RAMPO Entry 2009
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2009年9月3日(木)

雑誌
センター通信 第3号
3月31日 立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター
B5判 12ページ
怪事件と探偵、並行する小説と事件報道 成田康昭
エッセイ p1−2
乱歩と地方都市モダニズム 小松史生子
エッセイ p2−3
「黄色団」解題 落合教幸
紹介 p3
黄色団〔イエロー・クラブ〕 大計畫ノ巻
小説 p4−11
本の紹介 『うつし世の乱歩』『乱歩の軌跡』 落合教幸
紹介 p11−12

 
 掲載された五作品、冒頭の一段落ないしは二段落、二百字を目安に引用いたします。
 
怪事件と探偵、並行する小説と事件報道

成田康昭  

 玉ノ井八つ切り殺人事件

 一九三二年(昭和七年)三月七日に玉ノ井のお歯黒どぶで男性の胴体が発見され、その後つぎつぎに死体の一部が見つかるというグロテスクで謎に満ちた事件が起きた。
 「玉ノ井八つ切り事件」である。新聞各紙はこぞってこの事件をかき立てた。結局、事件そのものはこの年の四月二八日に迷宮入りのまま捜査本部はさっさと解散されて終局してしまったのだが、この報道の中で乱歩は「探偵小説家江戸川亂歩氏」として新聞に登場している。

 
乱歩と地方都市モダニズム

小松史生子  

 江戸川乱歩は三重県名張で生まれ、多感な少年時代のほとんどを名古屋で過ごした。今日、乱歩といえば、大正末期から昭和にかけてモダニズム都市として発展した東京を描ききった探偵作家というイメージが強いが、彼が帝都東京のモダニズムの波をその作品世界に的確に描ききることが出来たのは、その精神構造の基盤に、自身が都会者ではない、地方から流れ寄ってきたヨソ者であるという意識が在ったからともいえる。それは、或いは日本の近代文学が明治以降、その主流として基本的には地方出身者によって形成されていった経緯に連なる自意識であったとも考えることができるだろう。

 
  「黄色団」解題

落合教幸  

 早稲田大学在学中の乱歩は、多くのアルバイトに従事しながら経済学を学んでいた。
 その一方で、雑誌発行への情熱は少年時代と同様に持ち続けていた。大正二年は、乱歩は数え年で二十歳にあたり、この九月に予科から学部の一年になる。喜久井町・西江戸川町・戸塚町と、早稲田大学近辺で三度の転居をすることになるのだが、ここで乱歩は少年期に熱中した黒岩涙香の本を再読する。「帝國少年新聞」についての印刷物は、その直前の小石川区春日町に住んでいた時期に作成されたものである。

 
黄色団〔イエロー・クラブ〕 大計畫ノ巻

 神田の一隅に高等御下宿と看板掛けたる清風舘といふは、客扱ひの丁寧なると、座敷の清潔なるとが呼びものとなりて始終明き間ありの貼り札を見たる亊なく、脛噛り共が、神田の名物とぞ囃しぬ。
 五月雨の降りみ降らずみ、欝たうしさに、頭おさへて八の字を寄せたるお神の、丁場越しにおもてを見遣る眼の先へ、ぬつと入り來る男あり、大島紬の袷に鉄色の絽羽織の着流し、ちと走りの厭ひなきにあらねど、何()所となく一種の重味を見せたる恰好、

  
本の紹介 『うつし世の乱歩』『乱歩の軌跡』 

落合教幸  

 平井隆太郎氏の二著が刊行された。隆太郎氏はいうまでもなく、江戸川乱歩の長男であり、社会学者として立教大学の教授をつとめられた人物でもある。乱歩と長年にわたって生活をともにしてきた経験と、社会学および心理学の分析的な視点、両著ともこの二つの面があわさってできた産物だといって良い。『うつし世の乱歩』には前者の家族としての側面が強い文章が多く収められ、『乱歩の軌跡』では少し距離を置いて乱歩の歩みを記述する試みがなされている。

 
 「黄色団 大計畫ノ巻」は、乱歩が大正2年に発行を企てながら実現に至らなかった「帝国少年新聞」のために執筆した小説。執筆は途中で投げ出されたものの、こよりで閉じた原稿が保存されていたとのことで、その全文が写真を添えて翻刻されています。
 
 立教大学:旧江戸川乱歩邸