横溝正史

昭和44・1969年

初対面の乱歩さん
 探偵趣味の会の結成を思い立たれた乱歩さんは、「新青年」の創始者にして、当時まだ「新青年」の編輯長をしておられた森下雨村氏に、関西在住の同好の士について問い合わせられたらしい。そのとき、森下氏が西田政治さんとともに、私の名前をあげてくだすったのか、それとも西田政治さんが、ひとりでお会いになるのがテレ臭かったので、私を招いてくだすったのか、そこのところはつい聞きもらしているが、西田家の応接室で、はじめて乱歩さんにお眼にかかったのが、さいしょに書いたように大正十四年の四月十一日午後のこと、そして、このとき私の運命は決したのである。もし、このことがなかったら、引っ込み思案の私のこと、いまでも神戸で売れない薬局を経営しながら、しがない生涯を送っていたにちがいない。ときに、当時のかぞえかたで、乱歩さん三十二歳、私は二十四歳であった。
 初対面の乱歩さんは、当時すでにおツムこそ薄くなっておられたが、それが少しも苦にならないくらい、申し分なくハンサムでいられたばかりか、お人柄のよさが抜群で、それが私を魅了したらしい。
 そのときのことを乱歩さんは「探偵小説四十年」にこう書いておられる。
 「前略。西田君は今でもそうだが、余り喋らない方。横溝君も決してお喋りではなかったけれど、どちらかといえば横溝君の方がよく話した。私も続けて纏った話の出来ないたちなので、三人がポツリポツリと話したわけだが、話題は無論探偵小説であった。話の内容は殆んど覚えていない。しかし、嬉しかったことは三十年近くたっても忘れないもので、横溝君が私の『二銭銅貨』を読んだとき、宇野浩二が変名で書いたのではないかと思ったと語ったことである。後略」
 この項を雑誌で読んだとき、私は全身に冷や汗をおぼえずにはいられなかった。
 私もこのときのことをハッキリ憶えており、あとでしまった、失礼なことをいってしまったと、じぶんの生意気さについて後悔したものだが、ご当人の乱歩さんはそのことを、
 「嬉しかったことは三十年近くたっても忘れないもので」
 と、書いていられる。
 このことによって、私が認められたのだとしたら、私の怪我の功名というよりも、乱歩さんのお心の寛さと、暖かさを示すものというべきであろう。いかに宇野浩二さんに、終生かわらぬ敬愛の情を抱いておられたにしても。
初出・底本:江戸川乱歩全集月報1号 講談社 昭和44・1969年4月1日
掲載:2009/02/14

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