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2009年5月22日(金)

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5月16日 毎日新聞社
支局長からの手紙:雨村、佐川に死す /高知 大澤重人
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支局長からの手紙:雨村、佐川に死す /高知

 「モリシタウソンを知っていますか」。先月、支局を訪れた小学館のベテラン編集者に尋ねられ、首を横に振りました。「今では高知の人も知らないですからね」。珠玉の釣り随筆を残し、この編集者は05年に復刻したそうです。

 調べてみて、その経歴に興奮し円熟期での帰農に驚きました。

 大正11(1922)年、東京。「多忙のため拝読できない。他の雑誌に」。原稿の送り主は粘ります。「自分の作品は翻訳物にくらべて見劣りしない」。読んでみて驚かされます。「(エドガー・アラン・)ポー以上の天才だ」。江戸川乱歩のデビュー作「二銭銅貨」でした。才能を見いだしたのが、佐川町出身の森下雨村です。雑誌「新青年」の初代編集長でした。

 他にも横溝正史や甲賀三郎、大下宇陀児(うだる)、夢野久作らを世に送り、「月長石」(コリンズ)などの翻訳も手がけました。出版社退社後、自ら「青斑猫(あおはんみょう)」「丹那殺人事件」などの探偵小説を創作し、「日本探偵小説の父」と呼ばれます。50歳を過ぎ、東京の家を売り払い、作家の名声を捨て帰郷します。「子どもの健康のため」と言いましたが、川や海への釣りと、クリやブドウなどの果樹栽培を愛し、晴耕・釣雨読の日々を送りました。

 5人の子のうち、唯一存命の次男時男さん(79)=名古屋市昭和区=は「父は権力や威張った人が嫌いでした」。戦前、近所で失火があり、警察官が火元の家人を子の前で責め立てます。雨村は幼い泣き声をたまたま聞きつけ、警察官に食ってかかり、一晩留置されたそうです。岩太郎の本名の通り「いごっそう」と振り返ります。

 戦後、夫婦だけとなった家に出入りしたのが、長男の野球仲間だった西山毅さん(73)=町監査委員=です。「わが子のようにかわいがってもらいました」。毎晩のように晩酌の相手をしました。日本酒を2〜3合。いつしか寝床まであてがわれました。クリ栽培の手伝いをした竹村脩(おさむ)さん(78)=陶芸家=は「探偵小説を読み、100ページまでで犯人を当てろ」とよく言われましたが、「わからんので、最後を見ちょった」と苦笑いします。2人の印象は「えらぶるところのない好好爺(こうこうや)」でした。

 雨村は昭和40(1965)年に75歳で生涯を閉じました。輝夫人が遺品の整理中に釣りの随筆を見つけました。「筆で一生通した人だから」と出版化へ奔走します。「猿猴(えんこう) 川に死す」(関西のつり社、69年刊)。序文を寄せたのは、松本清張、井伏鱒二、横溝正史です。表題作は子どもを救助中、不慮の事故死を遂げた、猿猴(カッパ)と呼ばれた釣り仲間を悼む話です。1カ月で書き上げた遺稿は静かに読み継がれ、05年、小学館と平凡社から文庫で再出版されました。

 西山さんや竹村さんらは05年、「先生の恩返しに」と、寄付を募って生家の畑跡に文学碑を建てました。釣りに通った吉野川の青石製です。手前に植えたクリの木の葉が今、青々と茂っています。

 先月末付で和光大(東京)から時男さんに著作物使用の報告がありました。表現学部の国語の今年度入試で「猿猴 川に死す」が使われたのです。時男さんは「初めてのこと。光栄です」。きょうは44回目の命日。読み継がれる限り雨村は生きています。【高知支局長・大澤重人】

 ※乱歩発掘の場面は、時男さん執筆の「探偵小説の父 森下雨村」(文源庫)を参照しました。

毎日新聞 2009年5月16日 地方版

 
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