横溝正史

昭和40・1965年

『二重面相』江戸川乱歩
 では、戦後の乱歩はどう変ったのか。それから二十年ちかくもたち、乱歩逝ってしまったいまとなって当時をふりかえってみると、乱歩はべつに変ったわけではなかったし、また人間というものがそうむやみに突然変異を起すわけのものでないことが頷けるのだが、しかし、一方からいえば、終戦直後の昭和二十一、二年のその時点では、乱歩はたしかに変ったかのごとき印象を、旧くからつきあってきた友人たちに与えたのは事実であった。
 乱歩はおそろしく戦闘的になり強引になり、権柄ずくになり、昔から人を引っ張っていく力を持っていた人物なのだが、その引っ張りかたに以前のような当りの柔かさが欠け、強引一方になっていたらしい。ここに、らしいと書いたのは幸か不幸か、その当時、乱歩と私は遠く東京と岡山とに離れていて、接触する機会がほとんどなかったからである。たった一度持った接触の機会が、乱歩の岡山訪問なのだが、そして、それ故にこそ水谷準や故海野十三が、私の戸惑いや失望をおそれてあらかじめ警告を発してくれたのだが……。
 では、疎開先で食糧にもこと欠かず、部落の人たちからも大事にされ、戦後のあの苛烈な時代をいたってノンビリ・ムードで暮していた私の眼に乱歩はどういうふうに映ったか……。
 最初、西田政治を伴ってトヨタ差廻しのトヨペットを、岡山県吉備郡岡田村字桜なる私の疎開先へ乗りつけてきたその瞬間の乱歩は、たしかに変ったかなというような印象を私に与えた。西田政治をまるで秘書かなんぞのごとく扱って、恬として憚らぬ高飛車な態度は昔の乱歩にはなかったものである。トヨペットの運転手に、向うから頼まれもせぬのになにか書いてあたえようという強引さも、かつての乱歩には見られなかった図であった。しかし、それもいっときのことであった。席が落ち着いて一時間も話しこんでいるうちに、強引のメッキは剥げ、高飛車の付焼刃もどこへやら、いつか昔の乱歩にかえっていた。
 だから、三晩うちへ泊って西田政治とともに乱歩が東へ去っていったあと、わたしは故海野十三と水谷準とに手紙を書いたのを憶えている。ご注意ありがとう。乱歩がやってきたときにはたしかにこれはと思った。しかし、三晩泊って岡田を離れていったときには、やっぱり昔の乱歩さんでありました……と。
 では、岡田の乱歩はなぜそうだったのか。この秘密はいまとなっては容易に解けそうである。戦後の乱歩を変ったと指摘した東京の探偵作家たち自身が、やっぱり戦前と多少なりとも変っていたのではあるまいか。戦争末期から戦後へかけて東京に住んでいて、大なり小なり人間が変らなかったといえば嘘であるように思える。そこへいくと岡田村字桜で食糧にもことかかず、いたってノンビリと小説を書いていた私は、人間が変る必要がなかったのである。
 それともうひとつ、戦争中から乱歩はこんどこの国で探偵小説が復活する場合、いちおうはイギリス流の論理的本格探偵小説の道を通らなければならぬという意見を持っていたようである。それが証拠に戦前の乱歩の最古の傑作「柘榴」は、多分にそういう傾向をおびていた。だから戦争というものがこの国で探偵小説を圧殺しなかったら、乱歩は「柘榴」より更に前進して、イギリス流の論理的な本格探偵小説を書いていたかもしれぬ。いや、書いていたにちがいないのである。
 ところが、たまたま戦争が終って雑誌というものが復活しても、都会に住む作家群が食糧事情その他の関係で、創作意欲などとんでもないというその時期に、岡田村字桜という恵まれた環境に住んでいた私がいちはやく書いたものの傾向が、たとえ幼稚ではあったとしても、戦争中から戦後へかけて、乱歩が意図していたものにちかかったらしい。だから岡田村桜におる私は、乱歩にとってはわが党の士だったのである。戦闘的である必要がなかったのも当然であろう。
 そのときのことを乱歩は「探偵小説四十年」にこう書いている。
 「(前略)第三夜を横溝家の御厄介になったが、その夜は横溝、西田、私の三人で『桜三吟』と題する歌仙(連句)を巻いた。三人ともろくに法則も知らなかったのだから、変なものができ上がったが、三時間ほどでともかく一巻を仕上げた」
 このとき、乱歩の書いた達筆の下書きがうちに残っているのだが、それによると十一月十五日の夜のことらしい。いずれにしてもこれではノンビリ・ムードに同化されて、乱歩がいちじ闘争心を忘れたのは当然であろう。そのとき私は乱歩に探偵小説壇の芭蕉になりなさいとすすめたのを記憶している。
初出:オール讀物 昭和40・1965年10月号
底本:中島河太郎編『江戸川乱歩ワンダーランド』沖積舎 平成元・1989年9月25日
掲載:2008/04/14

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