2006年5月下旬
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 ■ 5月21日(日)
東栄館は The Rampo Code か

 さて、乱歩の「屋根裏の散歩者」は──という話題に舞い戻ることにいたしましょう。

 5月18日付伝言に記しましたようなことから考察いたしますに、「屋根裏の散歩者」を書いたとき、乱歩の頭のなかには宇野浩二の「夢見る部屋」と「人癲癇」があったのではないか、「屋根裏の散歩者」はこの二作からヒントを得て執筆されたのではないか。私にはそのように思われます。

 乱歩は「屋根裏の散歩者」執筆の舞台裏も例によって饒舌に語っており、光文社文庫版全集『屋根裏の散歩者』には「自作解説」として随筆四点の抜粋が収載されているのですが、そこに記されているのは鳥羽造船所勤務時代や大阪府守口町在住当時の思い出ばかりで、宇野浩二の名前はどこにも出てきません。

 いささか気になるのは、昭和4年7月の「あの作この作」(平凡社版全集収録に際して「楽屋噺」と改題)に打ち明けられているこんな回想です。

 ──さて「屋根裏」の成立ちであるが、天井の節穴という考えは、その一二年も前から心の隅に蠢いていたので、最初は左のような筋を考え、これではどうにも書けないのでそのままになっていたものだ。

 「夢見る部屋」は大正11年4月に発表されました。「屋根裏の散歩者」は三年後の14年8月の発表で、「あの作この作」によれば14年6月の執筆。その「一二年も前」という述懐を額面どおり真に受けるなら、乱歩の頭に「天井の節穴という考え」が胚胎したのは大正12年6月から13年6月までのあいだでしょう。となると、乱歩が実際に天井板をはがして屋根裏を観察したのは守口時代のことで、『貼雑年譜』にはその家に住んでいたのが大正13年9月から15年1月までとされていますから、乱歩は守口の家で「天井の節穴という考え」を得たわけではなかったということになります。

 そして、乱歩がどこに住んでいたにせよ、「夢見る部屋」にもとづいて「天井の節穴という考え」が生まれたのだと仮定してみるならば、それが「屋根裏の散歩者」執筆の一年か二年前であったのはあながち不自然なことでもないでしょう。

 こんな記述もあります。

 ──書く気になったのは、その元の筋と、押入れの中で寝る妙な男の生活とを結合わせることに気づいた時からであった。

 「妙な男」とは乱歩自身のことで、鳥羽造船所に勤務していたころ、仕事がいやになって押し入れに隠れていたうんぬんといったエピソードが語られるのですが、押し入れに寝る男というのであれば、中島河太郎先生も「屋根裏の散歩者」の解説で指摘していらっしゃったとおり、宇野浩二の「屋根裏の法学士」はまさしくそうした男を描いた作品です。「屋根裏の散歩者」のヒントにならなかったとは考えられませんし、だとすれば鳥羽造船所時代のエピソードはミスディレクションではないかと疑うことだって可能でしょう。

 「屋根裏の散歩者」というタイトルが「屋根裏の法学士」を連想させるという誰の眼にも明らかな類似さえ、乱歩は口をつぐんで語りません。だからなおさら私としては、「屋根裏の散歩者」と宇野浩二作品のあいだには密接な関連性があるのではないかと勘ぐりたくなります。乱歩はやはり「夢見る部屋」から着想を得、大正14年4月に発表された「人癲癇」がもうひとつの火種となって、下宿の屋根裏を散歩して他人の秘密を探偵する男というモチーフを手にしたのではなかったか。

 とはいえ、確たるところは知りようがなく、何ひとつ断言することはできません。なんだか他愛もない話でなさけないような気もいたしますが、ひとつだけ興味深い事実をここに記して、以上の推論のしめくくりにしておきたいと思います。すなわち、「夢見る部屋」で主人公が部屋を借りた四階建ての西洋館は「東台館」という名前でした。「屋根裏の散歩者」の舞台となったのはいうまでもなく「東栄館」です。「東台館」と「東栄館」。なんだかとても似ています。正字で記せば「東臺館」と「東榮館」。ますます似ている感じです(そうでもないか)。

 おそらく乱歩は、と私は思うのですが、「夢見る部屋」の「東台館」に似せた「東栄館」という名称を「屋根裏の散歩者」に象嵌しておくことで、宇野浩二へのトリビュートをこっそり捧げたのではなかったでしょうか。宇野浩二作品の愛読者だけにわかるかすかなサイン、あるいはひそかなコードのようなものとして。

  本日のフラグメント

 ▼1934年7月

 書斎漫談 江戸川乱歩

 きょうも「本日のフラグメント」となりますが、このフラグメントはいったい何なのかといいますと、『江戸川乱歩年譜集成』のためのフラグメントにほかなりません。いつの日か(ほんとにそんな日が来るのかしら)上梓される『江戸川乱歩年譜集成』にタペストリーのごとく収載されるであろう断章を、こつこつむらむら営々孜々として蒐集してゆこうというくわだてであって、もとより乱歩のものであると乱歩以外の人間の手になるものであるとを問いません。

 きょうはきのうのつづきのようなものとなりますが、初出以来ほとんど人目にふれていないのではないかと思われる乱歩作品。むろん単行本にも全集にも未収録。昭和9年の「セメント工業」7月号に掲載された「書斎漫談」という随筆です。

 以前、『江戸川乱歩執筆年譜』を編纂中に山前譲さんからお教えいただいたもので、山前さんにはあらためて深甚なる謝意を表しつつ、乱歩ファンのみなさんにぜひ全文をお読みいただきたいところではありますけれど、著作権の問題がありますゆえ冒頭から全体の三分の一ほどを引用いたしましょう。

 久しく洋風の書斎で仕事をしなかつたから、椅子に腰をかけ、テーブルに儼然と向つてペンを持つたならば書けるであらうと、戸塚から現在の高輪の家へ引越した訳であるが、やつぱり駄目だ。

 高輪の家を最初見た時は可なり気に入つてゐた。ことに土蔵を直して洋館にした一棟は、天井も高く、床もシッカリしてゐて、ちよつとその辺にある赤瓦の文化住宅とは全く趣を異にして、これなら書けそうだナと思つた位だ。

 書棚、テーブル、椅子、置物など、すべてその部屋に合ふやう、ことごとく註文して、先づこれなら落著けるであらう、と、理想通りの設備をした。ところが、テーブルに向つてみると、どうも落著けない。戸を閉め切つて、日光をさへぎつて電灯を点してやつても見たが、高い天井の空間が、気味悪いほどに拡がつてどうにも落著けない。

 結局また戸塚時代、といふよりもう十何年としてゐる習性の蒲団書斎に逆戻りしてしまつた。

 枕もとに電灯を置いて、蒲団の上に腹匍ひになつて原稿を書く──これが一番私の性に合つてゐるらしい。

 日中でも雨戸を閉めて置く。どうも私は日光が怕い。それに戸を閉めて置けば、比較的騒音が入らない。

 年中夜の国でもあつたら、私は早速引越すかも知れない。

 「どうも私は日光が怕い」と記されてあるのが面白く、乱歩蝋燭伝説はそもそもこのあたりが淵源かとも推測されます。

 きのうの「名士の家庭訪問記」は昭和5年11月、つまり乱歩が東京市外戸塚町に住んでいた当時の記事だったのですが、この「書斎漫談」は昭和8年4月に転居した東京市芝区車町の家で執筆されたものです。

 乱歩はこの家も気に入らなくて(省線が近くてやかましいし、家が少し傾いている、というのがその理由だと記されています)、「こんどは静かな家へかはるつもりだ」と転居の意思を表明しているのですが、この随筆が発表された昭和9年7月には池袋への引っ越しを果たし、そこがとうとうついの住みかとなったわけです。


 ■ 5月22日(月)
宇野浩二における江戸川乱歩体験

 ここでひとことお断りしておくならば(断るまでもないことでしょうけれど)、私は何も剽窃だの盗用だのといったことを問題にしているわけではありません。かりに乱歩が「夢見る部屋」と「人癲癇」から「屋根裏の散歩者」のヒントを得ていたのだとしても、それは剽窃だの盗用だのと呼ばれるべきすじあいのものではまったくなく、小説を書くうえにおいてごくあたりまえのこと、どんな小説家だってやっていることにすぎません。それにまた、私は何も宇野浩二を接点として乱歩という作家を主流文学の系譜に無理やり組み入れようとしているわけでもありません。そうとしか見えないかもしれませんが、そんなくだらないことをどうしてしなければならんのか、と私は思います。

 さてこうなりますと、宇野浩二が「屋根裏の散歩者」にどんな感想を抱いていたのか、それをなんとか知りたいものだという気がしてくるのですが、どうやら不可能みたいです。もしかしたら読んでなかったかもしれません。『探偵小説四十年』の『探偵作家専業となる【大正十四年度】」には「宇野浩二」と題されたパートがあり、宇野浩二が大正14年1月に「報知新聞」に発表した「江戸川乱歩」が引用されているのですが、この随筆には「心理試験」のことが記されているだけです。

 つづいて翌年の大正15年1月、宇野浩二は「サンデー毎日」に──といったあたりで河岸を変えましょう。

  本日のフラグメント

 ▼1926年1月

 日本のポオ──江戸川乱歩君万歳 宇野浩二

 「サンデー毎日」の大正15年1月10日号に掲載されました。前年の1月、乱歩が宇野浩二の住まいであった菊富士ホテルを突然訪問したときの思い出から書きだされ(乱歩はこのとき「心理試験」が掲載された「新青年」を宇野浩二に手渡してゆきました)、乱歩作品に対する批評も記されています。

 彼が帰つた後で、私はさつそく彼の置いて行つた雑誌を取上げて彼の名で書かれてある探偵小説を読んで見た。たしか「心理試験」だつたと思ふ。相当に感心したので、私は彼が私を尋ねてくれた名誉に報いるつもりで、当時報知新聞に彼を紹介する一文を書いたことがある。以来、江戸川乱歩とは誰か、彼はどこに住んでゐるか、と私はまるで縁者でもあるかのやうに、雑誌社の人とかその他のいろいろな人から尋ねられた。

 無論私が紹介するまでもなく、その後多くの雑誌記者は彼の寄稿をこふために大阪在の彼の住居の門を叩き、或は手紙や電報を飛ばしたことだらう。そして、瞬く間に彼はかくも有名になつた。最近新聞の消息欄を見ると江戸川乱歩大阪を引上て東京に来るといふやうな記事が出てゐた。江戸川君、来給へ。

 さて、その後私は大阪に帰つた彼から「D阪事件?」の出てゐる雑誌を送られた。つゞいて「二銭銅貨」の出てゐるもの、それから「黒手組」「赤い部屋」などの出てゐる雑誌を次々と送られた。最後に単行本になつた探偵小説集「心理試験」を。

 私は「心理試験」と「D阪事件」とに最も感心した。彼の諸作を概観して驚くべきことは本家のアラン・ポオ以来の歴代の探偵作家たちのあらゆる観察法と手法とを悉く彼自身の薬籠中のものとしてゐる手際である。そして又彼の日本文の暢達さは、彼自身谷崎潤一郎と佐藤春夫と宇野浩二とを以前研究したことがあるといつた如く、彼らの文章をこれ又、悉く彼自身の薬籠中のものとしてゐる点である。無論、彼は単なる模倣家ではない。私は彼に初めて会つて、それから彼の作品の一つを初めて読んだ時、この人はたゞの駈出し作家ではないと思つた。随分長い間、文学に心をひそめて苦心惨憺して来た人に違ひないと思つたのである。何か一つ書いて当たつたといふやうな人ではなく、隠れてゐた間に随分文学を練つた人であらう。彼が現れると忽ちにして名をなしたのは偶然のことではないと思はれる。

 「彼は単なる模倣家ではない」という文章が妙に気になったりもいたしますが、とにかく乱歩が「宇野氏という人はなかなか探偵小説好きらしい」と「宇野浩二式」に記していたそのとおり、宇野浩二が探偵小説をかなり愛好していたらしいことがうかがえる文章です。

 乱歩はこの随筆について、「探偵小説十年」の「湖畔亭事件」の項で、

 ──それから、思い出したが、この小説の第一回には宇野浩二氏が序文みたいに「乱歩万歳!」という様な戯文めいた紹介の言葉を書いてくれた。無論「サンデー」から頼んだものに違いないのだが、あの時分宇野さんには色々御世話になったことを思い出す。その一文は切取って置いたのだが。いつか紛失してしまった。

 と述べているのですが、正確には「湖畔亭事件」の第二回が掲載された号に発表されたもので、乱歩がいうような「戯文めいた」印象は認められず、また「湖畔亭事件」そのものへの言及はいっさい見られません。

 宇野浩二は昭和30年、春陽堂版乱歩全集の月報「探偵通信」十五号に「乱歩の初期の短篇」と題した随筆を寄せているのですが、そこで言及されている乱歩作品は「二銭銅貨」「心理試験」「D坂の殺人事件」の三点だけで、すなわち宇野浩二はたぶん「屋根裏の散歩者」を読んでいなかったのではないのかなと推測される次第です。


