乱歩が住んでいた家の便所はいつ汲み取り式から水洗式に移行したのか、みたいなことはまでは『江戸川乱歩年譜集成』に記載する必要はあるまいと思われます。が、昭和34年に発表された「自宅増築記」には「今から三年ほど前」に貯金をすべてはたいて行った増築の模様がこまかく記録されていて、「水洗便所を全部で四つも作った」とも述べられていますから、やはり便所の問題にもふれなければならぬのでしょうか。なんだか悩ましい話である。どうしてよその家の便所のことで悩まなければならんのか。


 ■ 9月26日(火)
離れて遠き満州事変

 とめどがなくなるということでいいますと、社会背景というか時代相というか、そういった情報も『江戸川乱歩年譜集成』に盛りこみはじめると際限がなくなってくる感じです。乱歩自身は時事的な問題はほとんど書きとめておらず、たとえば二・二六事件のことも『貼雑年譜』から、

 ──この年二月、二・二六事件起り、自由主義、個人主義没落の前兆既に歴然たり。唯美主義の如きは消えてなくなるべき時代がはじまった。

 といったあたりを引用しているばかりで、自伝執筆に際して事件のことをあらためて筆にすることはしておりません。

 とはいうもののたとえば大正15年には、

 ──【十二月】(二十五日、大正天皇崩御、「昭和」と改元)

 昭和6年には、

 ──【九月】(満洲事変勃発)

 といった程度のことは記録されておりますから、『江戸川乱歩年譜集成』においても改元や満州事変にふれないわけにはまいりません。ならばどこまで? と私は悩むわけです。たとえば満州事変。単に満州事変勃発としておくだけでいいのであろうか。むろん『江戸川乱歩年譜集成』は、

 ──満州事変って何? 東京事変みたいなもん?

 とおっしゃるようなみなさんを読者として想定しておるわけではないのであるが、それにしたってもう少し丁寧な説明が望ましいのではないか。かといって昭和6年9月18日に柳条湖事件、7年3月に満州国建国、8年5月に塘沽停戦協定、なれど12年7月に蘆溝橋事件、みたいな歴史的事実をそのまま年譜に落としてみたところでただ煩雑になるばかり、だいいちそんなことでは満州事変の概要を説いたことにはならぬであろう。事変にいたる背景への目配りも要請されることであろうし。となると、昭和6年9月のあたりに満州事変のことをある程度まとめて記しておくのがいいのかな。いやもうやっぱり、

 ──満州事変勃発。

 としておくだけでいいのか。かなり悩ましい問題である。ああ悩ましい。

  本日のアップデート

 ▼1995年4月

 わたしの豊島紀行 平井隆太郎

 連載第四回。

 乱歩は二・二六事件のことをほとんど書き残しておりませんでしたけれど、平井隆太郎先生は旧制中学時代の思い出としてかくのごとく回想していらっしゃいます。

 昭和十一年二月二十六日は前夜来の大雪が積って白一色であった。駕籠町(今の千石)の府立五中(今の小石川高校)に通っていた私は何時ものように立大前の自宅を出て立教通りを池袋駅へ急いでいた。雪はもう止んでいた。

 池内鉄工所(今の白雲閣のあたりにあった鉄の圧延工場)の前に差し掛かると制服姿の消防団(臨時の自警団?)の数人がたむろしていて、今日は休みだ家に引き返せ、との命令である。この人達が妙に浮きうきと嬉しそうに張切っていたのが印象的だった。国電も止まっているというので止むを得ず(実は内心ほくほくもので)家に戻った。近衛の反乱事件はそれからラジオで知ったのであった。

 号外も何部か配達されたが、反乱軍から出たものもあり、情報は混乱していた。どの号外にも一致して出ていたのは皇居の方角に畳を立てかけて流れ弾を防げという警告であったが、弾など飛んではこなかった。どこの家庭でもラジオが必需品という時代が始まったのである。結局反乱軍の降伏まで学校は休校であった。

 日中戦争(当時は日支事変と称した)の勃発は翌十二年である。この頃から国家総動員態勢が喧伝され、父の本業であった探偵小説は国策遂行に有害無益と見なされるようになった。

