岡戸武平

昭和49・1974年

不木・乱歩・私
 私が江戸川乱歩と大阪時事以来はじめて会ったのは、小酒井不木の葬儀の日であった。しかし私が舞台裏での総支配をしなければならなかったので、ゆっくり回顧談をする暇もなく別れてしまった。というのは先生には医学的弟子といった若い開業医が四、五人あって裏に新築された研究室で、先生から与えられたテーマに基いて研究をつづけていた。たぶん学位を取るためであったろう。その人たちが葬儀のことも心配してくれると私は安心していたところ、一向埒があかないので書生の身分で出しゃばるのはどうかと思って遠慮していたが、今いったような事情で一向に捗らぬので、葬儀社を呼んだり、同盟通信社を呼んで各社に流してもらったりした。(この辺は新聞記者の経験があるのでお手のものである)そのおかげで東京、大阪ともに、その日の夕刊に間に合い、死亡通知を出す必要がなくなった。
 その日(昭和四年四月一日)の夕刻には江戸川乱歩、長谷川伸、平山芦江の一行や、森下雨村をはじめ横溝正史、水谷準などの博文館勢もかけつけて通夜をするといった順調さであった。どの新聞も大きく写真入りで紹介してくれたのは、小酒井不木が探偵作家として有名であった他に医学博士という特殊な地位をもっていたからであろう。当時医家と文筆と二足の草鞋をはいていたのは正木不如丘と小酒井不木で、読者のなかではこの二者を同一人物だと勘ちがいしている人もあったようだ。
 この葬式の最中に私は江戸川乱歩から、博文館で座談会がやりたいといっているから、寺の一室を借りてもらえないかという注文があったので、すぐ和尚に話して座敷を借り、机などを用意した。この座談会の内容は、昭和四年六月一日発行の「新青年」(増大号・五〇〇頁)に掲載されたが、その顔ぶれを見ると、なるほど葬儀の席でなければ一堂に会することのない顔ぶれである。即ち、
 (故人の恩師)東大教授   永井  潜
 (大学同窓) 金沢医大教授 古畑 種基
 ( 〃  ) 大阪医大教授 谷口  腆
 ( 〃  ) 病院長    田村 利雄
 (中学時代の校長)     日比野 寛
 (一中時代教員)      服部綾太郎
 それに臨席者として、長谷川伸、江戸川乱歩、森下雨村、水谷準の名があげられている。
 この座談会は葬儀前の寸時を利用して催されたもので、せいぜい一時間足らずであったと思う。本堂では導師をはじめ役僧もそろって読経がはじまり、やがて弔辞奉読のときとなった。その司会も私がやることになって、
 「弔詞……永井潜殿」
 音吐朗々と指名をした。生れて始めての経験である。葬儀は滞りなく終って、参列者はそれぞれ帰途についたが、東京へ帰る一行の中で私が話題になった。
 「あの葬式の世話をしていた男は、一体どういう男かね。なかなか手際よくやったじゃないか」
 そういったのは森下雨村である。そこで江戸川乱歩が大阪時事新報時代に同輩であったことから、小酒井氏の文筆助手をしているものであることを説明した。
 「では先生が亡くなって生活に困るだろう」
 「そう思うね。だから小酒井全集が出ることになったら、あの男を呼んで編集に当たらせたらいいと思うのだ。だが全集はそう長く続くわけでもないから、うかつに呼ぶわけにもいかないしね」
 「あの男なら博文館で使ってもいいよ」
 そんな話も車中で出たのではないかと、コレハ私の推測である。その後小酒井不木全集は、春陽堂と改造社のセリ合いとなって、条件がよかったものか改造社と決定した。──と同時に私のところへ、五十円の電報為替と、
 「ハナシアルスグコイ」(という意味)
 の電報が江戸川乱歩から届いた。その用件はすぐ推測された。女房に話すと行先き不安だったわれわれの生活が安定することであるし、これを機会に私は東京へ移住し、作家として立とうと心ひそかに考えていた時だったので、勇躍!(まさに勇躍)当時「緑館」という下宿(戸塚町源兵衛)を経営──といっても奥さん任せの乱歩邸を訪れた。
初出・底本:岡戸武平『不木・乱歩・私』名古屋豆本 昭和49・1974年7月7日
掲載:2009/03/24

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