横溝正史

昭和3・1928年

陰獣縁起
 だから私は、久し振りのその翻訳の批評を読んだ時、直ぐにこれは彼が再び書く気になったのだなと思った。そこで早速、増刊へ百枚ぐらいの読切を頼んだのである。一体江戸川乱歩は如何なる時でもはっきりと執筆を約束しない作家である。だからその時も、後から考えると、結局うやむやな約束しかして貰う事が出来なかった。ところがいよいよ増刊の編輯が進行して来るに従って、あまりにも貧弱なその内容に悲観した私は、改めて手紙を以って懇願してみた。すると意外にも折返えし返事が来て、実は他の雑誌から頼まれて、今百枚ぐらいのものを書いているのだが、何ならそれを廻してもいいと言って来たのである。棚から牡丹餅とは全くこの事だ。私は早速原稿を貰うために訪問したのである。
 それが即ち『陰獣』だった。
 この小説は実は某雑誌社から頼まれて、一旦書いて渡してあったのだが、意に満たないところがあったので取返えして手を入れているところへ、私の手紙が行ったものである。そこで早速『新青年』の方へ廻してくれる事に決心したものらしい。私が行くと、もう一度始めからすっかり書直して渡すと言ってくれたが、その時には題は『恐ろしき復讐』となっていた。
 元来この小説は必ず一度に掲載するという約束のもとに貰って来たのであるが、種々な都合から、作者には殆んど無断と言ってもいいくらいの態度で私は分載してしまった。その事は、雑誌としては却っていい結果を生んだようであるが、未だにその不信を何んと言って作者にお詫びしていいか分らないような気がする。
初出:新青年 昭和3・1928年11月号(9巻13号)
底本:横溝正史『横溝正史探偵小説選1』論創社 論創ミステリ叢書35 平成20・2008年8月30日
掲載:2009/02/09

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