 [支那事変勃発スルニ及ビ私ノ仕事ハ一入窮屈ニナッタ、最早遊戯文学ノ時代デハナイノデアル]と父は同年の日記に書いている。


 ■ 9月27日(水)
はやわかり旅順海戦館

 満州事変のあとは日露戦争の話題です。日露戦争といえば司令長官東郷平八郎ひきいる連合艦隊の旅順港夜襲、そして第二回旅順港閉塞作戦において沈みゆく閉塞船福井丸で行方不明の部下を探しつづけた軍神広瀬武夫中佐を懐かしく思い出す、とおっしゃる方もおいででしょうが(私はコカコーラのテレビコマーシャルで「杉野はいずこ」と絶叫していた加山雄三さんを思い出すのですが)、乱歩ファンなら旅順と聞いて連想するのはいうまでもなく旅順海戦館。

 旅順海戦館は『探偵小説四十年』に稲垣足穂がらみで「明治の末期、名古屋市に開かれた博覧会の余興の一つ」と出てきて、大正15年の随筆「旅順海戦館」には「明治四十何年だったか、名古屋に博覧会が開かれた時、その余興の一つとして興行された」とも記されているのですが、ごらんのとおりずいぶんと曖昧。『江戸川乱歩年譜集成』編纂のためにはいずれこの博覧会の会期も特定しなければな、と思っておりましたところ早くも特定できてしまいました。すごい楽でした。

 なぜ楽であったのかというと調査作業を人に丸投げしてしまったからで、愛知県在住の方にメールをお送りするついでがありましたので、あの博覧会のことは簡単に調べがつきそうか否か、みたいなことをお訊きしてみたところ、旬日を経ずして返信があり、そこには微細にわたる調査結果の報告が記されておりました。だからすんごい楽でした。なんか面倒だから『江戸川乱歩年譜集成』の編纂をすべて丸投げしてしまってもいいのだが、とつくづく納得されもした次第ですので、丸投げを受けてやろうとおっしゃる方はお気軽にお申し出ください。

 では、頂戴したメールにもとづいて丸写し孫引きによる旅順海戦館あれこれ。

 最初に愛知県図書館オフィシャルサイトのこのページをどうぞ。

 愛知県で開催された博物館の歴史をたどるページなのですが、この「愛知の博覧会」によれば明治40年代に催された博覧会はただひとつ。引いておきましょう。

○「第十回関西府県連合共進会」
会期:明治43年(1910)3月16日〜同年6月13日
場所:名古屋市鶴舞公園
主催:愛知県
内容:「関西府県連合共進会」は明治16年(1884)に大阪府で開催されて以来、関西各県が持ち回りで数年ごとに開催されていましたが、その第10回目が愛知県で行われました。3府28県が参加、約13万点が出品、入場者数は約260万人にもなり、これまでの関西府県連合共進会と比べて最も大規模なものとなりました。

 会場の鶴舞公園というのは乱歩ファンにとって印象深い名前で、名古屋駅前でタクシーを拾って「鶴舞公園の慰問橋を渡って二つ目の角を左へ」と命じると小酒井不木の家に到着した、と乱歩が回想しているあの公園なのですが、名古屋市オフィシャルサイトにある「歩いてみませんか昭和区」の「vol.4 鶴舞公園」にはこんなふうに記されています。

鶴舞公園(つるまこうえん)
明治6年(1873)の太政官布告により公園制度ができ、名古屋にも“大公園を”との市民の強い希望がありましたが、なかなか実現はしませんでした。ところが、明治38年(1905)から精進川(現在の新堀川)の改修工事による土砂が余ること、また、明治43年(1910)に誘致が決まっていた第10回関西府県連合共進会の会場が必要だったことから、公園として、かつ共進会会場として、田園地帯であった旧御器所村のこの地が選ばれました。名古屋市設置の第1号の公園は、明治42年(1909)に名称が“鶴舞(つるま)公園”と定められ、翌年には、共進会が盛大に行われています。

 このページには「第10回関西府県連合共進会」について「九州・北海道・東北を除く3府28県が参加し、各種パビリオンが立ち並んでいました。当時の名古屋の人口が約41万人に対して、観客数は約260万人だったことからも、その規模の大きさがうかがえます」とも記されているのですが、成功裡に終わったらしいこのイベントにほんとに旅順海戦館なるパビリオンがあったのかどうか。

