横溝正史

昭和7・1932年

探偵小説講座──序にかえて
 今から丁度数年前のことであった。
 この欄の編集者江戸川乱歩や、当時大阪毎日新聞社にいた春日野緑が中心になって、探偵趣味の会というのを起したことがある。
 当時十数人の会員たちは毎月一回大毎の楼上に集って、いろいろな、各自思い思いの意見を吐いたり、議論を戦わしたり、最近読んだ探偵小説の批評をし合ったりしたものだ。そして時には、会員たちが、近く書こうとしている探偵小説の筋を話して、人々の批評を仰いだものである。
 この話はそういう例会の第二回目かだった。
 江戸川乱歩がふと次ぎのような話をしたのである。
 「僕はこんなトリックを最近考えているのですがね。氷で人を殺すという話なのです。例えば高いところから、下にいる男の頭の上に氷の塊を落す。氷で頭を打たれた男は、そこで脳震盪か何かを起して死んでしまう。しかし、その惨劇が発見される頃には、氷はすでに解けてしまっているから兇器は分らない。しかも、被害者の周囲には犯人が近づいたらしい跡は微塵も残っていない。つまり密閉された部屋の殺人に似たような事件になるのですな。ところが、この真相がどうして発見されたかというと、被害者の側に、一茎の根のないダリヤが落ちている。つまりその氷は普通の氷塊ではなく、花氷だったのです。で氷の方はとけてしまったが、あとにダリヤの花が落ちている。慧眼なる探偵はそれから糸を手繰って、事件の真相を知るというのですが、どうでしょうな、こんな話は……」
 と、江戸川乱歩が話したのである。
 「成程、それは面白いですな」
 とその席にいた、当時やはり大毎にいた大野木繁太郎が感心した。
 「氷で人を殺す──。成程それは面白いトリックですね。今迄どうして誰もそれに気附かなかったろう」
 と西田政治が相槌を打った。
 ところが、その席に二人だけ、このトリックに残念ながら感心することの出来ない人物がいたのである。
 その一人は当時まだ薬専に通っていた横溝正史で、このおしゃべりで出しゃばり過ぎな青年は、皆が一応感心してしまうと、その時一膝乗出して話し出したのである。
 「それは面白いですが、しかし」と彼は得々として言うのである。「そういうトリツクは外国にありますよ。しかも最近読んだのですが、やはり氷の殺人なんです。尤も行きかたは大分違っていますが……こういうのです。氷を積んだトラックが深夜街を走っていて、たぶんカーヴへ差しかかった時でしょう。氷の一つを落して行くのです。するとその後から又別のトラックがやって来る。そしてこの氷を踏み砕いて走りすぎる。その時氷の小さなかけらが鉄砲玉のような勢いでとぶ。ところが不幸にもその時側を通りかかった通行人にその氷片が命中して、通行人は死んでしまうのです。さてその翌朝この不幸な変死人が発見される。そして傷跡から見て、どうしてもピストルで撃たれたとしか思えないのに、氷は溶けてしまっているのだから、弾丸の行方が分らない。そこで事件が迷宮入りをするというのです。つまり氷の殺人というトリックが、今のお話と同じなわけですな」
 すると、この話を黙ってにやにやしながら聴いていた春日野緑がその時言ったのである。
 「それは僕が翻訳した話だよ。最近サンデー毎日に発表した外国の探偵小説だね」
 そして、この会話はそれきり済んだのである。しかし、もし江戸川乱歩が、横溝正史からこの暗合を指摘されなかったら、彼はこのトリックをもっとねちねちと考えて、充分面白い探偵小説を書き上げたのに違いないのである。実際トリックとしては探偵小説作家の充分珍重していい程の面白味を持っていた。
 しかし、外国の探偵小説に既に書かれてあることを知った江戸川乱歩はぺしゃんこになってしまった。そして大分後になって、「夢遊病者彦太郎の死」という小説で、かなり投げやりな、熱のない態度でしか、この勿体ないトリックを扱うことが出来なかった。
初出:探偵小説 昭和7・1932年1月号
底本:横溝正史『トランプ台上の首』角川書店 角川ホラー文庫 平成12・2000年9月10日
掲載:2008/04/05

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