 ■ 5月23日(火)
またふたたびのモグラたたきよ

 本日は「本日のアップデート」となっております。

  本日のアップデート

 ▼2006年5月

 「乱歩蔵びらきの会」名張・生誕地に隣接整備の「記念館」構想立案から計画「断崖」演劇 9月に上演事業計画を決める 熊谷豪

 5月18日に開かれた「乱歩蔵びらきの会」の2006年度総会を報じる毎日新聞の記事です。総会のことは日刊各紙伊賀版で報道されましたが、ネット上でお読みいただけるのはこの記事だけみたいです。

乱歩蔵びらきの会:名張・生誕地に隣接整備の「記念館」、構想立案から参画 /三重
 ◇「断崖」演劇9月に上演−−事業計画を決める

 名張市生誕の推理作家・江戸川乱歩(1894〜1965年)を顕彰する「乱歩蔵びらきの会」(的場敏訓代表、会員40人)の総会が18日夜、市役所で開かれた。会員約30人が出席し、市が同市新町の生誕地に隣接して整備する予定の乱歩記念館の構想立案に参加することや、乱歩作品「断崖(だんがい)」の演劇を9月に上演するなど、06年度の事業計画を決めた。【熊谷豪】

 まったくもって困ったものです。ていうか、これはいったいなにごとであるのか。

 今年度の活動は、市が乱歩生誕地碑のある同市本町の桝田医院旧第2病棟を解体し、記念館を建てる計画を進めていることから、「どんな建物にするか」「どんな機能を持たせるか」について構想段階からかかわっていくことにした。

 市と地元住民らでつくる「名張まちなか再生委員会」(多田昭太郎委員長)は、6月にも記念館の概要を決める検討委員会を組織し、蔵びらきの会のメンバーや、乱歩の遺品や作品の展示コーナーを設けている市立図書館の職員らが加わる見通し。来年度の着工を目指しており、的場さんは「乱歩関連の資料室や、ミステリー文庫読書室を設ける案があり、今後具体的に話し合っていきたい」としている。

 名張市のインチキは無限の可能性を秘めているといっていいでしょう。要するに何やったっていいんだ、ルールも手続きも無視して好きなように思いつきでものごとを進めればいいんだ、というのが名張市というインチキ自治体の本音であるようです。地方自治体におけるこのような実態はそこに住む青少年に好ましからざる影響を与えるのではないかと懸念される次第なのですが、名張市教育委員会のかしこきあたりにおかれてはかかる事態についてどのようにお考えなのでしょう。

 それにしても無茶苦茶である。そもそも名張まちなか再生委員会というのは名張まちなか再生プランを具体化するための組織である。しかし名張まちなか再生プランには乱歩記念館をつくりましょうなどという話は片言隻句も盛り込まれておらんかった。そうした決定事項を無視して乱歩記念館がどうのこうのというのであれば、何もわざわざ名張まちなか再生プランなどというインチキプランを策定する必要はなかったのである。名張まちなか再生委員会というインチキ委員会が最初っから好きなようにインチキ構想を展開すればよかったのである。かりに名張まちなか再生プランに問題があるのであれば(むろんおおありなのですが)、そのプランを練り直すことからはじめるのが定法というものであろう。だから私はプランを策定した名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集しろと提案しているのである。それが正しい筋道ではないか。

 それをばかども何の騒ぎか。「市が乱歩生誕地碑のある同市本町の桝田医院旧第2病棟を解体し、記念館を建てる計画を進めている」とはどういうことか。そんな計画がいったいいつどこで誰によって決められたというのか。それは名張まちなか再生プランとはまた別のなにものかであるのか。まったくわけがわからんではないか。それにどうしていまごろになって乱歩蔵びらきの会がのこのこ顔を出してくるのか。名張まちなか再生委員会には乱歩蔵びらきの会の会員が加わっておるではないか。関係機関関連団体のメンバーを寄せ集め、英知を結集したのが名張まちなか再生委員会ではなかったのか。いまごろになって乱歩蔵びらきの会が「乱歩記念館の構想立案に参加」するというのであれば、名張まちなか再生委員会は自分たちが無能力であると認めたということになるのではないか。いやもう何がなんだかさっぱりわからん。だいたいが名張市役所のみなさんや、てめーらどこまで主体性を放棄したら気がすむというのだ。

 ほんとに名張市ももう少ししっかりしてくれてもいいのではないか。いーかげんにしろというのだ。てめーら何をふらふらしていやがる。何が「乱歩関連の資料室や、ミステリー文庫読書室を設ける案があり、今後具体的に話し合っていきたい」だ。てめーらおれが提出した渾身のパブリックコメントをあっさり無視したではないか。このページを見てみろ。名張まちなか再生プランに対するパブリックコメントは全部で七件。その七件が七件とも、おれの「僕のパブリックコメント」も含めてすべてが「素案に盛り込めないが、今後の参考とするもの」とされておるではないか。「素案を修正するもの」はゼロであったではないか。それをいまごろになって「乱歩関連の資料室や、ミステリー文庫読書室」などとぬけぬけ何をほざいているのか。いまごろそんなことをぬかすのであれば、おれがパブリックコメントを提出した時点でそれを反映してプランを修正しておくのが筋というものである。そんなこともわからんのか。だからてめーらはインチキだというのだばーか。

 まったくもってルールも手続きもありゃせんわけです。ばかが好き勝手なことやってるだけの話だというしかないのですが、ここでひとこと附記しておきますと、上記引用中、名張まちなか再生委員会が「記念館の概要を決める検討委員会」を発足させ、「乱歩の遺品や作品の展示コーナーを設けている市立図書館の職員らが加わる見通し」とされておりますが、ここに記されている「職員」はもちろん私のことではありません。誰のことだかはわかりませんが、少なくとも私ではない。私は名張まちなか再生委員会に対して、いっさい協力はいたしませんと申し出てあります。それはそうであろう。こちらが親切に協力を申し出てさしあげたとき、名張まちなか再生委員会のうすらばかどもは何とほざいたか。

 ──現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない。

 ばーか。てめーらその時点で終わってんだばーか。

 しかしまあいいでしょう。先日もお知らせいたしましたとおり、私は本日、名張市建設部の部長さんにお目にかかることになっております。名張まちなか再生委員会の委員長さんもおいでくださるそうです。二時間ほどお時間を頂戴しておりますので、

 ──名張市はどうしてこんなインチキばっかりやってるの? みんなばかなの?

 みたいなこともお訊きしてみたいと思います。

 それにしてもまーた乱歩記念館の話か。あれはいつであったかというと2003年の夏、名張商工会議所が細川邸を乱歩記念館にしたいなどと愚かなことを構想なさいましたので(たしか名張商工会議所が「なばり OLD TOWN 構想」とかいうネーミングからしてあれなプランを策定中のことであったと記憶します)、私は会議所会頭のお宅に二度ほどお邪魔して乱歩記念館をつくるなどという愚かな構想を思いとどまっていただいたものでした。乱歩記念館なんか必要ないのだ、せいぜいが乱歩の生家を復元するくらいでいいのだ、と会頭さんお伝えいたしましたので、なばり OLD TOWN 構想には生家復元というプランが盛り込まれていたはずなのですが、あんな構想はいまやすっかり忘れられているのかな。

 しかし実際うんざりである。私はいつまでモグラたたきをつづけなければならないのかしら。


 ■ 5月24日(水)
インチキに明日はない

 インチキ許すまじ。討ちてしやまん。いざ生きめやも。そうした悲壮な決意を胸に昨日午後、私は名張市の建設部長にお会いしてまいりました。名張まちなか再生プランにまつわる度しがたいインチキをどうすればいいのか。名張市が選ぶべき道はあるのか。みたいなことを名張まちなか再生プラン担当セクションのトップでいらっしゃる建設部長さんとおはなししてまいりました。

 とにかくもう収拾がつかない状態です。何がなんだかさっぱりわけがわかりません。細川邸がどうなり桝田医院第二病棟がどうなり乱歩生家の復元がどうなるのか。いまや誰にもわからない状態であるといっていいでしょう。ばかの手にかかればそんなものさといってしまえばそれまでながら、それでは市民がばかを見ましょう。ばかが決めたとおりに血税を無駄づかいされた日にゃ、結局ばかを見るのは市民なのである。名張市民のみなさん、もう諦めるしかないのかな。

 結論からお知らせいたしますと、さすが部長さんにお出ましいただいただけのことはあり、話がかなり整理されて方向性が見えてきました。一定の筋道を見いだすことができました。前途に光明が見えてきたといってもいいでしょう。以下、ご報告。

 とにかく悪いのは名張まちなか再生プランである。あのプランこそが諸悪の根源である。この伝言板にもばかみたいにくどくどと書き記してまいりましたが、それが私の主張です。

 きのう用意していったメモを引き写しながら、事実関係を整理してみましょう。

平成15年(2003)
11月、名張地区まちづくり推進協議会が乱歩生誕地にふさわしい歴史資料館の開設を名張市に要望。名張商工会議所も細川邸の歴史資料館化や乱歩生家の復元などを盛りこんだ「なばりOLD TOWN 構想」を市に提案。

 これがいわば前段階です。2005年2月9日付毎日新聞の「名張市:『乱歩記念館』整備、候補地二つで迷走──イメージもまだ」で報じられていたことなのですが、名張地区まちづくり推進協議会と名張商工会議所から歴史資料館の開設を要望する声が名張市に届けられていた。しかしこんな要望は、それらふたつの団体における発想の貧困を物語る以外のなにものでもありません。私は昨日そのように指摘しておきました。

 実際ろくなものではありません。名張地区まちづくり推進協議会も名張商工会議所も、いったい何を考えておるのか。資料館をつくって展示すべきどのような歴史資料があるというのか。そんなことさえおまえら考えてなかったのであろう。いわゆる名張まちなかの活性化や細川邸の活用策として深い考えもなしに思いついたのが、とりあえず細川邸を歴史資料館にでもしておけばいいのではないかということだったのであろう。それだけのことでしかなかったのであろう。単なる思いつきをことごとしく住民要望として提案するから、のちの協議にバイアスがかかってしまうのである。おまえらのただの思いつきに血税ぶちこまれてたまるか。以後、気をつけるように。

 ここで附言しておきますと、きのうの建設部長との面会には名張まちなか再生委員会の委員長もご同席いただきました。この委員長さんは名張地区まちづくり推進協議会の会長さんでもいらっしゃいます。

平成16年(2004)
6月23日、第一回名張地区既成市街地再生計画策定委員会。以後、12月に第二回、翌年1月に第三回、ほかにワークショップ七回、タウンウォッチング、アンケートも実施。
11月末、桝田医院第二病棟の土地と建物が所有者から名張市に寄贈される。
12月16日付毎日新聞に「名張市が乱歩館整備へ 土地、建物寄贈の桝田寿子さんに感謝状」
名張市議会12月定例会の一般質問で、田郷誠之助議員が「乱歩の世界を演出できる町づくりを」と質問、答弁は「乱歩生家があった桝田医院から敷地と建物の寄贈を受けたので、これを乱歩記念館として活用するべく検討する」

 さて、2004年です。三重県が天下に恥をさらした官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」で血税三億円が関係各位の手によってぱっぱかぱっぱかどぶに捨てられた年の6月、名張まちなか再生プランの策定が開始されました。名張地区既成市街地再生計画策定委員会による協議がはじまりました。しかしこんな協議はろくなものではない、と私はきのう指摘しました。

 まずこの名張地区既成市街地再生計画策定委員会、これがまずかろう。その構成はと見てみれば、委員長は大学の先生で(それもなぜか工学部の先生である)、委員は各種団体(つまり青年会議所、老人クラブ連合会、商工会議所、社会福祉協議会、PTA連合会、区長会などなど。順不同)の代表などといったみなさん。こうした人選はお役所が諮問機関を設ける際の常套であり、そのような従来的手法にはおおきに問題があるのであるが、いまはふれずにおきましょう。それに私は委員各位の人格資質能力見識を問題にしているわけでもありません。ただし委員のなかには、プランの目玉になると当初から見こまれていたであろう細川邸の歴史資料館化を検討するための専門的知識をおもちの方はひとりもいらっしゃらない。それは重大な問題である。

 とはいえ、そんな問題はいくらだってクリアできるものでしょう。協議検討に必要な知識を身につければいいだけの話です。そのための手っ取り早い方法は何か。図書館へ行きゃれ。図書館はそのためにあるのである。当時の名張市立図書館にはまだ郷土資料の専門嘱託が配置されていたのであるし、ほかにも名張市内には意見を拝聴すべき方が少なからずいらっしゃる。そうした人の意見に耳を傾ければいいのである。一例をあげれば、長く公立高校で教鞭を執られ、このほど名張市教育委員会の教育委員長に就任された松鹿昭二先生あたりからご意見ご助言をいただけばよかったのである。