 調査の手は国立国会図書館に伸びました(むろん私の手ではなかったのですが)。

 近代デジタルライブラリーで公開されている資料を検索してみると、明治43年10月10日に大阪市役所が発行した『第拾回関西府県聯合共進会調査報告』なんていうのがひっかかってきます。「第一、第十回関西府県聯合共進会」の「(一)規則」に定められた「第一章 総則」から「第一条」を引いてみましょう(デジタルデータはこちらです)。

第一条 本会ハ三府(東京、京都、大阪)二十八県(神奈川、兵庫、新潟、埼玉、群馬、茨城、栃木、奈良〔、〕三重、静岡、山梨、滋賀、岐阜、長野、福井、石川、富山、鳥取、島根、岡山、広島、山口、和歌山、徳島、香川、愛媛、高知、愛知)聯合シ明治四十三年三月十六日ヨリ六月十三日迄愛知県名古屋市ニ開設ス

 ほかにもいろいろと知ることができるのですが、とりあえず旅順海戦館はどうよ? と見てみると、まず「(三)敷地及建坪数」にデータがあって「其他重大ナル建物」の「十四、旅順海戦館」は建坪数が五百五十坪であったといいます(デジタルデータはこちらです)。さらに「(十)余興場ノ種類及観覧者数」によれば旅順海戦館は不思議館、観戦鉄道、曲馬、天女館などのパビリオンを大きく引き離して三十六万千四百九十人という最多の入場者を集めているのですが(デジタルデータはこちらです)、「殊ニ余興場中旅順海戦館ノ如キハ建築費設備費等ニ多額ノ資金ヲ要シタルカ為メニ前項ニ示スカ如ク入場者数モ余興場中第一位ヲ占ムルニモ拘ラズ損失ヲ招キシ結果ニ帰セリト」とも報告されています。

 つづきまして明治44年3月15日に第十回関西府県聯合共進会事務所が発行した『第十回関西府県聯合共進会事務報告書』。第十一章「構内ノ設備」に第十一節「興行物」があり、そこには旅順海戦館のことがこんなぐあいに記されております(デジタルデータはこちらです)。

其二 旅順海戦館
安東敏之、橋本善継等ノ組織セル名古屋開府三百年紀念祭余興街経営会ノ施設ニシテ天女館ト共ニ左記条件ニヨリ名古屋開府三百年紀念会ヨリ金壱萬五千圓ノ補助ヲ受ケ之ヲ経営セリ

一 施設事項ハ渾テ最新米国式余興街説明書及図面ノ通リ履行シ共進会開会中興行スヘシ

二 施設事項進捗状況ハ時々之ヲ報告スヘシ

三 本会ノ指示シタル観覧者ニ対シテハ無料観覧セシムヘシ

四 施設事項ニ関シ必要ト認メタルトキハ指揮スルコトアルヘシ此場合ニ於テハ之ヲ遵守スルノ義務アルモノトス

五 臨時ニ会計帳簿ノ検査ヲ為スコトアルヘシ此場合ニ於テハ之ヲ拒ムコトヲ得ス

六 補助金ハ明治四十三年五月二十五日之レヲ交付ス

七 閉会后ーケ月以内ニ収支ノ決算及開会中ノ状況ヲ報告スヘシ但シ決算ノ結果剰余金アルトキハ本会の指揮を受クヘシ

八 前各項ニ違背シ又ハ半途施設事項ヲ休廃シタルトキハ補助金ノ全部若クハ其幾分ヲ返納セシムルコトアルヘシ


旅順海戦館ハ主トシテ米国式化学応用電気作用ニ係リ明治三十七八年戦役ニ於ケル旅順港口ノ海戦状態ヲ現ハシタル活動的パノラマニシテ海事思想養成上ニ資スル処少ナカラズ宜ナル哉開会中 皇太子殿下ヲ始メ韓国皇太子並各宮殿下ノ台覧ヲ得タルハ同館ノ最モ幸栄トスル所ナリ

 乱歩は『探偵小説四十年』に「ジオラマといったか、キネオラマといったか、謂わばパノラマの親類筋のような仕掛け」とじつに適当なことを書いているのですが(それにしても「親類筋」ってのはどうよ)、旅順海戦館は「米国式化学応用電気作用」による「活動的パノラマ」と見るべきもののようです。

 あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼1995年5月

 わたしの豊島紀行 平井隆太郎

 連載第五回は太平洋戦争中のことが主題となります。

 平井隆太郎先生は昭和18年12月15日、いわゆる学徒動員で舞鶴海兵団に入隊なさいました(この舞鶴はのちに「岸壁の母」で知られることになる軍事都市の舞鶴であり、旅順海戦館が赤字を出しながら人気を集めた第十回関西府県聯合共進会の会場であった鶴舞公園とは何の関係もありません)。

 翌年末、平井先生は海軍少尉となって赴任する途次に帰宅され、「空襲の不可避を告げ疎開を勧めたが、転出証明書が交付されたのは翌二十年の三月であった」とのことで、乱歩は昭和20年4月、家族を福島県に疎開させて池袋にひとり残ります。

 五月二十三日二十五日両度の焼夷弾攻撃で周辺の建物は全滅したが、私の家では無事消し止めることが出来た。三月十日の大空襲以来の被災者を加えて十数人にふくれ上がっていた我が家の居住者が必死で消火にあたったお蔭であった。疎開先の家族にあてた父の手紙には当時の焼夷弾の落下地点が丁寧に記入してあった。家財書籍の疎開は六月に漸く実現したが、その時には池袋一帯は丸焼けになっていた。

 ■ 9月28日(木)
まるみえ旅順海戦館

 旅順海戦館にかんしてはまだまだほかにも、たとえば入場料はいったいいくらであったのかみたいなデータも克明に知ることができますので、興味を惹かれた方は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーをご利用ください。

 本日はやはり近代デジタルライブラリーから、第十回関西府県聯合共進会愛知県協賛会が明治43年12月28日に発行した『第十回関西府県聯合共進会記念写真帖』を見てみます。なにしろ写真帖なんですから、音に聞く旅順海戦館のファサードもこれこのとおり眼にすることが可能です。

 この画像をクリックすると新規ウインドウが開かれ、『第十回関西府県聯合共進会記念写真帖』の当該ページが現れ出でますので、表示の拡大率と画面の大小を調節して「館戦海順旅」ならびに「景夜館戦海順旅」の画像をご堪能ください。

 以上、愛知県にお住まいの方からメールでお寄せいただいた調査報告にもとづいて、丸写し孫引きによる旅順海戦館あれこれをお届けいたしました。お手数をおかけしたほりごたつさんにあらためてお礼を申しあげます。

 つづいてひとつだけ関連情報。『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の脚註に「名古屋博覧会」なるものが登場いたします。大正14年の書簡では、34ページの脚註(三五)に、

 ──この鶴舞公園は、翌十五年九月十五日から十一月三十日まで、名古屋博覧会が開催され、モダン都市名古屋を全国的にアピールする拠点となる。

 109ページの脚註(一六三)に、

 ──翌十五年に名古屋博覧会が開かれ、近代的になっていくという意気込みが感じられる。

 昭和3年には264ページの脚註(四八八)に、

 ──鶴舞公園で開催された名古屋博覧会は二年前の大正十五年であり、全国に向かって、モダンな都市・名古屋をアピールする気運があったのだと考えられる。

 といったぐあいなのですが、昨日お知らせしました愛知県図書館のこのページ──

 この「愛知の博覧会」には大正15年に名古屋で博覧会が開催されたという記録は見えず、その前後となると昭和3年に鶴舞公園で名古屋勧業協会の御大典奉祝名古屋博覧会が、脚註に見える名古屋博覧会とおなじく9月15日から11月30日という会期で開かれています。もしかしたら脚註には、昭和3年の博覧会を大正15年に催されたものだとする誤認があるのかもしれません。むろん「愛知の博覧会」から大正15年の博覧会が洩れているという可能性も、ぶっちゃけかなり低いけれども否定はできませんので、とりあえず脚註がどんな資料に依拠していたのか、脚註王村上裕徳さんに機会を見つけてお訊きしてみたいとは思うのですが、しかしさすらいの脚註王に連絡するなどということが可能なのかな。ともあれ、結論は保留したまま上記の事実をお知らせしておく次第です。

