RAMPO Entry 2009
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2009年11月10日(火)

書籍
日本文学からの批評理論 アンチエディプス・物語社会・ジャンル横断 ハルオ・シラネ、藤井貞和、松井健児
8月20日第一刷 笠間書院
B6版 カバー 421+21ページ 本体3200円
編:ハルオ・シラネ、藤井貞和、松井健児
受動化する身体、見出される風景──漱石、谷崎、乱歩における「遊民」たち 生方智子
ジャンル横断──異なるものたちとの出会い >
評論 p262−292
理論的枠組み──再現表象におけるジャンル横断と「遊民」の問題構成『それから』『秘密』──受動化される身体の快楽1 精神物理学のパラダイム2 受動化という戦略3 拘束されるまなざし4 〈奥〉というトポス5 出現する分身〕/『屋根裏の散歩者』──生命の探求1 「遊民」としての三郎2 生命の探求3 差異の源へ4 精神分析という制度〕/結論

受動化する身体、見出される風景──漱石、谷崎、乱歩における「遊民」たち

生方智子  

 『屋根裏の散歩者』──生命の探求

  3 差異の源へ

 三郎は、あたかも自己身体の内奥を探索するように遠藤の体内に侵入を図る。天井の「穴」を通して遠藤の「口」の中へと落とされる毒薬とは、身体の不可視の内奥を知りたいと欲望する三郎のまなざしの代替物に他ならない。三郎にとって、三郎と遠藤という関係は、まなざしを前にして能動態と受動態とに分裂してしまった身体のそれぞれに対応する。三郎は能動化されたまなざしの体現者であり、遠藤にはまなざしの源としての身体、まなざしが捕らえることのできない内奥を備えた身体が割り当てられている。毒薬によって内奥を浸食されてしまう遠藤の身体は睡眠中であり、徹底した受動態のさなかにある。この受動態としての身体に内在する生命こそ、産業資本主義が工場機械へと接続を図ろうとした生命の根幹に他ならない。
 「遊民」として労働を拒否する三郎は、生命が備えるエネルギーを機械へと接続することを拒み、労働とは異なる局面において生命に内在する力を把握しようとする。遠藤殺しの動機とは、社会システムを超えて生命の力を手中に収めることである。三郎にとって遠藤殺しは資本主義社会を超越することに相当するだろう。三郎が遠藤の殺害を思い切って実行することができたのは、「遠藤の場合は、全然疑いを受けないで、発覚のおそれなしに、殺人が行なわれそうに思われ」(4)るということ、遠藤殺しは警察権力によって捕捉することが不可能なものとなると感じたからである。三郎は、遠藤の殺害を通して警察権力の監視と法を、そして社会を超え出ることを目指そうとする。

 ふと耳をすますと、どこかで、ゆっくりゆっくり、自分の名を呼びつづけているような気さえします。思わず節穴から眼を離して、暗やみの中を見廻しても、久しく明かるい所を覗いていたせいでしょう、眼の前には、大きいのや、小さいのや、黄色い環のようなものが、次々に現れては消えていきます。(6)

 三良が遠藤を殺害したとき、三郎にどこからか呼びかける声がやって来る。その声は、視線によって明確に捕捉することのできないものである。この法の彼方の世界、視覚の彼方からやってくる声の領域は、明瞭な視覚像を結ばずに「大きいのや、小さいのや、黄色い環のようなものが、次々に現れては消えてい」くという意味を結ぶことのない視覚像として再現表象される。この視覚の表象こそ、「遊民」の三郎が獲得した、既存の社会によって馴致されることのない絶対的差異のもとにある〈まなざし=風景〉である。

 
 笠間書院 kasamashoin online:ハルオ・シラネ、藤井貞和、松井健児 編『日本文学からの批評理論 アンチエディプス・物語社会・ジャンル横断』(笠間書院)