 しかしこら名張地区既成市街地再生計画策定委員会、おまえらワークショップだのタウンウォッチングだのは結構やってくれたみたいですけど、名張市立図書館にはただの一度も足を運ばなかったではないか。おまえらの協議ってのはそんな程度のものだったのか。そんな程度の協議にもとづいて「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示する」歴史資料館の構想を名張まちなか再生プランに盛りこんだわけなのか。インチキもたいがいにしろ。

 ほんとにたいがいにしていただかなければ困るわけですが、とにもかくにも名張地区既成市街地再生計画策定委員会による協議がつづけられていた2004年の11月、乱歩生誕地碑の建つ桝田医院第二病棟が所有者から名張市に寄贈されました。土地建物を無償で提供するから乱歩に関連することで活用してほしいというのが、所有者すなわち桝田敏明先生のご遺族のご意向でした。

 ここで附言しておきますならば、桝田敏明先生のご遺族から最初に寄贈のおはなしをいただいたのは私なのである。桝田先生のご長女、乱歩生誕地碑の除幕式では乱歩その人に花束を手渡されたご長女が、一面識もない私に、それはもう名張市内で乱歩といえばとりあえず私だということになっておりますから、そうした盛名をたよりとして私に電話をかけてきてくださったわけです。それを契機に寄贈の話がまとまり、名張市役所でご遺族と名張市との話し合いが行われたときには、ご遺族から乞われて私もその場に立ち会いました。乱歩のご遺族ご公認の立会人がもぐらもちのおにいさんなら、桝田家ご公認の立会人はこの私なのである。

 それを何なんだてめーらはよー、と私が激怒したのは、明けて2005年のことでした。

平成17年(2005)
1月20日、名張地区既成市街地再生計画策定委員会が名張まちなか再生プラン(案)を提出。
2月9日付毎日新聞に「名張市:『乱歩記念館』整備、候補地二つで迷走──イメージもまだ」
2月18日、名張市議会重要施策調査特別委員会で名張まちなか再生プラン(案)を審議。田郷誠之助議員から「桝田医院第二病棟の活用策が盛りこまれていない。プランを緊急に修正する必要がある」との指摘があり、建設部長は「寄贈を受けたのが昨年11月であったため、活用法を具体的に表すことができなかった。今後、細川邸の利用法の詳細なプランとともに検討し、相互補完的な機能をもたせて歴史的文化的施設として活用したい」と答弁。
2月21日から3月22日までの期間で名張まちなか再生プラン(案)に対するパブリックコメントを募集。3月15日、「僕のパブリックコメント」提出。コメントは七件寄せられたが、いずれも「素案に盛り込めないが、今後の参考とするもの」となる。
6月26日、名張まちなか再生委員会設立。
6月28日付毎日新聞に「名張まちなか再生委:旧中心市街の活性化を──官民一体で発足」、初年度事業計画に「『桝田医院第2病棟』(本町)を歴史資料館などとして整備する計画作り」など。
10月20日付中日新聞に「江戸川乱歩生まれた長屋復元 名張市が検討」
12月7日付朝日新聞大阪本社版に「青鉛筆」、名古屋本社版にはほぼ同内容の「世界の推理小説一堂に/乱歩生誕地にミステリー文庫」

 1月20日に名張まちなか再生プランの素案がまとまり、名張地区既成市街地再生計画策定委員会から名張市に提出されました。それが名張市のオフィシャルサイトで公開され、市民のパブリックコメントも募集されたのですが、素案に眼を通した私は愕然としました。桝田医院第二病棟のことがどこにも書かれていないではないか。ばかなのか。このプランをつくった連中は底なしのばかなのか。

 実際、ばかというしかないではないか。乱歩生誕地碑の建つ桝田医院第二病棟が寄贈されたというのは、夢にも予想していなかったようなプランの目玉がむこうから飛びこんできてくれたということである。それをどうしてプランに盛りこまぬのか。2月18日の市議会重要施策調査特別委員会でもその点が指摘され、議員側からプランを修正するようにとの要請があった。ところが一言一句の修正もなしに素案が公開され、パブリックコメントが募集されたから私は怒った。かりかりかちんかちん怒りながら渾身のパブリックコメントを提出した。それで名張市は何をしたか。何もしなかったのである。目玉事業と位置づけられてしかるべき桝田医院第二病棟の活用策について、片言隻句も記すことなく名張まちなか再生プランを最終的に決定してしまったのである。何なんだてめーらはよー。

 私はほんっとに激怒した。それはもうメロスよりも激怒した。どうしてこんな単純な道理がわからぬのか。土地建物を無償で名張市に提供してくださった桝田先生のご遺族の意を酌むことがどうしてできぬのか。寄贈が11月だったからプランに盛りこむ時間がなかった、などといういいわけは通用せぬ。2004年11月末の寄贈から2005年1月20日のプラン案提出まで、二か月近い時間があったではないか。それにご遺族から寄贈の申し出をいただいたのは2004年9月のことである。時間がなかったとはいわせない。何がなかったのか。知恵がなかったのである。どーしよーもねーなーまったく。

 そして2005年6月26日、名張まちなか再生委員会が発足しました。その前日には池袋の毎度おなじみ蔵之助を会場に『子不語の夢』日本推理作家協会賞落選記念大宴会が開催されたとあって、私は名張を留守にしておりました。そこで7月1日、名張市役所建設部都市計画室におかれた名張まちなか再生委員会の事務局にお邪魔して、担当職員から委員会のことをお聞きしました。歴史資料館構想は歴史拠点整備プロジェクトなるチームが担当するとのことで、そのメンバー表に眼を通した私は、あちゃー、これではだめだろうと思いました。歴史のれの字も乱歩のらの字もご存じない人たちばかりであったからです。むろんその時点で私はいいだけかちんと来ておったわけですが、しかし私は名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託なのであり、嘱託としての任務ははたさねばなりません。ですから私は、もうこんな委員会の相手なんかしたくねーやというのが本音ではあったのですが、事務局で見せてもらった再生整備プロジェクトの会則に、

 ──第5条 チーフは、必要があるときは、構成員以外の者の出席を求めて意見を聴くことができる。

 とちゃんと定められておりましたことから、それに則って私が乱歩について話をする機会を設けてくれと申し出た次第でした。しかるにその後、事務局から伝えられた回答はどういうものであったか。

 ──現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない。

 ほんとにおれは腰が抜けそうになったぞ。なんぼなんでもここまでばかだとは思っておらんかった。それでまあばかが何をするのかと見ておりますと、なんだか知らんが桝田医院第二病棟の活用策を検討しはじめたというではないか。なーにやってんだ。おまえら何の権限があってそんなことやってんだ。名張まちなか再生委員会の任務はあくまでも名張まちなか再生プランの具体化である。プランに片言隻句も記されていなかった桝田医院第二病棟のことをどうしておまえらが検討するのか。おまえらの協議はいったい何によって担保されているのか。反語に不慣れなみなさんのためにあえて補足をしておきますと、そんなもの何によっても担保されてはおらんぞ。名張まちなか再生プランそのものは市民に公開されてパブリックコメントも募集され、むろん市議会のチェックも受けているのであるが、おまえらが進めている桝田医院第二病棟の整備計画はいったい誰のチェックを受けたというのか。市民の眼も届かなければ手も届かなければ声も届かないところで、おまえら勝手に何をやっておるのか。おまえらほんとに気は確かなのか。

 まったくまあこの名張市という地方自治体においては、野放図なほどのインチキが堂々とまかり通っておるわけです。しかも誰ひとりとしてそれを指摘し、批判しようとはしない。むろん私は声を大にして批判しているわけなのですが、そんな声などまったく聞こえないふりをして名張まちなか再生委員会はインチキを粛々とお進めくださっておるのだ。すっかりあきれ返ってしまった私は事務局に対して、名張まちなか再生委員会には今後いっさい協力しない、と申し伝えました。名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託、いやいまや乱歩資料と郷土資料とをまたにかけるふたまた嘱託の立場にある人間にそんなことが許されるのか、とは思いますし、そもそも土地建物の寄贈をほかならぬ私に対して最初に申し出てくださった桝田敏明先生のご遺族にも合わせる顔がない次第ではあるのですけれど、あほらしくってやってられるか、というのが私の実感なわけなのね。

 ですから昨日、私は建設部長さんから名張まちなか再生委員会への協力を要請されたのですが、それはお断りせざるを得ませんでした。そんなこと、できるわけがないではないか。

 といったところであすにつづきます。冒頭にも記しましたとおり、収拾がつかなくなっていた名張まちなか再生プラン、昨日の会見でひとすじの光明を見いだすところまで話が進みました。ポイントになりますのは、いうまでもなく行政の主体性ってやつでしょう。そのあたりのことはまたあした。

  本日のアップデート

 ▼1993年1月

 恋する〈蜘蛛男〉──江戸川乱歩通俗長編考 横井司

 なんともかわいいタイトルですが、専修大学国語国文学会の「専修国文」に掲載されました。

 乱歩の長篇が「単純なチャンバラ小説として論じ去られてよいのだろうか」との視点から論じられた一篇なのですが、反語に不慣れなみなさんのためにあえて補足をしておきますと、乱歩の長篇は単純なチャンバラ小説として論じ去られるべきものではない、というのが筆者の主張です。

 そうした主張にもとづいて「蜘蛛男」をメインに興味深い論述が展開されているわけですが、ここでは乱歩の初期短篇、それも犯罪が描かれていない短篇と、いわゆる通俗長篇とのあいだに恋愛という観点から一本の通路を浮かびあがらせ、乱歩作品に顕著な「コミュニケーション不全症」にたどりつくあたりをごらんいただきましょう。

 引用冒頭に「二作」とありますのは、「算盤が恋を語る話」と「日記帳」のことです。

 ここにあげた二作が全く同じモチーフを扱っていることは明らかであるが、問題はこれら「臆病な」男たちに対して、その方法については「卑怯」といい、その性質については「異常な執拗さ」「異様な性癖」という言葉を重ねている点である。会計係や『日記帳』の弟は犯罪こそ犯さないものの、これでは『屋根裏の散歩者』(大14)の「病的な」郷田三郎や、「すべての犯罪人と同じように、一種の精神病者」である『パノラマ島奇談』の人見広介と、なんら変わらない。

 恋のコミュニケーションという観点から見れば、一方に『算盤が恋を語る話』の会計係や『日記帳』の弟といった、極度の臆病者たちがいる。そして彼らがその臆病さを脱して過剰な存在となった時、『蜘蛛男』や『吸血鬼』の犯人のように、自らの恋の相手を犯罪的手段で奪い、極端に場合には殺してしまう犯罪者たちといった、もう一方の側の人間がいる。そういうふうに捉えることができる。『蜘蛛男』の連載が始まった昭和四年に雑誌『改造』に掲載された『虫』では、一方の極である臆病者がもう一方の極である犯罪者にいたる経緯が描かれている。

 恋愛と犯罪をアナロジカルに捉える視点は、秋山駿『恋愛の発見──現代文学の原像』(小沢書店、昭62)にも見られる。秋山駿は「恋愛の底には、非常にその人ひとりだけの、自分勝手なものがある。(中略)それが非常に犯罪というもうひとつのものに似ている。犯罪のなかでも、最もわれわれの関心をひく理由なき殺人のようなものです」という。恋愛が持つ「世間がどう言おうと、社会、学校がどう言おうとそんなことは知らない。これが俺には良い」という感覚と、「理由なき殺人」の持つ「とにかく俺はこの理由なき殺人という行為を犯す。それが俺には必要だ。だから俺はそうする」という感覚が似ている、というのである。三枝和子は秋山駿のこの言葉を引いて、「男性の「それが俺には必要だ」というふうに発想される行為にあっては、他者の所有するものを自分の所有にする、という犯罪の構造が最初から含まれている」のであり、また「「理由なき殺人」とは、自分の生存のために他者の生命を必要とすること」で、ここから「他者を殺すことによってしか、換言すれば他者を否定することによってしか、自己を定立し得ない」という思考として定義できる男の「所有の感覚」を導き出している。そしてこの感覚を「男性の恋愛観」と捉えている(『恋愛小説の陥穽』青土社、平3)。まさに『虫』は、「世にたぐいもあらぬ厭人者」の柾木愛造が、彼の幼い時の片思いの相手であり、たった一人の友人の恋人でもある女優の木下芙蓉を、殺害することによって「占有」する話であった。

 『算盤が恋を語る話』や『日記帳』は、そこに「自尊心」はあったが他者である女性はいなかった。そのことを最も痛烈に暴き出しているのが『日記帳』で、弟が恋していた遠縁の娘もまた弟に恋しており、その気持ちを伝えるため「一つの例外もなく、切手がななめにはってある」絵葉書で弟に返事を出していた。切手を斜めに貼るのは相手に対する恋を表したものだったが、弟はそれには気づかなかった。語り手の兄もそのことを不思議がっているのだが、この弟の失策は弟の前に他者としての遠縁の娘が存在していなかったことを明白に示している。乱歩作品にはこのように他者と向き合わない〈コミュニケーション不全症〉患者が多く登場する。