 さてこれで、私は『江戸川乱歩年譜集成』の明治43年のページに第十回関西府県聯合共進会と旅順海戦館のデータを盛ることを得ました。この年、乱歩は満十六歳。旅順海戦館を見たころはまだ十五歳だったのですが、これがどんな年であったのかを年譜から拾ってみましょう。

 この年、のちに読売新聞のサイン浴衣の漫画で乱歩とともに名をあげられることになる早稲田のエース、小川正太郎が生まれました。海彼に眼を転ずるならばアメリカではマーク・トウェインが死去し、イギリスではアドリアン・コナン・ドイルが誕生し、フランスではルブランが『813』を刊行。本邦に戻れば森鴎外が「文芸倶楽部」に「うずしお」というタイトルでポーのメエルシュトレエムを独語訳から重訳し、谷崎潤一郎は「新思潮」に「刺青」と「麒麟」を発表して文壇に華々しく躍り出ました。

 そしてその年、乱歩は関西府県聯合共進会に足を運んで旅順海戦館にいたく感動し、その翌日には友人とふたりで自分の家の四畳半の離れ座敷にそのミニチュアをつくったわけです。できあがったらその旅順海戦館を近所の子供に見物させてもやりました。子供たちからはやんやの喝采がまきおこったそうですが、栴檀は双葉よりかんばし、これはまことに乱歩らしいエピソードであると私は思います。

 乱歩は旅順海戦館を面白いと思った。自分の手でそれをつくってみたくなった。大海原や水平線や東郷平八郎がひきいた艦隊、ひるがえる旗、たちのぼる黒煙、とどろく砲声、火に包まれて沈んでゆく敵艦、夜の月、光る灯台、その光をきらきらと反射する波。そんなものをつくりたくなって、たとえば船火事にはアルコールをしみこませた綿を利用すればいいだろう、などといった仕掛けを、からくりを、アイディアを、いやもういっそトリックといったっていいだろう、夢中になってあれこれ思案して自分なりの旅順海戦館をつくりあげ、できればできたで子供を集めて見せてやった。つまりは観客、小説でいえば読者というものの存在をあらかじめ想定していた。これで子供から見物料をまきあげていたらたいしたものであったのだが、さすがにそこまではしていなかったことでしょう。

 結局のところ、旅順海戦館がのちに探偵小説に代わったというだけで、乱歩は生涯にわたってこういうことをつづけた人であったのだろうと私には思われます。探偵小説の面白さに感嘆し、自分でも面白い探偵小説を書こうとし、探偵小説から逸脱しても読者の喝采は浴びつづけ、少年読者をもまた熱狂させつづけた。十五の春に旅順海戦館の面白さを近所の子供たちに教えたのとおなじく、乱歩というのは探偵小説の醍醐味を日本人に伝えつづけた人であったのだ、と。やはり栴檀は双葉よりかんばしく、乱歩は子供のころから乱歩なり。

  本日のアップデート

 ▼1995年6月

 わたしの豊島紀行 平井隆太郎

 連載第六回、最終回となります。

 戦後の復興と乱歩の死が描かれ、フィナーレを迎えます。

 二十五年頃には世の中も落着きを取り戻し、焼け跡の掘っ建て小屋もいくらかましになって来た。今の丸井のあたりに闇市が出来たのもこの頃である。二十八年八月には池五小の跡地にサンケイ新聞のヘリが着陸した。当時まだ珍しかったヘリに黒山の人だかりで、父が八ミリカメラを携えているところを私が撮影した写真が残っている。父の少年もの小説にはしばしばヘリが登場する。とりわけ熱心に観察する必要があったのであろう。いずれにせよ跡地に建っている現在の立大五号館の姿からは想像も出来ない光景であった。今は暗渠となった霜田橋あたりの空き地にはドサ廻りの劇団や見世物がかかり、東口の地下道出口では常設のストリップ劇場が繁昌していた。

 昭和三十年、父は六十歳になっていた。父の本業であった探偵小説も推理小説と名を変えて戦前にまさる活況を呈していたが、西口の闇市が撤去された三十六年頃から父は病みがちになり作家活動に終止符を打つ。東京オリンピックの翌年父は死去した。


 ■ 9月29日(金)
あなたも名張の散歩者に、みたいな

 なんだかんだいってるあいだに9月もあしたでおしまいです。読者諸兄姉お住まいの地域におかれましては季節の変わり目に妙なのが湧いて出たりはしておりませんでしょうか。当地は結構大丈夫みたいです。

 といったところで本日は地域限定のお知らせ。名張市立図書館の窓口業務が10月1日から民間委託されます、というニュースを中日新聞オフィシャルサイトから。伊東浩一記者の記事です。

【伊賀】 窓口業務など民間委託 1日から名張市立図書館
 名張市は10月1日から、市立図書館の窓口業務などを民間委託する。民営化で1日の開館時間が1時間半、さらに祝日開館などの実施で年間の開館日数も20日ほど増える。

 市直轄より安価で、短時間勤務など臨機応変な人員配置が可能な民間委託に切り替えることで、運営効率化とサービス充実を図るのが狙い。

 委託先は図書館流通センター(東京)で、来年3月までの委託料は約1690万円。

 これにより、これまでは午前10時から午後6時までだった開館時間は午前9時30分から午後7時までに拡大され、従来は休館だった祝日にも開館されることになりました。図書館運営費は年間約九百万円削減できるとのことです。

 名張市外にお住まいなれどいい機会だから(何がいいんだかよくわかりませんが)名張市立図書館に行ってみようか、とおっしゃるみなさんにはついでに名張のまちの散策もお楽しみいただきたく、国土交通省木津川上流河川事務所(というのが名張市木屋町にあるのですが)のウェブマガジン「きづじょう」第一号(2004年5月に掲載されたもののようです)の「乱歩ゆかりの地 名張散策コース」をご紹介申しあげておきましょう。乱歩生誕地や名張市立図書館などをめぐる三時間ほどのコースです。

 つづきまして乱歩がらみの地域限定情報を──

  本日のアップデート

 ▼2006年9月

 【伊賀】 乱歩の魅力を演劇で紹介 7日、名張で作品「断崖」公演 伊東浩一

 お芝居の話題です。名張の散歩はこの日がいいかもしれません。

【伊賀】 乱歩の魅力を演劇で紹介 7日、名張で作品「断崖」公演
 名張市生まれの推理小説家江戸川乱歩の作品を題材にした演劇公演「断崖(だんがい)」が10月7日午後7時から、同市平尾の宇流冨志祢(うるふしね)神社で開かれる。

 伊賀地域の市民有志でつくる乱歩顕彰グループ「乱歩蔵びらきの会」の主催。乱歩作品の魅力を演劇を通してより多くの人たちに知ってもらうのが狙い。

 別建てで告知しておきましょう。

乱歩原作「断崖」演劇公演

日時10月7日(土曜日)午後7時

会場宇流冨志祢神社(名張市平尾)

出演斎藤ゆうか(芝居屋ちょもらんま)
□□□上田豊太(おきつも名張劇場)□□

入場料500円

定員150人

主催乱歩蔵びらきの会


 ■ 9月30日(土)
虚構の日付と地上の時間

 本日もまずお知らせ一件。東京の弥生美術館できょう30日、「竹中英太郎と妖しの挿し絵展」が開幕いたします。英太郎の生誕百年を記念した企画展で、おそらく相当な充実ぶりではないかと想像されます。ぜひ足を運びたいなと私は思う。くわしくは「番犬情報」をごらんくだされ。

 さて『江戸川乱歩年譜集成』の話題ですが、そんなこんなでまあ進まないの。ひいひいいってるの。ふうふういってるの。目先の作業をひいひいふうふう地味にたらたら進めてはいるのですが、全体の構成となるといまだ五里霧中、レイアウトのプランなどは白紙の状態で、それゆえときにとんでもないアイディアが湧いてくることがあります。アイディアというよりは妄想なのですが。

 たとえば、現実と虚構をごっちゃにしたらどうなるか。つまり乱歩の小説に明記された日付を年譜に落としていったらどうなるのか。むろんどうにもこうにも意味のないことではあるのでしょうが、やってみたい誘惑にかられないでもありません。乱歩の小説で日付がちゃんと示されている例は珍しいのですが(ほかの作家の場合も同様でしょうが)、それでも「孤島の鬼」には、