 「恋する〈蜘蛛男〉──江戸川乱歩通俗長編考」のコピーはある方から豊島区教育委員会学芸員の方の手を経て頂戴いたしました。しかしああ、その方のお名前が……。まことに申しわけありません。お詫びのしようもないことなれど、とにかくその方にお礼を申しあげる次第です。平身低頭。ほんとにどうもあいすみません。


 ■ 5月25日(木)
限りなく三重県に近い名張市

 いやー、おかげさまをもちまして2チャンネルで大人気みたいです。なにしろミステリー板の「【目羅博士の不思議な犯罪】 江戸川乱歩 第八夜」にこんな投稿が。

874 :名無しのオプ:2006/05/23(火) 18:36:57 ID:JPPqu6E5

名張の高卒DQN自己破産者の取り巻き腰巾着コニ。
痴呆公務員にして勤務時間中の掲示板書き込み、さすが赤旗購読者。
この二人、既に知命にして何やってるんだか。典型的な「田舎進歩派文化人」。
まあ仕方ないか、だって朝

 同じくミステリー板の「□■日本推理作家協会賞■□」には先日、かような投稿を頂戴したのですが──

453 :名無しのオプ:2006/05/17(水) 18:27:38 ID:D1+f1Fzh

昨年度、自ら関係した作品が落選したからといって、推理作家協会に
「悔い改めよ」などと未だに毒づく隠の自己破産者、見苦しいな

 旬日を経ずして今度は栄えある乱歩スレッドでご紹介をたまわり、なんともお礼の申しあげようがありません。それにまた、18日付伝言でこの「□■日本推理作家協会賞■□」の投稿をとりあげました際、

 ──それにいたしましてもこの投稿では「名張」がわざわざ「隠」と表記されていて、これだけの技がつかえるのはよほどの手練れ、ていうかうちらの地元の人間ではないのかとも推測され、

 と記しましたところ、このたびの投稿では古代の「隠」ではなく現代の「名張」という表記が採用されており、この点もたいへんありがたく思っております。「隠」という字を地名の「なばり」と読める人は、地元の人間を除けばほとんど存在しないことでしょうから(いやいや、地元名張市にだってすんなり読める人は多くないかもしれません。せいぜい「隠」と染め抜いたのれんを掲げたお店やお宅の関係者の方くらいなものではないのかしら。のれんというのはまあこんなふうな感じなのですが)、今後ともひきつづいて「名張」という表記でお願いできれば、名張市の知名度がぐーんとアップしたと関係者一同大喜びするのではないかと思います。

 しかしこのストーカーのごとき投稿者の方は、これからもせっせと2ちゃんねるに投稿しつづけてくれるのでしょうか。ちょっと心配です。といいますのも、「【目羅博士の不思議な犯罪】 江戸川乱歩 第八夜」には上掲の投稿のあと──

875 :名無しのオプ:2006/05/23(火) 21:00:07 ID:u1xDcM09

だって朝?


876 :名無しのオプ:2006/05/23(火) 21:01:34 ID:RDTRTs12

>>874
二人とも採算度外視で資料性の高い出版物を作ってくれているから
その程度のことで悪く言う気にはならないな。


877 :名無しのオプ:2006/05/25(木) 01:20:57 ID:njWTmxHe

>>874
公務員と高卒を躍起になって叩くところを見ると、お前は
コンプレックスの塊である書斎魔神のような心の人間に思えるな。

 といったぐあいに心ある2ちゃんねらーの方のツッコミがたてつづけに投稿されており、ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんはずいぶん傷ついたのではないかしら。もう2ちゃんねるに投稿なんかしないやい、してやるもんかと思っていらっしゃるのではないかしら。ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさん、早く元気になってくださいね。

 では、上掲の2ちゃんねらーお三方には心からお礼を申しあげ、きのうのつづきとまいりたいところなのですが、それにしても面白いもので、私がこの伝言板で名張まちなか再生プランを徹底的に批判すると、得たりやおうとばかりに、ていうかもう辛抱の限界です、とてもたまらんっちゃとばかり、2ちゃんねるミステリー板の乱歩スレッドにあんなふうな投稿が寄せられるところを見ると、一連の人たちはもはやギブアップ寸前なのかしらん。ギブアップするならギブアップすればいいのだし、私に文句があるというのなら私に文句をいってくるがよろしい。私に会いたいとおっしゃるのであればいつでもお会いいたします。

 ここで一連の人たちのために申し添えておきますならば、2ちゃんねる乱歩スレのあの投稿を、私はいくらでも名張まちなか再生プランに関する印象操作に利用できるわけです。ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんが名張まちなか再生プランの関係者なのかどうか、そんなことは私にはわかりません。むろんご閲覧の諸兄姉にもわかりません。しかし、誰にもわからないことであるがゆえに、あの投稿に関連して「一連の人たちはもはやギブアップ寸前なのかしらん」と記すことで、名張まちなか再生プラン関係者の誰かさんが断末魔の悪あがきであんな投稿をしたのかもしれないなという印象を生じさせることは可能です。その点、よろしくご承知おきください。身のためにならぬことには手を染めぬのが賢明であろう。

 それにしても、いまや懐かしく思い出されるのは怪人19面相君のことである。あれはよかった。あの怪人19面相君もいずれ ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんと仲のおよろしいお仲間なのであろうが(ほらこれが印象操作なのですが)、同じお仲間といってもいっぽうは陰、いっぽうは陽という決定的なちがいがあった。むろん怪人19面相君は陽のほうであって、しかも余人が及ばぬくらい突き抜けておった。私の掲示板「人外境だより」に堂々と投稿してくれたその気っ風もじつに好ましいものである。

 ──そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!

 いやー、いま読み返しても新鮮な気分で笑えます。懐かしいなあ怪人19面相君。まったく君のおかげです。君のおかげで名張まちなか再生委員会が乱歩という作家をどの程度に認識しているのか、私が説明するまでもなく少なからぬ乱歩ファンのみなさんにお察しいただける結果となりました。お礼を申しますぞ19面相君。それにしても、君はいまごろどこにどうしているのやら。

 さておととい、名張まちなか再生プランのことで名張市の建設部長からお時間をいただき、名張まちなか再生委員会の委員長にもご同席いただいて、ほかには建設部都市計画室の職員お二方、総勢四人のみなさんとおはなしをしてきた結果の報告です。昨日も記しましたとおり、もはや収拾がつかなくなっている名張まちなか再生プランの行く末に、なんとかひとすじの光明を見いだすことができました。そのご報告。

 5月20日付毎日新聞の「乱歩蔵びらきの会:名張・生誕地に隣接整備の「記念館」、構想立案から参画 /三重」でも、

 ──市と地元住民らでつくる「名張まちなか再生委員会」(多田昭太郎委員長)は、6月にも記念館の概要を決める検討委員会を組織し、

 と報じられておりましたとおり、名張まちなか再生委員会は歴史拠点プロジェクトの内部委員会として乱歩記念館(仮称)の検討委員会を発足させるそうです。ただし、6月になるか7月になるか、そのあたりは未定とのこと。どうしてそんな委員会が必要なのかというと、要するに桝田医院第二病棟の整備計画は歴史拠点プロジェクトの手には負えないということでしょう。だからわざわざ新たな検討委員会を設立し、あらためて協議検討を進めようということのようです。で、おとといお聞きしたところによれば、私もこの委員会のメンバーに予定されているとのことでした。

 むろん私は、それはできません、とお答えしました。できるわけがありません。私は以前から名張まちなか再生委員会に対して、おまえらに桝田医院第二病棟の整備計画を検討する権限はない、とお伝えしております。おまえらの役目は名張まちなか再生プランの具体化であり、プランにひとこともふれられていない桝田医院第二病棟のことをおまえらがいくら協議してもそんなものは無効である、と一貫して批判してきた人間が、名張まちなか再生委員会に新しく桝田医院第二病棟の整備計画を検討する委員会ができたからといって、そんなところにほいほい加われる道理がありません。

 もう少し原理原則というものを重んじてくれなければ困ります、と私はおとといお願いしました。読者諸兄姉は私がなんとも杓子定規で堅苦しいことをいってるなとお思いかもしれませんが、名張まちなか再生委員会が何をやっているのかというと、煎じつめれば税金の具体的なつかいみちを決めているわけです。それならばルールや手続きは絶対に無視できませんし、原理原則をないがしろにするなどもってのほか。税金のつかいみちは市民の納得できる方法で決めていただかねばなりません。違法脱法あさめしまえ、要領よく立ちまわったやつが勝ちなのよというのが当節の風潮ってやつなのかもしれませんが、お役所がルールや手続きを無視していただいては困ります。それにそもそも、原理原則を拳々服膺する杓子定規な形式主義はお役所の十八番だったはずではありませんか。

 少なくとも現時点では、すなわち名張まちなか再生委員会が名張まちなか再生プランに盛りこまれていない構想を協議するなどというインチキをつづけているかぎりは、私にはとても協力することなどできません。とはいえ、打開策がないというわけでもありません。そのひとつは(ほかにはないと思われますが)、名張まちなか再生プランを修正し、桝田医院第二病棟の整備構想をそこに盛りこむことであると私は考えます。ですから私は1月27日、事務局に対して名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集するよう要請したのであり、ご同席いただいた名張まちなか再生委員会の委員長からもそれを検討するようお口添えをいただいた次第でした。

 それでその検討の結果をおとといお知らせいただいたのですが、再招集はできないとのことでした。それは当然のことでしょう。そんなことができるわけがない。再招集などというのはおよそ常識はずれなことであり、しかしそれだけのことをしなければ取り返しがつかないくらい、それくらい常識はずれなことを名張市はつづけてきたのである。いまのままではいつまでたっても、名張まちなか再生委員会が桝田医院第二病棟の整備計画を協議検討していることに対して市民の納得は得られぬことであろう。

 ではいったい、どうすればいいのか。そこで出番なわけです。行政の主体性ってやつの出番なわけです。そもそも名張まちなか再生プランはいったいどこが決めたものなのか。名張市ではないか。名張市が決めたものではないか。策定の実務を名張地区既成市街地再生計画策定委員会が担当し、まとめられた素案を市議会がチェックし、公開されたプランを読んだ市民がパブリックコメントを寄せ、つまりは所定のルールを守り必要な手続きを踏んだそのうえで、ほかならぬ名張市がみずからの主体的な判断としてあのプランを正式決定したのではないか。だとすれば、行政の主体的な判断にもとづいてあのプランに変更を加えることはいくらだって可能なはずである。だったらそれをすればいいだけの話である。

 行政が主体性を発揮し、名張まちなか再生プランに遅ればせながらみずからの手で修正を加える。それが私のいう光明です。不可能なはずはありません。むろんそのためにはなんらかの手続きが要請されるでしょうし、桝田医院第二病棟の整備構想がそうしたハードルをいっさいクリアすることなく進められてきたところの、議会のチェックやパブリックコメントの募集も必要になってくるかもしれません。それは当然のことでしょう。当然のことは当然のこととして受け容れるしかありません。で、名張まちなか再生プランに名張市みずからが変更を加えるためのもっとも合理的な手法を考える。それを名張市サイドの宿題にしていただいて、おとといの会見はつつがなく終了した。私はそのように理解しております。

 行政の無謬性などという時代遅れな神話をいつまでも信奉しているかぎり永久に無理なことではありましょうけど、とにかくもうこうでもしてはっきりと決着をつけないことには、名張市は三重県と同じになってしまうのではないかと私は案じます。三重県といえばもちろん、税金三億円をどぶに捨て去った事業で乱歩ファンにも広く親しまれるようになったおばかな県です。そんなおばかなことをしてはなりませぬと、私はいくたびも忠告しました。事業の最高責任者でいらっしゃる野呂昭彦知事から拝眉の機を頂戴し、こんなことやってちゃだめじゃないのダーリン、とご忠言申しあげようともいたしました(むこうがお逃げになりましたけど)。

 もとより私には、あの長ったらしい名前の事業がろくなものにならぬであろうことは最初から知れておりました。伊賀の魅力を全国発信、などといいながらご町内の親睦行事を寄せ集めてそれで終わりであろう。そんな予測はいともたやすくつきましたけれど、それはいたしかたのないことでしょう。それが伊賀地域のアベレージというものなのであるからして、いたしかたあるまいと眼をつむることは不可能ではありませんでした。ただし、と私は事業関係者にお願いしたものでした。おまえらがどんな事業にどれだけの予算をつかって血税をどぶに捨て去ってくれるのか、どぶに捨てるなら捨てるでそれだけははっきり示してから捨てるのだぞ、と。

 しかるに結果はどうであったか。事業関係者のみなさん、すなわち上は県知事から下は名もない地域住民まで、みごとなまでに私の助言に耳をかすことはなかった。知事にいたっては私の忠言を「雑音」であるとおっしゃった。そして事業関係者一同、予算の明細をいっさい示すことなく事業に突入してしまった。なんだか妙に必死になって、なりふりかまわず突入してしまった。眼もあてられぬとはこのことであろうと私は思った。ばーか。やーい。やーい。うすらばーか。

 そのうすらばかのお仲間に、このまま行けば名張市もめでたく加えていただけることになるでしょう。とはいえ、名張市が三重県と歴然とちがう点というのもたしかに存在していて、それは職員が誠実であるということです。ずいぶん不遜なことをいうようであるが、むろん私はお世辞を書き記しているわけではなく、だいたいが私には名張市職員にお世辞をいわねばならぬすじあいもなく、名張市職員だって私からお世辞をいわれたところでうれしくもなんともないであろうが、これは私が肌身に実感していることなのである。名張市職員は三重県職員なんかよりはるかに誠実である。

 実際あの三重県職員たちの不誠実さと来た日には、人をして茫然とさせるに充分であろう。知事にお会いしたいと知事室に送信したメールがなぜか生活部にまわされ、さんざっぱら人を待たせたあげく知事にお会いいただくことはできませんという返事がもたらされたのは一年もたってからのことであった。一年である一年。一か月でなくて一年。こら三重県庁のくされ公務員ども、おまえらほんとに脳みそがくさっておるのであろう。

 これはもしかしたら、日々地域住民に向き合っている市職員と県庁でふんぞり返っている県職員とのおのずからなる差異というものなのかもしれませんけれど、とにかく歴然たるちがいが存在することはまぎれもない事実です。私は名張市職員が何はともあれ誠実であるということを、声を大にしてここに指摘しておきたい。それにひきかえ三重県は最悪であって、あーこれこれ三重県職員のみなさんや、もしもよろしかったら名張市役所へ研修にいらっしゃい。名張市役所でものの半年も働いてごらんなさい。みなさんの優雅な公務員ライフには大きなステップアップがもたらされることでしょう。

 そして私は、あの長ったらしい名前の事業を推進した三重県における官民合同組織と、名張市における名張まちなか再生委員会という名の官民合同組織とのあいだに、じつにさまざまな共通点を見いだすことができることから尋常ならざるほどの不安をおぼえ、名張市よお願いだから三重県のようになってはくれるなと切に祈りたい気分なのである。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 鉄塔王国の恐怖 江戸川乱歩

 例のシリーズです。今回も巻末解説から引きましょう。執筆者は戸川安宣さんです。

解説 のぞきカラクリの世界
 このお話は、作者の江戸川乱歩先生がおとなのために書いた『妖虫』という作品を、少年読者のために書きあらためたものです。もし将来、『妖虫』を読む機会がありましたら、そのときは、どこをどう変えているのか、ようく読み比べてみてください。きっと、乱歩先生の工夫がわかって、二重に楽しめることでしょう。そして、いかに先生が少年読者の読み物のために、あれこれと知恵をしぼっていたかがわかって、びっくりされるに違いありません。

 5月20日付伝言に記しましたとおり、福岡県にお住まいの小学五年生の男の子から名張市立図書館へあてて、乱歩に関する問い合わせのおたよりを頂戴しました。私はさらさらと返信をしたため、こんなときのためにと2003年の「江戸川乱歩展 蔵の中の幻影城」会場で購入した豊島区謹製乱歩すごろくなどのおまけとともに発送したのですが、この解説に戸川さんがお書きになっているようなことも、ここからこっそりパクって記しておけばよかった。そしたらかっこよかったのに。いや残念なり。まだまだ修行が足りません。


 ■ 5月26日(金)
2ちゃんねるには向かない職業

 ありゃりゃ。まーだ2ちゃんねるの「【目羅博士の不思議な犯罪】 江戸川乱歩 第八夜」をお騒がせしているみたいです。私のストーカーとおぼしき ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんが5月23日付投稿にお残しになった謎の言葉、

 ──だって朝

 が思わぬ波紋をひろげております。うーむ。ミステリー板乱歩スレッドのみなさんにはとんだご迷惑をおかけしているのかもしれません。お詫びのしるしに、ということにはとてもなりませんけど、私も謎解きに参加してみましょう。

 しかしじっくり閲覧してみたら、すでに正解は提出されているようです。

879 :名無しのオプ:2006/05/25(木) 19:41:38 ID:lxFEV6k7

朝日新聞購読者

 「朝」は「朝日新聞」の「朝」でしょう。問題の投稿を再掲いたしますと──

874 :名無しのオプ:2006/05/23(火) 18:36:57 ID:JPPqu6E5

名張の高卒DQN自己破産者の取り巻き腰巾着コニ。
痴呆公務員にして勤務時間中の掲示板書き込み、さすが赤旗購読者。
この二人、既に知命にして何やってるんだか。典型的な「田舎進歩派文化人」。
まあ仕方ないか、だって朝

 「だって朝」に先行する「赤旗購読者」と、もうひとつ「田舎進歩派文化人」という言葉から推して測るならば、たぶん「朝日新聞購読者」ということになるのではないかと思われます。

 つまりこの ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんには、2ちゃんねるでは朝日新聞が日常茶飯にたたかれているという認識があり、私のことを2ちゃんねるであしざまにいいふらす素材として朝日新聞を利用した、といったことなのではないでしょうか。みごとなまでにすべってますけど。ていうか、なんの芸もないのね。

 しかしこれで終わってしまったのではあまりにもあっけない感じですから、私のほうからつたない芸をばご披露申しあげることにして、もう少し ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんの投稿で遊んでみましょうか。たとえば、

 ──既に知命にして何やってるんだか。

 とう文言に眼をつけてみましょう。「知命」って何よ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。最近はほとんど見かけない言葉です。論語の「五十にして天命を知る」から出たもので、五十歳という意味で使用されます。三十が而立、四十が不惑(この言葉はいまでもたまに眼にします)、五十が知命で六十が耳順となります。そして七十ともなれば、心の欲するところにしたがいて、のりをこえず。大正製薬のサモンという滋養強壮薬のテレビコマーシャルを懐かしく思い出していらっしゃる方もおありでしょう(いませんか)。

 で、こうした言葉をご使用であるからには、もしかしたらこの ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんも知命をすぎた方なのかもしれないな、というのが私のプロファイリングです。ほかにも、この人物は高卒でもなければ DQN でもなければ自己破産者でもない(「DQN」の意味がおわかりにならない方のために、語釈が記されたページへのリンクを設定しておきました)、といったあたりのことが推測できます。ちなみに記しておくならば、ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんは「DQN」という言葉をかなり無理して、つまり2ちゃんねるという場にあわせるために無理してつかっていらっしゃるような印象があります。

 つづいて、もうひとつの投稿を再掲してみましょう。

453 :名無しのオプ:2006/05/17(水) 18:27:38 ID:D1+f1Fzh

昨年度、自ら関係した作品が落選したからといって、推理作家協会に
「悔い改めよ」などと未だに毒づく隠の自己破産者、見苦しいな

 「隠」という表記に関してはきのうも記しましたから省略いたしますが、結論からいってこの ID:D1+f1Fzh の名無しのオプさんと乱歩スレの ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんとは同一人物にちがいありません。投稿の時間は、

 ──2006/05/17(水) 18:27:38

 ──2006/05/23(火) 18:36:57

 つまり午後6時30分ごろには暇になって、さあそろそろ店じまいするかな、みたいな生活を送っていらっしゃる方なのかもしれません。

 ついでに再掲。

中田 三男   2006年 4月10日(月) 17時21分  [219.54.8.81]

雨風便りをひとつ。某市立図書館には、お二人の嘱託員がおられたとか。お一人は言うまでもなく。もうお一方は郷土資料担当だったとのこと。本年度からの嘱託定員数は1名・・・迷わず、郷土資料担当嘱託員が消されたというのは、おもしろいおはなし。嘘でも本当でもどうでもいいが。

 この中田三男さんの場合は、

 ──2006年 4月10日(月) 17時21分

 これが投稿時刻ですから、この日はふだんよりも早くお店が暇になったのでしょうか。お店のご繁栄を祈念いたします。いやべつに商店経営者の方とかぎった話ではなく、名張市役所にお勤めの方であっても午後5時21分に投稿することはいくらでもできましょう。つまり要するに、職業はどうあれ2ちゃんねるなどの掲示板に向いていない人はやっぱ投稿しないほうがいいのではないかしら。ご注意あそばせ。

 いやいや、プロファイリングのつもりで妄想としかいえないことを書き散らしてしまいました。ID:D1+f1Fzh の名無しのオプさんと ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんと中田三男さんにお詫びを申しあげます。ついでというのもあれなのですが、あんなけったいな投稿が掲載されたのももとはといえば私のせいなのですから、「【目羅博士の不思議な犯罪】 江戸川乱歩 第八夜」のみなさんにもお詫びを申しあげる次第です。

 さてそれで、これこれ名張まちなか再生委員会のみなさんや、おまえらこんなことやっていったい何が面白いの。全国の高卒と DQN と自己破産者を敵にまわして何がしたいの。おれは高卒で DQN で自己破産者だからはっきりいっとくけど、おれたちを怒らせたらただじゃすまんよ。その気になれば名張まちなか破壊委員会くらい、あっというまにつくってみせれる。おれたちはいつもら抜き言葉さ。だいたいがそれでなくたって俺は怒ってるわけよ。何なんだおまえらは。おまえらのやるべきことはあくまでも名張まちなか再生プランの具体化であり、プランにひとこともふれられていない桝田医院第二病棟の整備計画の検討なんかおまえらにはできないのであると、ごくあたりまえのことをおれが指摘したのがそんなに気にくわないのか。どう考えたって道を踏みはずしてるのはおまえらのほうだろうが。それを逆恨みしてどうする。それにおまえら、だんだん陰湿になってるぞ。去年の怪人19面相はまだよかった。あれは面白かった。笑えた。腹をかかえて笑えた。しかし今年に入ってからのおまえらのいやがらせには、笑って見すごすというわけにはいかないものがある。それにしてもおまえらにはほんとに感心するよ。たいしたもんだ。おまえらよくもこのおれをつかまえて、名張まちなか再生委員会に協力してくれなどといえたものだ。ばーか。まあ仕方ないか、だって朝

 いや、いやいや、いやいやいや、いやいやいやいや、またしても妄想としかいえないことを書き散らしてしまいました。名張まちなか再生委員会のみなさん、どうも申しわけありません。ご無礼つかまつりました。どうぞ堪忍してください。

 妄想にもとづく妄言は多謝のうえでさておき、きのうまで二日にわたってお知らせ申しあげましたそのとおり、私は名張まちなか再生プランに名張市の手で修正を加えていただくことをお願いしてまいりました。それをやらなければ話が前に進みません。このまま名張まちなか再生プランが実施に移されて、名張市にいよいよ乱歩記念館(仮称)が完成いたしました、ばんざーい、ばんざーい、しかしプランをよく見てみたら、乱歩記念館(仮称)なんてひとことも書かれていないではないか、はて面妖な、まったくもってイリュージョン、誰だ名張にプリンセス・テンコー呼んできたやつは、なんてことになったら名張市民のひとりとしてたいへん恥ずかしく思います。

 それでその乱歩記念館(仮称)のことですが、これはもうさんざん申しあげてきたことなのですけれど、私は名張市に乱歩記念館(仮称)なんて必要ないと思ってるわけです。きのうやきょうの思いつきではなく、一貫してそのように考えております。たとえば1995年10月、私は名張市立図書館の嘱託を拝命いたしました。翌年5月、平井隆太郎先生のもとにご挨拶にあがることになりました。それで私は名張市が乱歩のことをどう考えているのかを知っておきたいと思い、図書館長(当時の図書館長です。つまり前々々々館長)に市長(当時の市長です。つまり前市長)に会いたいのだがと申し出ましたところ、教育長(当時の教育長です。つまり前々教育長)からばーか、てめーらごとき嘱託風情が天下の名張市長様に会えると思うか、下がりおろう無礼者、おまえのおめもじがかなう偉い人のトップはこのわしである、わしとて激務の身であるが、たっての望みというのであれば聞き入れてやらぬでもない、との仰せをいただきましたので、おそれながらと這いつくばりながら名張市役所の教育長室にお邪魔し、話のついでに、

 ──名張市に乱歩記念館は必要ありません。

 と名張市立図書館乱歩資料担当嘱託としての公式見解をお伝えしてきた次第です。

 この考えにはいまもまったく変わりがありませんので、かりに名張まちなか再生プランが修正されて名張まちなか再生委員会が桝田医院第二病棟の整備計画を晴れて検討できるようになったとしても、私ははたして乱歩記念館(仮称)の検討委員会に協力できるのかどうか。なんとも悩ましい袋小路に追いつめられたような気がいたしますですが、まあ仕方ないか、だって朝