 ──その翌日、忘れもせぬ大正十四年七月二十九日、私達は旅支度も軽やかに、南海の一孤島を目ざして、いとも不思議な鹿島立ちをやったのである。

 とあります。ちなみに上に引いたのは光文社文庫版のテキストで、桃源社版全集にもとづいた講談社文庫版はこのとおり。

 ──その翌日、忘れもせぬ大正十四年八月十九日、私たちは南海の孤島を目ざして、いとも不思議な旅立ちをしたのである。

 ふたつのテキストに見られる日付のくいちがいについてはここではふれませんが、とにかく大正14年の7月29日または8月19日という日付が出てきます。ここで手許の年譜原稿を見てみますと、大正14年7月には18日に春陽堂から『心理試験』が刊行され(もちろん奥付上の話です)、牧逸馬から29日付書簡が届き、8月に入れば乱歩は川口松太郎と名古屋を訪れて小酒井不木や本田緒生、国枝史郎と夕食をともにしている。そんなところにいきなり諸戸と蓑浦はいよいよ岩屋島に出立したのであった、みたいな記述が出てきても読者には、はぁ? としか思われないことでしょうし、年譜編纂者自身そんな試みには意味が見いだせない次第ではあるのですけれど、しかしそれでもただひとつ、私が捨てがたく思うのは明治28年4月27日という日付です。

 ──それはもう、一生涯の大事件ですから、よく記憶して居りますが、明治二十八年の四月の、兄があんなに(と云って彼は押絵の老人を指さした)なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。

 私にはこの日付が捨てがたい。ていうか、この日付はちょっとした謎である。

  本日のフラグメント

 ▼1989年9月

 亡父随想 平井隆太郎

 中島河太郎先生編『江戸川乱歩ワンダーランド』に収録されました。

 「押絵と旅する男」に明記された明治28年4月27日という日付の意味を、平井先生はこんなふうに考察していらっしゃいます。

 十七才の美少女お七と並んでいた男は、もともとの押絵人形でなかった悲しさ、当初の美青年も次第に年をとって今では押絵の持主と同様の老人になってしまっていたと云うから、どこか浦島伝説を連想させる締めくくりであった。「押絵」の老人が覗きカラクリの世界に融け入ったのは明治二十八年四月二十七日としてある。父はその前年の二十七年十月二十七日の生れである。当時三十五才の父は自分のダミーをカラクリの異世界へ投げ込んだのであろう。明治二十八年で二十五才だった「押絵」の中の男は昭和四年では数えで六十一才の還暦である。押絵のお七と違ってこの青年の老いて行く姿に当時の父の老醜への恐れが出ているようである。

 誤植を訂しておくならば、「十月二十七日の生れである」とされている乱歩の誕生日は正しくは10月21日です。

 で、「老醜への恐れ」はたしかに存在していたことでしょう。昭和35年4月に出た日本推理小説大系第二巻『江戸川乱歩集』の月報に、乱歩は「作者のことば」としてこんなことを打ち明けています。

 私が処女作「二銭銅貨」を書いたのは「新青年」に発表した前年の大正十一年、その年から勘定すると、今年であしかけ三十九年となる。探偵小説を書き出してから、ほとんど四十年だ。遠くも来つるものかな。だいいち私は長生きをしすぎたように思っている。青年時代には人生五五の春、花の盛りにこの世を去らんにはと考えていたこともある。たとえそうでなくても、昔の定説「人生五十年」はとても生きられまいと思っていた。還暦を過ぎる五年余の今まで生きているなどとは、実に思いもよらないことであった。青年時代には老醜たえがたきを予想していたが、年とってみれば、またちがった考えになる。血圧があがれば降圧剤を服用して、長命を計りもするのである。これが生物というものであろう。

 「人生五五の春」の五五はごごにじゅうごで二十五のことですから、

 「ハイ、あれが二十五歳の時のお話でございますよ」

 と語られる「押絵と旅する男」の兄はまさしく花の盛りで押絵になったわけで、それは乱歩にとって「自分のダミー」にほかならなかったと平井先生は推測しておられます。げんに乱歩は「青年時代には老醜たえがたきを予想していた」と認めており、しかしみずから望んで押絵に封じられた男はそれでもなお地上の時間に支配されて確実に年老いてゆくというのですから、この筋立てにはやはりなみなみならぬ「老醜への恐れ」がひそんでいるように見受けられます。