  本日のアップデート

 ▼2006年2月

 『江戸川乱歩傑作選』 千鳥足純生

 ミナト神戸は元町にある海文堂書店のフリーペーパーに掲載されました。人生のおりおりに出会ったあんな本こんな本の思い出をつづる「本の生一本」という連載の一篇。筆者名は「ちどりあし・すみお」と読みます。いったいどこの酔っぱらいか。などと人のこといってられる身分か。

 今回はいまも版を重ねる新潮文庫の名アンソロジー『江戸川乱歩傑作選』がとりあげられております。

 当時乱歩の作品を文庫版で容易に入手できたのは、新潮文庫版だけだったと思う(春陽文庫でも出ていたはずだが、春陽文庫自身を新刊書店で全く見かけなかった)。それが本書である。

 たったこれだけ? とお思いのあなたは海文堂書店オフィシャルサイトのこのページへどうぞ。全文をお読みいただけます。


 ■ 5月27日(土)
乱歩記念館の耐えられない軽さ

 さて本日は、

 ──私が名張市の乱歩記念館構想に反対するこれだけの理由

 みたいなことをお知らせいたすべきところなのかもしれませんが、もうあまりにもあほらしい。あーほらーしやあほらしやー、よっ、守屋浩、などとおちゃらけていてもしかたないのですが、とりあえず過去に記したところをごらんいただくことにして、まずは「乱歩文献打明け話」の第十三回「十七歳はバスに乗って」あたりから引用いたしましょう。

 この漫才を発表したのは六年前、つまり2000年の6月のことで、ちなみに記さば当時の名張市長はのちに乱歩記念館に関するとんでもない大嘘で私をいいだけ激怒させてくれることになる前市長であったのですが、豊島区が旧乱歩邸を利用した乱歩記念館構想を発表し、そのための調査がスタートしたのがこの2000年という年でした。豊島区の構想はやがて断念されるにいたりますが、この年6月の時点では実現されるものと見られていました。

「君、『なばり市議会だより』の五月号は読みましたか」
「何が出てますねん」
「名張市議会三月定例会の報告です」
「そらまあそうでしょうけど」
「予算質疑の報告も載ってまして」
「それがどないしました」
「そのなかの見出しにいわく」
「なんですねん」
「『乱歩記念館の構想』」
「名張市議会で乱歩記念館のことが話題になったんですか」
「まあ予算特別委員会の話題ですけど」
「どんな話題でした」
「そら君びっくりしますよ」
「そんな凄い構想ですか」
「質問と答弁が掲載されてまして」
「質問といいますと」
「平成十二年度予算に関連してある議員が質問をなさったわけですけど、『なばり市議会だより』に載ってるのをそのまま読みますと、『質問●市長は平成九年の年頭記者会見で、十年度計画として乱歩記念館の建設を語っているが、一向に実現の兆しがない。この間、東京新聞紙上で豊島区が乱歩遺産の寄贈を受けることが報じられた。市立図書館の乱歩コーナーの存廃、展示品の収集など、市長の記念館構想はどうなるのか』」
「それはもっともな質問ですね。それで名張市側の答弁はどないでした」
「『なばり市議会だより』によりますと、『答弁●乱歩資料はまとめて保存・公開されることが望ましいと考えている。名張市としては、遺品の取り合いなどを考えず、乱歩生誕地として東京側とは違った方法での乱歩顕彰策を考えたい』」
「いったいその答弁のどのへんにびっくりせえゆうねん」
「あまりの無能無策ぶりに」
「そらたしかに策はないですけど」
「腰抜けますよほんま」
「そらまあ君にしてみたらそうかもしれませんけど」
「結局この答弁で何がわかったかといいますと、要するに名張市は乱歩のことに関して何も考えてこなかったし今後も考えるつもりはないゆうことですね」
「そこまで決めつけたらあかんがな」
「名張市は僕を本気で怒らせる気ィなんですかね」
「そんな気はないやろけど」
「僕に喧嘩を売ってるんですかね」

 あーいかんいかん。過去に述べたところを引用したらますますあほらしくなってきました。答弁には「乱歩生誕地として東京側とは違った方法での乱歩顕彰策を考えたい」とありましたが、この議会が開会された2000年3月以降、名張市において乱歩の顕彰策なるものが考えられた形跡などどこにもありません。まーったく何をいうのもあほらしいところなれど、引用ついでに今度は第三回「わが悪名」から。

 あだしごとはさておき、要するに私は、江戸川乱歩という作家に関しては、もはや名張市や名張市教育委員会に何の期待もしていないのである。どんな事業をやってほしいとも思っていないのである。むろん私には、これまで乱歩関連事業に携わってきた市職員諸君を批判する気はまったくない。彼らの労苦を多とするにいささかも吝かではない。どうもご苦労さまでしたと心から申しあげたい。しかし、乱歩に対する敬愛の念や乱歩に関する知識もなしにお役所が乱歩関連事業を手がけることに対しては、やはり批判の目を向けざるを得ないのである。

 これは1997年12月に発表したもので、いまでもこうした考えに変わりはないのですが、

 ──もはや名張市や名張市教育委員会に何の期待もしていないのである。

 とありますところ、いまならきっと、

 ──もはや名張市や名張市教育委員会や名張市民に何の期待もしていないのである。

 と記していることでしょう。だってあなた、怪人19面相みたいな人たちにいったい何を期待せよと。

 で、上掲箇所のつづき──

 だから私は、これは前回も書いたことだが、名張市はもう乱歩から手を引いてはどうかと思っている。乱歩という郷土出身作家に本気で取り組む気がないのなら、思いつきでしかないうわべばかりの乱歩関連事業など、いくら積み重ねてもあまり意義はないのではないかと愚考している。

 おまえらほんとにもう手を引いたらどうよと、私は機会あるごとに主張してきたのであるが、なまんだぶなまんだぶなまんだぶ、いつもいつも馬の耳に念仏なのであった。

 私は思いつきというやつに心底うんざりしている次第なのですが、名張市における最大の「思いつきでしかないうわべばかりの乱歩関連事業」は何かというと、それこそが乱歩記念館の建設にほかならぬのである。ばかのひとつおぼえみたいに乱歩記念館乱歩記念館とそんなことしかいえないのはばかの証拠なのであるとしかいいようがないのですが、そういう人たちにまるで水を浴びたみたいにぱっちりと眼を醒ましていただくために、高の知れた無駄金をちびちびつかってしょうもないハコモノつくるよりもっと有意義で有益なことはいくらだってできるのだということを身をもって示すために、その一例として私はそれこそ身を粉にして江戸川乱歩リファレンスブックをつくったのではないか。みたいなことも「乱歩文献打明け話」には記してありまして、1998年3月発表の第四回「ああ人生の大師匠」から引用。

 瞑するどころか、名張市立図書館が乱歩に関連して出すべき本はいくらでもあるのだ。これからどんな本を出すのかと聞かれることも多いので、私は適当に、乱歩に関する地名辞典や人名辞典はぜひ出したい、などと答えることにしているのだが、世の中には気の早い人がいて、『乱歩文献データブック』のためにご協力をいただいたある方からの年賀状に、試みに乱歩の辞典をつくり始めてみたところ、文庫本一冊で項目が百を超えてしまった、と記されていたのにはびっくりした。しかし読者よ、実際のところ、名張市立図書館がこの「江戸川乱歩リファレンスブック」のシリーズをたとえば五年間で五冊刊行したと考えてご覧なさい。乱歩記念館をひとつおっ建てるより、はるかに安上がりできわめて有意義な事業となることは明白であろう。明白ではあるのだが、というところで紙幅が尽きた。つづきは三か月後である。

 まったくやっておれん。私が何をいい何をしても、結局そこらの人間には何も伝わってはおらなんだ、連中には何も理解できておらなんだということになるでしょう。したがいまして、かりに名張まちなか再生プランが名張市の手で修正され、名張まちなか再生委員会が桝田医院第二病棟の整備計画を晴れて検討できるようになり、委員会の歴史拠点整備プロジェクトに乱歩記念館(仮称)検討委員会が結成され、私がその検討委員会に協力することになったとしても、委員会のメンバーには私のいうことが理解できないものと推測されます。だったらおれが委員会に加わっても意味ねーし。

 いやまったく困ったものだ、いったいどうしたものかしら、ても悩ましきことよのうと頭を抱えつつ、ちょっと気分転換に2ちゃんねるの「【目羅博士の不思議な犯罪】 江戸川乱歩 第八夜」を閲覧してみたところ、新たな謎が提出されておりました。いつまでも乱歩スレッドを話題にしていては2ちゃんねらーのみなさんからウザイとお叱りをいただいてしまうことでしょうが、ともあれ新たな謎というのは──

885 :名無しのオプ:2006/05/26(金) 17:34:55 ID:p+PQwIwY

>>874は途中、殺される時、書き込みボタンをクリックしたってこと?
それともダイイングメッセージってこと?

 うーむ。これはいったいどっちなんでしょうか。しかしこうなりますと、つまりあのスレにこれだけの謎を残してしまったのですから、くだんの投稿者すなわち──

874 :名無しのオプ:2006/05/23(火) 18:36:57 ID:JPPqu6E5

名張の高卒DQN自己破産者の取り巻き腰巾着コニ。
痴呆公務員にして勤務時間中の掲示板書き込み、さすが赤旗購読者。
この二人、既に知命にして何やってるんだか。典型的な「田舎進歩派文化人」。
まあ仕方ないか、だって朝

 この ID:JPPqu6E5 の名無しのオプさんにはぜひとも正解をご投稿いただきたいものです。提出された謎はすべてきれいに解明されるのが探偵小説の基本なのですから、謎をかけたままでおしまいというのでは天国の乱歩からも不興を買ってしまいましょう。いかがですかこの伝言板をごらんになっているにちがいない ID:JPPqu6E5 さん。

 念のためにいっときますと、ID:JPPqu6E5 さんには何のリスクもありません。もういちど2ちゃんねるに投稿したからといって、正体がばれる心配はまったくありません。もちろん私がきのう試みたプロファイリングによれば──

2ちゃんねるミステリー板「【目羅博士の不思議な犯罪】 江戸川乱歩 第八夜」における 874:名無しのオプ:ID:JPPqu6E5 の正体
1 年齢は五十歳以上
2 高卒ではない
3 DQN ではない
4 自己破産者ではない
5 午後6時30分前後に暇になる商売を営んでいる
6 名張まちなか再生委員会のメンバー

 もうひとつつけ加えておくならば、性別は男性である。まあこういったところなのですけれど、これが正鵠を射ている可能性は細木数子さんの未来予測におけるそれよりもさらにはるかに低いはずですからご心配なく。毎日あえてリスクを背負い、そのとばっちりで日ごろからお世話になっている方が2ちゃんねるで無根拠な中傷を受けてしまうというリスクまで引き受けながら、それでも名張市に正しい道を指し示そうとインターネットでばかみたいに獅子吼しているリスクの帝王が、ID:JPPqu6E5 さんあなたにゃ毛筋ほどのリスクもありませんと保証しておるのです。どうぞ安んじて正解をご投稿ください。

  本日のアップデート

 ▼1928年11月

 鬼才三人

 平凡社の現代大衆文学全集に附された「大衆文学月報」第十九号に掲載されました。昭和3年11月の発行です。

 「耽綺社同人諸氏の新進作家集観」として、耽綺社同人四人による新人作家評をまとめたコーナーの一篇。乱歩は川田功、橋本五郎、城昌幸の三人を担当しています。

 最初の段落を引いておきましょう。

 川田功氏を新進作家の仲間に入れるのは、少々気の毒なやうな気がせられる。新進といふ言葉が年齢の問題ではないにしても、日露戦争の勇士、海軍少佐といふ立派な肩書をもつた川田さんである。それが余技として探偵小説を書いたからと云つて、新進作家扱ひをするのは、その人を知つてゐる私には、何だかしつくり来ないやうな気がしてならない。況んや、筆を取りはじめた年代からしても、その作品の老巧さから見ても、決して謂ふ意味の新進ではないのである。

 野村恒彦さんからご教示をたまわりました。お礼を申しあげます。


 ■ 5月28日(日)
三重県にさらばを告げよ

 あんまり殺伐としてしまうのは好ましくありませんし、こちらが先行しすぎるのもよろしくないでしょう。いまはまだ名張まちなか再生プランが名張市の手で修正されるのを待っている段階ですから、名張まちなか再生委員会内部に近く新設される委員会で検討が進められるという乱歩記念館(仮称)について、あまり先走ったことを述べたてるのはいかがなものか。このまま行けば名張まちなか再生プランが修正されたころには、この伝言板では乱歩記念館終わったな、みたいなことになっている可能性すらあります。

 ですから本日は、名張まちなか再生プランに対して私が提出した渾身のパブリックコメント、すなわち「僕のパブリックコメント」のおさらいをしておきたいと思います。私がパブリックコメントを提出したのは昨年3月のことでしたが、提言は採用されるにいたらず、名張市オフィシャルサイトのこのページで告知されておりますとおり、「素案に盛り込めないが、今後の参考とするもの」との扱いになりました。しかし私の提案は、どうやら「今後の参考」にさえしていただけなかったようです。

 採用されるにいたらなかった私のパブリックコメントに参考となるべき点があるとするならば、それは何よりも乱歩記念館という言葉をどこにも使用していないという一点でしょう。プランそのものにはまったく盛りこまれていなかった桝田医院第二病棟の活用について、乱歩記念館をつくるべしなどという愚劣なことを私はひとこともいっていない。にもかかわらずいまごろになって乱歩記念館(仮称)検討委員会などというものがとりざたされているということは、私のパブリックコメントが何の参考にもなっていないという何よりの証拠である。

 どうか関係各位には、私のパブリックコメントをもう一度じっくり読んでみていただきたい。関係各位よ、世の中は何から何まで思いつきだけで動いているというわけではけっしてないのだ。深く考え抜かれた意見というのも確実に存在しているのであり、その一例が「僕のパブリックコメント」なのであって、地域の実情と独自性に立脚し、名張市の財政難にかんがみてできるだけ安あがり、そのうえ名張市という自治体があほではないと全国に発信できる内容となっております。たとえばそこらのコンサルタントと称する怪しげな業者であれば、きわめて月並みでお金ばかりかかって地域の個性をすっかり殺してしまうようなプランしか提出できないであろうところ、よかったね君たち、名張市にぼくみたいな優秀な人間が住んでいて。

 しかるに、である。いやいや、これもやめておきましょうか。「僕のパブリックコメント」をおさらいするだけでも、やっぱりなんだか殺伐としてきそうです。私はべつに殺伐としてもいいのですけれど、あんまり殺伐としてしまうと名張市における名張まちなか再生プランの修正手続きによくない影響が出てしまうかもしれません。いまはとても大切な時期です。

 この大切な時期に判断を誤ってしまうと、先日も記しましたとおり名張市は三重県になってしまいます。三重県は最悪。一連の国民年金保険料不正免除問題では、ご多分にもれずよくないことをしていた三重社会保険事務局の局長が更迭されることになりましたが、乱歩が終生恩人と慕った川崎克の孫にして厚生労働大臣でいらっしゃる川崎二郎先生は昨日、テレビニュースでこの件に関するコメントを求められて、三重は大阪より悪質である、とまことに厳しいお言葉を述べていらっしゃいました。大阪より悪質な三重。それと同じレベルにまで堕落してしまおうとしている名張市。これはなんとか防ぎたいものです。

 とはいえ、三重県が天下に恥をさらした官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」に見られた隠蔽性と排他性、ご町内感覚となあなあ体質、理念の不在、説明責任の放棄、正常な市民感覚の欠如、いんちき、でたらめ、ばか、その他もろもろ、それはまああの事業で味をしめた芭蕉チルドレンが名張まちなか再生委員会にもまぎれこんでいるのですから当然といえば当然の話なのですが、あの事業とこのプランには両手で数えてまだあまるほどの類似点共通点が存在しているといわねばなりません。それをいかにして克服できるか。いまはほーんと、とっても大切な時期ざんしょ。みたいなこといってプレッシャーかけてどうする、とも思いますが。

  本日のアップデート

 ▼1965年11月

 悪魔派・ハイド氏を夢みた……「江戸川乱歩」の影の世界 久我庄一

 伝説の雑誌「奇譚クラブ」に掲載されました。乱歩が逝去した昭和40年の11月号です。

 乱歩の死をきっかけにその業績をしのぶ一篇。乱歩作品に「ハイド氏」の影を見、

 ──乱歩が夢み、ハイド氏を探偵小説にたくすことの出来た『パノラマ島奇談』あたりまでが、乱歩にとっての真実あるろまんある人生ではなかったろうか──。

 と乱歩のロマンチストとしてのおもかげが追跡されます。その冒頭あたりからどうぞ。

 昭和四十年七月。──この時期はSMマニアにとって生涯忘れられないものとなった。日本推理小説の草分けでもある、あまりにも有名すぎる江戸川乱歩氏の御逝去を二十八日に見送り、続いて三十日、M派のメッカとしての世界を描く谷崎潤一郎氏を哀悼のうちに送った。

 まさに二巨星落つ!──の感があった。

 両先生の御作には私の半生涯の懐しい思い出があり、いまも時によって再読、これからも耽読するであろうことは、間違いないことだが、特に私の青春にあって〈阿片の妖気である。……そこに映える恐しき夢、奇怪なる幻の影……血と泥で、塗りつぶされた地獄絵巻〉の乱歩の文学は制圧された時代を背景にしていただけに、いっそうの刺激と、この世ならぬ、妖しき耽美の世界を夢みさせてくれた。

 藤原正明さんからご教示をたまわりました。お礼を申しあげます。


 ■ 5月29日(月)
文学の鬼から探偵小説の鬼へ

 私はいったい何の話をしていたのか。宇野浩二の話でした。乱歩が宇野浩二に傾倒していたのはたしかなことで、『探偵小説四十年』には、

 ──この十数年来は、そのころほどの熱がなくなって、宇野さんの本でまだ読まないものも随分あるが、それでも手元に来る雑誌の目次に、宇野浩二という名があると、まっ先に読む。今でもそうである。

 と記されています。この文章が発表されたのは昭和25年の「新青年」6月号ですから、その十数年前というと昭和10年ごろまででしょうか。そのあたりまで乱歩は、敬愛する宇野浩二の作品を眼につくかぎり読んでいたということになります。

 ところで、宇野浩二は「文学の鬼」と呼ばれていました。そうした呼称の由来のひとつとされる「文学の鬼」は、昭和9年の「文藝春秋」11月号に発表された小説です。乱歩がこれにヒントを得て「探偵小説の鬼」なる言葉を生みだしたのはよく知られた話で、たとえば今年4月に出た『戦後創成期ミステリ日記』の序章「戦後の青春と推理小説」において紀田順一郎さんは、

 ──ちなみに、彼らは自らを「鬼」と称した。これは乱歩の造語で、宇野浩二を「文学の鬼」と称したところから出ているらしいのだが、「私の中の探偵小説の鬼が真赤に興奮して躍り出しているのを感じる」(「『Yの悲劇』序」一九三七)という用例もある。今日のようにファンやマニアという語が一般化する以前のなつかしいことばである。

 と記していらっしゃいます。

 ちょっと調べてみましたところ、乱歩の反応はすこぶる早かったようです。なにしろ「『探偵小説の鬼』その他」が発表されたのは「ぷろふいる」の昭和10年1月号なのですから、乱歩は宇野浩二の「文学の鬼」が発表されるやいなやそれを読み、おおきにインスパイアされるところがあって、「探偵小説の鬼」なる言葉はたちまちのうちに乱歩の脳裡にひらめいたものと思われます。

 ただし「文学の鬼」は、タイトルから連想されるような鬼気迫る内容の小説ではありません。牧という小説家が知人から折口という男を紹介される。折口はオンドリ書房という出版社を創業したばかりで、まず最初に牧の作品を出版したいのだという。牧は承諾するのですが、刊行はなぜかのびのびになってしまう。ある日、渋谷に住む友人宅を訪ねた牧は近くにオンドリ書房があることを思いだし、折口を訪ねてみようと思いつく。住所をたよりに探してもなかなかたどりつけず、そのうち夜になってしまうのですが、やがてそれらしい家が見つかって──

 見ると、家人はまだ起きてゐるらしく、蒸し暑いので、格子窓の戸を締めないで、簾が掛けてあつたから、暗い電灯のついてゐる部屋の中の様子は、窓の傍に近づいたら見えさうだ。そんな事を、ふと、思つたが、彼は、先づ念のために、軒灯の名を読まう、と思つた。どうぞ、この貧弱な家が自分の本を出版するオンドリ書房でありませんやうに、──そんな事を、心の中で、ちらと考へながら、いよいよ忍び足になつて、その家の入口の十歩程前まで進んだ時、突然、その簾を掛けた格子窓の部屋の中から、

 「またツ、己の、命より大事な本棚に手をかけたなツ、」と叫ぶ聞き覚えのある声が起こつた。

 まぎれなく、それは、折口の声であつたから、はツと思つて、牧は、その場に立ち竦んだ。と、その叫ぶ声と殆ど一緒に、どたツ、ばさばさばさツ、と慥に本棚をひつくり返す音がした。さうして、その音と殆ど一緒に、

 「このヒステリイの気ちがひ奴ツ、」と怒気を含んだ折口の鋭い声が響いた。

 「何方が気ちがひだ、鬼め、」と女の金切り声が応じた。

 「何が、己が気ちがひだ。何が、己が鬼だ。」

 「酒気ちがひ、本気ちがひ……あんたには、酒と本の、鬼が憑いてゐるんだよオ。」

 それから、それから……

 忌憚のないご意見ありがとうございます、しかし酒きちがいだの本きちがいだの、何もそこまでひどいこといわなくたって、と私など思わず悄然としてしまうありさまなのですが、このシーンに宇野浩二のいう「鬼」の特質は端的に示されています。つまりそれは本性本来のものではなく、たまたま取り憑かれてしまうものなのである。妄執こごって夜叉となり、みたいな話ではまったくなくて、どんな人間にもふと取り憑いてしまうものである。そしてごく健全な人間であってもひとたびこの鬼に取り憑かれるや、鬼にそそのかされるまま家庭を顧みず社会からは逸脱し、それはもうとんでもない人間になってしまうしかないのである。文学という名の鬼に取り憑かれたらほれこのとおり、人間一巻の終わりなのである。

 はっきりいってしまいますと、「鬼」というのは社会性を身につけられない未成熟な人間が仲間うちだけで使用する隠語のごときものなのか、つまりは身勝手な自己承認と自己慰安のための免罪符なのか、そういった印象がどうにもぬぐいがたく、げんにこの小説は「……よくも揃つたもんだなあ、……結局、みな、それぞれ、文学の鬼か。……」という牧のひとりよがりな独語でおしまいになるのですが、してみるとここに描かれている「文学」ってのはずいぶんなさけないものなんだなと、読み終えて嘆息する読者も少なくないかもしれません。実際、乱歩だってこの「文学の鬼」そのものにはうんざりしたのではないかとも想像される次第なのですが、しかし宇野浩二の「鬼」にインスパイアされた乱歩の「鬼」は俄然その存在を大きなものとし、活発な活動をはじめます。

 乱歩は昭和10年、「『探偵小説の鬼』その他」のあと「ぷろふいる」9月号で「鬼の言葉」の連載を開始し、「探偵文学」10月号の小栗虫太郎特集には「鬼の経営する病院」を寄稿します。昭和10年という年は乱歩にとってなにかしら特別な年であり、『探偵小説四十年』にはこんな回想もつづられています。

しかし小説こそ書かなかったけれど、十年の夏から翌十一年にかけて、あるきっかけから、私の心中に本格探偵小説への情熱(といっても、書く方のでなく、読む方の情熱なのだが)が再燃して、英米の多くの作品を読んだり、批評めいたものを書いたり、その他創作以外のいろいろな仕事をするようなことにもなったのである。

 探偵小説への情熱が再燃したその背景には、宇野浩二の「文学の鬼」という言葉にみちびかれるようにして自身の「探偵小説の鬼」を自覚した、といったような事情があったと仮定してみることも可能でしょう。鬼はいまや、たしかに乱歩自身のものとして認識されるにいたったのである。

 ちなみに記しておきましょう。「鬼の経営する病院」は探偵小説の鬼に取り憑かれた患者が入院してくる「探偵病院」なるものを戯画的に描いた短い随筆なのですが、本性本来のものではなくたまたま取り憑かれるものであるという宇野浩二の「鬼」の概念を、乱歩がよく理解して自分なりに変奏していることがうかがえる一篇です。とはいえ、この病院の入院患者は「生涯治りっこもない」とされていて、それはそうだろうなと私も思います。

 といいますのも私自身、こうして乱歩に関するお仕事に手を染めてからというもの、まさしく鬼の名にふさわしい数多くのみなさんからお近づきをいただきご指導ご教示をたまわって本日にいたったわけなのですが、どの鬼のみなさんもやはり「生涯治りっこもない」であろうな、一生入院だろうな、ご家族のご苦労ご心労はいかばかりであろうか、ああ、不憫な話だ、というのが嘘いつわりのない私の実感であるからです。ああ、私は鬼になんか取り憑かれなくてほんとによかった。

 ところで、私はなぜ宇野浩二の話をしているのか。2ちゃんねるミステリー板の乱歩スレッドで宇野浩二文学碑のことを教えられ、宇野浩二の文章が乱歩の、

 ──うつし世はゆめ よるの夢こそまこと

 という言葉になんらかの影響を及ぼしていたのではないかという可能性に思いあたり、乱歩作品における宇野浩二の影響を確認するために古本屋さんから宇野浩二全集を購入し、気がついてみたら私はここにいたっていたのだ。ありゃりゃ。私もまた何かに取り憑かれているのかしら。

 ともあれ現時点での印象は、乱歩はおもに文体のことしか述べておりませんけれど、宇野浩二からの影響はそれ以外にもやっぱいろいろあったみたいだな、といったところです。乱歩が言及している宇野浩二作品の紹介もぜひこの伝言板につづりたいところではあるのですが、そもそもなんで私が宇野浩二の全集まで購入したのかといいますと、それはやっぱり鬼のせいなんかではなくて『江戸川乱歩年譜集成』のせいであろうかと判断される次第ですので(いやこれは『江戸川乱歩年譜集成』という名の鬼なのか)、とりあえず宇野浩二の話題はいったん先送りとしてしまい、あすからは『江戸川乱歩年譜集成』の話題をお送りしたいと思います。

 以下、その準備。

  本日のフラグメント

 ▼1953年9月

 ウールリッチ=アイリッシュ雑記 江戸川乱歩

 いわゆるハヤカワのポケミス、その記念すべき最初のラインナップとして刊行されたウールリッチすなわちアイリッシュの『黒衣の花嫁』に収録されました。

 ここで春山行夫君が登場する。同君は戦後いちはやく発行されたインテリ向き文芸科学ニュース雑誌「雄鶏通信」の編集長であった。一方、同誌の発行元雄鶏社は、これまたいちはやく、木々高太郎君監修の推理小説選集を出版していたので、そのことで、私も同社へ立寄ったことがあり、春山君とはそこで初対面をしたのだが、すると早速、「雄鶏通信」のためにアメリカ探偵小説界の近況を書いてくれという注文を受けた。私は喜んで承知したが、その頃はもう相当の資料は揃っていたけれど、アイリッシュの「幻の女」を読んでいないのが心残りだった。それで、この寄稿のためにも、更らに足しげくポケット本あさりをやったものだが、ある日巌松堂へ行くと、店の隅に一束に括った洋書があり、その一番上に「幻の女」のポケット本がのっていたのである。私は飛び立つ思いで、店員に聞くと、春山先生に売約済みですという。春山君なら構わない。彼に頼まれた原稿の材料になるのだからと、勝手な理屈をつけて、私はその本を横取りしてしまった。そして、ほかの本といっしょに荷造りさせて、出ようとすると、当の春山君が入って来た。そこでちょっと「幻の女」に対する鞘当てのような場面があったのだが、私は有無を云わせず本の包を抱えて、一目散に逃げ出してしまった。

 底本は光文社版全集第二十七巻『続・幻影城』。


 ■ 5月30日(火)
「幻の女」の幻の訳稿

 さて『江戸川乱歩年譜集成』の話なのですが、どうも着手にふさわしくない箇所から手をつけてしまったみたいです。

 いつかもお知らせしましたとおり、『探偵小説四十年』を年表として再構成するべく昭和20年から作業を開始してみましたところ、20年から21年にかけては「二十年末より二十一年秋までの日記」なるものが引用されていて、片々たる些事までもがこまごまと記録されています。たとえば昭和21年の3月15日、乱歩は住友銀行で一か月分の生活費六百円を引き出しています。それがどうした。同年5月7日、乱歩は自宅の屋根にコールタールを塗りました。それがどうした。同年10月31日、乱歩は下痢であった。それがどうした。

 まさにそれがどうしたそれがどうしたの連続で、引き写していてもすぐに厭気がさしてきます。それでもじっくり眼を通してゆくと、それまで知らなかったこと、というよりは見落としていたところ、というか読んではいたのだけれど記憶に残っていなかった事実が発見されて、これはこれでなかなか興味深い作業であることもたしかです。

 たとえば「幻の女」。昭和21年2月における乱歩とこのファムファタルとの邂逅こそは本朝ミステリ翻訳史上もっともよく知られたエピソードかと思われ、小鷹信光さんが「ミステリマガジン」に連載していらっしゃる「新・ペイパーバックの旅」の第二回(5月号掲載)では、「幻の女」について記された大岡昇平の文章がこんなぐあいに紹介されています。

 ──「……乱歩先生ははじめて読んだ時の感激を、早川ミステリ『黒衣の花嫁』のあとがきに書いている。“昭和二十一年二月二十日読了”と書いてあるのはほほえましい」とつづき、「私が読んだのは昭和二十年夏か秋/つまり、乱歩先生より半年早かった」というのがオチになっている。

 大岡昇平より半年遅れとはなりましたが、乱歩は昭和21年2月20日に「幻の女」を読了し、その表紙裏にこう記しました。

 ──「昭和二十一年二月二十日読了。新らしき探偵小説現われたり、世界十傑に値す。直ちに訳すべし。不可解性、サスペンス、スリル、意外性、申分なし」

 ここまでは私も知っていたのですが、「幻の女」をただちに訳したのが乱歩自身であったとは知りませんでした(というか、読んだはずなのにおぼえていませんでした)。しかし乱歩は、『探偵小説四十年』によれば3月5日に「幻の女」の翻訳を開始しています。「苦楽」という雑誌(のちに大仏次郎が発行した「苦楽」ではなく、戦前のプラトン社の「苦楽」を真似て企画されたものの、結局は発行されなかった、と乱歩は記しています)に連載する話がまとまったためですが、たぶん著作権の問題があったのでしょう、3月15日に翻訳掲載は中止と決まりました。『探偵小説四十年』にいわく、

 ──「苦楽」小柳君来たり、飜訳むつかしきにつき、やめることにきめる。十五枚訳したまま中止。

 乱歩の翻訳は十五枚まで進んでいたわけです。私は思いました。乱歩のことだから、おそらくこの十五枚の翻訳原稿は捨てずに残してあったのではないか。だとすればいまもどこかに眠っているはずだろう。それがもし出てきたとして、いったいどれくらいの値段がつけられるものだろうか。いやそんなことより、乱歩は「幻の女」の冒頭をどんな日本文に移し替えていたのだろうか。じつに津々たる興味をおぼえる次第です。

  本日のフラグメント

 ▼1954年11月

 本を浚われた話 春山行夫

 まず訂正とお詫びです。昨日のこの欄に『幻の女』と記しましたのは『黒衣の花嫁』の誤りでした。正確には、

 ──いわゆるハヤカワのポケミス、その記念すべき最初のラインナップとして刊行されたウールリッチすなわちアイリッシュの『黒衣の花嫁』に収録されました。

 となります。訂正してお詫びいたします。きのう記したところも訂しておきました。ああお恥ずかしい。

 さてその『幻の女』です。乱歩と春山行夫が『幻の女』の争奪戦を演じたことは、昨日引いた乱歩の「ウールリッチ=アイリッシュ雑記」などでミステリファンにはよく知られた事実でしょう。本日は春山行夫の証言を引いてみます。

 昭和29年11月発行の「別冊宝石」、すなわち「江戸川乱歩還暦記念号」に掲載された春山行夫の「本を浚われた話」からどうぞ。底本は『江戸川乱歩 日本探偵小説事典』。

 それから暫くして、私は神田の巌松堂でウイリアム・アイリッシュの『幻の女』(ファントム・レディ)を見付け、帰りに寄るからしまっておいて下さいと言って、外の本屋を廻っていた。アイリッシュは本名をコーネル・ウールリッチといって新進の探偵作家だということを、私は『アンコール』誌の一九四五年の九月号をよんで知っていた。

 一通り本屋を廻って巌松堂に立寄り、さっきの本を受取ろうとすると、別の人が春山さんによく話すからといって持っていかれたという話である。そんな無茶なことをしてはいけませんねと私が不満の意を述べると、持ち去った人は江戸川先生ですと売場の女の子は申訳なさそうな顔をした。あの小説は内容が江戸川氏の興味をひくような書き方なので、この場合もあっさりと私の負けであった。

 きのうの「ウールリッチ=アイリッシュ雑記」には、乱歩が『幻の女』を入手して帰ろうとしたところに春山行夫が現れ、『幻の女』をめぐって「鞘当てのような場面」が演じられたと記されていたのですが、春山行夫の「本を浚われた話」にはそんなシーンは描かれていません。これはいったいどうしたことか。


 ■ 5月31日(水)
ファンダメンタル、フラグメンタル

 どうでもいいことであるとは思います。じつにどうでもいいことである。乱歩と春山行夫による『幻の女』の争奪戦なんて、飢えて死ぬ子の前でいったいどんな意味があるのか。そんなこといわれたってよくわかりませんけど、両者の証言にはあきらかなくいちがいが見られます。

 乱歩の「ウールリッチ=アイリッシュ雑記」は昭和28年9月10日、春山行夫の「本を浚われた話」は昭和29年11月10日の発表ですが、前者では乱歩と春山行夫は古書店巌松堂で顔を合わせており、後者では出会っていない。このちがいは何によるものかと一考してみますに、読者諸兄姉もたぶんそのようにご推測であろうと思われるのですが、つまりは乱歩の自己演出や自己劇化の結果なのではないかという結論にいたります。そのように見るのがもっとも自然でしょう。

 本来春山行夫のものであった『幻の女』を横から失敬し、そのままさっと帰ってしまったというのであれば、印象としてはなんだかこそこそしていてこっそりかすめ取ったという観が否めません。しかし「ウールリッチ=アイリッシュ雑記」にあるごとく、

 ──ほかの本といっしょに荷造りさせて、出ようとすると、当の春山君が入って来た。そこでちょっと「幻の女」に対する鞘当てのような場面があったのだが、私は有無を云わせず本の包を抱えて、一目散に逃げ出してしまった。

 鞘当てのシーンを加えておけばこそこそした印象は消えてしまいますし、「一目散に逃げ出してしまった」と記すことによってそこはかとないユーモアも漂います。だから乱歩はいささかの脚色をほどこしたのではなかったかと私は思うのですが、これもまたそれがどうしたといったたぐいの話でしかありません。ただし、乱歩の文章と春山行夫のそれとをならべて示すことで、どちらが事実かといった穿鑿はべつにして、『探偵小説四十年』の記述を相対化できることはたしかでしょう。

 それはすなわち『幻の女』をめぐるエピソードのみならず、長大浩瀚な『探偵小説四十年』そのものにどう向き合うべきか、その手がかりを読者に提示することでもあろうと愚考される次第ではあり(それがどうした、とは乱歩ファンならおっしゃいますまい)、乱歩の記述と対照できる他人の文章があればできるだけ収載したいというのが『江戸川乱歩年譜集成』における当方のもくろみのひとつとなっておりますので、お気づきのことはお気軽にご教示いただきますようお願い申しあげます。

  本日のフラグメント

 ▼1994年3月

 体験的古本屋論 波多野完治

 巌松堂関係者による証言も引いておきましょう。『幻の女』争奪戦の目撃証言であればよかったのですが、世の中そんなに都合よくはできておりません。

 巌松堂の長男で、昭和20年11月から22年10月までその店頭に立った経験がある波多野完治の回想です。初出は「新潮45」、底本は作品社のヒット企画、日本の名随筆シリーズの『古書 2』。

 乱歩さんの英書読書力は有名で、一日にほぼ一冊の長編を読んだようだが、買うのもまたスピードで、毎日のように来店しては、三冊、四冊と求めて行かれた。これらの新しい推理小説研究の結果は、大体「幻影城」によってこれを知ることができる。

 新しい推理小説の研究は、江戸川乱歩さんばかりでなく、春山行夫もまた好んで読むところであった。その結果、わたしの店で入手したばかりの作品を二人で争う、という場面も、二、三回にして止まらなかった。わたしは、終戦当時、春山氏とは、まだゆっくり話しあったことがなかった。後にこの詩人兼名編集者は、NHKラジオの番組『話の泉』の常連として有名になり、その後は「優秀映画鑑賞会」の推薦委員として、毎月のように顔を会わせることになるのだが、終戦当時は、まったく面識がなかったので、わたしはもちろん、春山氏を見知ってはいたが、向うがあいさつしない以上、古本屋の仁義として、こちらも行きずりの客としてあつかうほかはない。これに反して、乱歩さんの方は、氏の長男が心理学を専攻され、長く東大の新聞研究所にいたので、後輩のおやじだ、という関係がある。で、自然と、推理小説のめずらしいものは、棚に出さず、しまっておいて、乱歩さんが来たときにお見せするという、いわゆる顧客関係が生じた。将兵本のように、流通経路がかぎられている場合、顧客関係があるのとないのとでは、大きな差が出る。乱歩さんの方は、いわゆるウブいものを入手し、春山さんの方は二冊目、三冊目の二番せんじをつかまされる。

 フラグメントのコレクションはいいけれど、こんなものまでかき集めてはたして一冊の本に盛りこめるのか、といぶかしくお思いのみなさん、どうぞご心配なく。私だってそう思っております。思ってはおりますが、こういったファンダメンタルな作業を重ねないことには話が前に進まないのである。泣けてくるぞ実際。